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〈幕間〉
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〈幕間〉
入口を入ってすぐ左手にあるパーテーションで区切られたスペースには、長細いローテーブルに、深く腰かけられる一人用のベロアのソファが四脚設置されている。明地探偵事務所の相談室だ。
この薄い壁で作成された、部屋とも呼べない簡素な空間で日々、深刻な悩みや問題のカウンセリングがなされている。ドアもないことから少し大きな声で話せば外まで丸聞こえで、プライバシーもへったくれもないオープンスタイルだが、いかんせん事務所が狭く他にどうしようもないのだ。
しかし、そんなオープンなスペースだからこそ、相談者の予約がないときは調査員や事務員が気軽に入って休憩することができていた。
「先輩ってパーソナルカラー、ブルべって感じですよねー。今どんなリップ使ってます? クリアピンクで超オススメのやつがあってー。今日一緒に買いに行きません?」
そう、ソファで脚を組みながら明日花が話題を振ってくる。梅雨入りしたばかりのじめじめした空気の中、外に出るのが億劫なのか、めったに飲まない事務所のサーバーのコーヒーを氷入りですすっている。
「ブルべ? 何それ」
おそらくメイク用語だろうが、初めて聞く言葉だった。真幌は首を捻って返しつつ、テーラードジャケットを脱いで中に着ていたボタンダウンシャツ姿になる。六月に入り、明地事務所でも待望の冷房開きが行われたのだが、壊れているのかかなり効きが悪いのだ。
「えー、知らないんですか? パーソナルカラー。ブルーベースとイエローベースがあって、まぁ簡単に言うとその人に似合う色ってことですね。診断の仕方はいろいろあるんですけど、先輩は白目が綺麗ですし、腕に浮いてる血管も青っぽいのでブルべです! ブルべの人は寒色、透明感のあるメイクが似合うんです。オレンジ系はNGで。あたしは逆のイエベなんで、明るい色とかアースカラーが合いますね。もっと細かく、イエベ春とかイエベ秋とか分類されてくんですけど」
コーヒーの入ったマイカップを置いて、明日花が熱心に説明してくれる。聞きながら、これは世の女性の間では知っていて当たり前のことなのだろうかと真幌は考えていた。
「あー、なるほどね。なんとなくわかった。でも化粧品とか、学生のときからずっと同じの使ってるなー」
「えー、ダメですよ! 毎シーズン、どんだけ新作が発売されていってるかわかってるんですか? お給料何に使ってるんですか?」
「一人暮らしの非正規雇用者に、毎月化粧品を買い漁るような余裕は小指の爪ほどもないんです。だいたい、わたしは調査員だから。あんまり派手な格好はできないし」
なんだか虚しくなりながら、真幌は自分の現状を吐露した。しかし、明日花はぶんぶん首を横に振る。
「別に派手に目立てって言ってるわけじゃないですよー。先輩に馴染むメイクを見つけようって話です。それに、こんな話をするのにも理由があるんですよ」
「理由?」
「はい! 最近気づいたんですけどー、特に予定がない日でも朝からばっちりメイクで武装して外に出れば、一日がいい日になるんですよ! なんだかうきうきするっていうか、何がどうってわけじゃないけど、なんだかんだ充実するんです。これ、マジ人生いい方向に向かってく、女だけの裏技ですよ」
ほう、と真幌は息を呑み、まじまじと明日花の顔を見る。
お気に入りの服を着て外に出ると、なんだか心が弾む感覚を覚える。少しだけ、遠出してみようかと思える。そんな気分なら真幌も味わったことがあった。それと同じだろうか。
「それにですよ、ちゃんとメイクしてれば、いきなりのお誘いにもベストコンディションで対応できます。仕事終わりに友達にご飯に誘われたって、躊躇せず直行することができます。そういう積み重ねが実際あって、日々が充実するって言えるんですよ」
そう、明日花は得意げに指を立てながら続けた。
明日花の理論には納得できる。しかし、夜遅くふらふらになって家に帰り、陽がのぼると飛び起きて家を出る生活をしている自分が、朝からがっつり化粧に取り組む姿は中々想像が難しかった。したいのはやまやまだが。
「ふーん、なるほどね。それで、いい方向に行ってるの? 彼氏との恋愛の方は」
あまり乗り気でない化粧品トークが続くのを避けたく、真幌はそこで話を振った。
「それがですねー。聞いてくださいよ先輩ー」
気持ちいいほど見事に、明日花はその話題に食いついてきた。
「優しいのはいいんですけどねー、もっと相手してほしいっていうか。先週の土曜日もデートしよって誘ったのに、バイトがあるって断られたし」
「バイト? 確か普通に会社員してたよね。保安用品か何かの営業だっけ?」
「そうそう。そうなんですけどー。なんか、結婚のためにお金を溜めたいとか言って」
「えー、いいじゃん! 真剣に考えてくれてるじゃん。まさかそこまで話が進んでたとは!」
真幌が驚き交じりに興奮する前で、明日花は難しそうに額に皺を寄せる。
「そうですけどー。なんていうか、いろいろ後回しにしすぎっていうか……」
「うーん。まぁ、そうも思うけどねー。彼は彼なりに頑張ってるんじゃない?」
真幌はなんとか明日花の彼氏のフォローをする。しかし明日花は釈然としない表情のままだった。真幌よりよっぽど恋愛経験豊富な明日花に、真幌の意見は響かなかったらしい。
「今、妹が家にきてるんですよー。大学一年なんですけど、高校三年の頃から同じ人とつき合ってて。もうその人と結婚するって、自慢するように言ってるんですよー。ウザいんですけど、同時にあたしも昔、そんなこと言ってる時期があったなーって思い出して。いつから結婚がこんなに現実的で、高いハードルに感じるようになったんですかねー」
真幌は相槌を打ちつつ聞いていた。言っていることはわかるし、想像できる。ただ、やはり経験不足が祟り、気の利いたことは何も言えなかった。彼氏ができたことは何度かあったが、結婚の話になったことは一度もない。
「はー。ていうかあいつ、毎日毎日のろけてきやがって。彼氏の好物だから練習するっつって、勝手に大量のカレー作りだすんですよ? 最近毎日カレーです。ずかずか上がりこんどいて部屋が狭いって文句言うわ、その辺に荷物広げたまま出かけるわ」
気づけば、話はいつの間にか妹の愚痴になっていた。
「それにあいつ、朝、うちの鍵を勝手に持って出ていったりするんです。代わりに実家の鍵をテーブルにほったらかして。もうやりたい放題すぎないですか? 出勤するときわざわざ彼氏呼んで、合鍵で戸締りしてもらったんですよ?」
「それは大変だね……。なんで妹さんこっちに?」
「あー、両親が仕事の関係で二週間ほど海外に行ってて。その間、大学サボってうちにきてるんです。都会で遊びたいとか言って」
確か明日花の実家は埼玉の校外の方だったはずだ。電車だと都心まで二時間ほどかかる。
明日花ははぁと深くため息をつき、それから顔を上げて真幌に小さく手を合わせてきた。
「ごめんなさい。なんか文句みたいなの聞いてもらっちゃいましたねー。先輩は? 最近何かいいことありました?」
いいこと、と言われ考えてみたが、思い浮かばない。明日花に続き、ため息をつきそうになる。
「はあぁ……」
いや、我慢できず息を大きく吐いてしまった。明日花が驚いたように目を大きくしてこちらを見てくる。
いいことなんてない。悪いことばかりだ。
「えー最近先輩いい波乗ってるんじゃないんですかー? 前だって見積もりがまだの猫の依頼解決してたじゃないですか。偉そうにしてた所長のぎゃふん顔、見たかったですよー」
むしろその件が、一番気がかりになっている。あれから事務所にいる間は、いつも気まずい気分ですごしている。
真幌はソファから少し腰を上げ、おそるおそるパーテーションの入口から顔を出してデスクの島の方を見る。今の明日花の声は、思いっきり事務所内に漏れていた。デスクには事務員が数名、明地の姿はない。荷物の集荷にきていた運送屋の兄ちゃん、高梨と目が合って、真幌は軽く会釈する。
真幌はソファにかけ直すと同時に、安堵に肩を撫で下ろした。力が抜けたせいか、ぶるっと身震いもしてしまう。
「寒いですか? エアコン見てたんですか?」
そう明日花が訊ねてくる。
「や、違う違う。むしろ事務所は暑いくらい」
「ですよねー。ほんと暑すぎ。全然冷房効いてない。所長が夏前だからってケチって、設定温度上げてるんですよ」
「あ、それで暑いんだ! 冷房壊れてるのかと思ってた」
「そうなんですそうなんです。あたし、この前所長に直接文句言ったんです。そしたら、まだ夏前だからこれくらいでちょうどいいだろって」
「あー、そうだったのね。ていうか、あの人に文句を言えるあんたがすごいよ……」
そう言いながら、真幌は尊敬に近い眼差しで明日花を見てしまう。こんな奔放な性格で生きられたらどれだけ楽だろう。自分には想像もできない。
今後、自分と明地の関係がどうなっていくのか。それが不安として頭をよぎり、真幌はまたため息をつきそうになった。
入口を入ってすぐ左手にあるパーテーションで区切られたスペースには、長細いローテーブルに、深く腰かけられる一人用のベロアのソファが四脚設置されている。明地探偵事務所の相談室だ。
この薄い壁で作成された、部屋とも呼べない簡素な空間で日々、深刻な悩みや問題のカウンセリングがなされている。ドアもないことから少し大きな声で話せば外まで丸聞こえで、プライバシーもへったくれもないオープンスタイルだが、いかんせん事務所が狭く他にどうしようもないのだ。
しかし、そんなオープンなスペースだからこそ、相談者の予約がないときは調査員や事務員が気軽に入って休憩することができていた。
「先輩ってパーソナルカラー、ブルべって感じですよねー。今どんなリップ使ってます? クリアピンクで超オススメのやつがあってー。今日一緒に買いに行きません?」
そう、ソファで脚を組みながら明日花が話題を振ってくる。梅雨入りしたばかりのじめじめした空気の中、外に出るのが億劫なのか、めったに飲まない事務所のサーバーのコーヒーを氷入りですすっている。
「ブルべ? 何それ」
おそらくメイク用語だろうが、初めて聞く言葉だった。真幌は首を捻って返しつつ、テーラードジャケットを脱いで中に着ていたボタンダウンシャツ姿になる。六月に入り、明地事務所でも待望の冷房開きが行われたのだが、壊れているのかかなり効きが悪いのだ。
「えー、知らないんですか? パーソナルカラー。ブルーベースとイエローベースがあって、まぁ簡単に言うとその人に似合う色ってことですね。診断の仕方はいろいろあるんですけど、先輩は白目が綺麗ですし、腕に浮いてる血管も青っぽいのでブルべです! ブルべの人は寒色、透明感のあるメイクが似合うんです。オレンジ系はNGで。あたしは逆のイエベなんで、明るい色とかアースカラーが合いますね。もっと細かく、イエベ春とかイエベ秋とか分類されてくんですけど」
コーヒーの入ったマイカップを置いて、明日花が熱心に説明してくれる。聞きながら、これは世の女性の間では知っていて当たり前のことなのだろうかと真幌は考えていた。
「あー、なるほどね。なんとなくわかった。でも化粧品とか、学生のときからずっと同じの使ってるなー」
「えー、ダメですよ! 毎シーズン、どんだけ新作が発売されていってるかわかってるんですか? お給料何に使ってるんですか?」
「一人暮らしの非正規雇用者に、毎月化粧品を買い漁るような余裕は小指の爪ほどもないんです。だいたい、わたしは調査員だから。あんまり派手な格好はできないし」
なんだか虚しくなりながら、真幌は自分の現状を吐露した。しかし、明日花はぶんぶん首を横に振る。
「別に派手に目立てって言ってるわけじゃないですよー。先輩に馴染むメイクを見つけようって話です。それに、こんな話をするのにも理由があるんですよ」
「理由?」
「はい! 最近気づいたんですけどー、特に予定がない日でも朝からばっちりメイクで武装して外に出れば、一日がいい日になるんですよ! なんだかうきうきするっていうか、何がどうってわけじゃないけど、なんだかんだ充実するんです。これ、マジ人生いい方向に向かってく、女だけの裏技ですよ」
ほう、と真幌は息を呑み、まじまじと明日花の顔を見る。
お気に入りの服を着て外に出ると、なんだか心が弾む感覚を覚える。少しだけ、遠出してみようかと思える。そんな気分なら真幌も味わったことがあった。それと同じだろうか。
「それにですよ、ちゃんとメイクしてれば、いきなりのお誘いにもベストコンディションで対応できます。仕事終わりに友達にご飯に誘われたって、躊躇せず直行することができます。そういう積み重ねが実際あって、日々が充実するって言えるんですよ」
そう、明日花は得意げに指を立てながら続けた。
明日花の理論には納得できる。しかし、夜遅くふらふらになって家に帰り、陽がのぼると飛び起きて家を出る生活をしている自分が、朝からがっつり化粧に取り組む姿は中々想像が難しかった。したいのはやまやまだが。
「ふーん、なるほどね。それで、いい方向に行ってるの? 彼氏との恋愛の方は」
あまり乗り気でない化粧品トークが続くのを避けたく、真幌はそこで話を振った。
「それがですねー。聞いてくださいよ先輩ー」
気持ちいいほど見事に、明日花はその話題に食いついてきた。
「優しいのはいいんですけどねー、もっと相手してほしいっていうか。先週の土曜日もデートしよって誘ったのに、バイトがあるって断られたし」
「バイト? 確か普通に会社員してたよね。保安用品か何かの営業だっけ?」
「そうそう。そうなんですけどー。なんか、結婚のためにお金を溜めたいとか言って」
「えー、いいじゃん! 真剣に考えてくれてるじゃん。まさかそこまで話が進んでたとは!」
真幌が驚き交じりに興奮する前で、明日花は難しそうに額に皺を寄せる。
「そうですけどー。なんていうか、いろいろ後回しにしすぎっていうか……」
「うーん。まぁ、そうも思うけどねー。彼は彼なりに頑張ってるんじゃない?」
真幌はなんとか明日花の彼氏のフォローをする。しかし明日花は釈然としない表情のままだった。真幌よりよっぽど恋愛経験豊富な明日花に、真幌の意見は響かなかったらしい。
「今、妹が家にきてるんですよー。大学一年なんですけど、高校三年の頃から同じ人とつき合ってて。もうその人と結婚するって、自慢するように言ってるんですよー。ウザいんですけど、同時にあたしも昔、そんなこと言ってる時期があったなーって思い出して。いつから結婚がこんなに現実的で、高いハードルに感じるようになったんですかねー」
真幌は相槌を打ちつつ聞いていた。言っていることはわかるし、想像できる。ただ、やはり経験不足が祟り、気の利いたことは何も言えなかった。彼氏ができたことは何度かあったが、結婚の話になったことは一度もない。
「はー。ていうかあいつ、毎日毎日のろけてきやがって。彼氏の好物だから練習するっつって、勝手に大量のカレー作りだすんですよ? 最近毎日カレーです。ずかずか上がりこんどいて部屋が狭いって文句言うわ、その辺に荷物広げたまま出かけるわ」
気づけば、話はいつの間にか妹の愚痴になっていた。
「それにあいつ、朝、うちの鍵を勝手に持って出ていったりするんです。代わりに実家の鍵をテーブルにほったらかして。もうやりたい放題すぎないですか? 出勤するときわざわざ彼氏呼んで、合鍵で戸締りしてもらったんですよ?」
「それは大変だね……。なんで妹さんこっちに?」
「あー、両親が仕事の関係で二週間ほど海外に行ってて。その間、大学サボってうちにきてるんです。都会で遊びたいとか言って」
確か明日花の実家は埼玉の校外の方だったはずだ。電車だと都心まで二時間ほどかかる。
明日花ははぁと深くため息をつき、それから顔を上げて真幌に小さく手を合わせてきた。
「ごめんなさい。なんか文句みたいなの聞いてもらっちゃいましたねー。先輩は? 最近何かいいことありました?」
いいこと、と言われ考えてみたが、思い浮かばない。明日花に続き、ため息をつきそうになる。
「はあぁ……」
いや、我慢できず息を大きく吐いてしまった。明日花が驚いたように目を大きくしてこちらを見てくる。
いいことなんてない。悪いことばかりだ。
「えー最近先輩いい波乗ってるんじゃないんですかー? 前だって見積もりがまだの猫の依頼解決してたじゃないですか。偉そうにしてた所長のぎゃふん顔、見たかったですよー」
むしろその件が、一番気がかりになっている。あれから事務所にいる間は、いつも気まずい気分ですごしている。
真幌はソファから少し腰を上げ、おそるおそるパーテーションの入口から顔を出してデスクの島の方を見る。今の明日花の声は、思いっきり事務所内に漏れていた。デスクには事務員が数名、明地の姿はない。荷物の集荷にきていた運送屋の兄ちゃん、高梨と目が合って、真幌は軽く会釈する。
真幌はソファにかけ直すと同時に、安堵に肩を撫で下ろした。力が抜けたせいか、ぶるっと身震いもしてしまう。
「寒いですか? エアコン見てたんですか?」
そう明日花が訊ねてくる。
「や、違う違う。むしろ事務所は暑いくらい」
「ですよねー。ほんと暑すぎ。全然冷房効いてない。所長が夏前だからってケチって、設定温度上げてるんですよ」
「あ、それで暑いんだ! 冷房壊れてるのかと思ってた」
「そうなんですそうなんです。あたし、この前所長に直接文句言ったんです。そしたら、まだ夏前だからこれくらいでちょうどいいだろって」
「あー、そうだったのね。ていうか、あの人に文句を言えるあんたがすごいよ……」
そう言いながら、真幌は尊敬に近い眼差しで明日花を見てしまう。こんな奔放な性格で生きられたらどれだけ楽だろう。自分には想像もできない。
今後、自分と明地の関係がどうなっていくのか。それが不安として頭をよぎり、真幌はまたため息をつきそうになった。
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