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第一章
二、うわべ
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夜ごろになってモモの家のおじいさんが行灯を持って訪ねてきた。冴えない気持ちで寝支度をしていたシロを母が呼んでくれて、おじいさんはシロへ、モモがさっき目を覚まして、いまは落ち着いた様子であると教えてくれた。
「シロ坊、心配かけたなあ。もう大丈夫じゃけん、また明日な」
シロは少しだけ嬉しくて、しかし不安のほうが勝っていたので暗い顔をしたまま頷いた。河原で倒れたモモはシロの父に抱きかかえられ、ぐったりとしたまま家に運ばれた。遅れて話を聞きつけてきたおじいさんが、首をだらんとしているモモを見た瞬間顔を真っ白にして、モモ、モモとわが子を呼ぶように繰り返していた。集まった村人のうち何人かはモモの介抱をしについて行って、残りのひとたちで倒れていた男を引き上げたが、もうそのときには息がなかった様子で、ひとり、ふたりと手を合わせてめいめいしばらく黙っていた。
筵に遺体をくるんで村の中へ運び込み、若いふたりが麓の寺へ和尚を呼ぶために出発する。それを見送ると集まっていた村人は解散し始めて、それぞれ仕事に戻ったり、いまの出来事について立ち話を始めたり、ともかくやや緊張の解けた状態になって、シロはそんな一部始終を少し離れて見つめていて、もどかしいような、まだおそろしいような気持ちが拭いきれず、日常に戻ることも、モモの具合を見に行くこともできぬまま、河原に戻って夕暮れになるまでぼうっとしていた。母が迎えに来なかったら、そのままそこで寝ていたかもしれない。
こんなに心が空っぽになるのは初めてだった。夕餉の汁の味もあまりわからず、両親が不安そうに顔を見合わせるのも無関心で、頭は真っ白で。横になって目を閉じると、モモの悲鳴が耳に甦ってきて、シロは身を強張らせた。
翌朝、母に勧められてもどうしてかモモのところへ行く気になれず、でも無事な様子を確認したいという思いはあったので、わがままを言うように母を引っ張って、ふたりでモモの家へ行った。母が干し大根や朝採った菜っ葉を持参すると、おばあさんはいたく喜んで「あんたげはなんでもようする、この菜っ葉も茎の太いこと」と褒めちぎり、菜っ葉をどう食べるか、干し大根でなにを作るかという話が盛り上がり始めるので、シロはその隙に勝手に板間にあがり、奥の障子を開けた。
「シロ」
モモの嬉しそうな声が出迎える。シロはようやく、笑顔を浮かべた。モモは寝床の上で体を起こし、衾を足にかけたまま、シロが近づくと少し身を乗り出すようにした。
「昨日はごめんね」
シロは思いっきり首を振る。謝られるようなことではないし、なにもできなかったシロこそ謝りたいくらいだ。
「もう大丈夫? けがはしてない?」
「平気」
「でも、どうしたの、いったい」
モモは眉尻を下げて、「あのひとが亡くなってるってわかったら、怖くなっちゃって……」と小さな声で恥ずかしそうに言った。モモでもそんなことがあるのか、とシロは少し驚いた。しかし昨日、倒れているひとに勇敢に声をかけたり、凛々しく自分に指示を飛ばしたモモも、そういえば自分と同い年で、シロが教えるまで稲刈りも芋ほりもできなかったような無知な子供で、だからシロが怖いものをモモが怖いと思うのも当然だとシロは納得した。
「あのひと、駄目だったんだね」
「うん……」
モモは俯いて、日陰になっている中では細かい表情までは読み取れなかった。「もうすぐ和尚さんが来て、お経をあげてくれるよ」と言うと、「よかった」とモモはかすかに答えた。
昼前に和尚が着いて、河原で遺体を荼毘に伏した。手の空いている者は全員集まって、見知らぬ者を静かに送った。モモの家のおじいさんとおばあさんも来ているのを見て、シロは途中で父の目を盗んで抜け出し、モモの家を覗き込んだ。
モモは部屋の片隅に置かれた長持ちを開けて、黒く艶めく十五寸ほどの棒みたいなものを手に取ってみつめていた。
