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しおりを挟む「偽りの聖女アイシャよ! 貴様は己が聖女であると偽ってこの国を魔物の脅威に晒した。そのような女を側に置くことは出来ぬ! この場をもって貴様との婚約を破棄する!」
魔物の大侵攻を食い止めた聖女アイシャは、見事国防の義務を果たし、疲労困憊で王都まで戻ってきた。しかし王城へ戻ってきた彼女を待ち受けていたのは、手厚いねぎらいではなく、婚約者でありこの国の王太子でもあるクーツからの非道な仕打ちだった。
(どういうことでしょう? 戦いに明け暮れて負傷している者も多いというのに、帰還するなりパーティーへの参加命令。そして壇上で罵倒されている私。……意味がわからない……)
国から褒賞を賜るにしても、帰還当日の今日ではないはずだ。
まずは身体を癒し、慰労会等の開催は後日ではないのか。
王城に到着するなり、外套を脱ぐ間もなく王城の広間に連れて来られた。そして聖女アイシャは壇上から指を突きつけられ、覚えのない罪で断罪されていた。
広間には王太子クーツと側近、取り巻きの令息や令嬢たち、王太子派の貴族たちが集まっている。
アイシャの味方の姿はほとんど無かった。
アイシャは円環大陸の西部にある小国、カーナ王国の平民出身の聖女だ。
真っ黒なオカッパ頭に、茶色の目。激務が続く日々で痩せて小柄な体格。素朴な顔立ちだが十人いたら半分は可愛らしいと言うだろう。
七歳のとき、聖なる力を教会に見出され、カーナ王国僻地の村娘から聖女となった。
この国では、聖者や聖女は王族と婚姻を結ぶのが慣例である。アイシャも聖女認定された後から王太子クーツと婚約していた。
ところが今、どういうわけか婚約破棄されることになった。
「そもそも、王太子たる高貴な私が平民の女と婚姻を結ぶなどありえぬ! 見た目も性格も何もかも平凡な女が聖女ということも胡散臭いではないか!」
「………………」
散々な言われようだが、昔から王太子が自分を嫌っていることをアイシャは知っていた。
七歳のとき、自分が聖女であると判明して王城に連れて来られた。国王と王妃、そして王太子との顔合わせをしたその場で、アイシャと王太子クーツとの婚姻が決定したのだ。
彼はアイシャの顔を見るなり、がっかりしたような失望感を隠しもしなかった。
『これが私の婚約者になるのですか。いやだなあ』
そんな出会いが最初だったから、当然ながら聖女アイシャと王太子クーツの仲は深まりようがない。
「この女は聖女を騙る偽物だ! よって私、王太子クーツはこの女から聖女の称号を剥奪し、王城から追放する!」
会場の広間からは大きな歓声が上がった。
「そして……私は新たな淑女との婚約をここに発表する! こちらへ!」
深紅のドレスの裾を見事な振る舞いでさばきながら壇上に上がってゆくのは、クシマ公爵令嬢ドロテア。濃い金髪を巻き毛にした、青目の気の強そうな顔立ちの令嬢だ。いつもアイシャを一方的に敵視し嫌がらせを行っていた女性でもある。
「私は新たに、クシマ公爵令嬢ドロテアと婚約する。皆、未来の国母に盛大な拍手を!」
割れんばかりの拍手が鳴る。
「偽聖女アイシャは公爵令嬢ドロテアに数々の卑劣な嫌がらせを行っていた。このことからも、アイシャに聖女の資格がないことは明らかである!」
(いいえ、事実は逆です。嫌がらせをされていたのは私。すべてドロテア様がやっていて、私を貶めていた)
アイシャは自分が罠に嵌められたことに気づいたが、否定せず、かといって肯定もせず王太子クーツが唾を飛ばしながら自分を罵るのを見ていた。
どれだけ王太子がアイシャを偽物と断罪しようとも、アイシャが聖女であるという事実は変わらない。なぜなら聖女とは、役職や資格のように権威が授けるものではないのだ。魔力を持つ人間のステータス欄に自然に現れる本人の資質であり能力、そして称号である。
(だから、王太子殿下。あなたが私から聖女の称号を〝剥奪〟などできないのです。私のステータス欄には〝聖女〟と表示され続けるでしょう)
このカーナ王国は、百年に一度の周期で魔物が大量発生する。聖女はその聖なる魔力で魔物を退ける役目がある。だからこそ聖女は大切にされ、王族との婚約や婚姻でもって国で保護されるのだ。
そして一度魔物の侵攻を食い止めれば、次の脅威は百年後までない。王国への危機さえ一度防ぎきってしまえば、極論をいえば聖女は不要なのだ。少なくともこの愚かな王太子はそのように考えたわけだ。
(ああ、王太子殿下。あなたはドロテア様と結ばれたいがために私を捨てるのですね)
聖女は世襲制ではない。血の繋がりがあっても子孫が聖者や聖女になるとは限らない。あくまでも、資質のある者が聖女になる。それもアイシャとの婚姻は無意味だと思った理由のひとつだろう。
聖女アイシャを守護するはずの王太子クーツは、彼女を捨てた。
だが聖女を断罪するには理由がいる。そのための、この茶番のような断罪劇なのだろう。
王太子クーツの、聖女アイシャへの断罪はまだ続いている。
だがもはや、アイシャは他人事のように悪意の塊のような侮辱と侮蔑を聞き流していた。
「偽聖女アイシャは王城から追放する。聖女として属していた教会からもだ! 衛兵、その罪人をこの城からつまみ出せ!」
両側から屈強な衛兵に腕を取られた。
「……聖女様、申し訳ありません」
「いいのよ。王太子殿下があれでは、あなたたちも逆らったら何をされるかわかりませんからね」
「本当に、申し訳ありません……っ」
小声で衛兵たちが耳元に謝罪を囁いてくる。左側にいた男など、必死で唇を噛み締めて嗚咽を堪えているようだ。
そのまま、王城に与えられていた私室に戻ることも許されず、追放されることになった。
追放とはいえ、〝国外追放〟と指定されたわけでもない。王城に二度と入ることはできず、これまで聖女として与えられていた特権などもすべて取り上げられたということだろう。
実際、外套の下にまとっていた、聖女の特殊な聖衣も奪われてしまった。
「ううっ、聖女様は魔物から我々を守り通してくれたというのに……その働きに報いる恩賞も与えられぬまま放逐するなど、王太子殿下のお気は確かなのか……っ」
左右の衛兵たちが嘆いている。
結局、アイシャは着の身着のまま追放されることになった。
持ち出すことができた物は少ない。外套の懐に入れたままだった、聖女の証というブローチと、多少の金銭の入った布袋だけだった。
どこに王太子派の人間の目があるかわからない。衛兵二人が聖女に同情的な人物だったため、声を潜めながら状況を判断するだけの余裕が与えられたのは幸いだった。
「……追放するという話だったけれど、具体的にどこへ行け、などとは仰ってなかったわよね?」
「はい。本当に聖女様が罪人で追放刑に値したとしても、法務大臣による書面もなく断罪など本来はできないはずです」
王太子は派手な断罪劇というパフォーマンスを行うことによって、自分の派閥の貴族たちにアイシャを追放するという形を見せたかっただけなのだろう。
「ああ、王都に国王陛下たちさえいてくださったなら!」
国王はアイシャとは反対側の国境に出兵して、魔物の侵攻に対処していた。王都に帰還するまではまだ数日かかるだろう。
王妃はまだ幼い王子や王女を連れて、安全な地方に疎開していた。
彼らがいたなら、少なくとも聖女アイシャを断罪などという愚を許しはしなかったはずだった。
衛兵に形ばかり両腕を取られ、アイシャは王城の中、出口に向かう回廊を歩いていた。
文官や武官といった官僚たち、侍女や侍従、多数の使用人たちの反応は分かれている。
クーツ王太子と同じような冷たい侮蔑的な視線でアイシャを睨んでいる者たちと、同情的な顔の者たちだ。遠巻きに様子を伺いながら涙ぐんで駆け寄ってこようとする者たちもいたが、同僚と思しき者たちに抑えられ引き止められていた。
「聖女様……っ」
(駄目よ。私のところに来てはいけない)
アイシャは王宮の女官の一人だった彼女と目を合わせて、そして小さく首を横に振った。
「ああああ……!」
その意味を悟った女官は絶望したように崩れ落ち、咽び泣いた。
この状況でアイシャに関わると、その者の身が危ない。
(それにしても、具体的にどこからどこへ追放されるか明らかにしてほしかった。王太子殿下としては目障りな私を王城から追い出したかっただけ、か)
衛兵たちはアイシャに気を遣って、ことさらゆっくりと歩いてくれていた。
それでも十数分後、アイシャたちは王城を出て、城下町へと続く裏門まで辿り着く。
裏門の見張り番の兵士たちも沈痛な面持ちでアイシャを待っていた。
彼らと最後の別れを交わしていると、王城の使用人棟のほうから一人の年老いた下女が小走りに追いかけてきた。
「もし、もし聖女様、お待ちくださいまし……!」
アイシャの顔見知りの下女だ。王城内の庭園で枯れた枝や草などを片付ける仕事をしている。アイシャが庭園で花を愛でているとき、よく控えめに挨拶に来てくれて、他愛ない話をしていた老婆である。背はそう高くないが、身体つきががっしりとしていて、特に腰回りが大きい。健康な子供を五人も産んだことが自慢なのだと言って、皺の多い顔でよく笑っていた。
「おばあさん。いけません、もう私に話しかけてはなりませんよ」
「いえ、いいえ、聖女様。どうしても貴女に最後にお会いしたかったのです。年寄りの最後の願いです、本当にそれだけなのです」
衛兵や裏門の見張り番たちは下女を追い立てるようなことはなく、黙って様子を見守ってくれていた。
「大功績のある偉大な聖女様を追い出すとは、王太子殿下も非道なことをなさいまするな」
「おばあさん。駄目よ。言ってはいけない」
「はい、はい、わかっておりまする。年寄りは話が長く、どうでもいいことを口走る生き物なのです。お許しくださいまし」
下女は腕の中に小さな取っ手付きの籠を抱えていた。
中には白いハンカチに包まれた焼き菓子が入っている。
「残り物で申し訳のうございますが、焼き菓子と、アイシャ様のお年でも飲める度の低いぶどう酒の小瓶を入れてありまする。この裏門を出たら、どうか一口だけでもすぐ召し上がってくださいましね」
「おばあさん、でも……」
アイシャは衛兵たちを見た。彼らは少し考えて、首を横に振る。
「……我らは何も見ておりません」
「下女ひとりが罪人を哀れんで菓子を恵んだだけのこと。咎めるほどのことでもありませんから」
「……ありがとう」
礼を言い、籠を受け取った。ぶどう酒の小瓶が入っていると言っていただけに、持つとずっしりと重い。
「あまり長居はしないほうがいいでしょう。……さようなら、皆さん」
「聖女様……!」
衛兵や見張り番たちが敬礼する。それも国の兵士としての最敬礼を。
「我ら皆、魔物の脅威から救っていただいた聖女様の御恩を決して忘れません。……お元気で!」
アイシャが裏門を出て歩き出し、見送ってくれた衛兵や門番たちが見えなくなった頃。
街道の端に立ち止まり、渡された籠の中身を覗いてみた。
刺繍のある白いハンカチに包まれた中身は、下女が言っていたように、ぶどう酒の小瓶が一本。残りの隙間にクッキーが詰まっている。
そして端に、一枚の紙切れが挟まっていた。
