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第1章 1
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数年前に開通したばかりの東北本線を陸蒸気の二等客車に乗り込み、上野から宇都宮、宇都宮からM駅で下車し、そこで一泊。そこから乗合馬車を幾度も乗り継ぎ夜霧で町中が白く濁った港町で更に一泊。そこから徒で丸一日峠越えという行程だった。
昨日逗留した海辺の町では、ヤマセのせいかこれが北国の七月かと慌てて鞄から長袖を引っ張り出すほどの肌寒さに閉口したが、今朝宿を出立し山道を登るうちヤマセの白霞も解けてくると、急勾配の山道を登れば登るほど初夏の蒸し暑さが襲い掛かり、今朝出た街を木立の合間から見下ろす頃には手拭いから汗の露が滴るほどだった。
背の高い広葉樹から木漏れ日とともに降り注ぐ蝉時雨と、時折樹影の切れ目から野道にひょっこりと顔を突き出す鮮やかな山百合の芳香に眩暈を覚える。大きなオニヤンマが歩みの遅い私を揶揄うように悠々と山道を行きつ戻りつ飛び回っている。
大きな槐の木の木陰を見つけ、そこで小休止をとることにした。
巨木の傍らの岩に腰を下ろし、水筒の水に口をつける。
一息ついてみれば、今まで行く先ばかり目指して行くうちは蝉の声ばかりが喧しかったが、水色の夏の空、濃緑色の山の木立と緑色の濃い山の空気の中にはそこら中に音と気配が溢れかえっている。夏草や木々の葉擦れ、虫たちの羽音、遠くで郭公の声も聞こえてくる。夏の山は、まるで命の洪水だ。
やがて汗が引いてくると、微かにシャツの胸元を擽る海からの風が心地よい。やはり北国の気候か、少し湿り気を帯びた冷涼な微風が慣れない山登りに火照った身体を晒しているうちに、少しずつ活力が漲り始めていく。
この山道も、 文政・天保の頃までは、内陸の街道へ抜ける直近の道として利用されていたらしいが、御一新より近隣の街道が整備され、港湾周辺が繁華街として栄え始めると、山道沿いに点在する集落へ稀に行商が塩などを売りに行く外、通うものは誰もいなくなってしまったそうだ。おまけに雪崩の名所で雪が降れば通れなくなるらしい。
目指す集落は、この山を越えたらあと二つ尾根を辿り、采女取山というこの道の前に立ちはだかるように聳える山を迂回し漸く辿り着く。
日暮れまでには辿り着けるだろうか。
「生家に顔を見せに来い」とだけしたためられた手紙が届いたのは、支那との戦の戦勝景気に巷が沸き立つ最中のことだった。字の苦手な父が誰かに代筆を頼み寄こしたものらしい。七つの時に都会の縁者の元に放り出されて以来十数年、つい先日一回り近く年上の兄らしき名前を新聞の戦死者一覧に見つけた外はとんと音沙汰の絶えた家族からの便りだった。
武蔵野の小さな尋常で教師の真似事を始めてからすっかり足の遠のいた里親の元に久々に顔を出し件の手紙を見せて意見を問うと、どうやら先日新聞で見つけた名前はやはり兄で、黄海海戦で名誉の戦死を遂げた後漸く故郷に還った我が子の白木の箱の軽さにすっかり母が弱ってしまい、近頃はずっと臥せっているという。流石に親爺様も参ってしまったのだろう、とのことだった。
戻るつもりなら、暫く親爺様の傍にいてやりなさい。と育ての二親は、出立の朝わざわざ馬車駅まで見送りに来てくれた。同じ職場で教鞭を執っている義兄も教え子らを連れて来た。まるで永の別れじゃないかと笑うと、義母は顔を覆って泣き出した。そういえば、こちらは平壌会戦から生きて帰ってきたとはいえ、義母は五年前にこの場所で私や義兄達の出征を見送っているのだ。
馬車に乗込み、いつまでも手を振り見送る人々の姿が見えなくなっていくと、住み慣れた街の風景もやがて遠ざかり、いつしか都会の背の高い街並みが近づいてくる。この都会の賑やかな喧騒も、今に後ろの方に見えなくなっていくだろう。
膝の前に置いた洋鞄には教え子たちが覚えたての字で書いてくれた寄せ書きと、和綴じの「小學国語讀本」が数冊詰めてある。
……もう、戻っては来られないかもしれないな。
そんな感慨が、ふと頭を過った。
……肌寒さにハッと顔を上げて仰天した。
水色の空が真っ白になっている。青々と日差しを弾いていた夏の草木がすべて白く霞んでいる。あれほど喧しかった蝉の声も聞こえない。
ヤマセがここまで登ってきたのか。
急いで立ち上がり出発する。霧中というほど視界は悪くないが、これから先ますます道は険しくなるだろう。これ以上靄が濃くなると遭難の恐れもあり得る。
今一度、腰かけていた岩の方を振り返ると、今まで気づかなかったが岩陰に鮮やかな曼殊沙華が咲いていた。ひょっとしたらこの岩は何かの塚跡なのかもしれない。だとしたら罰当たりなことをしてしまったかと振り返り一礼する。
……ふと、微かな記憶が蘇る。
ずっと昔、こんな風に何も見えない山の中を一晩中さ迷ったことがなかったっけ?
真っ暗な闇の中にいるはずなのに、なぜか自分が一面真っ白な世界に一人取り残されていることがわかり、只々必死で誰かの名を呼びながら――
――様
――様
やがて力尽き動けなくなり、白の世界に埋もれていく自分の前に現れたのは、
あれは……
昨日逗留した海辺の町では、ヤマセのせいかこれが北国の七月かと慌てて鞄から長袖を引っ張り出すほどの肌寒さに閉口したが、今朝宿を出立し山道を登るうちヤマセの白霞も解けてくると、急勾配の山道を登れば登るほど初夏の蒸し暑さが襲い掛かり、今朝出た街を木立の合間から見下ろす頃には手拭いから汗の露が滴るほどだった。
背の高い広葉樹から木漏れ日とともに降り注ぐ蝉時雨と、時折樹影の切れ目から野道にひょっこりと顔を突き出す鮮やかな山百合の芳香に眩暈を覚える。大きなオニヤンマが歩みの遅い私を揶揄うように悠々と山道を行きつ戻りつ飛び回っている。
大きな槐の木の木陰を見つけ、そこで小休止をとることにした。
巨木の傍らの岩に腰を下ろし、水筒の水に口をつける。
一息ついてみれば、今まで行く先ばかり目指して行くうちは蝉の声ばかりが喧しかったが、水色の夏の空、濃緑色の山の木立と緑色の濃い山の空気の中にはそこら中に音と気配が溢れかえっている。夏草や木々の葉擦れ、虫たちの羽音、遠くで郭公の声も聞こえてくる。夏の山は、まるで命の洪水だ。
やがて汗が引いてくると、微かにシャツの胸元を擽る海からの風が心地よい。やはり北国の気候か、少し湿り気を帯びた冷涼な微風が慣れない山登りに火照った身体を晒しているうちに、少しずつ活力が漲り始めていく。
この山道も、 文政・天保の頃までは、内陸の街道へ抜ける直近の道として利用されていたらしいが、御一新より近隣の街道が整備され、港湾周辺が繁華街として栄え始めると、山道沿いに点在する集落へ稀に行商が塩などを売りに行く外、通うものは誰もいなくなってしまったそうだ。おまけに雪崩の名所で雪が降れば通れなくなるらしい。
目指す集落は、この山を越えたらあと二つ尾根を辿り、采女取山というこの道の前に立ちはだかるように聳える山を迂回し漸く辿り着く。
日暮れまでには辿り着けるだろうか。
「生家に顔を見せに来い」とだけしたためられた手紙が届いたのは、支那との戦の戦勝景気に巷が沸き立つ最中のことだった。字の苦手な父が誰かに代筆を頼み寄こしたものらしい。七つの時に都会の縁者の元に放り出されて以来十数年、つい先日一回り近く年上の兄らしき名前を新聞の戦死者一覧に見つけた外はとんと音沙汰の絶えた家族からの便りだった。
武蔵野の小さな尋常で教師の真似事を始めてからすっかり足の遠のいた里親の元に久々に顔を出し件の手紙を見せて意見を問うと、どうやら先日新聞で見つけた名前はやはり兄で、黄海海戦で名誉の戦死を遂げた後漸く故郷に還った我が子の白木の箱の軽さにすっかり母が弱ってしまい、近頃はずっと臥せっているという。流石に親爺様も参ってしまったのだろう、とのことだった。
戻るつもりなら、暫く親爺様の傍にいてやりなさい。と育ての二親は、出立の朝わざわざ馬車駅まで見送りに来てくれた。同じ職場で教鞭を執っている義兄も教え子らを連れて来た。まるで永の別れじゃないかと笑うと、義母は顔を覆って泣き出した。そういえば、こちらは平壌会戦から生きて帰ってきたとはいえ、義母は五年前にこの場所で私や義兄達の出征を見送っているのだ。
馬車に乗込み、いつまでも手を振り見送る人々の姿が見えなくなっていくと、住み慣れた街の風景もやがて遠ざかり、いつしか都会の背の高い街並みが近づいてくる。この都会の賑やかな喧騒も、今に後ろの方に見えなくなっていくだろう。
膝の前に置いた洋鞄には教え子たちが覚えたての字で書いてくれた寄せ書きと、和綴じの「小學国語讀本」が数冊詰めてある。
……もう、戻っては来られないかもしれないな。
そんな感慨が、ふと頭を過った。
……肌寒さにハッと顔を上げて仰天した。
水色の空が真っ白になっている。青々と日差しを弾いていた夏の草木がすべて白く霞んでいる。あれほど喧しかった蝉の声も聞こえない。
ヤマセがここまで登ってきたのか。
急いで立ち上がり出発する。霧中というほど視界は悪くないが、これから先ますます道は険しくなるだろう。これ以上靄が濃くなると遭難の恐れもあり得る。
今一度、腰かけていた岩の方を振り返ると、今まで気づかなかったが岩陰に鮮やかな曼殊沙華が咲いていた。ひょっとしたらこの岩は何かの塚跡なのかもしれない。だとしたら罰当たりなことをしてしまったかと振り返り一礼する。
……ふと、微かな記憶が蘇る。
ずっと昔、こんな風に何も見えない山の中を一晩中さ迷ったことがなかったっけ?
真っ暗な闇の中にいるはずなのに、なぜか自分が一面真っ白な世界に一人取り残されていることがわかり、只々必死で誰かの名を呼びながら――
――様
――様
やがて力尽き動けなくなり、白の世界に埋もれていく自分の前に現れたのは、
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