5 / 5
第一章
四、夜行
しおりを挟む
星の散る空に、甲高い声が響き渡った。シロはびくりと身をすくめてモモの腕にしがみつく。
「女の人が叫んでるよ」
モモは優しい声で「鳥の声だよ、シロ」と言う。
次には足元の茂みがざわめいて、シロは縮み上がってモモの背中にくっついた。明かりのない夜道は真っ暗で、目を凝らしても細部を判別するのは難しい。
「シロ、小さい動物だよ。どうしたの、最初の威勢は」
「こわいよ。モモ、やっぱり帰ろうよ」
シロは立ち止まってモモの腕を引っ張った。ずいぶん歩いてきたが、まだ引き返すには遅くないはずだ。それにシロは少し眠たくなってきて、家の寝床が恋しかった。
「じゃあ戻りな」
「モモが一緒じゃないとだめ」
「シロ……」
モモの声音が困ったように暗くなる。モモは絶対に村に戻る気はないみたいだ。なにが彼にそうさせるのか、シロには検討もつかないけれど、モモはシロの知らない事情を抱えている、そのことだけはわかったつもりでいる。シロはモモを引っ張るのをやめて、進む意志を示した。モモはシロの様子をうかがいながら、また前へ歩き始めた。幼子のようにモモの袖を掴んだまま、シロは重たい足取りでついていく。
「モモ」
「なあに」
「このさき、どこまで行くの?」
モモは少し振り返り、黙ったまま前に向き直った。
「考えてないの?」
「そういうわけじゃないよ。けど……」
「けど?」
「言ってもわからないと思う」
また、モモが遠ざかる。シロはモモの袖をしっかりと掴む。
「モモは、どうして俺の知らないことを知ってるんだろう」
「シロだって、ぼくの知らないことを知っていたじゃない。農作業のコツとか、竹とんぼの飛ばし方とか」
「そんなの誰でも知ってるよ。知らないモモが変だった」
モモはふっと息を吐いて、「そうだね、ぼくは変だ」と呟いた。シロは慌てて取り繕おうとしたが、うまい言葉がなくて結局「ごめん」とだけ謝るしかなかった。
モモは口数がぐんと減って、時折あの女の人の悲鳴のような鳥の鳴き声が響く以外は静かなみちゆきだった。どんどん村を離れる不安と、眠気で、シロは少し苛立ちを感じていた。だるくなってきた足がけっつまづいて前に転びそうになる。思わずモモにしがみついて、モモのか細い体が耐えうるはずもなく、シロは転び、モモはしりもちをついた。何が起きたか理解するのにお互い少し時間をとって、先に口を開いたのはモモだった。
「シロ、少し休もうか」
「いいの?」
「あんまり気は進まないけど」
怪我もしたでしょ、と言われると、膝頭がひりひりしてくる。つる、と汁の垂れる感触もした気がする。誰も通らないとわかっているが、道のわきに除けて座り込んだ。モモはシロの膝のまわりを少し撫でてみて、自らの腕に巻いている包帯を取って、シロの膝に巻き付けた。
「明るくなったら水場を探そう。砂を流さないと」
「うん……」
返事をしながら、めんどうだなという気持ちを感じる。ここでずっと座っていたい。あわよくば眠りたい。シロは膝を抱えて横に転がった。たしなめるようなモモの声に、「少しだけ」と不機嫌に答える。一回目を閉じるだけ。すぐに開けて、そうしたら出発だ。眠気に飲み込まれる感覚がする。目を閉じるとすとんと落ちて、慌てて目を開けたが、瞼は重く、モモは黙っていたので、シロは誘われるようにもう一度目を閉じた。
起きなければ。
そう思って目を開けると、モモはもう立ち上がっていて、「シロ、寝すぎだよ」と笑っていた。あたりは昼ぐらいの明るさで、日差しの暑さの中を心地よい風が抜けて行った。
「さあ、帰るよ」
「帰るの?」
「帰りたいんでしょ?」
「モモは?」
モモは優しく目を細めて、「うん」と言った。シロは驚きと嬉しさで、声にならない悲鳴をあげて、モモの手を繋いだ。
「帰ろう!」
シロが本当に目を開けたとき、あたりはまだ暗く、けれど夜中よりは少し青白い空に木立の黒い影が広がっていて、だいぶ時間が経ったことは明白だった。慌てて首を巡らせると、隣で膝を抱えてそこに頬を乗せたかっこうで、モモは目を閉じていた。
「モモ」
「起きた?」
モモは目を閉じたまま答えた。置いて行かれなかったという安堵と、すっかり眠ってしまったうしろめたさが胸でない交ぜになった。
「そろそろ村の人が気づいてるかもしれない。このまま進んだらきっと追いつかれちゃう」
「どうするの?」
「わきの林に入ろう。奥を進めばすぐには見つからないと思う」
立ち上がったモモに続いて腰を上げ、少し体を伸ばしてから、下草の薄そうなところを探して雑木林に分け入った。細長い葉が皮膚の表面をひっかいて揺れた。林に入ってしまうと、下は枯れ葉が積もっているだけで進むことには差し支えない。ふわふわする地面に違和感を感じながら、シロはモモの後ろをついて歩いた。
モモの白い腕が、無防備に揺れている。包帯を取り払った左腕には、傷跡というより、なにかの枝葉のような模様が薄い朱色で彫り込まれているように見えた。きれいな模様だ、とシロは思った。じっと見ていると、視線を感じたのかモモはちらっと振り返り、左腕を身前に抱きしめるように少し隠した。
膝に巻かれた包帯には、血が滲んで固まり始めていた。歩くたびにがさがさと剝がれるような感触がして、気持ちが悪いと思い始めていたところに、モモが右のほうを指さして「川があるよ」と言った。そのほうに向かっていくと、薄暗い木立の合間にかすかに光が差し込んでいて、小川がつやつやした水面をさらけ出していた。
川べりで膝を洗った。もう血は止まっていて、傷も思ったほどではなかった。モモは血の染みができた包帯を水で揉んで、かたく絞るとまた器用に左腕に巻き付けた。
「傷跡って言ってたから痛々しいのかと思ってたけど、そうじゃないんだね」
きれい、と言いかけたシロから腕を遠ざけるように抱え込んで、モモは目を伏せて「でもこれは傷跡だから」と呟いた。
「赤ん坊の時、傷をつけて朱を入れたんだ」
「ええ……痛そう」
「覚えてないよ。赤ん坊の記憶なんかないもの」
モモはようやく笑みを浮かべて、でもそれは少し寂しそうに見えた。歩き出したモモのあとについていきながら、どうして赤ん坊のモモにそんなことをしたのか、どうしてモモはそんな顔をするのか、聞きたいことは山のようにあったのに、シロは何も言葉にできないままだ。
小川から離れていくらか歩いたあと、張り出した木の根に並んで座って休憩した。
「昼過ぎまで頑張ったら、町につくと思う」
「どうしてわかるの?」
「道を知ってるから」
どうして、と聞き重ねるのはやめた。モモはいろんなことを知っている。鳥の声や、夜のやり過ごし方。小川の見つけ方。見たこともない町の場所。シロの感じたことのない、寂しさや、悲しみも。
「女の人が叫んでるよ」
モモは優しい声で「鳥の声だよ、シロ」と言う。
次には足元の茂みがざわめいて、シロは縮み上がってモモの背中にくっついた。明かりのない夜道は真っ暗で、目を凝らしても細部を判別するのは難しい。
「シロ、小さい動物だよ。どうしたの、最初の威勢は」
「こわいよ。モモ、やっぱり帰ろうよ」
シロは立ち止まってモモの腕を引っ張った。ずいぶん歩いてきたが、まだ引き返すには遅くないはずだ。それにシロは少し眠たくなってきて、家の寝床が恋しかった。
「じゃあ戻りな」
「モモが一緒じゃないとだめ」
「シロ……」
モモの声音が困ったように暗くなる。モモは絶対に村に戻る気はないみたいだ。なにが彼にそうさせるのか、シロには検討もつかないけれど、モモはシロの知らない事情を抱えている、そのことだけはわかったつもりでいる。シロはモモを引っ張るのをやめて、進む意志を示した。モモはシロの様子をうかがいながら、また前へ歩き始めた。幼子のようにモモの袖を掴んだまま、シロは重たい足取りでついていく。
「モモ」
「なあに」
「このさき、どこまで行くの?」
モモは少し振り返り、黙ったまま前に向き直った。
「考えてないの?」
「そういうわけじゃないよ。けど……」
「けど?」
「言ってもわからないと思う」
また、モモが遠ざかる。シロはモモの袖をしっかりと掴む。
「モモは、どうして俺の知らないことを知ってるんだろう」
「シロだって、ぼくの知らないことを知っていたじゃない。農作業のコツとか、竹とんぼの飛ばし方とか」
「そんなの誰でも知ってるよ。知らないモモが変だった」
モモはふっと息を吐いて、「そうだね、ぼくは変だ」と呟いた。シロは慌てて取り繕おうとしたが、うまい言葉がなくて結局「ごめん」とだけ謝るしかなかった。
モモは口数がぐんと減って、時折あの女の人の悲鳴のような鳥の鳴き声が響く以外は静かなみちゆきだった。どんどん村を離れる不安と、眠気で、シロは少し苛立ちを感じていた。だるくなってきた足がけっつまづいて前に転びそうになる。思わずモモにしがみついて、モモのか細い体が耐えうるはずもなく、シロは転び、モモはしりもちをついた。何が起きたか理解するのにお互い少し時間をとって、先に口を開いたのはモモだった。
「シロ、少し休もうか」
「いいの?」
「あんまり気は進まないけど」
怪我もしたでしょ、と言われると、膝頭がひりひりしてくる。つる、と汁の垂れる感触もした気がする。誰も通らないとわかっているが、道のわきに除けて座り込んだ。モモはシロの膝のまわりを少し撫でてみて、自らの腕に巻いている包帯を取って、シロの膝に巻き付けた。
