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第2章 4
しおりを挟むある日から、娘が着物を汚して帰ってくるようになった。
またある日は、あちこちに痣や擦り傷をこさえて帰ってきた。
心配した母や女中が尋ねても、友達と遊んでいたの、とだけしか答えず、ただにこにこと笑うばかりである。
やがて、娘の周りから同年代の子どもの姿が消えていった。
それは、自分たちより綺麗な服を着て、周りの大人たちからチヤホヤされる良家の一人娘に対する嫉妬やっかみ故の所業が遂に親に知れ、手厳しい折檻を受けたことに心底懲りたためかもしれないし、何をされてもただ笑うばかりで怒りも泣きもしない娘に対し、得体の知れぬ不気味なものを感じたためかもしれない。いずれにせよ、娘の前からは友達は皆離れていき、村の者たちは娘がひとりで遊んでいるところばかり目にするようになった。
それでも寂しそうな素振りなど微塵も見せず、娘は相変わらずひとりでにこにこ笑っている。
はしゃぎ過ぎて転び膝を擦りむいても嗚咽一つ漏らさずケラケラ笑う。
じゃれついた相手に、まるでいないもののようにあしらわれても涙一つ浮かべることなく笑いながらじゃれ続ける。
わらい。
それ以外の感情が娘にあることを、村の者は誰ひとり知らなかった。
娘が生まれて四年が経ち、この家にもうひとりの子供が生まれた。
そのすぐ後に、まるで入れ替わるように姉の味方であった祖母が亡くなった。
亡くなる直前、祖母は生まれたばかりの赤子を胸に抱えあやしながら、産褥に伏せった母を前にこんなことを話した。
「縫、……刀子を、この子に近づけちゃいけないよ」
「お母さま?」
腕に抱いた孫を見下ろす祖母の顔からは、何の表情も読み取れなかった。
「今になって、志乃の婆さんの戯言が、――ずっと戯言だと鼻で笑ってたんだけどね。それが、なんだかあの子が育つのを見るうちに、妾は急に恐ろしくなってきたよ」
急に腕の中の赤子がむずがり出し、祖母は赤子を宥めながら母の腕に返した。
この赤子が生まれ出てから今日まで、姉の雛さまとは打って変わり毎日四六時中びーびー泣き喚く様子にどれだけ皆が胸を撫で下ろし安堵のため息をついたことか。
「蛇のなかには、生まれたらすぐ他の兄弟の卵を、孵る前に片っ端から飲んでしまうのがいるらしいね」
「お母さま、何を……?」
身を起こしかける母を制して、祖母は続ける。
「妾だって、とても自分の考えている事が正気とは思えないさ」
祖母は自嘲気に唇を緩めた。
「でもね、この子の顔を見るたびに志乃さんの言葉を思い出して、恐ろしくて仕方ないんだよ。……ひょっとして、あの婆さんの言ったとおり、今にこの子たちに何か良くないことが起こるんじゃないかって」
「刀子も私の子よ。お母さまがどう思おうと、」
「わかってるさ、妾にとっても大事な初孫だ。あんな不憫で可愛い子、蔑ろにできるもんじゃない。でもね、妾は嫌な胸騒ぎがして仕方がないんだよ。もしも、この子まで、あんな……」
続きの言葉を呑み込んだ祖母の顔色に、初めて悲痛な色がよぎった。
「……どうか、この子だけは」
嗚咽を堪え、泣き笑いの表情に精一杯の慈しみを込めて、自分の娘の腕の中で、不思議そうに首を傾げ見上げる孫の顔を見つめた。
「この子だけは、何があっても健やかに生きていて欲しい。どうか、勝太郎だけは――」
――勝太郎というの、その子は?
いつもの舌足らずな愛らしさが欠片もない声に、祖母と母は同時に振り向いた。
一瞬、二人は言葉を失った。
「……おまえ、いつから、」
今まで。たった今まで固く閉ざされていたはずの障子は開け放たれ、中庭に植えられた椛の青い葉が風にそよいでいるのが見える。ささやかな庭木の茂みの向こうに、ほとんど使われることのない離れの小さな別棟が、庭の隅に陰鬱な影を落としていた。
その小景を背に、今まで見せたことのない真顔の視線を、祖母でもなく、母でもない、その腕に抱かれている自分の弟となる赤子にのみ向けている。
四つを数えたばかりの娘ではない。
普段よく知る孫の気配ではない。
誰とも知らない女が、敷居を挟み、自分たちを見つめている。
得体の知れない恐怖に、祖母は縛めを受けたように身を竦ませた。
恐らく同じ理由から、母は赤子を視線から庇うように抱きしめた。
そんな二人の動揺を気に止める素振りさえ見せず、ただ姉は母の腕の中にいる弟だけを見つめ、
にっこりと、わらったのだった。
――それから間もなくしてぽっくりと、祖母が死んだ。
亡くなる前日まで、刀子を決して勝太郎に近づけてはならないと繰り返し、明くる朝、眠ったままの様子で事切れていた。
姉の葬儀への参列は最後まで祖父が許さず、祖父もまた、以後決して姉を大事な跡取りの傍に近づけてはならない、と家の者たちに命じた。
……右の話を母の口から聞いたのは、怪我の全快した数日後のことだった。
話し終えた後、母は改めて、二度と姉に近づいてはならないと、僕に命じた。
「――良いですね? 刀子はいないものだと思いなさい。もし外で尋ねられても、面会を求められても、決して応じてはなりません」
姉と同じ顔を被った無表情が、姉の声を借りて喋っているような口調だった。
僕はただ黙って最後まで話を聞いていたように思う。
母に何と言って肯いたのか、よく覚えていない。
ただ、もう姉と会うことはできないのだという宣告だけが、重く、深く、自分の奥底に浸透していくのだけが感じられた。
既に姉は屋敷の離れに隔離され、一歩たりとも外へ出ることを禁じられていることを、後で知った。
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