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序章

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 祈りが妨げられたとき、やや不快な気持ちと同時に驚くほど周囲がはっきりして、ふと目を上げると、戸口の脇に立っていたひとが膝を折って崩れ落ちる瞬間が見えた。
「父上」
 思わず呟いた言葉は、しかし舌がもつれて、声も小さく、彼の耳には届かなかっただろう。自分の警衛となって四年、片時も持ち場を離れず、交代で眠るときも必ず廟のそばにいたこの父と、結局、ふたたび言葉を交わすことはなかった。
 赤く塗られた柱の陰から、白い着物の女が現れる。長い髪を結わず、肩に流しているその女は、忌々し気な視線でこちらを見下ろしている。外はやかましい。ひとの怒鳴り声と、重たい金属のぶつかる音がする。土を蹴って駆ける音や、地面になにか倒れこむ音も連なる。何が起きているか知ってはいるが、理解はできていなかった。次々と絶たれるさまざまな命の残響を聞きながら、ゆらめく線香の煙の向こうから近づいてくる女を見つめる。
 女は手前の祭壇を蹴り倒すと、社に土足で上がってきた。抵抗もできず髪の毛を鷲掴みにされ、怖いという思いがこみあげる。ここに座り続けて全く動くことをしなかった体には力がなく、女の細い腕に軽々と振り回されて、社の階をあっという間に転げ落ちてしまう。
 こんなとき、自ら死ななければならないのを、本能は知っていた。石の床に横たわったまま、懐の小刀を握りしめる。この集落でのみ作られる希少な猛毒が塗られた刃を己に突き立てれば、誰が止める間もなく息絶える。
 けれど女は思いもよらぬ速さで駆けつけて、小刀を握った小さな手を掴み上げた。指が食い込んで腕がそこから千切れるのじゃないかと錯覚するほどの力だ。「ガキのくせになめたことをするんじゃないよ」と低く唸る女の目には、どこか悲しみがあるように思えて、抵抗する意欲はそれきり失せた。
 廟堂の裏に引きずるようにして連れていかれた。その間に女はふたり、襲い掛かってきた人間を刺した。知っている人間だったかどうかはすぐに判断できなかった。戸惑いとおそろしさで、ただ女が躊躇なくひとを刺すところを見ているよりなかった。
 女は木々の生えそろった薄暗い林に飛び込むと、早足で草を踏み分けて行って、やがて木々が切れて川に突き当たるとその流れる向きに沿って移動した。闇雲に里を離れていくだけの足取りが、やがて崖に突き当たるのを知っていながら、教える言葉が出てこない。案の定、地面がすとんと落ちてそこを川の水が伝っていくところにたどり着くと、女は舌打ちをして、後ろを振り返った。戻れば、ここまで来た意味はない。一瞬の思案のあと、女は両手を思い切りこちらに突き出した。
 ふっと体が空に浮いた。突き飛ばされて、落ちていくのだと次に思い至った。
 胸はからっぽで、声は出なかった。手を伸ばしてももう届かないところに女の姿は遠ざかる。
 背中が水面に打ち付けられて、水が、顔の四方から覆いかぶさってくる。あまりの勢いになにも間に合わず、体は水流にのまれ、鼻から口から水が入り込んだ


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