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1巻
1-2
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「いや待って、その言葉のどこに安心できる要素があるの!?」
トオンは慌てて席から立ち上がるが、苦笑したカズンに横から宥められ、また椅子に座り直した。
「まあ、そう慌てることはないさ、トオン。……聖女アイシャ。君の事情は理解した。そういう事情なら、君はしばらくこの建物から出ないほうがいい」
「はい。実際、まだ魔物との戦闘の疲労や魔力消耗が癒えていないので、ここで休めるなら助かります」
事情を聞いたトオンも、アイシャが外に出ないことには賛成した。
「アイシャ様。あなたのことはお袋から聞いてましたよ。城の下女でしかない自分にも優しくしてくれた素敵な聖女様だったって、何度も何度も。あなたのおかげで、取るに足らない一庶民でしかない俺もずっと守られていた。国民は皆そう思ってます」
「まあ。そんな大袈裟よ」
「大袈裟じゃないです! あなたがいなければ、こんな小国、魔物に喰われて一瞬で終わってた! ……ご恩を返させてください。いくらでも、ずっとでも泊まっていてください。お願いします!」
深く頭を下げてきたトオンに、アイシャは不思議そうな顔になった。
(城では王太子殿下や周囲の人たちは私に頭なんて下げなかったから、すごく新鮮)
くす、とアイシャは小さく笑った。
「頭を上げてください、トオンさん。それに、そんな丁寧な言葉遣いされたら居心地が悪いわ。名前も様なんて付けないでそのまま呼んで欲しいな。私だって身分はただの平民だし、マルタさんの息子さんなら、私にとっても友人だもの」
「え……母を……俺を、友人と呼んで下さるのですか?」
「そうよ? マルタさんはあの王城の中で、私の数少ないお友達だったの。マルタさんにはとても良くしてもらったわ。あなたも仲良くしてくれると嬉しい」
にっこり笑ったアイシャは、先ほどの呪い発言などなかったかのように無邪気だった。
「わ、わかりました……。………………いえ、わかったよ、アイシャ」
「ええ、これからよろしくね。トオン。あ、カズンさんもね」
(おやおや)
とこちらも白湯をすすりながら、カズンは目の前の光景をまたたきしながら見ていた。
和やかに談笑し始めたアイシャとトオンは、それぞれの魔力が交流し始めている。
この世界で魔力は、生命力を含む人間が活用できるエネルギーの総称だ。それが交流しているということは、二人の相性はとても良いのだろう。
(にしても、聖女を追放する王太子、か。何という破滅フラグか)
黒髪黒目の青年カズンは、他国出身の魔術師だ。
彼がこのカーナ王国へやって来たのは、師匠筋からの依頼で、この国の聖女の調査をするためだった。
二週間ほど前に王都入りして情報を集めていたが、当の聖女は魔物の大侵攻に対応するため郊外に出兵しており不在。路銀が心許なかったから安宿を探していたら、冒険者ギルドで南地区のこの古書店の二階の宿を紹介されたのだ。しばらくは近隣のダンジョンに潜ったり、王都周辺に出没する魔物を討伐したりして路銀を稼いでいた。
そうしたら昨日になって、目的の聖女本人が追放されて同じ宿屋にやって来るのだから、人生の偶然とはなかなか面白い。
「アイシャ。僕の親戚はメンタルが危なくなる前に、自分の気持ちを紙に書き出して整理する習慣を持っていたんだ。君も同じようにしてみたらどうだ?」
「紙に、ですか?」
カズンの脳裏に、しばらく帰れていない故郷の、自分と同じ黒髪黒目の青年の顔が思い浮かぶ。彼は元気でやっているだろうか。
「ああ、それはいいアイデアだ。ちょっと待ってて。古書店だからね、裏紙なら沢山あるよ」
トオンが食堂から出ていって、古書店のほうへ向かう。
すぐまた戻ってきた彼は、ぎっしり紙の束が詰まった大きな封筒を手に持っていた。
「チラシや回覧板の会報の裏紙で悪いんだけど、これならいくら使ってくれてもいいから」
封筒を受け取って中を見ると、トオンの言う通り、中の紙は表だけ印刷されたチラシや書類で、裏は無地だ。
「書くだけ書いて要らなくなったら、ぎゅーって丸めて一階の黒いゴミ箱まで捨てに来てくれる? 紙は分別して、まとまったら燃やして処分するよう決められているから」
「わかったわ、黒いゴミ箱ね」
「うん、精算所のカウンターの裏に置いてあるから、よろしくね」
この、トオンからの簡単な注意が、カーナ王国を轟かす大事件に発展していくきっかけとなる。
それから、アイシャは自分の泊まる部屋にこもって、自分を追放した者たちを呪いかねない、荒れ狂う感情を紙に書き出し始めた。
一通り書き出しては、ぎゅううううっと親の仇の如く固く丸めて、机の上に積み重ねていった。
書き出しては丸め、書き出しては丸めを繰り返す。
そして朝晩の食事のため階下の食堂に降りるとき、トオンに言われた通り丸めた紙を抱えて、古書店フロアの黒いゴミ箱の中へ捨てていった。
本来なら、アイシャの捨てた紙はそのまま週に一度まとめて、建物の裏庭で燃やして処分するはずだった。
ある程度、紙ゴミがまとまった時点でいつものように焚き火をおこそうとしたトオン。
だが、それに待ったをかけたのがカズンだ。
「彼女が自分でも言っていたように、アイシャは〝腐っても聖女〟だ。その彼女が感情を込めて全身全霊で書いたものを燃やすのは、ちょっと危ない」
万が一、燃やすことで余計な術、それも呪詛の類が発動してはならない。そう言って、ひとまずカズンはその丸められた紙をトオンの私室へと移動させた。アイシャは店主トオンの私的なスペースまでは入ってこないから、彼女がやってくる心配もいらない。
「カズン。君は魔術師だと言っていたね。何かアイシャの書いたものに変な魔力を感じ取ったのかい?」
「変かどうかはわからない。だが、何か魔力がこもっているのは確かだ」
「……それ、王太子たちへの恨みだろ?」
「そう単純なものでもない」
「えっ、ちょっとカズン!?」
トオンの私室にある小さな机の上に、丸められた紙を転がし、カズンはひとつずつ端からそれを広げていった。
「カズン! 人の捨てたものを見るのはいけない!」
「それも場合によりけりだ。……お、彼女なかなか几帳面だな。書いた日付とナンバリングまでしてある」
丁寧に紙を伸ばし、一枚一枚、日付ごと、ナンバリング順に重ねていく。
そして、書かれた内容を確認して嘆息した。
「……やはりな。トオン、読んでみろ。焼き捨てなくて良かったとわかるから」
手渡された皺くちゃの紙に目を通す。アイシャが書いた紙のうちのひとつだ。
「……これは……!」
慌てて、カズンが皺を伸ばしていた他の紙にも目を通す。
すべてを統合すると、そこには聖女アイシャが王城で虐げられていた実態の、ほんのさわり部分が書き記されていたのだった。
アイシャが捨てた紙を拾い、中身を読んだトオンはその日一日、不機嫌だった。
「トオン、どうしたの? 何かあった?」
「うん、ちょっとね。アイシャは気にしないで」
食卓でも不機嫌な様子を隠しきれない彼を、アイシャは心配していた。
だがトオンは彼女にも、自分の不機嫌の理由を伝えることはしなかった。
そんなトオンも、翌日になると何かを決意した顔になった。いつもなら夕方まで開けているはずの古書店を陽が傾く前に閉めて、奥の私室へと引っ込んでいた。
「トオン、本当に大丈夫かしら」
「さあ、どうだろうな。僕は少し様子を見守ろうと思っている」
「もう、カズンったら! 今日の夕飯はなあに?」
「チキンスープと炒めライスだ。期待してていいぞ」
(カズンの飯は美味いからな……。………………いけない、集中しないと)
厨房から聞こえてくるそんな声を背景に、トオンは机で書き物をしていた。
アイシャの殴り書きのような、感情を叩きつけられた書き付けを、便箋に丁寧に清書していた。
そして別途、このような添え書きをした。
『これは虐げられ、理不尽に追放された聖女が、自らの内面を整理するために書いた走り書きです。
私はこれらをゴミ箱の中から見つけました。
彼女の名誉のため、本人はこれらの文章を発表するつもりなど欠片もなかったことを保証します。
ただ、私が聖女の真実を国民の皆様に知って欲しかった。だから勝手に清書して、原文とともに新聞社へと送った。
受け取った新聞社がどう扱うかは自由です』
そうして送り主が匿名の手紙と、アイシャが書いた原本をまとめて、カーナ王国唯一の新聞社へと送ったのだった。
* * *
匿名による聖女アイシャの走り書きを原本、清書と揃えて送られてきたカーナ王国新聞社は、その手紙を翌日の朝刊の特集記事として新聞に掲載した。書き付けの原文は、文字が判別できる程度の縮小をかけて、清書された文章はその画像と一緒に併せての掲載だった。
『聖女投稿』と題された特集記事は、カーナ王国新聞社始まって以来の大反響を巻き起こした。
どれほどの反響だったかといえば、一日一回、朝だけの日刊新聞なのに、それから長期に渡って繰り返し再発行されるほどだった。
聖女アイシャの走り書きは、清書も含めて体裁はそう整ったものではない。
文字通りの走り書きで読みにくかったが、購読者は夢中で全文を読んだ。
『円環大陸共通暦八〇六年二月四日、アイシャ
ある人が紙に書いて自分の気持ちを整理したほうがいいと助言してくれたので、貰った裏紙に書いていきます。紙はたくさんあるのでたくさん書ける。
私、アイシャが聖女になった経緯はこんな感じ……』
以降、簡単に聖女アイシャの経歴と業績が箇条書きされていく。
幼い頃、僻地の村で聖女の素質有りとして発見され、家族と離され王都へ連れてこられて、教会に所属する聖女となったことや、聖女の役割を果たすため過酷な修行を行い、聖なる魔力で魔物討伐に明け暮れる日々だったことなどをだ。
『聖女は王族と結婚する決まりだからと言われてクーツ王太子殿下と婚約しました。
そのとき殿下は「これが私の婚約者なのはいやだ」と仰った。
私だって初対面でそんなこと言ってくる男は嫌だと思ったけど、相手は王子様だから文句は言えなかった。
殿下は私が平民であることが気に入らなかったようで、その後も態度が悪く、いつも顔を合わせれば罵倒してくるばかり。辛かった』
国民を驚愕させたのは、この後からだ。
『私には、聖女としての手当ての他、王太子の婚約者となってからは未来の王太子妃に対する毎月の支度金が給付されていた。
けれどそのほとんどをクーツ王太子殿下に奪われ、私には自分の自由になるお金がほとんどなく、非常に困らされた。奪われたお金は、王太子殿下と彼の取り巻きたちの遊び代に使われたらしい。
殿下が直接私にそう仰った。
「お前のような平民に多くの金は必要ない、だから私が有効に使ってやるのだ」だそう。
使えるはずの自分の予算を使えなかったため、私は満足に身だしなみを整えることもできなかった。辛うじて庶民が着る素朴な衣服は買えたのだけど、その服を着た私を見たクーツ王太子殿下たちにまた馬鹿にされるという悪循環だった』
聖女アイシャが素朴で簡素な衣服を好んで着ていることを、彼女が視察に出た先で会う国民たちは皆知っていた。
それは彼女が聖女らしい清貧を貫いているからだと、誰もが思い込んでいた。
違ったのか。それはただ王太子による暴挙で予算を奪われた聖女アイシャが、苦労してようやく手に入れた最低限の装いに過ぎなかったというのか。
『こんなこと、長く続くはずがないと思ってた。
すぐに周りが気づいて、クーツ王太子殿下の行為を止めてくれるものだと。
だけど、私には聖女として活動するための専用の装束や装備だけは現物を直接、教会から支給されていた。
これが良くなかったのだと思う。
聖女の装束や装備姿のときだけお会いする国王陛下や王妃殿下、国の重鎮たち、司祭様、教会関係者たち。彼らになかなか、私の苦しめられている実態が伝わらなかったのは、そのためだった』
『やがてクーツ王太子殿下は、クシマ公爵令嬢ドロテア様と恋に落ちた。
なぜ私がそれを知っているかというと、王太子殿下が自慢げに私に伝えに来たからだ。
この頃から既に、彼の中では私は婚約者でも何でもなかったのだと思う。
それだけならまだしも、ドロテア様からは執拗に、クーツ王太子殿下と別れるよう詰め寄られていた。
別れるも何も、私と殿下とは政略による婚約が結ばれているだけだ。それに婚約は王命のため、平民出身で政治的な力のない私の意思では多分どうにもならなかった。
すると、ドロテア様からは陰湿なイジメを受けるようになった』
新聞記事『聖女投稿』を見て泡を食ったのが、国王夫妻だ。
聖女アイシャが魔物の大侵攻を食い止めたとの報告を受けて、別働隊を率いていたアルター国王も、地方に疎開していたベルセルカ王妃と幼い王子、王女たちも王都に戻ってきていた。
しかし、新聞に書かれていた内容は、息子のクーツ王太子から聞いていた話とまるで違う。クーツ王太子からは、聖女は平民出身でありながら高位貴族の公爵令嬢を侮辱し虐待していたことが判明したため糾弾したと聞かされていた。少なくとも本人はそう主張していた。
急に消えた聖女に驚き混乱していた教会も、新聞記事を見て驚愕に震えた。
クーツ王太子からは、聖女アイシャは役目を終えてこの国にもう自分は必要ないと判断して出て行ったのだと説明されていた。しかし普段の聖女アイシャを知る教会関係者たちは不審に思い、これから本格的な調査に入ろうとしていたところだった。
とんでもないことだ。卑劣で唾棄すべき言いがかりで、聖女を一方的に追放したのではないか。
新聞記事を読んだ国民も激怒した。
自分たちを魔物の脅威から護ってくれた偉大な聖女様に何て仕打ちをしたのかと。
それに国民の大多数は平民だ。その平民出身者の聖女を虐げたクーツ王太子と不貞相手の公爵令嬢ドロテアには批判が殺到した。街角では、件の新聞片手にこんな会話がそこかしこで交わされるようになった。
「オレたちの聖女様に何て仕打ちをしやがったんだ!」
「おい、しかも聞いたか? 聖女様を虐げたゲス王子、冤罪を被せて聖女様を追放しやがったって!」
「どこ情報だそれ!?」
「王城に出入りしてる親戚の商会員の叔父さんだよ!」
「ちょ、それ本当かよ、『聖女投稿』に書かれてるより酷いことになってるじゃねえか!!」
国王アルターは新聞記事の真偽を確かめるべく、公式な調査を行った。すると、新聞記事で書かれていた以上の吐き気を催すような実態が明るみとなる。
更に、ちょうどその調査結果を裏付けるような新たな聖女の書き付け投稿が新聞に載った。
『円環大陸共通暦八〇六年二月五日、アイシャ
王城内では、私に対するクーツ王太子とクシマ公爵令嬢の卑劣な行いを嗜めてくれる人たちもいました。すごく嬉しかった……
でも、王太子と公爵令嬢という権力者に嫌がらせを受けて、どんどん数が減っていってしまった。
中には被害に耐えきれず自分から王城を去る人まで……
彼らには本当に申し訳ないことをしてしまいました』
『王城での私の食事にゴミが混ざるようになったのは、去年からでした。
腐った食材が意図的に混ぜられるようになった』
『私の部屋には小動物や虫の死骸が置かれることがありました。
私は聖女だから、聖なる魔力を使う祈りによって、腐敗した料理から毒を抜くことができる。でも一度腐った食事って、毒を消しても栄養はもうカスカスで失ってしまっているようだった……
食べても食べても、力にならない。魔力を回復してくれない。
せめて普通の食事が取れていれば、その後の魔物の侵攻を防ぐのに、もっと少ない被害で済むよう力を出せたのにと思うと、悔しくてならない!』
この手紙が記事になった後。アルター国王はクーツ王太子に、聖女を虐げることで国を危険に晒したことの責任を問うた。
「なぜですか、父上! あの女は聖女を騙った罪人ですよ!?」
「……お前のそれが虚言であることは、既に調べがついておる。答えよ、クーツ。お前が聖女アイシャを虐げたことで受けた我が国の国防低下への被害はどう償うつもりだ?」
「そ、それは……」
国王は答えられない王太子を廃し、一王子とした。
共謀した公爵令嬢と王子との婚約は認められない。そもそも、聖女アイシャとの婚約破棄も、公爵令嬢との新たな婚約も、国王不在中にクーツ王太子が許可なく勝手に公言したものだ。よって、王太子と公爵令嬢の婚約は無効だ。最初から無かったこととした。
クーツ王太子の悪事の片棒を担いだクシマ公爵令嬢ドロテアは王宮に出入り禁止となり、公爵家での謹慎を命じられた。
不定期に聖女の走り書きの投稿は続いている。
日にちは前後することもあれば、同じ日付のこともある。
どうやら聖女アイシャは思いつくまま出来事を記録していて、清書されたものも時系列で並べ替えることはしていないようだった。
『円環大陸共通暦八〇六年二月五日、アイシャ
国王や教皇から賜った宝飾品は、気づくと消えていた。
クーツ王太子殿下たちが勝手に持ち出し、売り払って遊興費の足しにしたようだ。
それらの宝飾品の中には、聖女の力を増幅するアミュレットもあったのだけど、貴金属や貴石が使われているものから奪われ売り払われてしまった……
