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9話
しおりを挟む「ここなら問題ないわね」
「あ、うん……」
氷乃に連れて来られたのは中庭だった。
春の終わりの時期とは言え、気温は上下しやすく、特に今日は風が強めなので人の姿はない。
「だけど、何でこんな所に?」
あたしは弁当を食べるだけだから、教室か食堂でいいのだが。
氷乃がこの場所を選んだ理由が分からなかった。
「いいから、座りなさい」
「あ、はい」
氷乃に催促され、隣同士でベンチに腰を下ろす。
なんだこれ。
「それで、どうしたらいいんだ……?」
「貴女は昼食を食べながら、百合について勉強しましょうか?」
氷乃さんが暴走しておられます。
「えっと、おかしなことを言っている自覚はあるかな?」
「貴女が私を勉強不足だと煽ってきたのでしょう?」
いや、あたしは仲良くしようぜマインドを伝えたかったんだけど……。
完全に裏目に出てしまったようだ。
もう、ここは大人しく言う事を聞くほかあるまい。
「なんでしょう、氷乃さん」
「お弁当箱を開けなさい」
「あ、はい……」
弁当箱を開けるように人に指示されるのって人生で初めてかもしれない。
訳が分からない体験だが、氷乃との関係性がおかしいのは今に始まったことではない。
パカッと開くと、ハンバーグやサラダの詰まったお弁当がそこにはあった。
「箸を貸しなさい」
「え? ムリ」
思わず即答、そして秒で睨まれる。
「いいから貸しなさい」
「あたしの弁当、取らないでよ……?」
「取らないわよ」
あ、それはそれで何か嫌な響きだな。
このママお手製のお弁当はなかなか美味しいんだぞ。
ちょっとだけマザコンが出てしまった。
氷乃に箸を渡す。
「あ、やっぱり食べてもいいよ?」
きっと氷乃もこのお弁当を食べたら評価を改めるに違いない。
次回からはヨダレを垂らしてあたしのお弁当箱を羨むことになるだろう。
だから、食べてみてもいいと心変わりした。
「要らないと言っているでしょう……」
「このハンバーグはママがタネから作っていて冷めても美味しいぞ?」
「私の話を聞いてもらえるかしら?」
「肉の気分じゃないならサラダもいいぞ。ママは自分で野菜も育ててるから、ただのサラダだと思って食べるとビックリすると思う」
「……」
氷乃が黙ってしまった。
なるほど、あたしのプレゼンを聞いてどれにしようかと頭を悩ませているのだろう。
価値が少し伝わったようで安心した。
「貴女のおすすめは?」
「やっぱりハンバーグかな」
あたしはサラダも好きだが、やはりお肉が好きだ。
最初はサラダを食べた方が太りづらいとは聞くけれど、あたしはそんな事を気にしてまでご飯を食べたくないのだ。
……だから痩せないんだという分かりきったツッコみは控えるように。
「そう、分かったわ」
氷乃がハンバーグを割って、摘まむ。
そのまま持ち上げて、あたしの口元へ運ぶ。
……ん? あたしの口元?
「氷乃?」
「ほら、どうしたの。食べなさい」
「こ、これは……まさか」
そこでようやくあたしは氷乃の意図に気付く。
「そう“あーん”よ」
あーん、で意中の相手にご飯を食べさせる。
確かにこれは恋愛ものなら定番すぎるほどの展開だ。
だが、しかし、あたしには疑問が残る。
「待ってくれ氷乃、これは本当に百合なのか……?」
よく男女関係で目にするこコレは果たして百合展開と言えるのだろうか?
「勘違いしているようだけれど、百合だからと言って特別そんな大きな違いというものは存在しないのよ」
「ま、マジで……?」
「同性同士の葛藤や、同性同士だからこそ共有し合える価値感に違いはあれど。分かりやすい展開においては、そう大きな差異はないの」
知らなかった。
まさかあーんで百合展開になってしまうとは。
「受け取り方は人それぞれだけど、会話しているだけでも百合と解釈する人もいるわ」
「何でもアリすぎないかっ!?」
てことは、もはやあたしと氷乃が会話している時点で百合なのか……?
いや、待て。
「そういう人もいるということ」
「でも待ってくれっ。それをアリにするなら、この学校の女子生徒同士も百合って事になるじゃないかっ」
「貴女はそう思うの?」
氷乃に問いを返される。
いや、冷静に考えてそんなはずはない。
それを百合とするなら世の中は百合だらけになってしまう。
何か条件があるはずだ……はっ、そうかっ。
「恋愛か、恋愛感情をもった瞬間にそれは“百合”に成り得るんだな!?」
基本的な事を忘れていた。
鍵は恋愛感情の有無なのだ。
特別な感情を抱いた瞬間に、お互いに交わすやり取りの意味は変わってしまう。
そこに百合と呼ばれる展開が生まれるのだ。
これなら女子生徒同士は百合にはならない。
そして設定上は主人公とヒロインであるあたしたちは、この“あーん”が百合展開に変わるわけだ。
なるほど、完全に理解した。
「いえ、恋愛感情がなくても女の子同士で仲睦まじくしているだけで百合と捉える人もいるわ」
「見境がなさすぎる!?」
なんだそれっ、百合ってテキトーすぎないかっ。
じゃあ、ムリじゃんっ。
線引きムリじゃんっ。
「そう、この世界は奥が深いのよ。それを貴女が教えてくれるのでしょう?」
「……え、そうなるのか?」
いや、曖昧すぎてもう分からん。
ていうかやっぱり氷乃の方が百合に対する造詣が深いじゃん。
……ま、いいか。
あたしにとってのミッションは昼食を氷乃と一緒に食べること。
それがクリアできるなら何でもよくなってきた。
「はい、あーん」
「……あーん」
氷乃に箸を口元に運ばれ、あたしは言われるがまま口を開く。
口内から舌の上にハンバーグを置かれる。
箸が口から出たのを確認して、あたしは咀嚼を始めた。
冷めていてもお肉のジューシーさとスパイスの効いた味わいが広がる。
「どう、美味しいかしら?」
「まあ、うん、美味いよ」
あたしはもぐもぐと咀嚼し、氷乃は冷めた表情でそれを見つめる。
「……」
「……」
なんだろう。
お互いに変な空気だ。
いや、これは決してあーんにときめいているとかそんな空気ではない。
違和感だ。
本来であれば恋愛で弾むはずの感情が動かない事について、あたしたちは違和感を覚えている。
「あのさ」
「何かしら」
「何でも“あーん”すれば百合、もとい恋愛展開になるとは限らないんじゃないか?」
「……やはり、そうなのかしら」
氷乃もそのこと気付きつつも、その根本的理由にまで追いつけていない様子だ。
「例えばだけど、こういうのって氷乃がお手製のお弁当を作ってくれたりした方が効果ある気がする」
「……そういうことなの?」
そうだ。
恋愛が感情である限り、その行動も感情に紐づいていなければならない。
行動そのものに囚われてしまったあたしたちは、それを見落としていたのだ。
「でもその理論で言うなら、“パフェであーん”はどうなるの? あれも他人が作ったものじゃない」
それも恐ろしいほど定番の場面だが、ちゃんと説明がつく。
「アレはお金という対価を払っているからね。 “お金で得た対価”を誰かに譲ってるんだから、それは特別なものだし、感情も伝わるよ」
「一理あるわね……」
ふむふむ、と氷乃が素直に頷いてくれる。
奇しくも恋愛感情の勉強にはちゃんとなっている気がする。
そしてあたしは手元にあるお弁当箱に視線を落とす。
「言ってもコレはママが作ってくれたお弁当で、ママの気持ちだからね。それを氷乃に食べさせてもらっても氷乃の気持ちは伝わらないというか……」
いや、絶対にそうとは言わないけどね。
でも半減はしちゃう気がするな。
「……感情一つでここまで受け取り方が変わるなんて。恋愛って難しいわ」
ほ、ほんとだね……。
あたしたちは何とも言えない空気のまま、吹いた春風にぶるりと身を震わせるのだった。
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