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第一章
一、変事
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黄金色のあぜ道を駆ける。
今年の稲はよく実った。ふっくらとした稲穂が重たそうに頭を垂れて、時折吹く風にゆうらりと揺れている。乾いた葉の香りが辺りに満ちていて、さらさらとささやきあう音がやがて束になって空に向かってゆく。
シロは、秋の風に歯向かうように走った。頬をくすぐる感触が心地よく、自然と口元が緩んだ。この季節が好きだ。冷たい冬を前にして、最後のひとふんばりとばかりに村が活気づく様子は、シロの心をうきうきとさせる。
村のいちばん奥の家から、カン、カンと薪割りの音がする。一定の間隔で狂いなく鳴るその音も、ずいぶんと耳に馴染んだ。モモは村でいちばん薪割りがうまい。村に来たときは斧を振り上げるのすら無理だったのに、たった少し練習しただけですぐに上手になった。モモはいつだってそうだ。稲刈りも、最初は手こずって誰よりも成果を挙げられなかったのに、去年になってとうとうシロが負けた。モモが一列も多く刈り取ったのだ。シロより細っこい腕で、めいっぱいに稲を抱え、モモは満面の笑みで勝ち誇っていた。
今年は絶対にまたシロが勝ちを取り返すのだ。もうモモに稲刈りで負けたりしない。たらふくご飯を食べて、背もモモより大きくなった。力もついたし、敵わないのは頭の中身だけだ。モモは驚くほどなんでも知っていて、けれど決してひとを見くびることなく、いつも優しく、シロに教えてくれる。
薪割りの音がより高く、耳を震わせるほどになる。シロは最後まで足を緩めることなく駆け抜けて、建物の裏にまっすぐ向かう。やはりモモはそこで薪を割っていた。滑り止めに布を巻いた斧を軽く振り上げて、ふっと下ろすと薪は簡単にふたつになる。
「モモ!」
「やあ、シロ」
モモはわかっていたかのように顔を上げると、額の汗をぬぐった。モモは腕に古い傷があって、それを隠したくて包帯を巻いている。でもその包帯は、いつもモモの汗を拭くのにちょうどよく使われていた。新しい傷を覆うわけではないから、少しくらい汚れても大丈夫らしい。
「もう手伝いは終わったの?」
「終わった! モモは? あとどれくらい? 手伝おうか?」
「大丈夫、あとひとつだから」
ちょっと待ってて、と言って、モモは新しい薪を切り株の上に置いた。薪割り用になっている大きな切り株は、数年前、モモが練習したときにだいぶ角を削られたが、いまではもうそんなこともない。あっという間に丁度いい大きさの薪を作り終えると、横にあった薪の山を手際よく束ねていく。
シロはできたものから納屋に運び入れた。早くモモと遊びたくてたまらない。モモも急いで作業を終えて、道具を片付けると「行こう!」と言うなりシロの手を引いて駆け出した。
モモの家から向こうは上り坂になっている。ふたりは競争でもするかのように追いつけ追い越せでその坂を駆け上がる。てっぺんからは川が見える。小石の散らばる河原のむこうを流れる川は幅が広く、中央あたりは急に深くなっている。そのところは鮮やかな緑をしていて、きれいでもあるし、不気味でもあった。対岸の林から枝葉が伸びて、水面の間近で揺れていた。
きらきら光る川面に見とれていると、不意をついたモモが笑い声をあげながら河原まで駆け下りる。慌ててシロも続いて、水辺で足を浸そうとしているモモに不平を言いながら、さてなにをして遊ぼうかと辺りに首を巡らせる。
上流へ目を向けたとき、大きな岩の陰になにか黒いものが引っ掛かっているのが見えた。シロは、下を向いて木の棒を探しているモモの袖を引っ張って、指で示した。
「あれ、なんだろう」
なんだか不穏な気配がしていた。シロは少し怖くなった。モモは言われてから気づいた様子でそちらを覗き込んで、二拍ほど置いてから「ひとだ」と呟いた。
「ひとが倒れてる」
ぞっと背中が冷える感覚がした。モモの表情は険しく、ただことでないのを殊更に訴えてくる。どうしよう、と言うより前にモモが動いた。石の転がる間をささっと移動して、川から這い出すように倒れこんだそのひとのそばへ行くと「もし」とはっきりした声で呼びかける。
「もし、聞こえますか」
返答らしきものはない。シロもこわごわとあとに続いて近寄ると、モモは顔をあげて「大人を呼んできて」と硬い声で指示した。
「助かる?」
「わからない。とにかく引き上げないと」
シロは踵を返して河原を走った。こんな場面ではシロならなにもできずにいるだけだが、モモはとても役に立つことをシロは理解していた。モモの言うことを聞くほかに為すべきことはない。さっき駆け下りた坂道を全力で登りきると、父を呼びながらまっすぐ家に向かった。
なにごとかと顔を出した母にもどかしく河原を指し示す。
「四郎、どうしたっていうの」
「ひとが倒れてる! 河原! ひとが倒れてる!」
「えっ」
「モモが、誰か呼んできてって! 父ちゃん! 誰か来て!」
母は悲鳴を上げて、裏にいた父をすぐに河原へ走らせた。それから隣のおじさんやその他、作業していた男たちを全部呼んであとを追わせた。大騒ぎし始めた母にせかされて、なんだかわからないままついてくる者も何人かいた。シロも皆に続いてまた走った。モモの家の前から始まる坂道。てっぺんにつく手前で、先に行った大人たちがモモの名前を呼んで騒いでいるのが聞こえた。その声は、到着したことを知らせるというより別の色合いを含んでいて、シロに激しい不安を抱かせた。前の大人を追い越して河原におりると、慌ただしい雰囲気のなか、モモが体を丸め込んで絶叫しているのが見えた。シロは足を止めてしまった。モモは頭を抱えて、何度もわあ、わあと叫んでいる。こんな姿は見たことがない──いや、ある。
モモがこの河原に流れ着いた五年前、保護された当初はこんなふうに怯えて喚きだすことが何度かあった。シロも一度だけ、目の当たりにしたことがあるのだ。恐怖に指を震わせ、大きな涙を零して、自制をなくした様子で力の限り悲鳴をあげる。あのときとほとんど同じ様子に陥ったモモを、シロは呆然と見つめている。
モモがふと顔をあげて、体を起こした。見開いた瞳で虚空を見ると、続けてゆっくりとシロのほうへ首を巡らせた。大丈夫か、どうした、と呼びかける大人たちを無視して、シロと目が合うと、モモはつっと目を細めた。もう悲鳴はあがらなかった。モモはそのまま、突然全身から力を無くして、仰向けに倒れていった。
今年の稲はよく実った。ふっくらとした稲穂が重たそうに頭を垂れて、時折吹く風にゆうらりと揺れている。乾いた葉の香りが辺りに満ちていて、さらさらとささやきあう音がやがて束になって空に向かってゆく。
シロは、秋の風に歯向かうように走った。頬をくすぐる感触が心地よく、自然と口元が緩んだ。この季節が好きだ。冷たい冬を前にして、最後のひとふんばりとばかりに村が活気づく様子は、シロの心をうきうきとさせる。
村のいちばん奥の家から、カン、カンと薪割りの音がする。一定の間隔で狂いなく鳴るその音も、ずいぶんと耳に馴染んだ。モモは村でいちばん薪割りがうまい。村に来たときは斧を振り上げるのすら無理だったのに、たった少し練習しただけですぐに上手になった。モモはいつだってそうだ。稲刈りも、最初は手こずって誰よりも成果を挙げられなかったのに、去年になってとうとうシロが負けた。モモが一列も多く刈り取ったのだ。シロより細っこい腕で、めいっぱいに稲を抱え、モモは満面の笑みで勝ち誇っていた。
今年は絶対にまたシロが勝ちを取り返すのだ。もうモモに稲刈りで負けたりしない。たらふくご飯を食べて、背もモモより大きくなった。力もついたし、敵わないのは頭の中身だけだ。モモは驚くほどなんでも知っていて、けれど決してひとを見くびることなく、いつも優しく、シロに教えてくれる。
薪割りの音がより高く、耳を震わせるほどになる。シロは最後まで足を緩めることなく駆け抜けて、建物の裏にまっすぐ向かう。やはりモモはそこで薪を割っていた。滑り止めに布を巻いた斧を軽く振り上げて、ふっと下ろすと薪は簡単にふたつになる。
「モモ!」
「やあ、シロ」
モモはわかっていたかのように顔を上げると、額の汗をぬぐった。モモは腕に古い傷があって、それを隠したくて包帯を巻いている。でもその包帯は、いつもモモの汗を拭くのにちょうどよく使われていた。新しい傷を覆うわけではないから、少しくらい汚れても大丈夫らしい。
「もう手伝いは終わったの?」
「終わった! モモは? あとどれくらい? 手伝おうか?」
「大丈夫、あとひとつだから」
ちょっと待ってて、と言って、モモは新しい薪を切り株の上に置いた。薪割り用になっている大きな切り株は、数年前、モモが練習したときにだいぶ角を削られたが、いまではもうそんなこともない。あっという間に丁度いい大きさの薪を作り終えると、横にあった薪の山を手際よく束ねていく。
シロはできたものから納屋に運び入れた。早くモモと遊びたくてたまらない。モモも急いで作業を終えて、道具を片付けると「行こう!」と言うなりシロの手を引いて駆け出した。
モモの家から向こうは上り坂になっている。ふたりは競争でもするかのように追いつけ追い越せでその坂を駆け上がる。てっぺんからは川が見える。小石の散らばる河原のむこうを流れる川は幅が広く、中央あたりは急に深くなっている。そのところは鮮やかな緑をしていて、きれいでもあるし、不気味でもあった。対岸の林から枝葉が伸びて、水面の間近で揺れていた。
きらきら光る川面に見とれていると、不意をついたモモが笑い声をあげながら河原まで駆け下りる。慌ててシロも続いて、水辺で足を浸そうとしているモモに不平を言いながら、さてなにをして遊ぼうかと辺りに首を巡らせる。
上流へ目を向けたとき、大きな岩の陰になにか黒いものが引っ掛かっているのが見えた。シロは、下を向いて木の棒を探しているモモの袖を引っ張って、指で示した。
「あれ、なんだろう」
なんだか不穏な気配がしていた。シロは少し怖くなった。モモは言われてから気づいた様子でそちらを覗き込んで、二拍ほど置いてから「ひとだ」と呟いた。
「ひとが倒れてる」
ぞっと背中が冷える感覚がした。モモの表情は険しく、ただことでないのを殊更に訴えてくる。どうしよう、と言うより前にモモが動いた。石の転がる間をささっと移動して、川から這い出すように倒れこんだそのひとのそばへ行くと「もし」とはっきりした声で呼びかける。
「もし、聞こえますか」
返答らしきものはない。シロもこわごわとあとに続いて近寄ると、モモは顔をあげて「大人を呼んできて」と硬い声で指示した。
「助かる?」
「わからない。とにかく引き上げないと」
シロは踵を返して河原を走った。こんな場面ではシロならなにもできずにいるだけだが、モモはとても役に立つことをシロは理解していた。モモの言うことを聞くほかに為すべきことはない。さっき駆け下りた坂道を全力で登りきると、父を呼びながらまっすぐ家に向かった。
なにごとかと顔を出した母にもどかしく河原を指し示す。
「四郎、どうしたっていうの」
「ひとが倒れてる! 河原! ひとが倒れてる!」
「えっ」
「モモが、誰か呼んできてって! 父ちゃん! 誰か来て!」
母は悲鳴を上げて、裏にいた父をすぐに河原へ走らせた。それから隣のおじさんやその他、作業していた男たちを全部呼んであとを追わせた。大騒ぎし始めた母にせかされて、なんだかわからないままついてくる者も何人かいた。シロも皆に続いてまた走った。モモの家の前から始まる坂道。てっぺんにつく手前で、先に行った大人たちがモモの名前を呼んで騒いでいるのが聞こえた。その声は、到着したことを知らせるというより別の色合いを含んでいて、シロに激しい不安を抱かせた。前の大人を追い越して河原におりると、慌ただしい雰囲気のなか、モモが体を丸め込んで絶叫しているのが見えた。シロは足を止めてしまった。モモは頭を抱えて、何度もわあ、わあと叫んでいる。こんな姿は見たことがない──いや、ある。
モモがこの河原に流れ着いた五年前、保護された当初はこんなふうに怯えて喚きだすことが何度かあった。シロも一度だけ、目の当たりにしたことがあるのだ。恐怖に指を震わせ、大きな涙を零して、自制をなくした様子で力の限り悲鳴をあげる。あのときとほとんど同じ様子に陥ったモモを、シロは呆然と見つめている。
モモがふと顔をあげて、体を起こした。見開いた瞳で虚空を見ると、続けてゆっくりとシロのほうへ首を巡らせた。大丈夫か、どうした、と呼びかける大人たちを無視して、シロと目が合うと、モモはつっと目を細めた。もう悲鳴はあがらなかった。モモはそのまま、突然全身から力を無くして、仰向けに倒れていった。
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