「明るくなったら水場を探そう。砂を流さないと」
「うん……」
返事をしながら、めんどうだなという気持ちを感じる。ここでずっと座っていたい。あわよくば眠りたい。シロは膝を抱えて横に転がった。たしなめるようなモモの声に、「少しだけ」と不機嫌に答える。一回目を閉じるだけ。すぐに開けて、そうしたら出発だ。眠気に飲み込まれる感覚がする。目を閉じるとすとんと落ちて、慌てて目を開けたが、瞼は重く、モモは黙っていたので、シロは誘われるようにもう一度目を閉じた。
起きなければ。
そう思って目を開けると、モモはもう立ち上がっていて、「シロ、寝すぎだよ」と笑っていた。あたりは昼ぐらいの明るさで、日差しの暑さの中を心地よい風が抜けて行った。
「さあ、帰るよ」
「帰るの?」
「帰りたいんでしょ?」
「モモは?」
モモは優しく目を細めて、「うん」と言った。シロは驚きと嬉しさで、声にならない悲鳴をあげて、モモの手を繋いだ。
「帰ろう!」
シロが本当に目を開けたとき、あたりはまだ暗く、けれど夜中よりは少し青白い空に木立の黒い影が広がっていて、だいぶ時間が経ったことは明白だった。慌てて首を巡らせると、隣で膝を抱えてそこに頬を乗せたかっこうで、モモは目を閉じていた。
「モモ」
「起きた?」
モモは目を閉じたまま答えた。置いて行かれなかったという安堵と、すっかり眠ってしまったうしろめたさが胸でない交ぜになった。
「そろそろ村の人が気づいてるかもしれない。このまま進んだらきっと追いつかれちゃう」
「どうするの?」
「わきの林に入ろう。奥を進めばすぐには見つからないと思う」
立ち上がったモモに続いて腰を上げ、少し体を伸ばしてから、下草の薄そうなところを探して雑木林に分け入った。細長い葉が皮膚の表面をひっかいて揺れた。林に入ってしまうと、下は枯れ葉が積もっているだけで進むことには差し支えない。ふわふわする地面に違和感を感じながら、シロはモモの後ろをついて歩いた。
モモの白い腕が、無防備に揺れている。包帯を取り払った左腕には、傷跡というより、なにかの枝葉のような模様が薄い朱色で彫り込まれているように見えた。きれいな模様だ、とシロは思った。じっと見ていると、視線を感じたのかモモはちらっと振り返り、左腕を身前に抱きしめるように少し隠した。
膝に巻かれた包帯には、血が滲んで固まり始めていた。歩くたびにがさがさと剝がれるような感触がして、気持ちが悪いと思い始めていたところに、モモが右のほうを指さして「川があるよ」と言った。そのほうに向かっていくと、薄暗い木立の合間にかすかに光が差し込んでいて、小川がつやつやした水面をさらけ出していた。
川べりで膝を洗った。もう血は止まっていて、傷も思ったほどではなかった。モモは血の染みができた包帯を水で揉んで、かたく絞るとまた器用に左腕に巻き付けた。
「傷跡って言ってたから痛々しいのかと思ってたけど、そうじゃないんだね」
きれい、と言いかけたシロから腕を遠ざけるように抱え込んで、モモは目を伏せて「でもこれは傷跡だから」と呟いた。
「赤ん坊の時、傷をつけて朱を入れたんだ」
「ええ……痛そう」
「覚えてないよ。赤ん坊の記憶なんかないもの」
モモはようやく笑みを浮かべて、でもそれは少し寂しそうに見えた。歩き出したモモのあとについていきながら、どうして赤ん坊のモモにそんなことをしたのか、どうしてモモはそんな顔をするのか、聞きたいことは山のようにあったのに、シロは何も言葉にできないままだ。
小川から離れていくらか歩いたあと、張り出した木の根に並んで座って休憩した。
「昼過ぎまで頑張ったら、町につくと思う」
「どうしてわかるの?」
「道を知ってるから」
どうして、と聞き重ねるのはやめた。モモはいろんなことを知っている。鳥の声や、夜のやり過ごし方。小川の見つけ方。見たこともない町の場所。シロの感じたことのない、寂しさや、悲しみも。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

夫は私を愛してくれない
はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」
「…ああ。ご苦労様」
彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。
二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。

妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる