白蛇の化女【完全版】

香竹薬孝

文字の大きさ
17 / 44

第2章 4

しおりを挟む

 ある日から、娘が着物を汚して帰ってくるようになった。
 またある日は、あちこちに痣や擦り傷をこさえて帰ってきた。
 心配した母や女中が尋ねても、友達と遊んでいたの、とだけしか答えず、ただにこにこと笑うばかりである。
 やがて、娘の周りから同年代の子どもの姿が消えていった。
 それは、自分たちより綺麗な服を着て、周りの大人たちからチヤホヤされる良家の一人娘に対する嫉妬やっかみ故の所業が遂に親に知れ、手厳しい折檻を受けたことに心底懲りたためかもしれないし、何をされてもただ笑うばかりで怒りも泣きもしない娘に対し、得体の知れぬ不気味なものを感じたためかもしれない。いずれにせよ、娘の前からは友達は皆離れていき、村の者たちは娘がひとりで遊んでいるところばかり目にするようになった。
 それでも寂しそうな素振りなど微塵も見せず、娘は相変わらずひとりでにこにこ笑っている。
 はしゃぎ過ぎて転び膝を擦りむいても嗚咽一つ漏らさずケラケラ笑う。
 じゃれついた相手に、まるでいないもののようにあしらわれても涙一つ浮かべることなく笑いながらじゃれ続ける。

 わらい。

 それ以外の感情が娘にあることを、村の者は誰ひとり知らなかった。


 娘が生まれて四年が経ち、この家にもうひとりの子供が生まれた。
 そのすぐ後に、まるで入れ替わるように姉の味方であった祖母が亡くなった。
 亡くなる直前、祖母は生まれたばかりの赤子を胸に抱えあやしながら、産褥に伏せった母を前にこんなことを話した。
「縫、……刀子を、この子に近づけちゃいけないよ」
「お母さま?」
 腕に抱いた孫を見下ろす祖母の顔からは、何の表情も読み取れなかった。
「今になって、志乃の婆さんの戯言が、――ずっと戯言だと鼻で笑ってたんだけどね。それが、なんだかあの子が育つのを見るうちに、妾は急に恐ろしくなってきたよ」
 急に腕の中の赤子がむずがり出し、祖母は赤子を宥めながら母の腕に返した。
 この赤子が生まれ出てから今日まで、姉の雛さまとは打って変わり毎日四六時中びーびー泣き喚く様子にどれだけ皆が胸を撫で下ろし安堵のため息をついたことか。
「蛇のなかには、生まれたらすぐ他の兄弟の卵を、孵る前に片っ端から飲んでしまうのがいるらしいね」
「お母さま、何を……?」
 身を起こしかける母を制して、祖母は続ける。
「妾だって、とても自分の考えている事が正気とは思えないさ」
 祖母は自嘲気に唇を緩めた。
「でもね、この子の顔を見るたびに志乃さんの言葉を思い出して、恐ろしくて仕方ないんだよ。……ひょっとして、あの婆さんの言ったとおり、今にこの子たちに何か良くないことが起こるんじゃないかって」
「刀子も私の子よ。お母さまがどう思おうと、」
「わかってるさ、妾にとっても大事な初孫だ。あんな不憫で可愛い子、蔑ろにできるもんじゃない。でもね、妾は嫌な胸騒ぎがして仕方がないんだよ。もしも、この子まで、あんな……」
 続きの言葉を呑み込んだ祖母の顔色に、初めて悲痛な色がよぎった。
「……どうか、この子だけは」
 嗚咽を堪え、泣き笑いの表情に精一杯の慈しみを込めて、自分の娘の腕の中で、不思議そうに首を傾げ見上げる孫の顔を見つめた。
「この子だけは、何があっても健やかに生きていて欲しい。どうか、勝太郎だけは――」

 ――勝太郎というの、その子は?

 いつもの舌足らずな愛らしさが欠片もない声に、祖母と母は同時に振り向いた。
 一瞬、二人は言葉を失った。
 「……おまえ、いつから、」
 今まで。たった今まで固く閉ざされていたはずの障子は開け放たれ、中庭に植えられた椛の青い葉が風にそよいでいるのが見える。ささやかな庭木の茂みの向こうに、ほとんど使われることのない離れの小さな別棟が、庭の隅に陰鬱な影を落としていた。
 その小景を背に、今まで見せたことのない真顔の視線を、祖母でもなく、母でもない、その腕に抱かれている自分の弟となる赤子にのみ向けている。
 四つを数えたばかりの娘ではない。
 普段よく知る孫の気配ではない。
 誰とも知らない女が、敷居を挟み、自分たちを見つめている。
 得体の知れない恐怖に、祖母は縛めを受けたように身を竦ませた。
 恐らく同じ理由から、母は赤子を視線から庇うように抱きしめた。
 そんな二人の動揺を気に止める素振りさえ見せず、ただ姉は母の腕の中にいる弟だけを見つめ、

 にっこりと、わらったのだった。


 ――それから間もなくしてぽっくりと、祖母が死んだ。
 亡くなる前日まで、刀子を決して勝太郎に近づけてはならないと繰り返し、明くる朝、眠ったままの様子で事切れていた。
 姉の葬儀への参列は最後まで祖父が許さず、祖父もまた、以後決して姉を大事な跡取りの傍に近づけてはならない、と家の者たちに命じた。
 
 
 ……右の話を母の口から聞いたのは、怪我の全快した数日後のことだった。
 話し終えた後、母は改めて、二度と姉に近づいてはならないと、僕に命じた。
「――良いですね? 刀子はいないものだと思いなさい。もし外で尋ねられても、面会を求められても、決して応じてはなりません」
 姉と同じ顔を被った無表情が、姉の声を借りて喋っているような口調だった。
 僕はただ黙って最後まで話を聞いていたように思う。
 母に何と言って肯いたのか、よく覚えていない。
 ただ、もう姉と会うことはできないのだという宣告だけが、重く、深く、自分の奥底に浸透していくのだけが感じられた。

 既に姉は屋敷の離れに隔離され、一歩たりとも外へ出ることを禁じられていることを、後で知った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜

一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m ✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。 【あらすじ】 神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!   そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!  事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます! カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...