1 / 5
序章
落
しおりを挟む
祈りが妨げられたとき、やや不快な気持ちと同時に驚くほど周囲がはっきりして、ふと目を上げると、戸口の脇に立っていたひとが膝を折って崩れ落ちる瞬間が見えた。
「父上」
思わず呟いた言葉は、しかし舌がもつれて、声も小さく、彼の耳には届かなかっただろう。自分の警衛となって四年、片時も持ち場を離れず、交代で眠るときも必ず廟のそばにいたこの父と、結局、ふたたび言葉を交わすことはなかった。
赤く塗られた柱の陰から、白い着物の女が現れる。長い髪を結わず、肩に流しているその女は、忌々し気な視線でこちらを見下ろしている。外はやかましい。ひとの怒鳴り声と、重たい金属のぶつかる音がする。土を蹴って駆ける音や、地面になにか倒れこむ音も連なる。何が起きているか知ってはいるが、理解はできていなかった。次々と絶たれるさまざまな命の残響を聞きながら、ゆらめく線香の煙の向こうから近づいてくる女を見つめる。
女は手前の祭壇を蹴り倒すと、社に土足で上がってきた。抵抗もできず髪の毛を鷲掴みにされ、怖いという思いがこみあげる。ここに座り続けて全く動くことをしなかった体には力がなく、女の細い腕に軽々と振り回されて、社の階をあっという間に転げ落ちてしまう。
こんなとき、自ら死ななければならないのを、本能は知っていた。石の床に横たわったまま、懐の小刀を握りしめる。この集落でのみ作られる希少な猛毒が塗られた刃を己に突き立てれば、誰が止める間もなく息絶える。
けれど女は思いもよらぬ速さで駆けつけて、小刀を握った小さな手を掴み上げた。指が食い込んで腕がそこから千切れるのじゃないかと錯覚するほどの力だ。「ガキのくせになめたことをするんじゃないよ」と低く唸る女の目には、どこか悲しみがあるように思えて、抵抗する意欲はそれきり失せた。
廟堂の裏に引きずるようにして連れていかれた。その間に女はふたり、襲い掛かってきた人間を刺した。知っている人間だったかどうかはすぐに判断できなかった。戸惑いとおそろしさで、ただ女が躊躇なくひとを刺すところを見ているよりなかった。
女は木々の生えそろった薄暗い林に飛び込むと、早足で草を踏み分けて行って、やがて木々が切れて川に突き当たるとその流れる向きに沿って移動した。闇雲に里を離れていくだけの足取りが、やがて崖に突き当たるのを知っていながら、教える言葉が出てこない。案の定、地面がすとんと落ちてそこを川の水が伝っていくところにたどり着くと、女は舌打ちをして、後ろを振り返った。戻れば、ここまで来た意味はない。一瞬の思案のあと、女は両手を思い切りこちらに突き出した。
ふっと体が空に浮いた。突き飛ばされて、落ちていくのだと次に思い至った。
胸はからっぽで、声は出なかった。手を伸ばしてももう届かないところに女の姿は遠ざかる。
背中が水面に打ち付けられて、水が、顔の四方から覆いかぶさってくる。あまりの勢いになにも間に合わず、体は水流にのまれ、鼻から口から水が入り込んだ
「父上」
思わず呟いた言葉は、しかし舌がもつれて、声も小さく、彼の耳には届かなかっただろう。自分の警衛となって四年、片時も持ち場を離れず、交代で眠るときも必ず廟のそばにいたこの父と、結局、ふたたび言葉を交わすことはなかった。
赤く塗られた柱の陰から、白い着物の女が現れる。長い髪を結わず、肩に流しているその女は、忌々し気な視線でこちらを見下ろしている。外はやかましい。ひとの怒鳴り声と、重たい金属のぶつかる音がする。土を蹴って駆ける音や、地面になにか倒れこむ音も連なる。何が起きているか知ってはいるが、理解はできていなかった。次々と絶たれるさまざまな命の残響を聞きながら、ゆらめく線香の煙の向こうから近づいてくる女を見つめる。
女は手前の祭壇を蹴り倒すと、社に土足で上がってきた。抵抗もできず髪の毛を鷲掴みにされ、怖いという思いがこみあげる。ここに座り続けて全く動くことをしなかった体には力がなく、女の細い腕に軽々と振り回されて、社の階をあっという間に転げ落ちてしまう。
こんなとき、自ら死ななければならないのを、本能は知っていた。石の床に横たわったまま、懐の小刀を握りしめる。この集落でのみ作られる希少な猛毒が塗られた刃を己に突き立てれば、誰が止める間もなく息絶える。
けれど女は思いもよらぬ速さで駆けつけて、小刀を握った小さな手を掴み上げた。指が食い込んで腕がそこから千切れるのじゃないかと錯覚するほどの力だ。「ガキのくせになめたことをするんじゃないよ」と低く唸る女の目には、どこか悲しみがあるように思えて、抵抗する意欲はそれきり失せた。
廟堂の裏に引きずるようにして連れていかれた。その間に女はふたり、襲い掛かってきた人間を刺した。知っている人間だったかどうかはすぐに判断できなかった。戸惑いとおそろしさで、ただ女が躊躇なくひとを刺すところを見ているよりなかった。
女は木々の生えそろった薄暗い林に飛び込むと、早足で草を踏み分けて行って、やがて木々が切れて川に突き当たるとその流れる向きに沿って移動した。闇雲に里を離れていくだけの足取りが、やがて崖に突き当たるのを知っていながら、教える言葉が出てこない。案の定、地面がすとんと落ちてそこを川の水が伝っていくところにたどり着くと、女は舌打ちをして、後ろを振り返った。戻れば、ここまで来た意味はない。一瞬の思案のあと、女は両手を思い切りこちらに突き出した。
ふっと体が空に浮いた。突き飛ばされて、落ちていくのだと次に思い至った。
胸はからっぽで、声は出なかった。手を伸ばしてももう届かないところに女の姿は遠ざかる。
背中が水面に打ち付けられて、水が、顔の四方から覆いかぶさってくる。あまりの勢いになにも間に合わず、体は水流にのまれ、鼻から口から水が入り込んだ
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

夫は私を愛してくれない
はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」
「…ああ。ご苦労様」
彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。
二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。

妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。

あなたへの恋心を消し去りました
鍋
恋愛
私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。
私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。
だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。
今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。
彼は心は自由でいたい言っていた。
その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。
友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。
だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。
※このお話はハッピーエンドではありません。
※短いお話でサクサクと進めたいと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる