晩ご飯泥棒は家庭の謎を解く。

kizu

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エピローグ

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「お祝いです! 先輩に彼氏! これはパーっとおいしいもの食べにいかないとですね」
「や、待て待て、ちゃんと話聞いてた? そんなおめでたい話誰がしたっけ?」
「え? だって今日、家にご飯食べにくるんですよね? ラブラブさんじゃないっすかー。しかも、先輩から告ったんですよね? キャー、イケメン!」

 目の前で明日花が、自分の頬を両手で挟んで興奮したように叫んでいる。対して真幌は、呆れから額に手をやった。お昼の時間帯、近所のコンビニでサンドイッチを買いながら、真幌は明日花と例の如く事務所の相談室を占拠して喋っていた。
 真幌は事実をそのまま話したはずだ。しかし明日花は随分と大げさな解釈をしたようだった。というか、曲解である。

「ザ、妄想。ちゃんと事情まで説明したでしょ? それで、これからたまにご飯を作ってあげることになったんだって。彼氏彼女では一切ございません」

 真幌が丁寧に説明すると、明日花は口元に人差し指をあて、えー、と声を伸ばした。

「でもぉ、好きじゃない人に普通そこまでします?」

 そのセリフに、真幌は一瞬ドキッと身体を硬直させる。しかしすぐに首をぶんぶん横に振った。

「だから本当にそんなんじゃなくて! 可能性ゼロゼロ! 全くそんな気ないし」
「先輩、あのレベルのイケメン捕まえて、よくそんな贅沢を……。罪ですよ罪! ほら、あの事件のとき行動を共にして、愛が芽生えたとか」

 明日花がそう、にやりと笑いながら言う。

「誰があんな仮病男……」

 愛が芽生えるどころか、情けなくすら思える。ケチャップを使ってケガしたフリをしてまで逃げようとするとは。往生際が悪いというか、男らしくない。その辺りの真実も、明日花には話してある。
 まぁ、あのときは自首するもりもなかったのだろうし、仕方ないかもしれないが……。

 運送屋の兄ちゃん――高梨が、明日花の実家へ空き巣に入ろうとした事件から、四日が経っていた。
 今、こうして余裕でお喋りできるのは、真幌が疑明と公園に移動して話していた間、明地が格闘の末、高梨を取り押さえるのに成功していたからだ。高梨は現行犯で逮捕され、現在は警察で余罪を追及されている。空き巣関係の相談が近頃増えていたこともあり、明地も事務所に寄せられた相談から高梨が関わっていそうなものを調べている。
 結局無事、怪我人は出ず、もうすでに被害者の一人である明日花も笑って話すようになっている。一時浮かんでいた彼氏への疑惑が晴れたことも、心を軽くしているようだった。

 公園で疑明と話した翌日、真幌は明地に経緯を話し、顔見知りの刑事に会いに行った。明地と仲がよく、事務所にもたまに顔を出す人で、今回の話も親身になって聞いてくれた。
 結論から言うと、疑明は現在書類送検され、検察庁で取り調べを受けている最中だ。しかし、今回の場合、被害者が誰も名乗り出ていない。しかも、みんな自分が被害に遭った覚えがないと言う。金品や衣類を盗んだわけでもないようなので、おそらく不起訴で終わるだろうとのことだった。唯一侵入の形跡があると事務所に相談にきていた、屋根裏に猫が入りこんでいた家の家主が、事情を全て聞いた上で今回の件は不問としてくれている。息子のアレルギーの原因を特定してくれた感謝の気持ちだと言われた。
 真幌も同様に、一緒に警察署を訪れ自供をしたが、今回は罪に問われることはなさそうだった。代わりに、真幌は深く反省している。疑明を止めるという目的を掲げて他人の家に侵入しつつ、自らの弱い意思から、その務めを彼の推理を見るための口実にしていた。憧れの、周りに感謝される探偵になるためには、中途半端なことでは困る。
 改めて、父の姿を心に置きながら探偵業に向き合っていこうと決めた。

