<奨励賞>鑑定士ハリエットと失われた記憶の指環

雲井咲穂(くもいさほ)

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第3章

第27話.切り裂かれた運命

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「兄さん、あの――」

 言いかけた瞬間、ジェイドがペンを置き、椅子の背もたれに体を預けながら何でもないことのように口を開いた。

「オークションなら、中止になった」
「へ?」

 不意を突かれたハリエットは、言葉の意味を飲み込めずに瞬きをする。
 ジェイドは書類を片手に、書きかけの伝票へ再びペンを走らせた。だが、その横顔はどこか硬い。いつもなら軽妙で、余裕すら感じさせる兄の表情に、何かを隠しているような緊張が滲んでいる。

「私が、寝ていたから、参加できなかった?」

 だがそれよりも――。
 あの南洋の海のような軽薄な瞳を持つ男はどこへ行ったのだろう。

 起きてから一度も姿を見ていないことに、胸の奥がざわめく。赤の他人のはずだった。出会ったばかりの頃は、なし崩しの偶然で自宅に泊めただけの関係に過ぎなかった。だというのに、数日間を共にした時間が濃厚すぎて、いつの間にか、すぐそばにいるのが当然のような感覚に陥っていた。

 いない、という事実が、思いのほか心の隙間を刺激する。
 彼は――どこに行ったのだろう。

「違う」

 ハリエットの危惧を掬い取ったかのように、兄は感情のこもらない平坦な声音でこちらが懸案事項を尋ねる前に応えた。

「……私、どのくらい寝ていたの?」

 言葉を絞り出すように問いかけた瞬間、鋭い痛みが頭の奥を突き刺した。まるで鍵のかかった引き出しの奥底から、記憶の断片が無理やりこぼれ出そうとするかのように。ハリエットは思わずこめかみに手を当て、眉間にしわを寄せながら、必死に思い出そうとする。

 カウンター越しに立つジェイドは、そんな妹の様子をちらりと見たが、何も言わずに手元のペンを指でくるくると回し始めた。カチカチと小さく乾いた音が、店内の静寂に微かに溶ける。言うべきか、黙っておくべきか――そんな葛藤が、兄の表情に滲んでいるのがわかった。

「兄さん」
「……三日だ」

 ジェイドがふっと溜め息をつき、鋭い金蜜色の瞳をまっすぐにハリエットへ向ける。その視線は、どこか苛立ちと焦りを帯びていた。

「三日?」

 自分の声がひどく遠くに聞こえる。まるで時間の感覚がずれてしまったようだった。三日も眠り続けていたなんて――。ゆっくりと呼吸を整えながら、カウンターの上にそっと書類を置く。艶やかに磨かれた木製の縁に指先を這わせると、ひんやりとした感触が肌を伝い、少しだけ現実に引き戻された気がした。

「じゃあ、やっぱり……私が寝ている間に、オークションが……」
「それとこれとは関係ない」

 ジェイドはそう言いながら、視線をペンの先へと戻す。

「――ティアーズのオークションは中止になった。それはお前が気にするようなことじゃない」
「どういうこと?」

 理解が追いつかず、思わず一歩踏み出す。するとジェイドは手の中のペンを軽く放り投げ、長く細いため息を吐いた。その後、静かに椅子に寄りかかりながら、やや気難しげな顔でハリエットを見上げた。

「爆破予告が出た」
「――っ!」
「犯人が見つかるまで、あるいは安全が確保されるまで再開の見込みは立っていない」

 衝撃的な言葉に、ハリエットは思わず息を飲んだ。

 オークションが、中止。
 それだけでなく、爆破予告まで――?

「そんな……」

 驚きと戸惑いに満ちた声が、無意識に口をついて出る。
 ジェイドは「だから言いたくなかったんだ」とでも言うような表情で、肩をすくめた。

 考えがまとまらないまま、ふと店内を見渡す。

 変わらない光景だった。アンティークの家具たちは、相変わらず静かにそこに佇み、正午過ぎの日差しがショーウィンドウ越しに差し込んでいる。通りを行き交う人々の姿も、いつもと同じように穏やかで、何事もないかのようだった。

 しかし――この数日、身辺を賑やかせていたはずの彼の姿が、どこにも見当たらない。

「兄さん……彼は……」

 ハリエットがようやくその問いを口にしかけた瞬間――。
 カラン、コロン。
 乾いた音を立てて、店の扉が開いた。

「アルフレッ――」

 とっさに顔を上げ、扉の方へと目を向ける。だが、そこに立っていたのは予想していた人物ではなかった。
 背後に黒服の男たち二人を従え、珍しく焦りを浮かべた様子で大股にこちらへ歩み寄ってくる紳士――ヘンリーだった。

「ヘンリー」

 ジェイドが片手を軽く上げ、気安げに挨拶を送る。しかし、ヘンリーはそれにほとんど応じることなく、まっすぐハリエットへと視線を向けた。

「落ち着いて聞いてほしい」

 その声には、はっきりとした緊張が滲んでいた。

「――指輪が盗まれた」


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