それらのアミュレットがあれば、魔物の被害はもっと容易に防げたはずなのに……だってあれらは代々の聖女様たちが使ってきた貴重な魔導具なのだ。
王太子殿下たちにはただの宝飾品としか見えなかったのだろう。
本当なら被害や命を落とす人々ももっと少なかっただろうと思うと、悔しくていまだに涙で枕を濡らさない日はない。
もちろん、私は宝飾品を持ち出しそうと部屋を物色していた王太子殿下に、その場でそのことをちゃんと告げた。しかし彼は、「アミュレットに頼らねば力を発揮できない聖女など聖女ではない」と言って、まるで話を聞いてくれなかった』
この聖女投稿を読んで、青ざめた者たちがいる。
王城で、クーツ王太子の取り巻きをしていたり、周辺にいたりした者たちだ。
去年から今年にかけて、王太子が急に羽振りが良くなっていた。その理由に思い至ったのだ。
ほとんど毎日のように城下に降りて、高級な飲食店で高い酒を浴びるように飲んだり。高級娼館から女たちをダース単位で呼び寄せ接待させたり。他国から芸人一座を呼んで豪勢なパーティーを短い周期で催したり。
また王城でも、高価な衣服や宝石などを商人たちに言われるままに買い続けていたクーツ王太子と、公然の恋人だったクシマ公爵令嬢ドロテア。
その豪遊の元手が、クーツ王太子の婚約者の聖女アイシャという平民女に支給されている支度金を横取りしたものだということは、もちろん知っていた。
取り巻きたちとて貴族。いくらアイシャが聖女とはいえ貧しい村出身の平民。聖女として敬うつもりなど毛頭なかったし、むしろいい気味だとすら思っていた。
だが、そこに『代々の聖女が受け継いできた貴重な魔導具アミュレット』を売り払った金が加わっていたとなれば、話は別だ。
たった一本で大金貨一枚が吹き飛ぶような、他国産のぶどう酒をクーツ王太子と一緒になって一晩で何十本も飲んだ。何日も、何週間も、何ヶ月も……一年近くにわたって、ほとんど毎週のように。
「ま、まずい! 知らなかったでは済まされないぞ!?」
「だがどうする!? 本当に我々は知らなかったんだ!」
馬鹿な王太子だけが罰せられるならば、いい。
だが取り巻きや美味い汁を吸っていた者たちにも、調査の手は間違いなく伸びてくるだろう。
逃げられるだろうか?
アルター国王はできるだけ、王太子が強奪して売り払った聖女アイシャへの下賜品の買い戻しを命じた。だが、難しかった。
大半は下賜品であることを示す王家や教会の刻印を削り取られていたため、出自不明品扱いで売却されてしまっていたからだ。
王家や教会の刻印を傷つけ、許可なく削り取ることは重罪である。これだけでも、王太子と公爵令嬢への罰は厳罰化を免れない。
カーナ王国の貴重な、代々の聖女による魔導具アミュレットの大半が売り飛ばされ、他国へ流出してしまった。国内ならまだしも、国外へ流出してしまった物品を回収するのは、カーナ王国のような小国の国力では現状、難しい。
次の魔物の大侵攻が発生するのは百年後。
そのとき、この国は聖女の力を強力に補助する魔導具アミュレットなしで、魔物たちに立ち向かわねばならない。
「トオン、あのね。まだいらない紙ってある?」
数日後、中身のなくなった大きな封筒を抱えて、アイシャが二階の宿の部屋から降りてきた。
手に抱えていた、ぐしゃぐしゃに丸めた紙を、古書店の精算所カウンターの黒いゴミ箱に捨てる。
「もう使い切ったのかい、アイシャ」
「うん。まだ、あんまりスッキリはしないんだけど、自分の中は少しずつ整理できてる感じ」
「そっか……。ねえ、お袋が前に送ってくれたハーブがあるんだ。お茶でもどうだい?」
「飲みたいわ!」
まだどこか影があるが、アイシャはにっこりと笑顔を見せた。
その顔を見ていると、トオンも自然と顔が綻んでくる。
そう、この笑顔で聖女アイシャは人々の不安を和らげ心に希望の火を灯し続けてきた。
「今、カズンが厨房でレモンクッキーを作ってくれているんだ。僕も裏紙を集めてすぐ行くから、先にお茶入れてって頼んできてくれる?」
「ええ、了解よ。……でもカズンって、何者なの? ここの宿泊客なのよね? それに男の人で料理までするって珍しいわ」
「彼の国では、珍しいことじゃないみたいだよ。それに美味しいものが食べられる。良いこと尽くしだ」
「言えてるー!」
笑いながらアイシャが厨房へ向かう。
それを見送ってから、トオンはゴミ箱の中から先ほどアイシャが捨てた紙屑を素早く取り出し、手元にあった古い封筒に詰めて自室へ持っていった。
(ちょっとした思いつきだったけど、波紋を広げる役には立ったみたいだ。まだもうしばらく続けてみよう)
今朝の新聞はまた国内に反響をもたらしたらしい。
アイシャは以前から新聞を読まなかったそうだから、トオンの宿に来てからも目を通す素振りは見せない。他者の目を警戒して外にも出ないから、今この国で何が起こっているのかも知らないままだ。
封筒を机に置いてから、トオンは自分もまたバターの香り漂う厨房へ向かおうとしたが、ちょうどそのとき配達人がやってきた。
「トオンさん、お荷物でーす!」
一抱えほどの木箱がひとつ。差出人はマルタ。王城で下女をやっている、トオンの老いた母だ。
中身を開けると、麻袋の中に荷物が入っている。その上に紙切れが一枚。
『聖女様の部屋の私物をお渡しして』
何をどうやったものか、王城から追放されたアイシャの私物を掻き集めて詰めて送ってきたらしい。紙切れはもう一枚入っている。たった一行だけ、アイシャに向けて。
『聖女様の御心のままに』
今、世間を騒がせている聖女投稿のことは当然母も知っているはずだが、匂わせるようなことはトオン、アイシャ、どちらへのメモにも書かれていなかった。さすがの気遣いである。
中身の大半は衣服や小物のようだ。アイシャは着の身着のままでここにやって来ているから、着替えを確保できて助かるに違いない。
トオンは慌てて席から立ち上がるが、苦笑したカズンに横から宥められ、また椅子に座り直した。
「まあ、そう慌てることはないさ、トオン。……聖女アイシャ。君の事情は理解した。そういう事情なら、君はしばらくこの建物から出ないほうがいい」
「はい。実際、まだ魔物との戦闘の疲労や魔力消耗が癒えていないので、ここで休めるなら助かります」
事情を聞いたトオンも、アイシャが外に出ないことには賛成した。
「アイシャ様。あなたのことはお袋から聞いてましたよ。城の下女でしかない自分にも優しくしてくれた素敵な聖女様だったって、何度も何度も。あなたのおかげで、取るに足らない一庶民でしかない俺もずっと守られていた。国民は皆そう思ってます」
「まあ。そんな大袈裟よ」
「大袈裟じゃないです! あなたがいなければ、こんな小国、魔物に喰われて一瞬で終わってた! ……ご恩を返させてください。いくらでも、ずっとでも泊まっていてください。お願いします!」
深く頭を下げてきたトオンに、アイシャは不思議そうな顔になった。
(城では王太子殿下や周囲の人たちは私に頭なんて下げなかったから、すごく新鮮)
くす、とアイシャは小さく笑った。
「頭を上げてください、トオンさん。それに、そんな丁寧な言葉遣いされたら居心地が悪いわ。名前も様なんて付けないでそのまま呼んで欲しいな。私だって身分はただの平民だし、マルタさんの息子さんなら、私にとっても友人だもの」
「え……母を……俺を、友人と呼んで下さるのですか?」
「そうよ? マルタさんはあの王城の中で、私の数少ないお友達だったの。マルタさんにはとても良くしてもらったわ。あなたも仲良くしてくれると嬉しい」
にっこり笑ったアイシャは、先ほどの呪い発言などなかったかのように無邪気だった。
「わ、わかりました……。………………いえ、わかったよ、アイシャ」
「ええ、これからよろしくね。トオン。あ、カズンさんもね」
(おやおや)
とこちらも白湯をすすりながら、カズンは目の前の光景をまたたきしながら見ていた。
和やかに談笑し始めたアイシャとトオンは、それぞれの魔力が交流し始めている。
この世界で魔力は、生命力を含む人間が活用できるエネルギーの総称だ。それが交流しているということは、二人の相性はとても良いのだろう。
(にしても、聖女を追放する王太子、か。何という破滅フラグか)
黒髪黒目の青年カズンは、他国出身の魔術師だ。
彼がこのカーナ王国へやって来たのは、師匠筋からの依頼で、この国の聖女の調査をするためだった。
二週間ほど前に王都入りして情報を集めていたが、当の聖女は魔物の大侵攻に対応するため郊外に出兵しており不在。路銀が心許なかったから安宿を探していたら、冒険者ギルドで南地区のこの古書店の二階の宿を紹介されたのだ。しばらくは近隣のダンジョンに潜ったり、王都周辺に出没する魔物を討伐したりして路銀を稼いでいた。
そうしたら昨日になって、目的の聖女本人が追放されて同じ宿屋にやって来るのだから、人生の偶然とはなかなか面白い。
「アイシャ。僕の親戚はメンタルが危なくなる前に、自分の気持ちを紙に書き出して整理する習慣を持っていたんだ。君も同じようにしてみたらどうだ?」
「紙に、ですか?」
カズンの脳裏に、しばらく帰れていない故郷の、自分と同じ黒髪黒目の青年の顔が思い浮かぶ。彼は元気でやっているだろうか。
「ああ、それはいいアイデアだ。ちょっと待ってて。古書店だからね、裏紙なら沢山あるよ」
トオンが食堂から出ていって、古書店のほうへ向かう。
すぐまた戻ってきた彼は、ぎっしり紙の束が詰まった大きな封筒を手に持っていた。
「チラシや回覧板の会報の裏紙で悪いんだけど、これならいくら使ってくれてもいいから」
封筒を受け取って中を見ると、トオンの言う通り、中の紙は表だけ印刷されたチラシや書類で、裏は無地だ。
「書くだけ書いて要らなくなったら、ぎゅーって丸めて一階の黒いゴミ箱まで捨てに来てくれる? 紙は分別して、まとまったら燃やして処分するよう決められているから」
「わかったわ、黒いゴミ箱ね」
「うん、精算所のカウンターの裏に置いてあるから、よろしくね」
この、トオンからの簡単な注意が、カーナ王国を轟かす大事件に発展していくきっかけとなる。
それから、アイシャは自分の泊まる部屋にこもって、自分を追放した者たちを呪いかねない、荒れ狂う感情を紙に書き出し始めた。
一通り書き出しては、ぎゅううううっと親の仇の如く固く丸めて、机の上に積み重ねていった。
書き出しては丸め、書き出しては丸めを繰り返す。
そして朝晩の食事のため階下の食堂に降りるとき、トオンに言われた通り丸めた紙を抱えて、古書店フロアの黒いゴミ箱の中へ捨てていった。
本来なら、アイシャの捨てた紙はそのまま週に一度まとめて、建物の裏庭で燃やして処分するはずだった。
ある程度、紙ゴミがまとまった時点でいつものように焚き火をおこそうとしたトオン。
だが、それに待ったをかけたのがカズンだ。
「彼女が自分でも言っていたように、アイシャは〝腐っても聖女〟だ。その彼女が感情を込めて全身全霊で書いたものを燃やすのは、ちょっと危ない」
万が一、燃やすことで余計な術、それも呪詛の類が発動してはならない。そう言って、ひとまずカズンはその丸められた紙をトオンの私室へと移動させた。アイシャは店主トオンの私的なスペースまでは入ってこないから、彼女がやってくる心配もいらない。
「カズン。君は魔術師だと言っていたね。何かアイシャの書いたものに変な魔力を感じ取ったのかい?」
「変かどうかはわからない。だが、何か魔力がこもっているのは確かだ」
「……それ、王太子たちへの恨みだろ?」
「そう単純なものでもない」
「えっ、ちょっとカズン!?」
トオンの私室にある小さな机の上に、丸められた紙を転がし、カズンはひとつずつ端からそれを広げていった。
「カズン! 人の捨てたものを見るのはいけない!」
「それも場合によりけりだ。……お、彼女なかなか几帳面だな。書いた日付とナンバリングまでしてある」
丁寧に紙を伸ばし、一枚一枚、日付ごと、ナンバリング順に重ねていく。
そして、書かれた内容を確認して嘆息した。
「……やはりな。トオン、読んでみろ。焼き捨てなくて良かったとわかるから」
手渡された皺くちゃの紙に目を通す。アイシャが書いた紙のうちのひとつだ。
「……これは……!」
慌てて、カズンが皺を伸ばしていた他の紙にも目を通す。
すべてを統合すると、そこには聖女アイシャが王城で虐げられていた実態の、ほんのさわり部分が書き記されていたのだった。
アイシャが捨てた紙を拾い、中身を読んだトオンはその日一日、不機嫌だった。
「トオン、どうしたの? 何かあった?」
「うん、ちょっとね。アイシャは気にしないで」
食卓でも不機嫌な様子を隠しきれない彼を、アイシャは心配していた。
だがトオンは彼女にも、自分の不機嫌の理由を伝えることはしなかった。
そんなトオンも、翌日になると何かを決意した顔になった。いつもなら夕方まで開けているはずの古書店を陽が傾く前に閉めて、奥の私室へと引っ込んでいた。
「トオン、本当に大丈夫かしら」
「さあ、どうだろうな。僕は少し様子を見守ろうと思っている」
「もう、カズンったら! 今日の夕飯はなあに?」
「チキンスープと炒めライスだ。期待してていいぞ」
(カズンの飯は美味いからな……。………………いけない、集中しないと)
厨房から聞こえてくるそんな声を背景に、トオンは机で書き物をしていた。
アイシャの殴り書きのような、感情を叩きつけられた書き付けを、便箋に丁寧に清書していた。
そして別途、このような添え書きをした。
『これは虐げられ、理不尽に追放された聖女が、自らの内面を整理するために書いた走り書きです。
私はこれらをゴミ箱の中から見つけました。
彼女の名誉のため、本人はこれらの文章を発表するつもりなど欠片もなかったことを保証します。
ただ、私が聖女の真実を国民の皆様に知って欲しかった。だから勝手に清書して、原文とともに新聞社へと送った。
受け取った新聞社がどう扱うかは自由です』
そうして送り主が匿名の手紙と、アイシャが書いた原本をまとめて、カーナ王国唯一の新聞社へと送ったのだった。
* * *
匿名による聖女アイシャの走り書きを原本、清書と揃えて送られてきたカーナ王国新聞社は、その手紙を翌日の朝刊の特集記事として新聞に掲載した。書き付けの原文は、文字が判別できる程度の縮小をかけて、清書された文章はその画像と一緒に併せての掲載だった。
『聖女投稿』と題された特集記事は、カーナ王国新聞社始まって以来の大反響を巻き起こした。
どれほどの反響だったかといえば、一日一回、朝だけの日刊新聞なのに、それから長期に渡って繰り返し再発行されるほどだった。
聖女アイシャの走り書きは、清書も含めて体裁はそう整ったものではない。
文字通りの走り書きで読みにくかったが、購読者は夢中で全文を読んだ。
『円環大陸共通暦八〇六年二月四日、アイシャ
ある人が紙に書いて自分の気持ちを整理したほうがいいと助言してくれたので、貰った裏紙に書いていきます。紙はたくさんあるのでたくさん書ける。
私、アイシャが聖女になった経緯はこんな感じ……』
以降、簡単に聖女アイシャの経歴と業績が箇条書きされていく。
幼い頃、僻地の村で聖女の素質有りとして発見され、家族と離され王都へ連れてこられて、教会に所属する聖女となったことや、聖女の役割を果たすため過酷な修行を行い、聖なる魔力で魔物討伐に明け暮れる日々だったことなどをだ。
『聖女は王族と結婚する決まりだからと言われてクーツ王太子殿下と婚約しました。
そのとき殿下は「これが私の婚約者なのはいやだ」と仰った。
私だって初対面でそんなこと言ってくる男は嫌だと思ったけど、相手は王子様だから文句は言えなかった。
殿下は私が平民であることが気に入らなかったようで、その後も態度が悪く、いつも顔を合わせれば罵倒してくるばかり。辛かった』
国民を驚愕させたのは、この後からだ。
『私には、聖女としての手当ての他、王太子の婚約者となってからは未来の王太子妃に対する毎月の支度金が給付されていた。
けれどそのほとんどをクーツ王太子殿下に奪われ、私には自分の自由になるお金がほとんどなく、非常に困らされた。奪われたお金は、王太子殿下と彼の取り巻きたちの遊び代に使われたらしい。
殿下が直接私にそう仰った。
「お前のような平民に多くの金は必要ない、だから私が有効に使ってやるのだ」だそう。
使えるはずの自分の予算を使えなかったため、私は満足に身だしなみを整えることもできなかった。辛うじて庶民が着る素朴な衣服は買えたのだけど、その服を着た私を見たクーツ王太子殿下たちにまた馬鹿にされるという悪循環だった』
聖女アイシャが素朴で簡素な衣服を好んで着ていることを、彼女が視察に出た先で会う国民たちは皆知っていた。
それは彼女が聖女らしい清貧を貫いているからだと、誰もが思い込んでいた。
違ったのか。それはただ王太子による暴挙で予算を奪われた聖女アイシャが、苦労してようやく手に入れた最低限の装いに過ぎなかったというのか。
『こんなこと、長く続くはずがないと思ってた。
すぐに周りが気づいて、クーツ王太子殿下の行為を止めてくれるものだと。
だけど、私には聖女として活動するための専用の装束や装備だけは現物を直接、教会から支給されていた。
これが良くなかったのだと思う。
聖女の装束や装備姿のときだけお会いする国王陛下や王妃殿下、国の重鎮たち、司祭様、教会関係者たち。彼らになかなか、私の苦しめられている実態が伝わらなかったのは、そのためだった』
『やがてクーツ王太子殿下は、クシマ公爵令嬢ドロテア様と恋に落ちた。
なぜ私がそれを知っているかというと、王太子殿下が自慢げに私に伝えに来たからだ。
この頃から既に、彼の中では私は婚約者でも何でもなかったのだと思う。
それだけならまだしも、ドロテア様からは執拗に、クーツ王太子殿下と別れるよう詰め寄られていた。
別れるも何も、私と殿下とは政略による婚約が結ばれているだけだ。それに婚約は王命のため、平民出身で政治的な力のない私の意思では多分どうにもならなかった。
すると、ドロテア様からは陰湿なイジメを受けるようになった』
新聞記事『聖女投稿』を見て泡を食ったのが、国王夫妻だ。
聖女アイシャが魔物の大侵攻を食い止めたとの報告を受けて、別働隊を率いていたアルター国王も、地方に疎開していたベルセルカ王妃と幼い王子、王女たちも王都に戻ってきていた。
しかし、新聞に書かれていた内容は、息子のクーツ王太子から聞いていた話とまるで違う。クーツ王太子からは、聖女は平民出身でありながら高位貴族の公爵令嬢を侮辱し虐待していたことが判明したため糾弾したと聞かされていた。少なくとも本人はそう主張していた。
急に消えた聖女に驚き混乱していた教会も、新聞記事を見て驚愕に震えた。
クーツ王太子からは、聖女アイシャは役目を終えてこの国にもう自分は必要ないと判断して出て行ったのだと説明されていた。しかし普段の聖女アイシャを知る教会関係者たちは不審に思い、これから本格的な調査に入ろうとしていたところだった。
とんでもないことだ。卑劣で唾棄すべき言いがかりで、聖女を一方的に追放したのではないか。
新聞記事を読んだ国民も激怒した。
自分たちを魔物の脅威から護ってくれた偉大な聖女様に何て仕打ちをしたのかと。
それに国民の大多数は平民だ。その平民出身者の聖女を虐げたクーツ王太子と不貞相手の公爵令嬢ドロテアには批判が殺到した。街角では、件の新聞片手にこんな会話がそこかしこで交わされるようになった。
「オレたちの聖女様に何て仕打ちをしやがったんだ!」
「おい、しかも聞いたか? 聖女様を虐げたゲス王子、冤罪を被せて聖女様を追放しやがったって!」
「どこ情報だそれ!?」
「王城に出入りしてる親戚の商会員の叔父さんだよ!」
「ちょ、それ本当かよ、『聖女投稿』に書かれてるより酷いことになってるじゃねえか!!」
国王アルターは新聞記事の真偽を確かめるべく、公式な調査を行った。すると、新聞記事で書かれていた以上の吐き気を催すような実態が明るみとなる。
更に、ちょうどその調査結果を裏付けるような新たな聖女の書き付け投稿が新聞に載った。
『円環大陸共通暦八〇六年二月五日、アイシャ
王城内では、私に対するクーツ王太子とクシマ公爵令嬢の卑劣な行いを嗜めてくれる人たちもいました。すごく嬉しかった……
でも、王太子と公爵令嬢という権力者に嫌がらせを受けて、どんどん数が減っていってしまった。
中には被害に耐えきれず自分から王城を去る人まで……
彼らには本当に申し訳ないことをしてしまいました』
『王城での私の食事にゴミが混ざるようになったのは、去年からでした。
腐った食材が意図的に混ぜられるようになった』
『私の部屋には小動物や虫の死骸が置かれることがありました。
私は聖女だから、聖なる魔力を使う祈りによって、腐敗した料理から毒を抜くことができる。でも一度腐った食事って、毒を消しても栄養はもうカスカスで失ってしまっているようだった……
食べても食べても、力にならない。魔力を回復してくれない。
せめて普通の食事が取れていれば、その後の魔物の侵攻を防ぐのに、もっと少ない被害で済むよう力を出せたのにと思うと、悔しくてならない!』
この手紙が記事になった後。アルター国王はクーツ王太子に、聖女を虐げることで国を危険に晒したことの責任を問うた。
「なぜですか、父上! あの女は聖女を騙った罪人ですよ!?」
「……お前のそれが虚言であることは、既に調べがついておる。答えよ、クーツ。お前が聖女アイシャを虐げたことで受けた我が国の国防低下への被害はどう償うつもりだ?」
「そ、それは……」
国王は答えられない王太子を廃し、一王子とした。
共謀した公爵令嬢と王子との婚約は認められない。そもそも、聖女アイシャとの婚約破棄も、公爵令嬢との新たな婚約も、国王不在中にクーツ王太子が許可なく勝手に公言したものだ。よって、王太子と公爵令嬢の婚約は無効だ。最初から無かったこととした。
クーツ王太子の悪事の片棒を担いだクシマ公爵令嬢ドロテアは王宮に出入り禁止となり、公爵家での謹慎を命じられた。
不定期に聖女の走り書きの投稿は続いている。
日にちは前後することもあれば、同じ日付のこともある。
どうやら聖女アイシャは思いつくまま出来事を記録していて、清書されたものも時系列で並べ替えることはしていないようだった。
『円環大陸共通暦八〇六年二月五日、アイシャ
国王や教皇から賜った宝飾品は、気づくと消えていた。
クーツ王太子殿下たちが勝手に持ち出し、売り払って遊興費の足しにしたようだ。
それらの宝飾品の中には、聖女の力を増幅するアミュレットもあったのだけど、貴金属や貴石が使われているものから奪われ売り払われてしまった……
それらのアミュレットがあれば、魔物の被害はもっと容易に防げたはずなのに……だってあれらは代々の聖女様たちが使ってきた貴重な魔導具なのだ。
王太子殿下たちにはただの宝飾品としか見えなかったのだろう。
本当なら被害や命を落とす人々ももっと少なかっただろうと思うと、悔しくていまだに涙で枕を濡らさない日はない。
もちろん、私は宝飾品を持ち出しそうと部屋を物色していた王太子殿下に、その場でそのことをちゃんと告げた。しかし彼は、「アミュレットに頼らねば力を発揮できない聖女など聖女ではない」と言って、まるで話を聞いてくれなかった』
この聖女投稿を読んで、青ざめた者たちがいる。
王城で、クーツ王太子の取り巻きをしていたり、周辺にいたりした者たちだ。
去年から今年にかけて、王太子が急に羽振りが良くなっていた。その理由に思い至ったのだ。
ほとんど毎日のように城下に降りて、高級な飲食店で高い酒を浴びるように飲んだり。高級娼館から女たちをダース単位で呼び寄せ接待させたり。他国から芸人一座を呼んで豪勢なパーティーを短い周期で催したり。
また王城でも、高価な衣服や宝石などを商人たちに言われるままに買い続けていたクーツ王太子と、公然の恋人だったクシマ公爵令嬢ドロテア。
その豪遊の元手が、クーツ王太子の婚約者の聖女アイシャという平民女に支給されている支度金を横取りしたものだということは、もちろん知っていた。
取り巻きたちとて貴族。いくらアイシャが聖女とはいえ貧しい村出身の平民。聖女として敬うつもりなど毛頭なかったし、むしろいい気味だとすら思っていた。
だが、そこに『代々の聖女が受け継いできた貴重な魔導具アミュレット』を売り払った金が加わっていたとなれば、話は別だ。
たった一本で大金貨一枚が吹き飛ぶような、他国産のぶどう酒をクーツ王太子と一緒になって一晩で何十本も飲んだ。何日も、何週間も、何ヶ月も……一年近くにわたって、ほとんど毎週のように。
「ま、まずい! 知らなかったでは済まされないぞ!?」
「だがどうする!? 本当に我々は知らなかったんだ!」
馬鹿な王太子だけが罰せられるならば、いい。
だが取り巻きや美味い汁を吸っていた者たちにも、調査の手は間違いなく伸びてくるだろう。
逃げられるだろうか?
アルター国王はできるだけ、王太子が強奪して売り払った聖女アイシャへの下賜品の買い戻しを命じた。だが、難しかった。
大半は下賜品であることを示す王家や教会の刻印を削り取られていたため、出自不明品扱いで売却されてしまっていたからだ。
王家や教会の刻印を傷つけ、許可なく削り取ることは重罪である。これだけでも、王太子と公爵令嬢への罰は厳罰化を免れない。
カーナ王国の貴重な、代々の聖女による魔導具アミュレットの大半が売り飛ばされ、他国へ流出してしまった。国内ならまだしも、国外へ流出してしまった物品を回収するのは、カーナ王国のような小国の国力では現状、難しい。
次の魔物の大侵攻が発生するのは百年後。
そのとき、この国は聖女の力を強力に補助する魔導具アミュレットなしで、魔物たちに立ち向かわねばならない。
「トオン、あのね。まだいらない紙ってある?」
数日後、中身のなくなった大きな封筒を抱えて、アイシャが二階の宿の部屋から降りてきた。
手に抱えていた、ぐしゃぐしゃに丸めた紙を、古書店の精算所カウンターの黒いゴミ箱に捨てる。
「もう使い切ったのかい、アイシャ」
「うん。まだ、あんまりスッキリはしないんだけど、自分の中は少しずつ整理できてる感じ」
「そっか……。ねえ、お袋が前に送ってくれたハーブがあるんだ。お茶でもどうだい?」
「飲みたいわ!」
まだどこか影があるが、アイシャはにっこりと笑顔を見せた。
その顔を見ていると、トオンも自然と顔が綻んでくる。
そう、この笑顔で聖女アイシャは人々の不安を和らげ心に希望の火を灯し続けてきた。
「今、カズンが厨房でレモンクッキーを作ってくれているんだ。僕も裏紙を集めてすぐ行くから、先にお茶入れてって頼んできてくれる?」
「ええ、了解よ。……でもカズンって、何者なの? ここの宿泊客なのよね? それに男の人で料理までするって珍しいわ」
「彼の国では、珍しいことじゃないみたいだよ。それに美味しいものが食べられる。良いこと尽くしだ」
「言えてるー!」
笑いながらアイシャが厨房へ向かう。
それを見送ってから、トオンはゴミ箱の中から先ほどアイシャが捨てた紙屑を素早く取り出し、手元にあった古い封筒に詰めて自室へ持っていった。
(ちょっとした思いつきだったけど、波紋を広げる役には立ったみたいだ。まだもうしばらく続けてみよう)
今朝の新聞はまた国内に反響をもたらしたらしい。
アイシャは以前から新聞を読まなかったそうだから、トオンの宿に来てからも目を通す素振りは見せない。他者の目を警戒して外にも出ないから、今この国で何が起こっているのかも知らないままだ。
封筒を机に置いてから、トオンは自分もまたバターの香り漂う厨房へ向かおうとしたが、ちょうどそのとき配達人がやってきた。
「トオンさん、お荷物でーす!」
一抱えほどの木箱がひとつ。差出人はマルタ。王城で下女をやっている、トオンの老いた母だ。
中身を開けると、麻袋の中に荷物が入っている。その上に紙切れが一枚。
『聖女様の部屋の私物をお渡しして』
何をどうやったものか、王城から追放されたアイシャの私物を掻き集めて詰めて送ってきたらしい。紙切れはもう一枚入っている。たった一行だけ、アイシャに向けて。
『聖女様の御心のままに』
今、世間を騒がせている聖女投稿のことは当然母も知っているはずだが、匂わせるようなことはトオン、アイシャ、どちらへのメモにも書かれていなかった。さすがの気遣いである。
中身の大半は衣服や小物のようだ。アイシャは着の身着のままでここにやって来ているから、着替えを確保できて助かるに違いない。
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