「モモ」
モモはゆっくり振り返ると、なんだか悲しそうに笑った。
「それ、なに? 散らかして、どうしたの」
「ぼくの持ってた小刀。ぼくを拾ったあと、おばあさんがここに隠しちゃったんだ」
「小刀なんて危ないよ」
「見てるだけだよ」
ふいっと目をそらされて、シロは胸が苦しくなった。モモはいつもその賢そうな目を無邪気にきらきらとして、ささやかでもこのうえなく朗らかな笑みを浮かべていて、優しい声は快活で、けれど、出会ったころのモモは、いまのように目を伏せて、沈んだ声音で話していたっけ。突然その時期のモモに戻ってしまったように思えて、つらい気持ちと、泣きたい感じがどっと首の後ろのあたりに押し寄せた。
シロははじめ、モモが怖かった。同い年くらいの子供が迷い込んできたと聞いたときは率先して関わろうと意気込んでいたが、いざ目の当たりにすると自分と同い年とは到底思えない佇まいで、加えてなにか悲しむような異様に暗い雰囲気を持っていて、使う言葉もなんだか小難しいし、仲良くなれるとは思えず早々に諦めて放っておこうと思った。けれど親や村のひとたちがシロを捕まえては竹とんぼを持たせたり、麓で買ったお菓子を持たせたりしてモモのもとへと送り込み、イヤイヤそれを持っていくと次第にモモもシロを受け入れてくれて、そっと話しかけてきたり、おもちゃを手に取ってみたり、やがてふたりの時間は楽しくかけがえのないものとなり、けれどいま、再び陰のある目にうかがい知れない感情を帯びたモモを見ると、いままでのことが全部モモの演出で、シロはなにかあほな勘違いをして暮らしていたのではないかという気になる。楽しいと思っていたのはシロだけで、モモはいつでも胸になにか重たいものを抱えていたのではないか、と。
モモはそんなシロの心情をよそに、小刀を土間の甕の陰に隠すと、長持ちの中身を元通り片付けてふたを閉めた。
「どうしてそんなことをするの?」
「怖いんだ。お守りだよ」
モモはそう言うとシロの手を握り、「お願い、誰にも言わないでね」と念押しした。シロは頷かなかった。モモの目は澄んだ黒で、凪いだ水面のように静かだったが、シロの内心をざわりと搔き立てるなにかの気配を潜めていたからだ。
「シロ坊、心配かけたなあ。もう大丈夫じゃけん、また明日な」
シロは少しだけ嬉しくて、しかし不安のほうが勝っていたので暗い顔をしたまま頷いた。河原で倒れたモモはシロの父に抱きかかえられ、ぐったりとしたまま家に運ばれた。遅れて話を聞きつけてきたおじいさんが、首をだらんとしているモモを見た瞬間顔を真っ白にして、モモ、モモとわが子を呼ぶように繰り返していた。集まった村人のうち何人かはモモの介抱をしについて行って、残りのひとたちで倒れていた男を引き上げたが、もうそのときには息がなかった様子で、ひとり、ふたりと手を合わせてめいめいしばらく黙っていた。
筵に遺体をくるんで村の中へ運び込み、若いふたりが麓の寺へ和尚を呼ぶために出発する。それを見送ると集まっていた村人は解散し始めて、それぞれ仕事に戻ったり、いまの出来事について立ち話を始めたり、ともかくやや緊張の解けた状態になって、シロはそんな一部始終を少し離れて見つめていて、もどかしいような、まだおそろしいような気持ちが拭いきれず、日常に戻ることも、モモの具合を見に行くこともできぬまま、河原に戻って夕暮れになるまでぼうっとしていた。母が迎えに来なかったら、そのままそこで寝ていたかもしれない。
こんなに心が空っぽになるのは初めてだった。夕餉の汁の味もあまりわからず、両親が不安そうに顔を見合わせるのも無関心で、頭は真っ白で。横になって目を閉じると、モモの悲鳴が耳に甦ってきて、シロは身を強張らせた。
翌朝、母に勧められてもどうしてかモモのところへ行く気になれず、でも無事な様子を確認したいという思いはあったので、わがままを言うように母を引っ張って、ふたりでモモの家へ行った。母が干し大根や朝採った菜っ葉を持参すると、おばあさんはいたく喜んで「あんたげはなんでもようする、この菜っ葉も茎の太いこと」と褒めちぎり、菜っ葉をどう食べるか、干し大根でなにを作るかという話が盛り上がり始めるので、シロはその隙に勝手に板間にあがり、奥の障子を開けた。
