モモ

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第一章

四、夜行

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 星の散る空に、甲高い声が響き渡った。シロはびくりと身をすくめてモモの腕にしがみつく。
「女の人が叫んでるよ」
 モモは優しい声で「鳥の声だよ、シロ」と言う。
 次には足元の茂みがざわめいて、シロは縮み上がってモモの背中にくっついた。明かりのない夜道は真っ暗で、目を凝らしても細部を判別するのは難しい。
「シロ、小さい動物だよ。どうしたの、最初の威勢は」
「こわいよ。モモ、やっぱり帰ろうよ」
 シロは立ち止まってモモの腕を引っ張った。ずいぶん歩いてきたが、まだ引き返すには遅くないはずだ。それにシロは少し眠たくなってきて、家の寝床が恋しかった。
「じゃあ戻りな」
「モモが一緒じゃないとだめ」
「シロ……」
 モモの声音が困ったように暗くなる。モモは絶対に村に戻る気はないみたいだ。なにが彼にそうさせるのか、シロには検討もつかないけれど、モモはシロの知らない事情を抱えている、そのことだけはわかったつもりでいる。シロはモモを引っ張るのをやめて、進む意志を示した。モモはシロの様子をうかがいながら、また前へ歩き始めた。幼子のようにモモの袖を掴んだまま、シロは重たい足取りでついていく。
「モモ」
「なあに」
「このさき、どこまで行くの?」
 モモは少し振り返り、黙ったまま前に向き直った。
「考えてないの?」
「そういうわけじゃないよ。けど……」
「けど?」
「言ってもわからないと思う」
 また、モモが遠ざかる。シロはモモの袖をしっかりと掴む。
「モモは、どうして俺の知らないことを知ってるんだろう」
「シロだって、ぼくの知らないことを知っていたじゃない。農作業のコツとか、竹とんぼの飛ばし方とか」
「そんなの誰でも知ってるよ。知らないモモが変だった」
 モモはふっと息を吐いて、「そうだね、ぼくは変だ」と呟いた。シロは慌てて取り繕おうとしたが、うまい言葉がなくて結局「ごめん」とだけ謝るしかなかった。
 モモは口数がぐんと減って、時折あの女の人の悲鳴のような鳥の鳴き声が響く以外は静かなみちゆきだった。どんどん村を離れる不安と、眠気で、シロは少し苛立ちを感じていた。だるくなってきた足がけっつまづいて前に転びそうになる。思わずモモにしがみついて、モモのか細い体が耐えうるはずもなく、シロは転び、モモはしりもちをついた。何が起きたか理解するのにお互い少し時間をとって、先に口を開いたのはモモだった。
「シロ、少し休もうか」
「いいの?」
「あんまり気は進まないけど」
 怪我もしたでしょ、と言われると、膝頭がひりひりしてくる。つる、と汁の垂れる感触もした気がする。誰も通らないとわかっているが、道のわきに除けて座り込んだ。モモはシロの膝のまわりを少し撫でてみて、自らの腕に巻いている包帯を取って、シロの膝に巻き付けた。
「明るくなったら水場を探そう。砂を流さないと」
「うん……」
 返事をしながら、めんどうだなという気持ちを感じる。ここでずっと座っていたい。あわよくば眠りたい。シロは膝を抱えて横に転がった。たしなめるようなモモの声に、「少しだけ」と不機嫌に答える。一回目を閉じるだけ。すぐに開けて、そうしたら出発だ。眠気に飲み込まれる感覚がする。目を閉じるとすとんと落ちて、慌てて目を開けたが、瞼は重く、モモは黙っていたので、シロは誘われるようにもう一度目を閉じた。
 
 起きなければ。
 そう思って目を開けると、モモはもう立ち上がっていて、「シロ、寝すぎだよ」と笑っていた。あたりは昼ぐらいの明るさで、日差しの暑さの中を心地よい風が抜けて行った。
「さあ、帰るよ」
「帰るの?」
「帰りたいんでしょ?」
「モモは?」
 モモは優しく目を細めて、「うん」と言った。シロは驚きと嬉しさで、声にならない悲鳴をあげて、モモの手を繋いだ。
「帰ろう!」

 シロが本当に目を開けたとき、あたりはまだ暗く、けれど夜中よりは少し青白い空に木立の黒い影が広がっていて、だいぶ時間が経ったことは明白だった。慌てて首を巡らせると、隣で膝を抱えてそこに頬を乗せたかっこうで、モモは目を閉じていた。
「モモ」
「起きた?」
 モモは目を閉じたまま答えた。置いて行かれなかったという安堵と、すっかり眠ってしまったうしろめたさが胸でない交ぜになった。
「そろそろ村の人が気づいてるかもしれない。このまま進んだらきっと追いつかれちゃう」
「どうするの?」
「わきの林に入ろう。奥を進めばすぐには見つからないと思う」
 立ち上がったモモに続いて腰を上げ、少し体を伸ばしてから、下草の薄そうなところを探して雑木林に分け入った。細長い葉が皮膚の表面をひっかいて揺れた。林に入ってしまうと、下は枯れ葉が積もっているだけで進むことには差し支えない。ふわふわする地面に違和感を感じながら、シロはモモの後ろをついて歩いた。
 モモの白い腕が、無防備に揺れている。包帯を取り払った左腕には、傷跡というより、なにかの枝葉のような模様が薄い朱色で彫り込まれているように見えた。きれいな模様だ、とシロは思った。じっと見ていると、視線を感じたのかモモはちらっと振り返り、左腕を身前に抱きしめるように少し隠した。
 膝に巻かれた包帯には、血が滲んで固まり始めていた。歩くたびにがさがさと剝がれるような感触がして、気持ちが悪いと思い始めていたところに、モモが右のほうを指さして「川があるよ」と言った。そのほうに向かっていくと、薄暗い木立の合間にかすかに光が差し込んでいて、小川がつやつやした水面をさらけ出していた。
 川べりで膝を洗った。もう血は止まっていて、傷も思ったほどではなかった。モモは血の染みができた包帯を水で揉んで、かたく絞るとまた器用に左腕に巻き付けた。
「傷跡って言ってたから痛々しいのかと思ってたけど、そうじゃないんだね」
 きれい、と言いかけたシロから腕を遠ざけるように抱え込んで、モモは目を伏せて「でもこれは傷跡だから」と呟いた。
「赤ん坊の時、傷をつけて朱を入れたんだ」
「ええ……痛そう」
「覚えてないよ。赤ん坊の記憶なんかないもの」
 モモはようやく笑みを浮かべて、でもそれは少し寂しそうに見えた。歩き出したモモのあとについていきながら、どうして赤ん坊のモモにそんなことをしたのか、どうしてモモはそんな顔をするのか、聞きたいことは山のようにあったのに、シロは何も言葉にできないままだ。
 小川から離れていくらか歩いたあと、張り出した木の根に並んで座って休憩した。
「昼過ぎまで頑張ったら、町につくと思う」
「どうしてわかるの?」
「道を知ってるから」
 どうして、と聞き重ねるのはやめた。モモはいろんなことを知っている。鳥の声や、夜のやり過ごし方。小川の見つけ方。見たこともない町の場所。シロの感じたことのない、寂しさや、悲しみも。
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