「でもですよ? 仮病って言っても、その前に先輩、かっこいい姿見せられてるじゃないですかー」

 咀嚼していたタマゴサンドを飲みこんで、明日花がそんなことを口にする。

「かっこいい姿?」
「ほら先輩、あのとき命かけて守ってもらったじゃないですかー。ていうかマジ、あたしたちピンチでしたよね。自分があんな体験するとは思いもしませんでしたよ。ドラマ化していいレベル!」

 あんなに大変な目に遭ったのに、明日花はもうそれをネタにはしゃいでいる。
 しかし確かに、無事で済まなかった可能性もあるのだ。うまく疑明が助けてくれなければ、今頃こうして笑っていられたかもわからない。

「その点については感謝してるよ」

 あのときの疑明は、かっこよかったといえばかっこよかった。こちらを助けにいきなり飛び出してきたかと思うと、刃物も恐れず犯人と格闘し、関節をキメて取り押さえてしまった。非常に男らしく、これで頭もキレるというのだから完璧だろう。
 気がつけば、コンビニで買ったコーヒーのストローを指でいじりながら、真幌は彼について考えこんでいた。その間に、明日花が言う。

「それにですよ? 遠くから先輩に会いにきたの、絶対ご飯以外の理由もありますって! 最高!」
「ご飯以外の理由って?」
「そりゃ、幼い頃から先輩のことが気になってたとか。当時の片想いの相手を捜して、はるばるやってきたんですよ。とにかくもう一度会いたかったんじゃないですか? マジ愛」

 明日花はにやにやとして楽しそうだ。しかし、彼女のその予想は外れている。

「いや、それはないわ……」

先程一応説明はしたが、彼女には疑明がどれほど家庭の味にこだわりを持っているか伝わっていないようだ。間違いなく、晩ご飯目当てで彼は真幌の家にやってきた。

「そうですかねー。お似合いだと思いますけど。で、そんな彼に先輩は今日何を作ってあげるんですか?」

 そう訊かれ、真幌は言葉に詰まる。実はまだ、今晩のレシピに悩んでいるところだった。

「まだ決めてないんですかー? だったらそうですね、下手に手間のかかる料理はしない方がいいですよ。ハンバーグとか角煮とか張り切ってやりがちだけど、下処理がめんどいです。よくわからない葉っぱいっぱい使った盛りつけとかも論外。そんなん最初にしちゃったら、この先ずっと期待されちゃいますからね。オシャレな料理作るのは記念日だけで十分。そんなのより、男はカレーとか作っときゃ喜ぶんです」

 普段の何気ない会話から、明日花が結構彼氏のために料理をしているのは知っている。なるほど、参考にしよう。

「味噌汁がおいしいとかは安定だよね? あと、大変でも朝ご飯をしっかり作れたり」

 真幌が想像からそう口にすると、明日花はこくこくと頷く。

「それ、言われたことあります! 朝、目覚まし代わりに聞こえてくる、トントンというまな板の音が最高だって。男を落とすには、『壁ドン』より『まなトン』ですね!」
「何それ、初めて聞いたよ。まぁ、帰りにスーパー寄りながら考えようかな。適当に、簡単なやつ」

 真幌は笑いながら明日花に返答した。真幌の場合、自分から料理を作ると言ったのだから、あまり面倒がってはいけない。それに、きっと疑明はあまり手のこんだ料理は喜ばない。いつもの作り馴れた、家庭の味を求めているはずだ。

「そうですかー。じゃ、早く帰らないとですね! 目指せ、彼の胃袋がっちりホールド!」

 頑張ってください! と明日花が胸元でガッツポーズを作ってみせてくる。
 どうも彼女は真幌と疑明に、余計な期待をしているようだった。

     *

 物事とはどうしてこんなにも予定通り進まないのか。真幌は夜道を歩きながら深いため息をついた。
 とんでもなく、帰るのが遅くなってしまった。
 夕刻にはスーパーに入り、本日のお買い得商品をなくなる前にゲットしようと思っていたのに。家の近所のスーパーに着いたのは、午後九時半。買い物は一〇分で終わらせたが、帰ると一〇時頃になるだろう。
 本当は一九時に真幌の家という約束だった。しかし、担当している案件の調査がうまく進まず、それを明地にどやされた。

『真幌お前! 俺は証拠写真を撮ってこいって言ってんだ! こんな家の外観の写真ばっか集めてどうするつもりだ! いったいどれだけ時間を無駄にすりゃ気が済む!』

 明地の低くガサガサの怒鳴り声が、今でも耳にこびりついている。
 まぁ、こうしてまだ雷を落としてもらえるだけ、ありがたいと思うべきなのか。
 他人の家に不法侵入し、警察に自首をした。そんな探偵が絶対に冒してはならない失態を、真幌は許してもらっている。昨日全ての経過を報告し終えたとき、明地とこんな会話があった。

『今回のことは事務所の信用問題にかかわってくるからな。大変なことをしてくれたなぁ』
『す、すいません……』
『まったくだよ。だがまぁ幸い、罪には問われていないから、その点ではまだお前の面倒を見てやることもできる。お前はどうしたいんだ、真幌』

 反省はしっぱなしだ。後悔の念もふとした瞬間に押し寄せてくる。加えてそのとき、真幌は自分にとっての正義とは何かと考えるようになっていた。
 真幌は明地に、今の素直な気持ちを伝えた。

『わたしにとっての正義とは、難しい理論や思想、理想の美学でもなんでもなく、ただ父の姿そのものなんです。困った人を助けるために尽力する。そんなシンプルな、彼の探偵としての在り方を、わたしは受け継いでいきたい。一度道を踏み外してしまったけれど、改めてその自分の想いと向き合えました。自分の進むべき方向が再びはっきりした今、このまま探偵として働きたいです』

 明地はじっと真幌の顔を見返していたが、やがて力を抜くように小さく息を吐いた。

『バイトの面接でお前が自信ありげに父親のことを語ったあと、参考にどんな人物か調べさせてもらったんだ。探偵としては俺の先輩。経歴も気構えも、とても尊敬できる方だった。……お前がそんな立派な探偵になれるのか?』
『頑張ります!』

 真幌がすかさず答えると、一拍置いて明地は頷いた。デスクの方へ、顎をしゃくってみせる。

『じゃあ、仕事に戻れ』

 そうして真幌の起こした不祥事の件はとりあえず片づいたのだが、本日さっそく、調査の不手際で真幌は明地に怒られてしまった。
 その相変わらずの長い説教のおかげで、この時間だ。
 スーパーや居酒屋の灯りが頭上を覆う駅前を離れ、街灯もまばらな住宅街へと入っていく。真幌はデニムパンツにパーカー姿でリュックを背負い、両手に買い物袋を提げていた。
 角を二つ曲がるとすぐに、真幌の住むアパートの屋根が見えてきた。生暖かい夏の空気を孕んだ風が吹き抜けていく。通い慣れた通勤路。代わり映えしない風景。しかしいつもと違い、胸が妙にふわついている。
 普段、仕事を終え家に帰ると、ご飯とお風呂を最後の気力で済ませ、倒れるように眠っていた。こうして仕事終わりに誰かと会うのはとても新鮮だ。

 ――そう、単純にこの時間から誰かと会うのが珍しく、浮ついているのだ。この気持ちに、別に相手が誰かは関係ない。

 そんなことを思いながら、真幌はアパートの前に辿り着く。
 立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回すが、そこに疑明の姿はなかった。

「あれ?」

 どこにいるのだろうか。本来は一九時待ち合わせではあったが、遅れる旨は連絡してあった。電車から降りる際、もうすぐ着くともメッセージで伝えていたが、その返信はきていない。しかし、てっきり真幌は彼が家の前に移動してきていると思っていた。
 まぁ、どこかで時間を潰しているのだろう。
 そこまで考え、真幌はハッとする。
 まさか、もう家の中に――。
 初めて疑明と出会った日のことが脳裏をよぎる。あの疑明のことだ。遅いからと勝手にピッキングをして家に上がっていてもおかしくない。
 真幌は急いでアパートの敷地に入った。庭から見える自室の窓には、明かりは灯っていない。それでも早歩きで、廊下へと移動する。ドアの前に立つと取ってに手をかけ、下に回しながら手前へ引いた。
 ガン、と固い音がし、ドアは当たり前のようにロックで開かなかった。
 真幌は取ってを握りながら下を向き、ふーと長く息を吐いた。
 いったい何を焦っていたのか。

「あんた、何やってんだ……」

 その声に、真幌はびくっと肩を上げ、自分が通ってきた廊下の入口の方を振り返る。そこには廊下の青白い蛍光灯に照らされながら、ジャケット姿の疑明が立っていた。

「や、帰るのが遅くなったから、急いで帰ってきたんですよ。今ちょうど、鍵を出して入ろうとしてたところで」
「あんた、オレが中に入って待ってると思ったんだろ」

 あっさりと、こちらの胸の内を見透かされていた。う、と言葉に詰まりつつ、真幌は平静を装ってリュックから鍵を取り出す。

「まぁ、前科がありますし? そりゃそう思いますよ」
「もうそんなことしない。そう約束させたのはあんただろう?」
「……そうですね。悪かったです、疑って」

 真幌は素直に謝る。晩ご飯を作る代わりに警察に自首をし、泥棒のような真似から足を洗うよう勧めたのは真幌の方だった。
 疑明にとってもその約束は、軽い気持ちのものではないようだった。ならば自分も、取り決めは守らなければならない。

「遅くなってごめんなさい。入ってください。ご飯、作りますね」

 先に鍵を開けて玄関に入った真幌は、さっと散らばった靴を脇に揃え、疑明を室内に招き入れた。

     *

 フライパンにタレを落とすと、ジュワッと湯気が上がると共に、甘い香りが台所に立ちこめた。菜箸で具材を混ぜていると、背後でご飯の炊き上がりを知らせる炊飯器の音がする。もうあと一〇分もあれば、料理を並べられるだろうか。箸を持ったままフライパンのそばを離れ、冷蔵庫へ。昨日のうちに作っておいた味噌汁の鍋を取り出し、コンロで火にかける。
 できた料理を皿に盛りつけていく過程で、薬味のネギの用意を忘れていたことに気づいた。まな板にネギを用意し、刻んでいると、待ちかねたお客さんが台所に顔を出した。

「すいません、お待たせして。もうすぐできますから!」

 先に真幌が振り返ってそう言うと、疑明はじっと調理台の上を睨んできた。まさか例の、『まなトン』に釣られてきたのだろうか。そう真幌が思っていると、疑明がずいと台所に踏みこんでくる。

「……揚げ出し豆腐か」

 どうやら今日のレシピが気になったようだった。

「そうですよ。あんかけ揚げ出し豆腐。味見しますか?」

 そう言いながら、真幌は切ったばかりの刻みネギを皿の真ん中に振りかける。豆腐に当たったネギは、ぱらぱらとまばらにあんの上に落ちた。自分一人ならここまで手間はかけないが、少しは彩りよくなっただろうか。
 疑明はいつものようにジャケットの内側からマイ箸を取り出す。いただきますと手を合わせ、少し腰を曲げながら調理台の料理に箸を伸ばした。
 台所での味見。何度か見たことのある光景だ。逆に彼の場合、食卓に着いてご飯を食べているところが想像できない。晩ご飯泥棒はつまみ食いが似合う男になっていた。
 食べやすいサイズに切ってある豆腐を、空いている手を添えながら口へ運ぶ。数度咀嚼し、疑明ははっと目を大きくした。

「このあん、もしかしてめんつゆか?」
「そうですそうです。あの味つけはめんつゆだけです」
「そうか。シンプルな調味料のみながら、濃縮具合が絶妙だ。とろみのついたあんは満点だな。それにこの揚げ豆腐も、外は固くて中はふわふわ。綺麗な焼き目がついてて調理の丁寧さが窺える。……うまい」

 お褒めの言葉をいただいた。真幌は心中でガッツポーズを決める。態度には出さないようにしていたが、彼が料理にどんな反応をするかドキドキしていたのだ。

「こちらも一口どうですか?」

 真幌はまだ少し緊張しながら、もう一品の大皿を差し出す。本当は二人別々の皿にしようと思っていたのだが、一人暮らし五年目の真幌の部屋には十分な数の皿の準備がなかった。まだ料理を同じ皿からシェアするのは気まずかったが、仕方なかった。

「これは鶏ゴボウか」

 皿については特に気にしていない様子で、疑明は箸を伸ばす。

「はい。鶏ゴボウの甘辛煮です!」

 真幌は頷いて料理名を発表した。疑明は鶏肉を口に入れる。

「ほぅ、これは……。よくあるザ煮物というような和風な鶏ゴボウと違い、しっかりと濃い味つけがされてる。このまろやかな甘さはハチミツか?」
「なんでも当てちゃいますね。その通り、ハチミツです。あと醤油やラー油で味を調整してます」
「丁寧に肉の灰汁を取りながら作ったんだな。味に雑味がない。ゴボウも太めだがよく汁が染みこんでて美味だ」

 続けて食べたゴボウも飲みこみ、疑明は頷いた。
 よかった。初めて誰か個人に向けて作った手料理は、無事成功したようだった。真幌は安心しつつ、同時に胸の底が疼くような感じを覚えていた。
 なんだか照れる。決して豪華なディナーではないが、疑明は些細な手間や努力を見逃さず認めてくれる。それに、自分の料理で彼が喜んでくれたのが、嬉しい。
 ドクンドクンと、心臓が普段より大きく脈打っている。

「さぁ、ご飯も炊けてます! すぐに用意できますんで、居間に戻って待っててください!」

 頬が熱く灯るのを感じつつも、どこか清々しい気分で、真幌は疑明に声をかけた。

     *

「そういえば、今日はどうしてこんなに遅れたんだ? 約束の時間から」

 二人でちゃぶ台の食卓を挟み、晩ご飯を食べている間、疑明がそう訊ねてきた。

「いやー。また調査で失敗してしまいまして。浮気調査で、中々証拠が掴めず。ヒントになりそうな写真を何枚か撮って帰ったんですが、全部無駄だと怒られまして」
「ほぉ、仕事でもさすがのぽんこつ具合だな」
「ちょ、ちょっと! うるさいです、この元こそ泥! ……はぁ」

 ふっと口の端で笑う疑明に対し、真幌は負けじと張り合おうとする。しかし、実際仕事ができないくせに何を言い返そうとしているのかと、すぐに肩を落とした。

「浮気調査なら後をつければいいだけだろう」

 鶏肉を箸で掴みながら、疑明が言う。

「わたしが行ったのはターゲットが家を留守にしたあとだったから。家族共働きだそうで、家には誰もいないし……。急な依頼だったんです。それもちょっと特殊で、一人暮らしをしてる娘さんからの依頼で」
「浮気をされた者ではなく、その子供からの依頼か」
「そうなんです。話を聞くには、自分の親が不倫してると実家の近所で噂になってるって言うんです。ちょっとお金持ちのお家で、その家の赤いスポーツカーがホテル街で目撃されたって。しかもタイムリーに、昨日の夜も見たって噂になってると地元の友達に知らされたそうで、すぐに調査してほしいと」
「ほぉ」

疑明は口に入れたものを咀嚼しつつ、面白そうな声を漏らした。
実はこの噂、真幌も実際に聞いたことがあった。探偵として近所の会話を盗み聞きして歩く中で、いつか耳にしていたのだ。偶然にも依頼者の実家は、真幌の住むアパートのすぐ近くだったのだ。

「まぁ、明日は家から直行で早朝から張りこんで、旦那さんを一日尾行してみますが。それで尻尾を見せてくれるといいですけど……」
「あんたたちにとっての基本だな。ちなみに、怒られたって写真はどんなだったんだ?」
「写真ですか?」

 真幌は箸を置き、尻に敷くクッションの脇に置いたスマホを手に取った。カメラロールを開くと、ずらりと今日撮影した写真が三列に表示される。家の外観、バルコニーで干された男物の大きなTシャツ、庭に置かれた子供用自転車などだ。サボらずきちんと調査していたのを証明するため明地に見せたはいいが、今考えると確かに意味のない写真たちだ。

「どれどれ」

 疑明が軽く身を乗り出してきたので、真幌は指で写真をスライドして見せてやる。

「これが噂の赤いスポーツカーだな」

 車に詳しくなく種類はわからないが、高級車であることは雰囲気でわかる。そのボンネットは横に広く、ボディは周囲の景色を映し出すほどぴかぴかと反射していた。

「こんなのが走ってたら目立ちますよね。まぁ、まさかホテル街でご近所さんに見られるとは思わなかったんでしょうけど。うちの田舎だと近所の噂話なんて一瞬で町内に広まりますが、こっちでも同じようなものなんですかねぇ」

 そう言いながら、真幌は画面をスライドさせた。車の写真が数枚続く。その間、疑明は顎を指で挟みながら、なぜかとても真剣な表情でスマホ画面を睨んでいた。
 やがておもむろに口を開く。

「晩ご飯のお礼だ。あんたに一つだけ、面白いことを教えてやろうか」

 真幌は疑明を見て目をぱちぱちとさせた。

「まさか、何かわかったとか言うんですか?」
「ああ。簡単な推理だ。しっかりと観察していれば普通にわかることだが」
「ちゃ、ちゃんと見ましたよ。でも特に重要なことは何も……」
「まず一枚目、最初の方にあったバルコニーの写真だ」

 疑明に言われ、真幌はその写真を探してタップする。

「洗濯物が映ってるだけですよね? これはほとんど男物か。お母さんや娘さんとは別々に洗濯してるのかな。夫婦仲の悪さが出てますね……」
「それはそうかもしれないが、ポイントはそこじゃない。もう一枚、次は赤いスポーツカーが映った写真を見てみろ。そうだな、車が横から映ったのがあっただろ」

 それは真幌が、玄関前の駐車スペースにぎりぎりまで近づきながら撮った写真だった。まだ疑明の意図がわからず、訝しげに思いながら真幌は写真を選ぶ。

「気づかないか?」

 そう言われ、真幌はじっと写真を睨んだ。

「車の中まで見えますが、特に浮気の証拠になるようなものは残されてないと思います」
「シートはどうだ?」
「車のシートですか? さらさらしてそうな、高そうなレザーですね。背もたれが丸く、身体がすっぽり包まれそうで、いかにもスポーツカーって感じ」

 そう真幌がコメントすると、疑明が呆れたようにため息をついた。

「やはりあんたじゃ気づけない、か」
「な、なんですか! いったい何がわかるんですか?」

 焦ったようにスマホを凝視しながら、真幌は訊ねる。すると疑明が小さく咳払いをした。

「見るのはシートの位置だ」
「シートの位置、ですか?」

 言われた部分を意識してチェックしてみるが、特に違和感はない。

「シートがかなり前に出てるの、気づかないか? 助手席と比べてみてもわかるだろ」

 疑明にそう言われ、真幌はさらにスマホに目を近づける。

「あっ、確かに! 助手席より運転席の方が前に出てますね。かなり狭そうです」
「そうだろう。それで、さっき見た洗濯物を思い出してみろ。干されてた男物の服はどちらかと言うと大きなサイズだっただろう? 果たしてこの家で暮らす家族の旦那はこんな座席位置で運転ができたのか」
「なるほど。確かに変ですね」
「ホテル街で車が目撃されたのは、昨日の夜。お前の話では、今日は家族みんな、日中は留守にしてたとのことだった。つまり車が動いてたのは、その目撃された夜が最後。あとは、だいたい何が言いたいかわかるだろ。あんたは旦那を一日尾行だとかなんとか言ってるが、今回の件、怪しいのは妻の方かもしれないな」

 真幌は全身がぞわぞわと泡立つのを感じた。凄まじい洞察力。写真からでも些細な痕跡を見逃さず、その推理力を活かしヒントを見出してしまう。
 昨晩、ホテル街で車を運転していたのは妻の方かもしれなかった。この可能性は放ってはおけない。浮気調査の依頼がきたときから、真幌は旦那だけをターゲットに絞りこんでしまっていた。

「……さすがですね」

 真幌は今の気持ちを素直に口にしていた。

「まぁな」

 そう言って、疑明はまた晩ご飯に向き直る。
 このキレる頭脳を持って、彼は晩ご飯泥棒をしていたのだ。それはもうさまざまな家に忍びこみ、謎のポリシーに則って、たくさんの家庭の謎を解決してきたのだろう。
 これからはもう、そんなことはできない――させないが。

「ねぇ、疑明さん。また、今までに解決してきた家庭の問題、聞かせてくださいよ」

 真幌はなんだか楽しい気分になり、疑明に言った。疑明はどこか不審そうな目で真幌を見返してくる。

「推理の勉強にもなりますし、お願いします。これからも晩ご飯作ってあげますから。ウィンウィンでいきましょう」

 そう真幌は継ぎ足し、口の端を上げてみせる。

「ウィンウィンねぇ。まぁ、この料理を食べられるなら……」
呟きながら、疑明は箸でゴボウを口に運ぶ。ゆっくりと租借して飲みこみ、しみじみと言った。
「懐かしい味だな。昔を思い出す」

 昔。それは真幌の料理を食べた、施設でのオリエンテーションのことだろうか。それともまた違った、その味から蘇る郷愁のようなものがあったのだろうか。わからないが、彼の言葉は続いた。

「日常の中で淘汰されゆく記憶が想起する瞬間というのは、最高の贅沢に感じるな」

 真幌は手元の皿に視線を落とした。鶏肉を箸で取り、食べてみる。確かにそれは懐かしい、母親の味だ。目を瞑って感覚を全て舌に預けると、自然と目蓋の裏に実家の情景が浮かんでくる。
 素人の手作り料理に、こんな不思議な力が秘められているなんて。
 それにこの料理の味が、大切な人をまた自分のもとに引き寄せてくれもした。
 家庭の味。それが持つ可能性は計り知れない。彼が夢中になっていた理由もわかる気がした。

 東京にきて約五年。思い返すと、真幌はなんだかどんよりと雲のかかったような日々をすごしていた。自分の進むべき道が、霞んでしまっていたからだろうか。自分の在り方に、不安を覚えてしまっていたからだろうか。
しかし、気づけばその陰りは消えており、辺りを見回せば景色が明るく見える。
 今を生きている。そんな言葉が頭に浮かんだ。ハッと我に返ったような、現実に戻ったような。真幌は今、そんな気分を味わっていた。
 きっかけは彼との再会だ。
 現状と向き合い、今後自分がどうなりたいか、そのためにどうするべきか、気づくことができた。
 過ちも犯したが、それも過去を改めて見つめ直し、自分の憧れ――目標をはっきりさせる要因になったと思う。
 そしてこの先、今を精一杯生きる中で何気ない思い出に浸れる瞬間があったなら、それはどれほど幸せだろう。

「こんな時間があったこともいつか思い出せるように、これからもご飯、作ってあげますから」

 真幌はそう言って、静かに微笑んでみせる。ご飯を作ってあげる、それは再びの宣言だ。以前、疑明はその条件を聞いて晩ご飯泥棒をやめている。疑明はそのときと同じように、薄い笑いを返してきた。

「この時間が思い出になるまで、か?」
「はい、そうです。何十年後になっても」

 疲れた日常で作った保存料理が、彼と自分を引き合わせてくれた。
 これはきっと家庭の味の力による奇跡だろう。
 恥ずかしくて口には出せないが、真幌はそう心の中で思っていた。



(了)










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