「シロ」
モモの嬉しそうな声が出迎える。シロはようやく、笑顔を浮かべた。モモは寝床の上で体を起こし、衾を足にかけたまま、シロが近づくと少し身を乗り出すようにした。
「昨日はごめんね」
シロは思いっきり首を振る。謝られるようなことではないし、なにもできなかったシロこそ謝りたいくらいだ。
「もう大丈夫? けがはしてない?」
「平気」
「でも、どうしたの、いったい」
モモは眉尻を下げて、「あのひとが亡くなってるってわかったら、怖くなっちゃって……」と小さな声で恥ずかしそうに言った。モモでもそんなことがあるのか、とシロは少し驚いた。しかし昨日、倒れているひとに勇敢に声をかけたり、凛々しく自分に指示を飛ばしたモモも、そういえば自分と同い年で、シロが教えるまで稲刈りも芋ほりもできなかったような無知な子供で、だからシロが怖いものをモモが怖いと思うのも当然だとシロは納得した。
「あのひと、駄目だったんだね」
「うん……」
モモは俯いて、日陰になっている中では細かい表情までは読み取れなかった。「もうすぐ和尚さんが来て、お経をあげてくれるよ」と言うと、「よかった」とモモはかすかに答えた。
昼前に和尚が着いて、河原で遺体を荼毘に伏した。手の空いている者は全員集まって、見知らぬ者を静かに送った。モモの家のおじいさんとおばあさんも来ているのを見て、シロは途中で父の目を盗んで抜け出し、モモの家を覗き込んだ。
モモは部屋の片隅に置かれた長持ちを開けて、黒く艶めく十五寸ほどの棒みたいなものを手に取ってみつめていた。
「モモ」
モモはゆっくり振り返ると、なんだか悲しそうに笑った。
「それ、なに? 散らかして、どうしたの」
「ぼくの持ってた小刀。ぼくを拾ったあと、おばあさんがここに隠しちゃったんだ」
「小刀なんて危ないよ」
「見てるだけだよ」
ふいっと目をそらされて、シロは胸が苦しくなった。モモはいつもその賢そうな目を無邪気にきらきらとして、ささやかでもこのうえなく朗らかな笑みを浮かべていて、優しい声は快活で、けれど、出会ったころのモモは、いまのように目を伏せて、沈んだ声音で話していたっけ。突然その時期のモモに戻ってしまったように思えて、つらい気持ちと、泣きたい感じがどっと首の後ろのあたりに押し寄せた。
シロははじめ、モモが怖かった。同い年くらいの子供が迷い込んできたと聞いたときは率先して関わろうと意気込んでいたが、いざ目の当たりにすると自分と同い年とは到底思えない佇まいで、加えてなにか悲しむような異様に暗い雰囲気を持っていて、使う言葉もなんだか小難しいし、仲良くなれるとは思えず早々に諦めて放っておこうと思った。けれど親や村のひとたちがシロを捕まえては竹とんぼを持たせたり、麓で買ったお菓子を持たせたりしてモモのもとへと送り込み、イヤイヤそれを持っていくと次第にモモもシロを受け入れてくれて、そっと話しかけてきたり、おもちゃを手に取ってみたり、やがてふたりの時間は楽しくかけがえのないものとなり、けれどいま、再び陰のある目にうかがい知れない感情を帯びたモモを見ると、いままでのことが全部モモの演出で、シロはなにかあほな勘違いをして暮らしていたのではないかという気になる。楽しいと思っていたのはシロだけで、モモはいつでも胸になにか重たいものを抱えていたのではないか、と。
モモはそんなシロの心情をよそに、小刀を土間の甕の陰に隠すと、長持ちの中身を元通り片付けてふたを閉めた。
「どうしてそんなことをするの?」
「怖いんだ。お守りだよ」
モモはそう言うとシロの手を握り、「お願い、誰にも言わないでね」と念押しした。シロは頷かなかった。モモの目は澄んだ黒で、凪いだ水面のように静かだったが、シロの内心をざわりと搔き立てるなにかの気配を潜めていたからだ。
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