『王都の外れ、南地区の古書店に息子がおります。赤いレンガの古い建物です、すぐわかります。安い宿屋を兼業しております。息子は役に立ちます、どうかお立ち寄りください』
くう、と小さくアイシャの腹が鳴った。アイシャはこの国を出るつもりだったが、籠の中のクッキーとぶどう酒を見て、自分が空腹だったことを思い出した。
魔物と戦い、退け、すぐ報告せねばと思っていたから戦場からすぐ王都へ帰還していたのだ。
「最後にものを食べたのは……あはは、昨日の朝だ」
その後は水分を取るぐらいで、今日の夕方王都に到着するまで馬で駆けっぱなしだった。
「うん、ひとまずこの古書店に行ってみよう」
王都の外れ、南地区までは、王城のあるここ中央地区から徒歩で一時間と少し。
もうとっくに日も暮れていたが、星も月もある。人目を避けた裏道を通りながらでも充分辿り着けるだろう。
「あ。おいしい」
一口大の丸いクッキーは干し葡萄と砕いたナッツ入りだった。少ししっとりとしていて、優しい味がする。
何も報いられることなく、聖女の地位も名誉も奪われたアイシャに、その甘い菓子はこの上なく染みた。
それから徒歩で一時間半ほど歩いた頃、目的の場所に着いた。
王都の南地区は王城への大通りのある中央地区ほどの活気はないが、商店街や住宅、飲食店や商会など生活に必要なものは大抵揃っている。
目的の古書店は、まさに外れの場所、王都の外壁近くにぽつんと建っている。紙切れに書かれていたように、赤レンガの古い建物だ。二階建てで、一階は入り口上に横看板で古書店とある。特に宿屋との表記はないが、他に赤レンガの建物は見当たらないからここで間違いないだろう。
「あの、マルタさんに紹介されて来たのですが、泊まれますか?」
「えっ、お袋の?」
建物に入ると、古書店の清算所に座って本を読んでいた若者が驚いたように顔を上げた。
「……え?」
その若者は簡素な平民の服を着て、左手首には革ベルトの腕時計。少し無精をしているのか前髪が長い。
母親の下女の白髪混じりの茶色い髪と違って、若者の髪は金色だった。だが前髪の隙間から覗く瞳の色は、同じ蛍石の薄い緑色。
(この方のお顔、どこかで……)
鼻や口元の形に、既視感がある。
「いらっしゃい、お袋の紹介って珍しいね。最近会ってないんだけど、うちのお袋元気だった?」
「え、ええ。それはもう、さっきも親切にしていただいたんですよ。ほら、お菓子と飲み物まで」
下女にもらった菓子入りの籠を見せる。ついでに、中に入っていた紙切れも渡して見せることにした。店主らしき若者はその書き付けを見ると、少し難しい顔をしたが、すぐ笑顔になってアイシャに笑いかけた。
「訳ありなんだね、お嬢さん。部屋はすぐ準備できるよ」
人の良さそうな古書店の店主の若者は、トオンと名乗った。
年は二十代に入ったばかりといったところだろうか。まだ十六のアイシャよりは年上だ。
「ここはお袋が昔、お城のお偉いさんに貰った建物でね。親父が死んでから俺が古書店を始めてまだ数年ってところ。素泊まり一日小銀貨一枚。食事は一食につき銅貨一枚だけど、お袋の紹介だからサービスするよ」
それが相場よりかなり安いことはアイシャもわかった。中央地区の宿屋なら休憩もできない金額だろう。
アイシャの数少ない手持ちの資金でも、それなら一ヶ月はもちそうだ。
二階建ての建物の一階は古書店で、奥に店主の部屋、小さな厨房と食堂がある。宿の客は食堂で食事を取ることができる。二階の宿はワンルームが四室。廊下を挟んで二部屋ずつある。手洗い場とバスルームは共同。古い安宿だが連泊でも定期的に清掃が入るようで、宿泊客がやる必要はない。
アイシャは一番奥の廊下を挟んで右側の部屋だった。
二階の宿には先客が一人だけ。カズンという名の黒髪黒目、端正な顔立ちで中肉中背の二十代前半の若者だった。彼の部屋は階段を上がってすぐ左側、女性のアイシャとは離れていた。
二階のシャワーで汚れを落とした後、そのカズンに声をかけられ、一階の食堂へ来るよう言われる。
「簡単に食べられるものを用意しておくから、準備ができたら降りてくるといい」
木のテーブルの上に出されたのは、茹で卵とチーズを挟んだサンドイッチと、野菜入りのミルクスープだ。彼も宿泊客のようだが、店主トオンの許可を貰って宿泊中は調理を担当しているのだという。
「美味しい……まさか今日、こんな美味しいものが食べられるだなんて」
疲れきった心と身体に、その優しい味と温かさは染み渡った。
「さあ、今晩はもうぶどう酒を飲んで休むといい。明日のご飯も用意しておくから。詳しい事情は明日聞かせて」
トオンはその場でアイシャから話を聞き出そうとはしなかった。
裏門で下女に貰ったぶどう酒の小瓶は、カップ一杯分ほど。酒とはいえ、まだ十六歳のアイシャでも飲める、アルコール分のほとんどないジュースのようなものだ。
この国では子供でも飲める安い酒だが、普段、魔力が鈍るからとほとんど飲ませてもらえなかったアイシャには天上の甘露の如くだ。一瓶飲み終えると、身体がぽかぽかとする。
「はい……ご迷惑をおかけしますが、しばらくお世話になります……ね……」
ぶどう酒を飲み干し、少し経つと木の匙を持ったままアイシャは眠りに落ちていった。
「おっと、危ない」
トオンが木の匙を取り上げ、椅子にアイシャをもたれかけさせる。
「その子、僕が部屋まで連れていこうか?」
「それでもいいけど、女の子の部屋に男が連れていくのはちょっと。少し休ませてから起こして自分で戻ってもらったほうがいい」
などと男たちが自分の食事をしながら会話していても、眠りに落ちたアイシャは目を覚ます様子がない。
「黒髪のオカッパ頭のまだ若い少女。教会の紋章入りの外套。彼女、この国の聖女で間違いないな?」
「……多分。でも聖女様は魔物に勝って凱旋したばかりのはずなのに、何でこんなところに来たんだろう……?」
ほとんど着の身着のままで、持っていたものは多少の小物と、トオンの母親の下女マルタが持たせた焼き菓子とぶどう酒の小瓶入りの籠だけ。
聖女アイシャが魔物の大侵攻を退け、王都に帰還したとの報が王都内を駆け巡ったのは、今日の午後のことだ。
それからまだ半日もたっていない夜半の今、国防の要であるはずの聖女がなぜか、こんな王都の外れの古い古書店を兼ねた安宿にいる。
何かが、おかしい。
アイシャはこれまで、自分が聖女であることを疑ったことはなかった。
能力的にも、自分の自覚としても、己が本物の聖女であると知っていた。
証拠は三つある。
聖女として邪悪な魔物を退ける聖なる魔力を持ち、使えるということが、まずひとつ。
聖女であること、聖なる魔力を持つこと、どのような術が使えるかなども、人物鑑定スキルで鑑定できるステータスにはきちんと明記されている。それがふたつめ。
みっつめは、アイシャには王都に来て、このカーナ王国と教会から聖女認定された後、断続的に〝神の声〟が聞こえていたからだ。
その神は、こうして追放された後もアイシャに語りかけてくる。
『自分を苦しめた者たちを恨むことなく許せ』と。
だが、自分をこのような苦境に追い込んだ王太子とその取り巻きたちを、どのように許せばいいのか。どのようにすれば、恨まずにいられるのか。
(わかりません。神よ。それだけじゃ、私にはわからない)
宿の部屋はよく掃除され、布団のカバーやシーツなどもきちんと洗濯され糊がきいていて気持ちが良かった。そんなことを思いつつ、改めてアイシャはこれからのことを考える。
王城の広間で王太子クーツから追放を言い渡された時点で、アイシャはまず王都の塀の外に放り出される覚悟をしていた。ところが、実際には王城から追放されたのみで、拍子抜けしたものだ。
(クーツ王太子殿下は、顔は良いけど考えなしのところがある。このまま王都で潜伏して、出兵していた国王陛下が戻るまで待てば、事態は打開できるかしら……)
昨晩、店主トオンに食卓で起こされ、肩を借りて二階の部屋に戻り寝具の中に潜り込んでからも、夢うつつであれこれと考えていた。
だがアイシャは聖女であって、為政者ではない。魔力を使うことや魔物と戦うことには長けていても、政治的なことには詳しくない。こんな事態も想定外だ。今の自分の考えが適切かどうかとなると自信がなかった。
本当なら凱旋した聖女アイシャには山ほどの恩賞と栄光が待っていたはずだった。
とはいえ、私欲のために使う気はなかった。聖女として国内を回る中で知った、貧困地域の救済など、聖女らしい活動の原資にしようと考えていた。
そんな計画も、すべて破綻してしまったけれど。
(まあいいや……もう今日は疲れた……)
* * *
というような事情を翌朝、アイシャは一から十まで朝食の席でトオンとカズンに語った。
くたくたに煮込まれたベーコン入りの野菜スープに相好を崩しながら一通り自己紹介し終えて、食事しながら詳しい事情を話したのだ。
「このスープ、すごく美味しいです! あっ、パスタまで入ってる?」
「ミネストローネというんだ。トマトを入れて、オリーブオイルで炒めた野菜をじっくり煮込む。ほら、パンもあるよ。ゆっくり食べるといい」
そう言って、厨房側にいたカズンがオリーブオイルの入った小皿を差し出してくる。カーナ王国はバターよりオリーブオイルのほうが安く手に入るので、庶民はパンや料理に使うことが多かった。
パンかごには平べったい円盤状のパンが格子状にカットされて山盛りに。表面にはハーブの葉と岩塩の粒が散らされている。
「わあ、一階からいい匂いがすると思ったら、これだったんですね、ローズマリー入りのパン?」
「これは美味いよ、俺も好きなんだ。ほら、ちょっとだけオリーブオイル付けて……」
トオンが勧めるままパン、フォカッチャの端をちょんと薄い緑色のオリーブオイルに付けて口に運ぶ。
途端、口の中いっぱいに広がるオリーブオイルのかすかな苦味とローズマリーの爽やかな香味。
「……美味しいです、朝から焼き立てパンが食べられるなんて……!」
正直アイシャは泣きそうだった。
言われのない罪で偽聖女と侮辱され、自分の今後が真っ暗になったと思ったら、なぜかまだ王都にいて美味しい食事を堪能している。この幸運を神に感謝した。
「それで、聖女アイシャ。君はこの後どうするんだ?」
食後、白湯の入ったカップを渡されて、カズンからそう聞かれた。
「そう、ですね……。今は自分でも、何をどうしたらいいのかわかりません。ただ、ちょっと危ないかもしれません」
「危ない?」
こちらはふーふー熱いカップに息を吹きかけながら、白湯をすすっていたトオンだ。
「……はい。私は追放されても腐っても〝聖女〟です。なのに、油断すると彼らを呪ってしまいそうで、この衝動を抑えるのが苦しくて……」
「「ええええっ!?」」
まさかの告白に、トオンもカズンも食卓で飛び上がらんばかりに驚いた。
「まさかの展開に、私自身、荒れ狂う感情をどう抑えればいいのか……お世話になるトオンさんやここに被害は出さないよう気をつけます。でもいよいよ危なくなったら出ていきますから、安心してください」
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