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第一話 萎れゆくレタスのように
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第一話 萎れゆくレタスのように
目が覚めると、台所にイケメンが立っていた。
「…………は?」
わけがわからなかった。
朝の一〇時まで寝坊し、完全に遅刻で、真幌はかなり急いでいた。おそらく顔はとんでもなく青ざめていただろう。昨日ミスをしてたっぷり怒られ、頑張らなければと意識した矢先の出来事だ。居間の床に落ちていたスマホを拾い上げると、事務所からの着信履歴で画面が埋まっていた。
そして、とにかくまず顔を洗おうと、台所への扉を開けたときだった。目に飛びこんできたその光景に、真幌の周りを流れる時間は凍ったように固まった。
謎の高身長黒髪男子が調理台の前で、目を見開いてこちらを見ていた。その手には、構えられた箸。真幌が休みの日に作り、冷蔵保存していた作り置き料理のタッパーが、開いた状態で台の上に置かれている。
ちょっとタイム、と言いたかった。理解が追いつかない。なぜこんなイケてるメンズが家にいるのだろう。
歳は二十代後半くらいだろうか。ネイビーのスーツにピンクのシャツ、赤いレジメンタルタイをしっかりと締めている。手には薄手の白い手袋をしていた。
髪はくしゃっと柔らかそうな黒髪だ。鼻が高く、目尻がすっと切れ長に伸び、中性的な整った顔つきをしている。
先程、所長からの着信の中に混ざって、年下の事務員の明日花(ルビ:あすか)からこんなメッセージが届いていたのが思い起こされた。
『せんぱーい、遅刻、所長激おこですよ(笑)昨晩はどっかの男と盛り上がったりしたんですかー?(笑)』
――まさか昨晩、何かとんでもない過ちを犯してしまったのだろうか。
真幌は寝起きの脳をフル回転させ、記憶を辿る。
深夜、仕事疲れでふらふらになって帰ってきた真幌は、なんとか気力で化粧を落とし、ジャケットとブラウスとアンクルパンツを脱いで、居間の畳に敷いたままにしている布団へと倒れこんだ。それからアラームだけでもセットしなければとスマホに手を伸ばしたところで、あることを思い出したのだ。
近頃、五月であるにもかかわらず、蒸し暑い日が続いている。日中は三〇度近くになることもあり、梅雨を飛び越して夏が到来したようだった。そんな中、真幌はつけ替えるのが面倒で、冬用のムートン調毛布生地のシーツで寝ていたのだ。最近寝苦しく、夜起きてしまうことが増えていたのだが、そのときは暑さより眠気が勝ってしまい、朝になるとバタバタして結局シーツを変えることはしないというのを繰り返していた。
思い出した今、行動しておかなければ、今日も夜中に目が覚めてしまう。
そう思い、真幌は夏用のリネンシーツを求めて押入れに頭を突っこんだ。シーツは奥の方にしまいこんであり、真幌は身体ごと中へと入っていく。すると、暗い押入れの中で冷えた、さらさらのシーツに手が触れた。その感触が心地よく、そのまま頬をすり寄せたところまでは覚えている。
起きると、押入れの中だった。
真幌はアラームのセットを忘れたまま、暗闇の中、朝の訪れに気づくことなく熟睡してしまったというわけだった。
「ん?」
では、このイケメンはいったいなんなのだろう。
乙女にあるまじき間違いは犯していないようだが、真幌の中の疑問は解けないままだ。
そのとき、なぜか真幌と同じく驚いた表情をしていた男が、初めて声を発した。
「……どうして? いないことは確認したぞ?」
先に留守を確認して、侵入したということだろうか。ならば、やはりこの男は泥棒か? それとも空き巣? もしくは変態? しかし、なぜ台所に立って料理に手をつけようとしているのか、と真幌は首を捻る。
それに、どうやって部屋に入ってきたのだろう。最近わけあって、戸締りだけは完ぺきにしていたのだ。
「あなた、何者――?」
そう、真幌が疑問をぶつけたときだった。男の視線が、真幌の顔からすーっと下に落ちた。真幌も、その視線を追ってすーっと下を向き、
「ひゃあ!」
薄手のシャツに下着姿で立っていたことに気づき、慌てて広げた手を下半身に当てた。服を脱いで寝ていたことを忘れていた。
――見られた……見られた!
真幌は手で下着を隠そうとしながら、ちらと男の方を見る。
男は台所から動かず、眉を顰めた呆れ顔で真幌を眺めていた。
「み、見ないでください……」
不審なイケメンに懇願しながら、真幌は自分のドジさに泣きたくなった。
*
「すいません。いえ、調査には必ず行きます。はい、すいません。え、今すぐ? あー、どうでしょう……、ちょっと訳ありで。すいませんっ!」
丁度ズボンを履いていたとき、明地から何度目かわからない着信があった。電話に出ると、案の定怒鳴られた。
真幌は謝りながらも不審者のことは話さなかった。言い訳していると捉えられても困るし、何せ説明が難しい。朝起きたら台所にイケメンが立っていて――なんて言うと、本気で頭を心配されるか、早くいい人を見つけて結婚しろと諭されそうだ。
とにかく、彼が何者か確かめなければ。
そう思いながら、真幌は畳に座る男に視線を向けた。男はどこかむすっとしたような顔で、ちゃぶ台に肘を突いている。真幌に見つかったあとも、なぜか男は逃げようとはしなかった。明地からかかってきた電話に出る間、真幌はついジェスチャーでちゃぶ台の前に座るよう男に勧めてしまったのだ。
すると男は開けていたタッパーを冷蔵庫にしまい直し、素直に居間へ入ってきた。そして畳にどっかり腰を下ろしたのである。それは日常からかけ離れた、ミステリーすぎる状況だった。
「えと、質問してもいいですか?」
真幌は立ったまま、恐る恐る訊ねた。
「ああ、いいけど」
男はなぜか余裕たっぷりに頷いてくる。
「じゃ、じゃあ……あなた、何者ですか?」
「あー。……端的に言えば、泥棒?」
「やっぱりそうか! そうなのか! お前だったのかこの変態! 警察に……じゃなくて」
最初の予想通り泥棒で正しかったのかと思いかけ、しかし一番の疑問が頭によぎる。
「どうして泥棒が、人の家の台所に立ってご飯を食べようとしてるんですか?」
男がちらりと真幌を見た。ちゃぶ台に突いていた肘から顎を外す。
「オレはただの泥棒じゃない。晩ご飯泥棒とでも言おうか。あんたの家のご飯を盗み――もとい、いただきにきた」
「ば、晩ご飯泥棒?」
その全く聞き慣れない単語に、真幌は眉を顰めて首を傾げた。
「ああ。オレはいろんな家を回って、作り置きのご飯をいただいてるんだ」
そう言って、男は上着の内ポケットから名刺でも取り出すかのように、布でくるんだマイ箸を取り出してみせた。
「は、はぁ? なんですかそれ。聞いたことないです」
ただ、マイ箸を取り出されたところで、理解が追いつかないのには変わりない。どっしりとした態度だが、几帳面なところもあるのだなと思うくらいだ。
「晩ご飯をつまみ食いしたいがために、台所に立ってたっていうんですか? どうして他人の家に侵入してまでご飯を?」
真幌の言葉に、男は腕を組みながら答えた。
「悪いか?」
「わ、悪いよ!」
真幌は反射的に突っこんでいた。そもそも思いっきり不法侵入だ。つまみ食いだって、ここまで本気でやれば罪になるのだ。
納得できない様子の真幌を見て、男はふぅと息をついた。
「オレ、家庭の味っていうのが大好きなんだ。店で食べる味はブレがあってはいけないから、調味料でしっかりと画一され、それも万人向けに仕上げられたものになる。対して家庭の味は自分や家族のために作られたもの。些細な味つけや味噌汁の具の種類、野菜の煮崩れ具合まで、そこには調味料だけでは表現しえない、深く優しい味わいがある」
「深く優しい味わい、ですか」
「そう。ハマチのたれ漬けとサラダ、ご馳走様。おいしかった」
男が挙げたのは、今、冷蔵庫に保存している二種類の作り置きご飯だった。ハマチのたれ漬けは、醤油にハマチの切り身を漬け、ネギや胡麻などをふりかけて味つけしたもの。炊き立てのご飯を乗せるだけで、食欲が止まらなくなる。ザ、シンプル、自分のためだけに作られた一人暮らし飯である。
だが、そんなメニューを、
「特にハマチのたれ漬けだな。醤油がほどよく染みこみ、形は崩れないままとろっとした食感になっていた。薬味のネギと一緒に千切りされた大根の葉がたっぷり入っていて、食感が楽しく、濃い味の中にさっぱりとした水気が気持ちいい。保存のための調理法としては最強だな。刺身が半額になってるのを見たら、あれを作るために買いこんでしまいそうだ」
なんと男はべた褒めしてきた。
どうせ一人で食べる分なので、一切手を加えてはいない。そんな料理をここまで褒められ、真幌は急に照れ臭くなる。
おっしゃる通り、夕方のスーパーでハマチが安くなっているのを見つけ、作ったのだ。値下げ前のお刺身なんて、高くて買えやしない。大根の葉をたっぷり使えているのは、田舎の実家から決まって二週に一度、定期的に野菜が送
られてくるからだ。
「ま、まぁ、お口に合ったならよかったですけど。たまにアボガドを入れたりもするんですよ?」
どぎまぎと視線を横に逸らしつつ言って、真幌はちゃぶ台の前に腰を下ろした。
自分の料理を他人に食べてもらうことなんて、ここ最近なかった。幼い頃は忙しい母親の代わりに台所に立ったり、わけあってとある施設で料理当番をしたりしていたこともあったが。しかしよくよく考えれば、こうして一人の異性に手料理をおいしいと言ってもらうのは初めてのことだ。
なんだか妙に緊張してきた。ちゃぶ台を挟んで向かいに座ったことで、イケメンと同じ高さで目が合う。思わず真幌の方から逸らしてしまった。男は不思議そうに首を傾げる。
やばい、ドキドキする。と胸を押さえた真幌だが、しかし、ぶんぶんと頭を横に振った。
「ドキドキ、ではなくてっ! 晩ご飯泥棒? あなた、どこから入ったんです? 戸締りは完璧にしていたはずです。だいたい、わたしに見つかってから、なぜ逃げようとしなかったんですか? 自分が泥棒という自覚はあるんですよね? 晩ご飯泥棒とか言って、これ立派な犯罪ですよ? ていうか、どうしてわたしの家を狙ったんですか?」
「ドキドキってなんだ。それに、質問が多すぎる」
真幌が一気に畳みかけたにもかかわらず、男は至って落ち着いた様子で腕を組んだ。
「そうですね。では、あなたの名前から聞かせてください」
「それ、さっきの質問の中には入ってなかったな」
「知らないと不便なので、先に教えてほしいです」
真幌はこほんと咳をして、男の顔を見る。質問を大量にぶつけ、息巻いているのがなんだか恥ずかしくなり、一旦話題をずらしたのだった。
「名前、ねぇ。オレは疑明(ルビ:ぎめい)だ。下の名前は秘密」
男は指で空中に書くようにして、名前の漢字を教えてくれた。
「疑明さん……。あ、わたしの名前は――」
「牧原真幌」
「え、どうして知って――」
「この部屋のポストのネームプレートに書いてあるだろ」
「ああ、そうですか。そうですよね」
自分のことを調べられているのかと、ドキッとしてしまった。真幌が密かに胸を撫で下ろしていると、疑明は続けて口を動かす。
「まず、オレがこの家をターゲットに選んだ理由から説明しようか。あんた、週に一度か二度、必ず近所のスーパーで買い物してるだろ。それも、肉や乳製品を中心に、食材を大量に。よって自炊をしてることが窺える」
「な、なんで知ってるんですか!」
やはり調べられていたのか、と真幌はぶるりと身震いする。
実家から野菜が送られてくるので、消費しなければならない。お金もないし、必然的に自炊をすることになるのだ。
「ターゲットを求めて、スーパーを張ってたりするんだ。ターゲットに定めてからは、少しあんたのことを観察させてもらった。木造アパートの一階で、一人暮らし。水曜日の休み以外、毎朝八時に家を出ていく。戻りはまちまちだが、夜が遅い傾向にある。職業は、探偵かな」
「え、え、待ってください。どうしてわたしが探偵だと思うんですか?」
この職に就いて五年、まさか知らずのうちに探偵オーラでも漏れ出るようになっていたのだろうか。しかし、それはこの仕事においてはかなりまずい。基本的に、ターゲットにバレることがあってはならないのだ。
「この部屋に入れば一発でわかるけど――。オレがあんたの職業を推理した材料は……」
疑明は最初、ちらりと天井を見上げた。あまりそちらを見ないでほしい。そこにはちょっと恥ずかしいものがある。そんな真幌の願いが通じたか、疑明はそれ以上天井については言及せず、すっと立ち上がって居間の隅へと向かっていった。
押入れと反対側の部屋の奥には、真幌が入居してすぐに家具量販店で購入した簡易クローゼットがあった。真っ白な木製で、アンティーク風な彫刻の取ってがオシャレなそれは、畳の部屋の隅ですっかりその魅力を半減させている。きっとクローゼット的にも天井の高いフローリングの洋室に置かれるのが本望だろう。
そんなアンティークの取ってに、疑明が手をかける。
「えっ、ちょ、何を――」
驚いた真幌が立ち上がる間、疑明は勢いよくクローゼットの扉を引き開けた。
「お、お、お、乙女のクローゼットを勝手に! やっぱり変態!?」
別に下着をそのままぶら下げていたりするわけではないが、無性に恥ずかしく、真幌は叫んでしまう。普通、初対面の女性のクローゼットを勝手に勢いよくオープンするか? この男、イケメンならなんでも許されると思っているのか?
そんなパニックになった真幌を、疑明が振り返る。
「これだよ。あんたが探偵をしてると思った理由。クローゼットの中身がこんなふうになるのは、オレの見解では泥
棒か探偵、もしくはコスプレイヤーくらいだから」
混乱状態だった真幌は、ハッとして疑明の言葉を反芻した。
「……説明してもらって、いいですか?」
「この多種類な衣装、私服にスーツ、ドレス、作業着、これは運送屋のユニフォームだな。シーンによって使い分けるんだろ? あんたはスーツで通勤する日と私服で通勤する日がある。スーツで家を出た日は、そのままビジネス街にでも調査に行くんだろう。私服の日はスーパーや商店街にでも行くのか、それともどこかで作業着に着替え、住宅点検のフリをしてマンションにでも侵入するのか。作業着は、あんたの庭に干されているのを一度見たことがある。コスプレイヤーと考えるには奇抜な衣装が少ないから、探偵だ」
「どこまで見てるんですかこの変態!」
気づかぬうちに、真幌の行動は観察しつくされていたらしかった。
――でも、服装を見て職業を当てたのか。
そう考えると、ぞくっときて、真幌は身を竦めて身体を震わせる。
これは真幌の癖だった。性癖と言ってもいいかもしれない。鮮やかな推理を見たり聞いたり読んだりしたとき、身体が勝手にぞくぞくするのだ。真幌にとってそれは快感だった。
「自分の身を周囲に紛れさせ、目的を遂行するのは泥棒も一緒だからな。今日のオレは保健の営業マンという設定だ」
疑明が両腕を広げ、自分のスーツ姿を見せるようにしながら言う。
「なるほど。随分頭のキレる泥棒さんですね」
「いや、初歩的な分析だろ」
「そうですか。ではそんな初歩が完璧な泥棒さんが、どうして今回はこう捕まることになったんですか?」
真幌がそう訊ねると、疑明は面倒くさそうにため息をついた。
「出勤する姿は確認してないが、窓から中を覗いて誰もいないのを確かめて侵入したんだ。いつもは仕事に行ってる時間。居間の電気がつけっ放しなのは、たまにあることだから気にしなかった。……まさか、押入れの中で寝てるとは思わなかった」
最後、疑明は不覚と言わんばかりに小さく舌打ちをした。
ターゲットのドジに巻きこまれるとはなんと運の悪い泥棒なのか、と真幌は思う。しかし、そこで少し調子に乗って口を開いた。
「ふふふ。かかりましたね、探偵の罠に」
「その罠って、かかった相手に下着を見せつけることか?」
「うぐっ」
つい先程の恥ずかしさが蘇り、真幌は今すぐここから消えたくなる。多分、顔は真っ赤だ。泥棒なんぞに言い負かされ、我ながら情けないと思う。
「そ、それで、どうして見つかっても逃げようとしなかったんですか?」
真幌は無理やり言葉を絞り出し、話を戻した。すると疑明から思わぬ返事が戻ってきた。
「ああ。その件で、オレからも少し話したいことがある」
「え、なんですか?」
真幌が訊くと、疑明は簡易クローゼットの前からちゃぶ台に戻ってくる。
「まず先に、あんたが質問した侵入ルートだけど、オレは玄関から入った。窓を割ったり換気口をこじ開けたりするような破壊行為は一切しないって決めてるんだ」
「へぇ。じゃあ、ピッキングってことですか? 鍵はしっかり閉めてたはずです」
「ああ、そうだな」
「よくそんな簡単に頷きますね……」
当たり前のように他人の家への侵入を語る泥棒に、真幌は思わず呆れてしまった。
「別に、オレは泥棒だぞ。ピッキングくらい当たり前だろう。この家に使われてる錠はピンタンブラーキーという、鍵の中央に溝があり片側にキザミのあるタイプのものだ。鍵の表面に複数の窪みがあるディンプルキーといったような、防犯性の高い鍵が出てくるまでは、ほとんどの住宅でこのピンタンブラーキーが使用されてた。そんでもって、これは錠の中にあるピンを鍵のキザミで押し上げ、内筒を回転させるというシンプルな構造になってる。要はピンを押し上げればいいだけだから、練習すればヘアピンでも開けられるようになる」
「それくらいは知ってます。これでも一応探偵なんです」
「それはそれは、失礼しました」
一ミリも気持ちのこもっていない声で、疑明が謝ってくる。
「ドアロックも紐か何かを使って外したんですよね?」
「ああ。探偵さまのおっしゃる通り。ピアノ線はいつも持ち歩いてるから」
真幌の質問に、疑明は正直に首肯した。
ピッキングで鍵を開けたあと現れるドアロックは、紐やリボンなどがあれば簡単に外すことができる。ドアロックの輪の部分に紐を通し、その紐を挟むように一旦ドアを閉める。あとはドアの隙間から出た紐を上に移動させつつ、中のドアロックを動かして外すだけだ。
「でも、さすが探偵さま。ピッキングで侵入されたくらいじゃ動揺しないんだ」
「ええ、まぁ」
真幌は軽く頷いた。正直、この家に手練れの泥棒がきたら、あっさり侵入されるだろうことは想像がついていた。そのため、現金や通帳はしっかり隠している。押入れの中の家電製品の空段ボールに、説明書に挟んでしまっておくのがオススメだと明地に聞いた。大抵の空き巣は棚やテレビ台やクローゼットの服の隙間、冷蔵庫や本棚などを漁り、一〇分ほどで何も見つからなければそのまま去っていく。
そして真幌は、この虚弱セキュリティな家を利用し、逆に泥棒を捕まえてやろうとも考えていた。侵入されないに越したことはないので鍵はしっかりかけていたが、忍びこまれた際の罠も同時にしかけていたのだ。
侵入されてからが本番なのだよ、と、真幌は自信満々に発言しようとする。しかし、疑明が先に口を動かした。
「じゃあ、スムーズに本題に移れそうだな。玄関にあった、隠しカメラの件だ」
「えっ? バレてたの!?」
罠をあっさりと看破され、真幌は驚いて声を上げた。
「そりゃあ、靴箱の上に見た目立派な万年筆が転がってたら、誰でも少しは気にするさ。本職の泥棒なら、それが高価なものか確かめようと手に取るんじゃないか? レンズがついてることくらい、すぐにバレるぞ。まぁ、オレは始めから怪しく思って確かめたが」
その万年筆は、キャップのクリップ部分に隠しカメラがついている。本来は、違法なお店や会社などに侵入して内部を撮影するために事務所から支給されたものだ。しかし真幌はここ最近、その万年筆を家の玄関にしかけるようにしていた。また、同じように腕時計型のものを、居間の窓にも。これで油断した泥棒の顔を収めてやろうと企んでいたのだ。
「どうして見つかっても逃げようとしなかったのか、だったか。オレは家を出る際に、姿が映ってしまったカメラのメモリーデータを消していくつもりだったんだ。だけど、その前に見つかってしまった。そこで、変に逃げて心象を悪くするよりは、こうして大人しく捕まった上で話をした方がいいと考えた」
「話って。いくら顔がいいからって、話して解決するような問題じゃないですよ!」
「何それ、褒めてくれてんの? 別に見逃してくれなんて言うつもりはないよ。オレの方からあんたに、少し訊きたいことがある」
そういえば、先程から少し話したいことがあると言っていた。
「……なんですか?」
「牧原真幌。あんた、不審者に狙われてたりするのか?」
真幌は目を大きくして疑明の顔を見た。
驚いた。
その疑明からの質問は、「はい」か「いいえ」で答えるなら、間違いなく「はい」だった。
「誰かに侵入される覚えのある奴しか、玄関に隠しカメラをしかけたりはしないだろう。加えて、あんたの言ってた『お前だったのか、この変態』という、家に入ったオレに対する言葉。これは、過去にオレ以外の人に、侵入またはそれに近い行為をされたというふうに取れる。オレの観察にあんたが気づいた様子はなかったから、オレの他にもあんたの周りをうろついてた人物がいる。第一、あんたはオレのことを何度か変態と呼んだが、オレはあんたに変態行為などしていない。他の奴と間違われてると考えられる」
いやいや、乙女の家に侵入し、許可なくクローゼットを開けるのはまさに変態行為ではないのか? と真幌は思う。そもそも、人の家に勝手に上がってご飯を食べるのが好きなんて、かなり極まった変態ではないのだろうか。
しかし、疑明の推論は全て正しかった。
呆気に取られる真幌に、疑明は続ける。
「オレ、ご飯をいただきに侵入したあと、必ずお返しにしてることがあるんだ」
「はぁ。と言いますと?」
「その家にある問題を一つ、推理し、解決してるんだ」
推理。そのワードに、真幌の身体はぴくりと反応する。
「牧原真幌、ハマチのたれ漬けとサラダ、ご馳走様。お返しに、あんたの抱える問題を推理させてほしい」
勝手に食べておいてお返しとはなんだ、と真幌は思う。
しかし、である。このイケメンが只者ではないことを、真幌はこれまでの会話の中で感じ取っていた。
彼の推理をもっと体感してみたい。胸がどくどくと騒ぎだすのがわかる。
「……じゃあ、お手並み拝見させてもらおうかな」
真幌が頷くのを見て、疑明は僅かに口角を上げた。
*
「最初はやっと犯人を捕まえたと思ったんです。けれど、話を聞いていると、どうやらあなたではないとわかりました」
ちゃぶ台を挟んで真っ直ぐ向かい合って座り、真幌は疑明に現状の説明をする。
「あなたの言った、不審者に狙われているというのは本当です。この頃、干している洗濯物が盗まれていることが何度かありました。下着は外で干さないようにしているんですけど、キャミソールやストッキングなどを中心に盗られました。他にも、ポストに『好きです、つき合ってください』とだけ記された手紙が入っていたり、知らないアドレスから『ずっと見ているよ』なんてメールが届いたりすることもありました」
疑明は親指と人さし指で顎を挟みながら、黙って聞いている。
「よく観察されていてご存じかと思いますが、最近、日中誰もいなくても部屋の電気はずっとつけっぱなしにしていました。仕事の終わりが夜遅いので、不審者に室内に入られ暗闇で待たれてたりしたら嫌だったからです」
「警察には届けたの?」
よく観察されていてご存じ、という皮肉はスルーして、疑明が訊ねてくる。
「いえ。犯人の特徴は何もわかりませんし、手掛かりも今のところないです。この状態で警察に届けたとして、やってくれることと言ったらパトロールの強化くらいでしょう。それなら警察には知らせず、犯人を泳がせておいて手掛かりを掴む方が事件解決に近いと判断しました」
「へぇ。さすが探偵さま、たくましいね」
「……バカにしてます?」
「褒めてるんだよ。でも、手掛かりはなし、か。容疑者もいないの?」
言いながら、疑明はきょろきょろと室内を見回している。
「容疑者ですか? 一応、何人かいるんですが。だけど、かもしれないってくらいで」
「誰?」
「えーと、三人いまして。まず、事務所から出る宅配物の引き取りをお願いしてる、運送会社の若いお兄さんです。あの人なら事務所に入ってわたしの出勤状況を確認できるので、安全にわたしの家に近づけます。よく荷物を受け取りながら事務の子と世間話をしてるので、事務所内の世事にも詳しいんです。ただ、長居しながら事務所内をじろじろ見たり、社内の話を盗み聞きしてる素振りがあるって噂になってるんです」
「運送会社の不審な男性……。それから?」
疑明に急かされ、真幌はすぐに続ける。
「えと、二人目は二つ隣の部屋に住む四〇代くらいのオジサンです。これは近所の井戸端会議で聞いたんですが、どうやら前科があるらしいんです。それも、強制わいせつ罪が理由で、三年ほど服役されてたとか」
「ふむ。近所の井戸端会議ねぇ。となると、面白くするために多少の脚色はしてあるかもな。その話がどこまで本当か。でもまぁ、同じ罪の再犯で捕まるというのもよくあること、気をつけておくに超したことはないか。で、次は?」
次で三人目になる。真幌は最後の容疑者について、できるだけ細かく説明する。
「最後は、この地区を担当されているポスティングのバイトの男性です。おそらく三〇代で、メガネをかけた人。よく、いろんなお店のチラシを入れていくんですが、ウチのアパート、全室分のポストが階段前に集まっているんです。そこへ行くには、一階の庭の横を通りすぎることになるので、ちょっとこっそり庭の方へ入ることも簡単にできます。それに、最近なぜかチラシの量が増えてるんです。細かくやってきて、下見をしてると考えられます」
真幌は部屋の隅に視線をやった。そこには捨てる暇がないチラシが山になっている。
「掃除くらいしろよ」
疑明が端正な顔をしかめながら言った。
「紙は回収の日が決まってるから、その日にまとめてやろうと」
「結局その日を忘れたり、忙しくて逃したりしてこうなってんだろ。今のうちからまとめて掃除しといた方がいいだろってことだ」
「う、うるさいです。勝手に忍びこんだ泥棒に言われたくないです!」
恥ずかしく、真幌は顔の体温が一気に上がるのを感じる。そもそも人を招く予定などなかった部屋なのだ。特に男を上げるなんて、想定すらしていない。今考えると、台所も掃除できていないし、脱衣所の方には洗濯前の服が溜まったままだ。泥棒とは言えイケメンである異性の手前、真幌は両手で顔を隠したくなる。
「でもまぁ、ポスティングの男性、か。これで三人。誰にも証拠はなく、逆に牧原真幌の被害妄想という可能性もあ
るが」
「や、被害妄想なんかじゃないですから! 実際に衣類を何点か盗られてるんです! ……まぁ、その三人の中に犯人がいない可能性は大いにありますが」
証拠どころか、強いて容疑者を挙げるならこの三人、というレベルの話だ。
問題を解決すると、疑明は言った。しかしこの状況から、どう推理を進めていくつもりなのか。真幌はドキドキしながら彼の方を見た。
「なるほどねぇ」
疑明はそう呟くと、おもむろに立ち上がり窓の方へと歩み寄っていく。
真幌も慌てて腰を上げ、後に続いた。
「こっちが洗濯物を干してる庭か」
「そうです。外へ出ますか? サンダル取ってきますけど」
疑明はしっかりと靴を脱いで靴下で部屋に上がっていた。全く泥棒らしくない。ご飯を盗み食いしにきただけで、他に迷惑をかけるつもりはないという彼の意思を感じる。
「ああ。侵入したことはあるが、念のため見ておきたい」
疑明がそう答えたので、真幌は玄関へ走り、軽く近所に出かけるときに履く大きめのサンダルを取ってきた。縁側の下にも樹脂製のアウトドア用サンダルを置いているので、自分はそれで庭に出られる。
真幌は先に立ち、窓の鍵を開けて縁側から庭へ下りる。その際、庭を出たすぐ横に、すっかり忘れていた嫌なものが見えたが、とりあえず気づかなかったフリをした。
疑明もサンダルを履いてついてきて、二人で庭に並ぶ。
この築三〇年の二階建てアパートは、周囲をぐるりとブロック塀に囲まれている。道路に面した塀の内側には広めのスペースがあり、隣の部屋との間を板で仕切る形で、一階に住む者は庭として利用できるようになっていた。
真幌は設置してある物干し竿の向こう、頭より高い位置にあるブロック塀に目を向ける。
こういった外界からの視線を遮る塀は、泥棒に狙われる原因となりやすい。加えて真幌の部屋の庭は、塀に囲まれたアパートの入口に最も近い位置にあり、仕切り板を一枚超えるだけで簡単に侵入できてしまうのだ。仕切り板はブロック塀よりも低く、簡単によじ登れる高さである。
「一見さんの泥棒も、気軽に寄っていってくださいと言わんばかりのこの空間、どうです?」
自虐をたっぷりこめて、真幌は訊く。
「暖簾つきの居酒屋かよ。まぁ、まさにその通りって感じだが」
疑明は納得するように頷いた。それからアパート入口側の仕切り板に近づいていく。板の上に手をかけ、軽々と身体を持ち上げて板の向こうの景色を覗いた。
「やっぱり、容疑者を三人に絞るのは間違いですかね」
そう真幌が言うと、板から着地した疑明が振り返る。
「三人に絞る、というのは間違いかもしれない。でも、怪しい者をリストアップする作業は必要だ。そうしないと、推理は始まらない」
「……確かに、漠然とした状態で考えていても、中々次の一歩が決まらない気がします。だけど、容疑者を挙げて推理を始めても、そちらに考えが偏ってしまい、その中に犯人がいなかったときが怖いです」
「怪しい者リストは随時追加していくんだよ。そこは柔軟でいいんだ。もしあんたが言う一見さんが犯人だったとしても、そいつとあんたの間にはすでに関係が生まれてる。『好きだ』なんて熱い手紙をもらったりしたんだろ? 絶対にどこかで影が見えてくる」
疑明の言葉は心強かった。彼は従うべき自分のやり方を持っている。
探偵をしていても、そこまで冷静に物事を考えられたことがなかったような気が真幌はした。
「ところで、居間の棚に置いてあった腕時計、あれも隠しカメラだよな」
話を戻すように言って、疑明は顎で窓の方を示した。
「え、なんでわかったんですか?」
「玄関の隠しカメラの話をしたとき、あんたの目線が不自然にそっちへ行ったから」
自分でも気づけていなかった事実に、真幌は驚いた。おそらく一瞬の出来事だったはずである。この男、本当にただの泥棒なのだろうかと、真幌はまじまじ疑明を見てしまう。
「あのカメラ、窓の方に向けられてたけど、犯人の顔は?」
「あー、あの隠しカメラ、実はしかけたの最近で。まだ話してなかったですね。この頃というふうに言ってましたが、正確に言えば不審者に狙われ始めたのは先週から、ここ一週間ほどの出来事なんです。差出人不明のメールだけは、その少し前から届いていましたが。カメラを会社から持ち帰ったのが二日前で、それからまだ不審者は現れていないです」
隠しカメラを持ち帰る前から、一日中電気を点けっぱなしにし、洗濯物を外で干さないようにするなどの対策は始めていた。撮影を開始してからは、たまに洗濯物を吊るして留守を演じてみたりしたが、まだ犯人は釣れていない。
「なるほどね」
疑明は眉間を指で挟むポーズでじっと考えこむ。
「何かわかりそうですか?」
真幌が訊ねると、疑明は軽く首を横に振った。
「今はまだなんとも。中に入って、犯人からの手紙なんかを見てみたい」
疑明は部屋へ戻ろうと窓の方を向き、ちらりとその横手に目を移す。
「まぁ、一つわかったことと言えば、あんたの荒んだ生活くらい」
ひー、と真幌は叫びそうになる。庭に出るときも思ったが、そちらにはどうしても見られたくないものがあった。どうして片づけておかなかったんだと自分を責める。
そこにあるのは、頭を結ばれた黒いゴミ袋だった。透けて見えるその中身は、大量のビールの空き缶。
休日や、仕事が早く終わった日、真幌は必ずビールを飲む。好きなのだ。冷えたビールを喉に流しこむのも爽快だし、苦みをじっくり味わって飲むのも幸せだ。カクテルを可愛く飲んでいた方が、女子的にはポイントアップかもしれないが、真幌は居酒屋でもとりあえずビールを頼む。
中身を飲み終わった缶はまとめて捨てようと、水で流して袋に溜めるようにしている。しかし、その袋を部屋の中に置いておくのは邪魔で、庭の、部屋からは見えない窓の横に出していたのだ。
「べ、別にいいじゃないですか! 女子が家で一人、ビール飲みまくってたって。女子力が下がったって、彼氏ができなくたって、わたしはこれをやめられない!」
「別にそこまで言ってないし、変に開き直られても困るけど。まぁ、勝手にどうぞ」
疑明はどうでもよさそうに真幌から目を逸らし、先に窓を開けて部屋に上がっていった。
*
真幌だって、時間がないことを言い訳にしてばかりいるわけではない。
捨てられず溜まっているゴミも、分別はきっちりしてあり、邪魔にならない場所にまとめて置いている。
「こっちは燃えるゴミで、こっちはチラシの山……。いや、どうしてこんなに溜めこむんだよ。こういうところに埃が溜まって、部屋の空気が汚れていくんだ」
「い、いつでも捨てられるようにはしてあるんです! でも、ゴミ捨て場が二ブロック先にあって、これが中々遠くて……」
「言い訳するなよ、あんたの部屋だろ。普段の生活をしっかりしてないから、今日だって遅刻するんだよ」
いつの間にか、今度はゴミ捨て場までの距離を言い訳にしていた。しかも、まったくもって正しい指摘を受け、何も反論できない。
くそう、どうして勝手に入りこんだ泥棒なんぞにこんなこと言われなければならないのか。そう思いながら、真幌はむぅと頬を膨らます。
「で、ゴミ屋敷の部屋を見回って、何かわかりましたか? コソ泥さん」
「まだなんとも……。それで、さっき話であった犯人からの手紙は?」
嫌味たっぷりな口調で言った真幌の言葉を無視し、疑明は室内を見回す。
「はいはい。待ってください。今、出しますから」
真幌は部屋の壁際に置いているカラーボックスに近づき、二段目の引き出しを開けると、例の不審者からもらった手紙を取り出す。
「これです」
そう言いながら開いて疑明に見せると、疑明が「ほぅ」と面白そうな声を漏らした。
「なるほど、そうきたか」
「……何がそうきたか、ですか?」
「手紙っていうから手書きをイメージしてたけど、パソコンで書かれてたんだな」
真幌に届いた手紙は、『好きです、つき合ってください』とパソコンのメモ帳で書いて印刷された、とても簡素なものだった。
「これ一通だけ?」
「はい。手紙はそうです。ちなみに、こちらのごく普通の封筒に入れて投函されていたのですが、切手は貼られていませんでした。犯人が直接ポストに入れたようです」
真幌は手紙と一緒に保管していた白い封筒を、ぴらぴらと振ってみせる。
「一行目に、一文だけ。なんの工夫も見られない。これがラブレターだとしたら、本気度が全く感じられない」
「あー。確かに気持ちは全然伝わってきませんね。ていうか、むしろ気持ち悪い」
「ということは、犯人はあんたのことが好きってわけではないのかもしれない。手紙を入れたのには、他の目的があるのかも」
「他の目的ですか? ただの変質者の嫌がらせだと思ってましたが……」
犯人がこんな手紙を送ってくる目的。変質者の行動に意味などあるのだろうか。
そう疑問に思いながら、真幌は考える疑明の表情を窺い見る。
すると、疑明がじろりと細めた目を真幌に向けてきた。
「何? じろじろこっち見て」
「や、やー、何かわかったのかなと」
「これだけじゃ、簡単なことしかわからない。普通、ラブレターを書くとしたら手書きだろう。それもこんな見栄えの悪いものしかできないようなパソコンスキルなら、なおさら。なら、なぜ手書きにしなかったのか」
「それって……?」
「当たり前だろ、文字から自分を特定されたくなかったからだ」
犯行予告で新聞の文字を切り抜いたものを利用したりするのを漫画やドラマで見たことがある。それと似たようなものということだろうか。
「なんか大げさすぎません? 悪いことをしてるから、本人を特定されてはまずいのもわかりますが。こんなストーカー疑惑くらいでは、警察も筆跡鑑定なんてしませんし」
「大げさ? 何か大きな事件でも想像したのか? 単なるストーカーでも、そういう手法を使うことだってあるだろう。例えば手書きだったとして、その文字にあんたのよく知る特徴があったりしたらどうする?」
真幌はドキリとする。
「わたしが字を知ってるほど、身近な人が犯人ということですか? 誰?」
「そういう可能性もあるってことだ。あと、あんた探偵だろう、ちょっとは自分で考えろ」
最後、疑明は呆れたふうに言って、次のヒントを探すように部屋の中を見回す。
先程挙げた三人の中では、真幌が字をよく知る人はいない。自分の字を知られているかもと用心し、パソコンを使ったのだとしたら、仕事で接することのある運送会社のお兄さんが一番怪しいところだが、説得力に欠ける。
――一応、探偵で頑張ろうとしてるけどさ……。
そう思い、真幌は口を閉じたまま下唇をきゅっと噛む。考えても、真相は全くわかりそうにない。
疑明は部屋の扉の横にあるコンパクトデスクの方へ移動していた。そこに立てていた写真に目を向けながら、真幌に訊ねてくる。
「この人は誰?」
写真の中では男が一人、穏やかに笑っている。背景は緑の山々で、真幌の実家がある大分県の田舎の風景だ。
「父親です」
そう真幌が答えると、疑明はよくよく観察するように目を細めて写真に顔を近づけた。
「いつの写真だ? すごく若く見えるけど」
「わたしが小学生の頃の写真ですので、父はまだ三〇前後ですね」
「……そうか」
疑明は僅かに口を動かし短く返事をした。写真から目を離し、チラシが溜まっている部屋の隅へ足を向ける。
「どうしてこんな昔の写真を置き続けてるのか、訊かないんですか?」
おそらく疑明は察しているだろうと思いながら、真幌は訊いた。
「だいたいわかる気がするが……。そう訊いてくるってことは、話したいのか?」
話したいのか、と言われ、真幌はハッとした。確かに自分はこの初対面の泥棒に、身の上話をしようとしていた。
相手は選ばなかったのかもしれない。むしろ、変な心配をさせたくなく、親しい人物には話しにくかった。
このうだつの上がらない日々のことを、誰かに聞いてほしかった。
「わたしの父、探偵だったんですよ」
チラシの前でしゃがむ疑明の背中に、真幌は話し始めた。
「地元の九州では有名で、解決した事件はたくさん。調査だけじゃなく推理もできる人だったので警察に協力なんかしたりして。『お父さんすごい』と幼心にいつも感心してました」
疑明は手元でチラシを漁り続けている。ただ、慎重に音を立てないようにしてくれているようで、話を聞いてくれているのはわかった。
「だけどまぁ、写真が古いことからおわかりかと思いますが、亡くなってしまいまして。仕事中の事故だったんです。殺人事件を調査してたとき、犯行を突き止められた犯人が逆上して父に襲いかかり、頭をブロック塀に打ちつけられて……。警察は世間に何も公表しませんでした。そもそも探偵に協力を依頼していること自体、秘密にしています。探偵のような胡散臭い存在を頼っていると知られると、世間の信用が落ちると考えているんです。……でも、お葬式には警察の方を始め、多くの人がきてくださいました。その後、家で父の遺品を整理していたとき、クッキーの平たい空き缶にたくさんの手紙を見つけました。それは全て、父親に感謝した依頼人が送ってきた手紙でした。で、まぁ、何が言いたいかというとですね。わたし、父に憧れていたんです」
父親の死後、真幌の心には父親のような探偵になりたいという思いが深く根づいていた。そのため短大卒業後、母親の反対を押しきり、調査員を募集している探偵事務所の多い東京に出てきたのだった。そして、テレビの取材依頼も多く私立探偵事務所にしてはかなり有名な明地探偵事務所にアルバイトで滑りこむことに成功した。
「でも、探偵事務所にバイトで入ってみても毎日失敗ばかりで。正社員になれるわけでもなく、依頼人に感謝されるわけでもなく。母には実家に帰って結婚しろと言われ続け……」
このまま仕事を続け、この先自分がどうなるのか。
どうなりたいのか。
最近さっぱりわからない。
真幌が言葉を切り、数秒が経過したとき、ずっと黙っていた疑明が振り返った。
疑明はどこか退屈そうに細めた目で真幌を見る。
「で、どうするんだ? 探偵頑張るの? それとも結婚したいのか?」
「え、えと……」
夢はあった。しかし、今は即答できなくなってしまっている。
真幌がもごもごしていると、疑明は「ふーん」と興味なさそうに声を間延びさせた。
「なんだ、結婚したいのかと思ってたよ。こんなの持ってるし」
そう言いながら、漁っていたチラシの中から数枚を取ってひらひらと振ってみせてくる。
それは結婚式場やウエディングドレスの広告だった。
「べ、別に持ってるわけじゃないです! ポストに入ってたやつを、そのままそこに置いてただけ」
ポストに入っていたチラシに関しては、内容などほとんど確認していなかった。チラシと共に手紙が入っていないか、チェックするくらいだ。
「へぇ、なるほど」
あっさりと言って、疑明は立ち上がる。真幌が結構長く語ったにもかかわらず、真幌の父親や現在の悩みの話には特に感想などないようだった。
この男、他人に興味がないのか。人の作るご飯には夢中になるくせに、と真幌は思う。
「他はどこを調べるつもりです? ここまでで何かわかりましたか?」
部屋の中を見回す疑明に、真幌は訊ねる。
「そうだな。まだ一つ、気になってることがある」
疑明が目線をやったのは居間の扉の外だった。そちらへ向かって、スタスタと歩きだす。
気になっていること?
そう疑問に思いながら、真幌は彼の後に続くのだった。
*
棚一段が埋まるほどのビールにチューハイ、食べたいときに数枚ずつつまんでいる小分けされたパッケージのハムに、蓋が開けっ放しのチーズの箱。
「ちょ、あんまりじろじろ見ないでください!」
居間を出た疑明が一直線に向かったのは、台所の冷蔵庫の前だった。真幌よりも先にそこへ辿り着いた疑明は、誰に許可を得るでもなく思いっきりそのドアをオープンした。
冷蔵庫の中を見られるのは、生活を覗き見られているようで無性に恥ずかしい。
先程一度チェックされていることは知りつつも、真幌は疑明の視界を塞ごうと必死に冷蔵庫の前に開いた手を差し出した。
――ていうか普通、人の家の冷蔵庫、勝手に全開にするか?
そう頭の中で思うが、しかし晩ご飯泥棒にそんなこと言っても無駄だろう。
「その、三分の一残ってる胡麻ドレッシング、賞味期限切れてる。冷蔵庫に保存してるものは、ちゃんと管理しとかないと」
「切れてるって言っても半月ほどじゃないですか。いいんです、使いきるから置いてるんです!」
後から買った青じそドレッシングにハマっており、胡麻ドレッシングの存在を忘れていたことは内緒にしておく。
「てか! いきなり冷蔵庫開けてなんなんですか! 気になることってなんですか?」
「ああ、それは――」
疑明が真幌の腕を押しのけ、冷蔵庫の中に手を伸ばす。
彼の手が掴んだのは、真幌が作り置きしていた冷凍保存のサラダだった。
「そのサラダ? さっきつまみ食いしたんですよね?」
「そう。これ、作ったのはいつだ?」
そう真幌に訊きながら、疑明は冷蔵庫を閉め、タッパーの蓋を開ける。緑と白の葉野菜の隙間に、焦げ色の薄切り肉が見え隠れする、ベーコンレタスサラダだ。味つけは塩と胡椒。ベーコンをじっくり炒め、その際に出る旨みごとレタスのソースにしている。手軽においしい、お気に入りのレシピだ。
「作ったのは一昨日の夜ですね。二、三日で食べきるつもりで。昨日は時間がなくて食べられなかったんですが」
真幌が答えると、疑明はふむと小さく頷いた。
「一昨日。じゃあ、やっぱり……」
「やっぱり?」
疑明の呟きに、真幌は疑問符を浮かべる。
「何かわかったんですか?」
「いや、まだ気になるだけの段階だが……。とりあえず、このサラダのレタス、傷んでる。食べてみろ」
「傷んでる?」
真幌は首を傾げ、疑明が持つタッパーに目を落とす。調理台の奥にあるツールスタンドから箸を取り、レタスを一切れ食べてみた。
「……確かに、作り置きにしてもシャキッと感がいつもより少ないような。味も苦いかも」
でもどうしてだろう、と真幌は思う。作り方はこれまでと変わらないのに。
そんな真幌の疑問などお見通しなのだろう、疑明が口を開く。
「その原因はここにある」
そう言って、疑明は冷蔵庫の一番下の段に手をかけ、おもむろに手前に引いた。
そこは野菜室で、ニンジン、キャベツ、カットしてジップロックに入れたアスパラやネギなんかが入っている。中には先程食べたレタスの、残りの半玉もあった。
疑明はそのビニールに包まれた半分のレタスを、片手で掬うように取って持ち上げた。
「半分だけ使ったレタスを、ビニール袋で頭を括って冷蔵保存。これはダメだな。どうしてこんなやり方をしてる?」
「えと、レタスみたいな葉物は水気が多いし、もしかしたら虫がいるかもしれないし」
「それでも、こんなやり方はダメだ。レタスから出た水分が結露してビニール内に溜まり、それが原因で葉腐れを起こす。また乾燥にも弱く、切り口から水分を失い、しなびて変色していく可能性もある。さらに言うなら、呼吸により排出されるエチレンガスの影響を説明しなければならないが」
疑明はそこで言葉を切り、真幌の表情を窺う。どうやら相手が難しい顔をしているのに気づいたらしい。
正直、これまで野菜の保存方法などあまり考えたことなかった。適当に冷蔵庫に入れ、できるだけ早く使いきろうと意識する程度だ。すっかり怒られているような気分だった真幌だが、しかし、次に疑明が発したのは意外なセリフだった。
「まぁ、今はそんなダメ出しはいいんだ」
「え、いいんですか?」
「とてもよくないが、それよりも訊きたいことがある」
「訊きたいこと?」
「ああ。一つ確認だ。さっきあんた、レタスの味について、シャキッと感がいつもより少ないと言ったな」
そう訊かれ、真幌は自分の発言を思い返しながら頷く。
「はい。言いましたけど、それが?」
「いつもより少ない。ということは、元々傷んでいたという可能性を除き、いつもは違う保存方法を採っていたのではと考えられる」
なるほど鋭いな、と真幌は思った。
「そうですね。実は、野菜の多くはいつも実家から送ってもらってるんですが――」
「それは知ってる。そっちの段ボール、差出人の苗字が牧原になってた。畑で採れた新鮮な野菜を送ってもらってるんだろ」
疑明が台所の床の隅にある段ボールに視線を飛ばす。中にはこの前の水曜日に届いたジャガイモが数個、まだ残っている。
そして確かに、段ボールに貼りつけてある宅配便の送り状には、母親の名前が書かれていた。というか、そんなところまでチェックしていたのかと、真幌は驚く。
「まぁ、送ってもらってるというか、二週に一度、必ず水曜日に勝手に送ってくるんですが。わたしが上京した五年前から、ずっと欠かさず。それで保存方法ですが、わたしはいつも送られてきた形のまま冷蔵庫にしまうようにしてて……。包丁でカットして余った分も、元の包みに戻したりして」
特にこだわった保存方法もないのだ。野菜の傷みも考慮せず、毎度まいど一番楽なしまい方をしていた。そのまま冷蔵庫へ、という完全に手抜きな技だ。
「送られてきた形のまま……。じゃあ、今回はビニール袋に入れて送られてきたってことか。いつもは違うのか?」
「あー。いつもはだいたい、少し湿った新聞紙で包んで送られてきます。レタスだけでなく、ニンジンやキャベツなども同じように。それで、その新聞紙のまま野菜室に」
「ふーん。それはまぁ正解だな。新聞紙は野菜を保湿、保温してくれ、余分な水分も吸収してくれる。冷蔵庫に入れるとき、芯を手でくり抜いて、そこへ濡らしたキッチンペーパーなんかを詰めとけば完璧だが……」
そう言いながら、疑明は考えこむように眉間を指で揉む。どうやらそのポーズは彼のお決まりらしい。
「でも、冷蔵庫で一日二日、ビニールで保存したくらいでここまで傷むか? とも思ったんだ。今の話を聞いて納得した。こんな梱包で郵送されたら、その間に傷んで当然だろう。ただでさえ葉野菜は鮮度や味が落ちやすいのに」
それから疑明は幾分か鋭い目を真幌に向けた。
「さっきあんた、いつもはだいたい新聞紙に包んで送られてくると言ったな。それは、たまにビニールで送られてくるときもあるってことか?」
適当な返答は許されない雰囲気があり、真幌は過去を思い出しつつおずおずと頷いた。
「はい。本当に数度ですが、ありました。野菜はレタスではなかった気がしますが」
「ほう。その、ビニールで送られてきたのはどういうときだ?」
「どういうとき……。えと、古新聞が切れてるとか? ……や、違う!」
真幌は一人で言って、ぶんぶんと首を横に振る。一つ、思い出したことがあった。
「そういえば一度、こんなことがあったんです。二年ほど前ですが、母親が友達と旅行に行ったとき、旅先から買った野菜を送ってきたんです。ビニール袋で梱包して、段ボールに入れて。あとから、旅行に行ってるときまでわざわざ送ってこなくていいと言ったんですが、その日は野菜を送る日だったから、と言うだけで。もしかするとその後も何度か、実家以外の場所から送ってきてたのかも」
真幌の実家は田舎だが、野菜の名産地でもない。その野菜がどこで採れたものかなど考えて食べることもなかったし、もし自分の田舎のものでなかったとしても、おそらく気づかないだろう。母は単純に娘の健康を心配して、野菜を送ってくれているのだ。
「つまり、家じゃないから古新聞を用意できなかったというわけか。ということは、今回もあんたの実家以外の場所から送られてきてると見ていいだろう」
疑明は真幌を見て、ふっと唇の端を上げる。推理をしているときのクールな表情から一転、それはどこか悪戯っぽい微笑みだった。
「謎は解けそう。あとはその問題を、解決するだけだ」
*
真幌は疑明と共に、再び居間へ移動した。
期待で胸がドキドキと弾むのを感じる。これから彼の推理が聞けるのだ。
泥棒だし、いけ好かない部分も多々あるが、疑明の頭脳の明晰さには何度か感心させられた。今、自分が抱えている問題に、彼がどんな答えを出すのか真幌は気になっていた。
果たして本当にこれだけで、不審者の正体はわかったのだろうか。
「容疑者として初めに三人挙げましたが、その人たちの中に犯人は?」
先に部屋の奥へ入りちゃぶ台の前に立つ疑明に、真幌は訊ねる。
疑明は首を左右に振った。
「これまでの話を聞いてて、それはないとわかるだろ」
おっしゃる通りである。今の質問は流れで一応しただけだった。検討していた可能性は、潰しておかなければならない。
疑明が推理する間、一緒に行動してきたのだ。彼が誰を疑っているかなんて感づいている。初めの容疑者三人の他に名前が挙がった人物も、一人だけだ。
「それじゃあやっぱり……」
だけど、疑明はなぜ確信に至れた? それが真実だとして、相手の動機は?
疑問はまだ真幌の中をぐるぐると回っている。
「疑ってるのはわたしの母ですか? でも、なぜ?」
真幌は初め、数少ない周囲の人物から、怪しい者を三人挙げた。だがその際、母親のことなんて一ミリも頭に浮かんではこなかった。
数年前に上京してきたこの地では、真幌の人間関係などとても範囲の狭いものだ。三人の中から犯人が見つからなければ――例えば見ず知らずの人間の犯行だったりしたら、今回の事件はお蔵入りになるだろうと真幌は思っていた。
だが、まさか母親が犯人だと言われるとは。
「なぜ、というのはあんたの母親の動機を訊いてるのか? それともなぜそう思ったか、か? まぁ、どっちもだろうな」
そう言いながら、疑明は真幌に目を合わせてきた。
「答えは全部、あんたが話してた」
「えっ、わたしが?」
どういうことだろう、と真幌は首を捻る。
「まず、母親が結婚を急かしてくるという話。母親はあんたに本気で早く結婚してほしがってるんじゃないか?」
「結婚? そりゃまぁ、早くしてほしいと思ってるんじゃないですか? 彼氏はまだか、孫はまだかなんて話、しょっちゅう電話で話してきますし。地元に戻ってきてほしいってのもあると思いますが」
「そう。でも、あんたが思ってるよりももっと、母親は本気みたいってことだ。探偵をやってた旦那を亡くしてるんだろ? それも影響してるかもしれない」
そこまで言うと、疑明は歩きだした。部屋の隅にまとめて置いてあるチラシの前で、なぜか畳に片膝を突く。
「まず、この部屋にはおかしな部分がある。このチラシ……」
疑明は先程漁っていたチラシを、もう一度物色し始める。
「チラシがおかしい? どういうことですか?」
「さっき、オレはあんたに訊いたはずだ。これを持っている訳を」
そう口にしながら、疑明がこちらに数枚のチラシを突きつけてくる。それは一〇分ほど前にも見せられた、結婚式場やウエディングドレスの広告だった。
「持っている訳? だから、それはポストに入ってただけって――」
真幌のセリフが終わる前に、疑明は口を開く。
「そう。あんたはそれを自分で取ってきたわけではないと言った。でも、それだとおかしいだろ?」
真幌にも考えるのを促すように、疑明は少し間を空けた。
「……いいか? 普通、結婚関係のチラシはポストに投函しない」
真幌は部屋の隅に広がるチラシたちに目を落とす。ピザ屋の広告、お弁当配達の宣伝、新聞勧誘、新築マンションの案内。その中に混ざるようにして、式場やドレスのチラシはポストに入っていたのだ。
「ブライダル関係のチラシはポストに入れない?」
「ああ、そうだ。あまりチラシを投函して宣伝するものではないからな。その部屋に住んでるのがどんな人かわからないのに、チラシを入れていくか? 結婚に興味のない老人や学生だったり、すでに夫婦だったりする可能性も高いのに」
なるほど、と真幌は思った。確かに、結婚に進行形で興味がある人というのは、世の割合で見ると少ない方だろう。夫婦の住む家にそんなチラシを入れたりしたら、クレームにもなりかねない。
ブライダル関係のチラシはポスティングで宣伝しない。ということは、このチラシは誰かがピンポイントで真幌を狙ってポストに入れたということになる。
「いったい誰が入れたのか。それを考えていたとき、あんたの母親の話を聞いて疑いだしたんだ。母親が、あんたに結婚を意識させるためにチラシを集めて届けたんじゃないかと」
疑明は立ち上がると、カラーボックスに近づき、その上に真幌が置いていた犯人からの手紙を手に取る。
「こいつを作って入れたのもあんたの母親だろう。字を見られて娘に自分が犯人だとバレないようパソコンで書いたんだ。差出人不明の嫌がらせメールを送ったのもそうだ。母親、あんたのアドレス知ってたんじゃないのか?」
「ちょっと待ってください。アドレスは教えてますけど、母はどうしてそんなこと」
「どうしてって、それも結婚を意識させるためだろう。変質者、ストーカーの存在を匂わせ、女の一人暮らしは危険と思わせて」
「じゃ、じゃあキャミソールやストッキングを盗んでいったのも」
「おそらく同じ理由か。もしくは探偵を辞めて実家に帰ってきてほしがってるのか。とにかく母親が犯人だろう。不審者に狙われてると焦らせ、何か行動を起こさせようとしたのかもな」
「そんな。でも、母は田舎にいて、そんなこと――」
そう言いながら、違う、と真幌は思った。それはつい先程、疑明が話をしながら解き明かしていた。
「それじゃあ、確認してみるか」
疑明は手紙を戻し、台所の方へと入っていく。真幌が後を追ってみると、疑明は床に膝を突き、母親から送られてきた野菜の段ボールをチェックしていた。どうやら蓋の表に貼られた運送便の送り状を確認しているようだ。
「この依頼主の欄に書かれてるのは、あんたの田舎の住所か?」
そう訊かれ、真幌は疑明の肩越しに送り状を覗きこむ。
「はい、そうです」
「そう。でもまぁ、ここに住所が書かれてるからと言って、本当にその地域から送られてきてるとは限らない」
疑明はスマホをポケットから取り出すと、送り状を見ながら画面を細かくタップしだす。
「運送便の追跡サービスに、送り状ナンバーを入力した。ほら、見てみろ」
そう言って、真幌にスマホの画面を見せてきた。
表示されているのは、荷物の配達状況のページだ。その発送の担当店の欄には、真幌が今住むアパートの、隣町の営業所が記されていた。
「ほんとにこっちにきてる……」
そう呟くと同時に、真幌はぶるっと身震いする。身体の底からぞくぞくとした感覚が駆け上ってきたのだ。いつもの、素晴らしい推理を目の当たりにしたときの条件反射だ。
疑明の言うことは、全て筋が通っている。真幌が抱えていた問題の裏側を、完全に暴いてしまった。それも、短い時間、部屋の中を見て回っただけで。
「オレが挙げたのは、まだ可能性の話だ。確かな証拠がないからな。チラシや手紙の指紋を調べれば、犯人を確定することは可能かもしれないが。ただ、あんたにはそれよりも簡単に事実を確認する方法があるだろ」
そう言って、疑明は手に持ったスマホをぷらぷらと振ってみせてくる。
真幌はこくりと唾を飲み、居間で自分のスマホを手に取ると、電話帳の中から母親の名前を選択した。
*
母親はあっさりと罪を認め、しかしそれを謝ろうとはしなかった。
『あんた、早く帰って結婚しぃよ。どうせ仕事もうまくいってないんやろ? ただでさえ安定せん職場で、ずっとアルバイト。この先どうすんの。彼氏でもおればいいけど、あんた自分からそんなん作りにいくタイプじゃないし。こっちでならお見合いでもセッティングしたるから』
そんな感じのことを、真幌が口を挟む隙もないほど母親は捲し立てた。今日まで東京でこちらに住んでいる同級生と遊び、明日、大分に帰るそうだ。そしてどうやら、犯行に及んだ理由は、結婚を意識させるためという、疑明が推理した通りだったよう。
『お母さん、あんたのことが心配やから。将来、一人は寂しいよ』
電話が切れたあと、真幌は大きくため息をついた。
母親は三〇代のうちに夫を亡くしている。それも、探偵という仕事のせいで。そんな母親の言葉には、なんだかいちいち説得力があった。
どうしたもんか、と真幌は心中で呟く。
今回の一件が、正直かなり心にきていた。
自分のことを心配して、母親がこんな犯罪めいた行動を起こすとは思いもしなかった。
電話で言われた言葉も、胸に刺さった。
この仕事を始めて五年、確かな未来は一向に見えてこないし、自分がどんな未来を望んでいるのかも、今はよくわからなくなってきている。このままだと何も実現できないまま、傷んだレタスのように萎れていく一方かもしれない。
だが、いったいどうすればよいのだろう。
真幌はしばらくスマホを握り締めたまま、居間で立ち尽くしてしまった。
「あんたの母親、元気いいな。電話の声、こっちまで聞こえてたぞ」
台所にいた疑明が、敷居を跨いで居間へ入ってきながら言った。
「それで、どっちにするんだ?」
「――えっ?」
「探偵を続けるのか。田舎に帰って結婚するのか。小さく背中丸めて、なんか悩んでるみたいだから」
疑明に回答を迫られるとは思っておらず、驚いた声を出してしまった。真幌はハッとして、背筋を伸ばす。しかし、力を入れたのは一瞬で、すぐにカクンと肩を落とした。
そんな二択、訊かれてもわからない。
「どうしたらいいのか……」
そう、真幌は消え入りそうな声で答えた。疑明が細めた目でじっと真幌を見てくる。
「何が正解かわからなくて、もう二五歳、友達の中にはもう結婚してる人も結構いて。わたしもいつかはお母さんに孫の顔、見せてあげたいし。でも、結婚はいつかすればいいんだから、今はバイトでも好きなことを続けたら、とも友達から言われたりして。子供できたら自由がなくなるよ、とか現実的な話も聞かされるし」
別に結婚したくないわけじゃない。いつかは子供がほしいとも思う。
しかし、やはり真幌の心には引っかかるものがあった。
「最後は結婚すればいいから今は好きなことをしてていい、っていうのは間違いだろう。女性にも手に職は大事だ。旦那に頼る生き方は、何かあったとき困るだろう。まぁあんたの場合、その好きなことが探偵で、職に繋がってるから大丈夫かもしれないが」
疑明のその言葉に、真幌はすんなりと納得した。父親が亡くなったあと、母親が一人で苦労する姿を見て育ってきたのだ。母親は事務のパートの安い給料でお米を買い、小さな畑で野菜を作ってご飯を食べさせてくれた。
しかし、疑明の大丈夫という意見を、鵜呑みにして安心はできなかった。
このアルバイトの探偵職が、果たして手に職と言えるようになるのかどうか。
再び、真幌は無意識にため息をついてしまう。
いろいろわからなくて、悩んでいるのだ。こんなふうに、答えを求めて迫られても困る。しかし、これまで答えを出すことから逃げていたのも事実なのだ。
真幌が黙っていると、横からも深く息をつく音が聞こえた。続けて、どこか呆れたような声が真幌の耳に届く。
「どうしてそんなに悩むことがあるんだ。何が正解かわからない? そりゃそうだろう、人生に答えなんてないんだから。あんたがやりたいようにやればいい。それをあんたが正解だと言えば、誰も否定はできないさ」
それから疑明は、居間の天井を見上げた。
「あんた、探偵を続けたいと思わないのか? 少なくともオレは、あんたの努力は認めるよ。ここまでやって、もう
少し頑張りたいと思わないのか?」
つられるように、真幌も頭上に顔を向ける。
――この部屋に入れば一発で探偵をしてるとわかる。
初め、そのようなことを疑明が言っていたが、そのヒントとなるものが天井にはあった。初めて見た人には、かなり異様な光景だろう。真幌からすると、なんだか必死な感じが丸出しで、見られるのはちょっと恥ずかしい。
真幌の家の居間の天井――特に布団を敷いている場所の上は、約七〇人もの人の顔写真で埋まっていた。
探偵や警察の業界用語に、面取りという言葉がある。これは相手の顔を確認し、その人がマル対か否かを判断する作業のことである。
例えば、多くの人が往来する繁華街や駅、一気に人が出てくる退社時間の会社の前、そんな場所でも、探偵はターゲットを捜し出し、調査をする必要がある。そのとき遠くからでもマル対を見定めることができないと、調査は失敗となってしまう。
ターゲットがマスクやマフラー、サングラスで顔を隠していたり、入手できた写真が数年前のもので顔が変わってしまっていたりする場合もある。そのとき、目元や骨格、さらに言うなら雰囲気で対象を特定できるよう、常に写真を眺めてその人を身近な人物として捉えられるようにしておく。その明地所長に教えてもらったやり方を、真幌は家でも常に実践していた。
「あー」
天井を見ているとじわりと感慨が湧いてきて、真幌は特に意味もなく声を伸ばした。
そこに写真を貼り始めたのは、探偵事務所に入って一ヶ月ほど経ったときだった。事務所に依頼があった案件のターゲットはもちろん、行方不明者だったり指名手配者だったり、どこですれ違ってもわかるように、どんどん写真を増やしていった。
代わりに、部屋に人を呼ぶことは諦めた。この部屋を見て、引かれるのが怖かったのだ。全ての写真を剥がし、貼り直すのは、時間がかかりすぎてできない。友達がお泊り会や宅飲みをしようと言ってくれることもあったが、泣く泣く断った。もし彼氏ができても、この部屋には入れられない。
そうやって、私生活まで制限しながら頑張ってきたのだ。
「……諦めたくないなぁ」
心の中で呟いたはずの声が、口から漏れ出ていた。
そんな真幌の前で、疑明がふっと息をつく。
「続けたければ続ければいいさ」
大股二歩で疑明が近づいてきたと思ったら、真幌は手からスマホを奪い取られていた。真幌が止める間もなく、疑明は画面が開きっ放しだったスマホを人さし指で操作する。
そして次の瞬間、疑明が真幌に顔を寄せ、スマホ画面をこちらに向けてきた。
――カシャッ。
インカメラで写真を撮られた。しかも、ツーショットだ。
「ちょっ、何!?」
驚いた真幌が写真を確認しようと、スマホを掴もうとしたとき、疑明がスマホを高く持ち上げた。真幌が背伸びして取り返そうとする間、疑明は親指で画面を素早くタップする。
「よし、これでオーケーだ」
「や、ちょっと、何したんですか?」
疑明にスマホを返され、真幌は急いでチェックする。そして、大声を上げた。
「待ってください! え!? 何してるんですか!」
今撮られた写真がチャットアプリで、母親に送信されていた。
いったいなんのつもりだ。どうしてこんなことを? 母親に、なんて言えば!?
真幌がプチパニックになっていると、まもなくスマホが震えだした。母親からの着信だ。
「もう、ほんと、どうしてくれるの!」
とにかく釈明のため、電話に出なければならない。さらに余計なことをされるのを恐れ、真幌は疑明から離れるように玄関へ移動しようとする。
そんな真幌の背中に、声がかけられた。
「ちゃんと一人じゃないと言って、安心させてやりなよ。それで、自分が何をしたいのかはっきり伝えるんだ」
真幌は足を止め、疑明を振り返る。
その言葉で、彼の行動の意味が理解できた。全て、真幌のためだったのだ。
初めの宣言通り、真幌の抱える問題を解決するために――。
真幌は黙って前を向き、玄関へと向かう。気を遣ってくれているようで、疑明が後ろからついてくることはなかった。
*
『いつの間にこんなイケメンな彼氏ができとったん! もぉ、早く紹介してや! なんでさっき言わんかったん!』
「……それでさ、わたし、もうちょっとこっちで頑張りたいから――」
『出会いは? どこで知り合ったん? ていうか、どっちから告ったんよ。でも、こんなイケメンがあんたなんかとくっついてくれるわけ……まさかあんた既成事実を作って――』
「ちょ! わたしの話聞いてよ!」
母親はすっかりテンションが上がりきり、好き勝手捲し立てる。そんな母親に、真幌はなんとか自分の気持ちを話していった。
疑明は真幌のために、彼氏のフリをしてくれたのだった。電話をしながらふと下を見ると、彼が履いてきたらしい革靴がある。家の玄関に、自分のものより五センチほど大きなサイズの靴があるのは、なんだか妙にむず痒くなる光景だった。
『聞いちょる聞いちょる。……まぁ、あんたがまだ頑張るって言うなら、止められへんけど。でも、危ないことだけはせんといてよ。あと、無理せんと、たまにはこっち帰っといで。野菜、また送るからな。あっ、イケメンによろしく言っといて』
「うん……わかったよ」
話が終わり、電話を切ると、途端に辺りが静かになったように感じた。母親がどれだけ騒がしかったかがよくわかる。まだまだ元気そうで安心した。また実家に帰って、一緒にご飯を食べたいなと思った。
真幌はしゃがみこみ、そっと疑明の革靴をきちんと揃え直す。
晩ご飯泥棒は、その家に住む者が抱える問題を解決する。お代は作り置きのご飯、家庭の味だ。
今日、疑明が忍びこんできてよかったと思いかけている自分に気づき、真幌はぶんぶんと首を振る。彼がやっていることは犯罪だ。決して認めていいことではない。
だいたい、家庭の味が好きだからと言って、普通ここまでするだろうか。
それから少しの間、真幌は疑明の靴を触りながら、彼のことを考えた。いったいどういう思いで、晩ご飯泥棒をしているのか。その推理力を、どうしてこんなことに使っているのか。しかしいくら思考を巡らせても、今日初めて会った他人のことなど全くわからない。
だから、直接訊いてみることにした。
真幌は腰を上げ、居間へと戻る。
「終わったか」
ちゃぶ台の前で、疑明が腕を組んで立っていた。ずっとその体勢で、真幌の電話が終わるのを待っていてくれたのだろうか。
「はい、ありがとうございます。おかげさまで、問題は解決です」
「そうか。それはよかった」
疑明はかすかに口角を上げて微笑んだ。そんな彼に、真幌は質問をぶつけようとする。
「疑明さん、あのっ、どうして泥棒なんて――」
そのとき、手に持っていたスマホが再び震え始めた。また母親かしらと思いつつ、ちらりと画面を見て、真幌は思わず声を上げた。
「あっ! やばっ! 今何時!?」
電話は明地からだった。壁にかかる時計は現在、正午手前を示している。
自分の進みたい道が見え、頑張ろうと決めたのに、絶賛遅刻の真っ最中だったことを忘れていた。
通話マークをタッチすると、受話口が割れんばかりの激しい怒号が耳に突き刺さった。
『おいゴラまほろぉ! お前、今どこで何しとるんじゃ!』
真幌は反射的に肩を縮め、押入れの方を向きながら通話口に口を寄せる。相手に見えるわけでもないのに、へこへこ頭を下げ、真幌は謝罪の言葉を述べ続ける。
「ごめんなさいごめんなさい、すぐに行きますごめんなさい」
『お前、まだ家におるんか! どういうつもりじゃおお? この国にはお前だけに適用される祝日でもあるんかおお?』
所長は完全にスイッチが入っている。これはかなり長引きそうだった。
真幌が目を瞑りながら平謝りしていると、背後で錆びた蝶番の回る音がした。玄関の扉の音だ。ハッとして振り返ると、そこに疑明の姿がない。
逃げられた? まだ訊きたいことがあったのに。
そう思いながら、真幌はまだ怒声が聞こえるスマホを耳から離し、居間を飛び出す。玄関へと走る。
暗い玄関から、疑明の靴は消えていた。
扉を開けて辺りを見回すが、疑明の姿を見つけることはできなかった。
目が覚めると、台所にイケメンが立っていた。
「…………は?」
わけがわからなかった。
朝の一〇時まで寝坊し、完全に遅刻で、真幌はかなり急いでいた。おそらく顔はとんでもなく青ざめていただろう。昨日ミスをしてたっぷり怒られ、頑張らなければと意識した矢先の出来事だ。居間の床に落ちていたスマホを拾い上げると、事務所からの着信履歴で画面が埋まっていた。
そして、とにかくまず顔を洗おうと、台所への扉を開けたときだった。目に飛びこんできたその光景に、真幌の周りを流れる時間は凍ったように固まった。
謎の高身長黒髪男子が調理台の前で、目を見開いてこちらを見ていた。その手には、構えられた箸。真幌が休みの日に作り、冷蔵保存していた作り置き料理のタッパーが、開いた状態で台の上に置かれている。
ちょっとタイム、と言いたかった。理解が追いつかない。なぜこんなイケてるメンズが家にいるのだろう。
歳は二十代後半くらいだろうか。ネイビーのスーツにピンクのシャツ、赤いレジメンタルタイをしっかりと締めている。手には薄手の白い手袋をしていた。
髪はくしゃっと柔らかそうな黒髪だ。鼻が高く、目尻がすっと切れ長に伸び、中性的な整った顔つきをしている。
先程、所長からの着信の中に混ざって、年下の事務員の明日花(ルビ:あすか)からこんなメッセージが届いていたのが思い起こされた。
『せんぱーい、遅刻、所長激おこですよ(笑)昨晩はどっかの男と盛り上がったりしたんですかー?(笑)』
――まさか昨晩、何かとんでもない過ちを犯してしまったのだろうか。
真幌は寝起きの脳をフル回転させ、記憶を辿る。
深夜、仕事疲れでふらふらになって帰ってきた真幌は、なんとか気力で化粧を落とし、ジャケットとブラウスとアンクルパンツを脱いで、居間の畳に敷いたままにしている布団へと倒れこんだ。それからアラームだけでもセットしなければとスマホに手を伸ばしたところで、あることを思い出したのだ。
近頃、五月であるにもかかわらず、蒸し暑い日が続いている。日中は三〇度近くになることもあり、梅雨を飛び越して夏が到来したようだった。そんな中、真幌はつけ替えるのが面倒で、冬用のムートン調毛布生地のシーツで寝ていたのだ。最近寝苦しく、夜起きてしまうことが増えていたのだが、そのときは暑さより眠気が勝ってしまい、朝になるとバタバタして結局シーツを変えることはしないというのを繰り返していた。
思い出した今、行動しておかなければ、今日も夜中に目が覚めてしまう。
そう思い、真幌は夏用のリネンシーツを求めて押入れに頭を突っこんだ。シーツは奥の方にしまいこんであり、真幌は身体ごと中へと入っていく。すると、暗い押入れの中で冷えた、さらさらのシーツに手が触れた。その感触が心地よく、そのまま頬をすり寄せたところまでは覚えている。
起きると、押入れの中だった。
真幌はアラームのセットを忘れたまま、暗闇の中、朝の訪れに気づくことなく熟睡してしまったというわけだった。
「ん?」
では、このイケメンはいったいなんなのだろう。
乙女にあるまじき間違いは犯していないようだが、真幌の中の疑問は解けないままだ。
そのとき、なぜか真幌と同じく驚いた表情をしていた男が、初めて声を発した。
「……どうして? いないことは確認したぞ?」
先に留守を確認して、侵入したということだろうか。ならば、やはりこの男は泥棒か? それとも空き巣? もしくは変態? しかし、なぜ台所に立って料理に手をつけようとしているのか、と真幌は首を捻る。
それに、どうやって部屋に入ってきたのだろう。最近わけあって、戸締りだけは完ぺきにしていたのだ。
「あなた、何者――?」
そう、真幌が疑問をぶつけたときだった。男の視線が、真幌の顔からすーっと下に落ちた。真幌も、その視線を追ってすーっと下を向き、
「ひゃあ!」
薄手のシャツに下着姿で立っていたことに気づき、慌てて広げた手を下半身に当てた。服を脱いで寝ていたことを忘れていた。
――見られた……見られた!
真幌は手で下着を隠そうとしながら、ちらと男の方を見る。
男は台所から動かず、眉を顰めた呆れ顔で真幌を眺めていた。
「み、見ないでください……」
不審なイケメンに懇願しながら、真幌は自分のドジさに泣きたくなった。
*
「すいません。いえ、調査には必ず行きます。はい、すいません。え、今すぐ? あー、どうでしょう……、ちょっと訳ありで。すいませんっ!」
丁度ズボンを履いていたとき、明地から何度目かわからない着信があった。電話に出ると、案の定怒鳴られた。
真幌は謝りながらも不審者のことは話さなかった。言い訳していると捉えられても困るし、何せ説明が難しい。朝起きたら台所にイケメンが立っていて――なんて言うと、本気で頭を心配されるか、早くいい人を見つけて結婚しろと諭されそうだ。
とにかく、彼が何者か確かめなければ。
そう思いながら、真幌は畳に座る男に視線を向けた。男はどこかむすっとしたような顔で、ちゃぶ台に肘を突いている。真幌に見つかったあとも、なぜか男は逃げようとはしなかった。明地からかかってきた電話に出る間、真幌はついジェスチャーでちゃぶ台の前に座るよう男に勧めてしまったのだ。
すると男は開けていたタッパーを冷蔵庫にしまい直し、素直に居間へ入ってきた。そして畳にどっかり腰を下ろしたのである。それは日常からかけ離れた、ミステリーすぎる状況だった。
「えと、質問してもいいですか?」
真幌は立ったまま、恐る恐る訊ねた。
「ああ、いいけど」
男はなぜか余裕たっぷりに頷いてくる。
「じゃ、じゃあ……あなた、何者ですか?」
「あー。……端的に言えば、泥棒?」
「やっぱりそうか! そうなのか! お前だったのかこの変態! 警察に……じゃなくて」
最初の予想通り泥棒で正しかったのかと思いかけ、しかし一番の疑問が頭によぎる。
「どうして泥棒が、人の家の台所に立ってご飯を食べようとしてるんですか?」
男がちらりと真幌を見た。ちゃぶ台に突いていた肘から顎を外す。
「オレはただの泥棒じゃない。晩ご飯泥棒とでも言おうか。あんたの家のご飯を盗み――もとい、いただきにきた」
「ば、晩ご飯泥棒?」
その全く聞き慣れない単語に、真幌は眉を顰めて首を傾げた。
「ああ。オレはいろんな家を回って、作り置きのご飯をいただいてるんだ」
そう言って、男は上着の内ポケットから名刺でも取り出すかのように、布でくるんだマイ箸を取り出してみせた。
「は、はぁ? なんですかそれ。聞いたことないです」
ただ、マイ箸を取り出されたところで、理解が追いつかないのには変わりない。どっしりとした態度だが、几帳面なところもあるのだなと思うくらいだ。
「晩ご飯をつまみ食いしたいがために、台所に立ってたっていうんですか? どうして他人の家に侵入してまでご飯を?」
真幌の言葉に、男は腕を組みながら答えた。
「悪いか?」
「わ、悪いよ!」
真幌は反射的に突っこんでいた。そもそも思いっきり不法侵入だ。つまみ食いだって、ここまで本気でやれば罪になるのだ。
納得できない様子の真幌を見て、男はふぅと息をついた。
「オレ、家庭の味っていうのが大好きなんだ。店で食べる味はブレがあってはいけないから、調味料でしっかりと画一され、それも万人向けに仕上げられたものになる。対して家庭の味は自分や家族のために作られたもの。些細な味つけや味噌汁の具の種類、野菜の煮崩れ具合まで、そこには調味料だけでは表現しえない、深く優しい味わいがある」
「深く優しい味わい、ですか」
「そう。ハマチのたれ漬けとサラダ、ご馳走様。おいしかった」
男が挙げたのは、今、冷蔵庫に保存している二種類の作り置きご飯だった。ハマチのたれ漬けは、醤油にハマチの切り身を漬け、ネギや胡麻などをふりかけて味つけしたもの。炊き立てのご飯を乗せるだけで、食欲が止まらなくなる。ザ、シンプル、自分のためだけに作られた一人暮らし飯である。
だが、そんなメニューを、
「特にハマチのたれ漬けだな。醤油がほどよく染みこみ、形は崩れないままとろっとした食感になっていた。薬味のネギと一緒に千切りされた大根の葉がたっぷり入っていて、食感が楽しく、濃い味の中にさっぱりとした水気が気持ちいい。保存のための調理法としては最強だな。刺身が半額になってるのを見たら、あれを作るために買いこんでしまいそうだ」
なんと男はべた褒めしてきた。
どうせ一人で食べる分なので、一切手を加えてはいない。そんな料理をここまで褒められ、真幌は急に照れ臭くなる。
おっしゃる通り、夕方のスーパーでハマチが安くなっているのを見つけ、作ったのだ。値下げ前のお刺身なんて、高くて買えやしない。大根の葉をたっぷり使えているのは、田舎の実家から決まって二週に一度、定期的に野菜が送
られてくるからだ。
「ま、まぁ、お口に合ったならよかったですけど。たまにアボガドを入れたりもするんですよ?」
どぎまぎと視線を横に逸らしつつ言って、真幌はちゃぶ台の前に腰を下ろした。
自分の料理を他人に食べてもらうことなんて、ここ最近なかった。幼い頃は忙しい母親の代わりに台所に立ったり、わけあってとある施設で料理当番をしたりしていたこともあったが。しかしよくよく考えれば、こうして一人の異性に手料理をおいしいと言ってもらうのは初めてのことだ。
なんだか妙に緊張してきた。ちゃぶ台を挟んで向かいに座ったことで、イケメンと同じ高さで目が合う。思わず真幌の方から逸らしてしまった。男は不思議そうに首を傾げる。
やばい、ドキドキする。と胸を押さえた真幌だが、しかし、ぶんぶんと頭を横に振った。
「ドキドキ、ではなくてっ! 晩ご飯泥棒? あなた、どこから入ったんです? 戸締りは完璧にしていたはずです。だいたい、わたしに見つかってから、なぜ逃げようとしなかったんですか? 自分が泥棒という自覚はあるんですよね? 晩ご飯泥棒とか言って、これ立派な犯罪ですよ? ていうか、どうしてわたしの家を狙ったんですか?」
「ドキドキってなんだ。それに、質問が多すぎる」
真幌が一気に畳みかけたにもかかわらず、男は至って落ち着いた様子で腕を組んだ。
「そうですね。では、あなたの名前から聞かせてください」
「それ、さっきの質問の中には入ってなかったな」
「知らないと不便なので、先に教えてほしいです」
真幌はこほんと咳をして、男の顔を見る。質問を大量にぶつけ、息巻いているのがなんだか恥ずかしくなり、一旦話題をずらしたのだった。
「名前、ねぇ。オレは疑明(ルビ:ぎめい)だ。下の名前は秘密」
男は指で空中に書くようにして、名前の漢字を教えてくれた。
「疑明さん……。あ、わたしの名前は――」
「牧原真幌」
「え、どうして知って――」
「この部屋のポストのネームプレートに書いてあるだろ」
「ああ、そうですか。そうですよね」
自分のことを調べられているのかと、ドキッとしてしまった。真幌が密かに胸を撫で下ろしていると、疑明は続けて口を動かす。
「まず、オレがこの家をターゲットに選んだ理由から説明しようか。あんた、週に一度か二度、必ず近所のスーパーで買い物してるだろ。それも、肉や乳製品を中心に、食材を大量に。よって自炊をしてることが窺える」
「な、なんで知ってるんですか!」
やはり調べられていたのか、と真幌はぶるりと身震いする。
実家から野菜が送られてくるので、消費しなければならない。お金もないし、必然的に自炊をすることになるのだ。
「ターゲットを求めて、スーパーを張ってたりするんだ。ターゲットに定めてからは、少しあんたのことを観察させてもらった。木造アパートの一階で、一人暮らし。水曜日の休み以外、毎朝八時に家を出ていく。戻りはまちまちだが、夜が遅い傾向にある。職業は、探偵かな」
「え、え、待ってください。どうしてわたしが探偵だと思うんですか?」
この職に就いて五年、まさか知らずのうちに探偵オーラでも漏れ出るようになっていたのだろうか。しかし、それはこの仕事においてはかなりまずい。基本的に、ターゲットにバレることがあってはならないのだ。
「この部屋に入れば一発でわかるけど――。オレがあんたの職業を推理した材料は……」
疑明は最初、ちらりと天井を見上げた。あまりそちらを見ないでほしい。そこにはちょっと恥ずかしいものがある。そんな真幌の願いが通じたか、疑明はそれ以上天井については言及せず、すっと立ち上がって居間の隅へと向かっていった。
押入れと反対側の部屋の奥には、真幌が入居してすぐに家具量販店で購入した簡易クローゼットがあった。真っ白な木製で、アンティーク風な彫刻の取ってがオシャレなそれは、畳の部屋の隅ですっかりその魅力を半減させている。きっとクローゼット的にも天井の高いフローリングの洋室に置かれるのが本望だろう。
そんなアンティークの取ってに、疑明が手をかける。
「えっ、ちょ、何を――」
驚いた真幌が立ち上がる間、疑明は勢いよくクローゼットの扉を引き開けた。
「お、お、お、乙女のクローゼットを勝手に! やっぱり変態!?」
別に下着をそのままぶら下げていたりするわけではないが、無性に恥ずかしく、真幌は叫んでしまう。普通、初対面の女性のクローゼットを勝手に勢いよくオープンするか? この男、イケメンならなんでも許されると思っているのか?
そんなパニックになった真幌を、疑明が振り返る。
「これだよ。あんたが探偵をしてると思った理由。クローゼットの中身がこんなふうになるのは、オレの見解では泥
棒か探偵、もしくはコスプレイヤーくらいだから」
混乱状態だった真幌は、ハッとして疑明の言葉を反芻した。
「……説明してもらって、いいですか?」
「この多種類な衣装、私服にスーツ、ドレス、作業着、これは運送屋のユニフォームだな。シーンによって使い分けるんだろ? あんたはスーツで通勤する日と私服で通勤する日がある。スーツで家を出た日は、そのままビジネス街にでも調査に行くんだろう。私服の日はスーパーや商店街にでも行くのか、それともどこかで作業着に着替え、住宅点検のフリをしてマンションにでも侵入するのか。作業着は、あんたの庭に干されているのを一度見たことがある。コスプレイヤーと考えるには奇抜な衣装が少ないから、探偵だ」
「どこまで見てるんですかこの変態!」
気づかぬうちに、真幌の行動は観察しつくされていたらしかった。
――でも、服装を見て職業を当てたのか。
そう考えると、ぞくっときて、真幌は身を竦めて身体を震わせる。
これは真幌の癖だった。性癖と言ってもいいかもしれない。鮮やかな推理を見たり聞いたり読んだりしたとき、身体が勝手にぞくぞくするのだ。真幌にとってそれは快感だった。
「自分の身を周囲に紛れさせ、目的を遂行するのは泥棒も一緒だからな。今日のオレは保健の営業マンという設定だ」
疑明が両腕を広げ、自分のスーツ姿を見せるようにしながら言う。
「なるほど。随分頭のキレる泥棒さんですね」
「いや、初歩的な分析だろ」
「そうですか。ではそんな初歩が完璧な泥棒さんが、どうして今回はこう捕まることになったんですか?」
真幌がそう訊ねると、疑明は面倒くさそうにため息をついた。
「出勤する姿は確認してないが、窓から中を覗いて誰もいないのを確かめて侵入したんだ。いつもは仕事に行ってる時間。居間の電気がつけっ放しなのは、たまにあることだから気にしなかった。……まさか、押入れの中で寝てるとは思わなかった」
最後、疑明は不覚と言わんばかりに小さく舌打ちをした。
ターゲットのドジに巻きこまれるとはなんと運の悪い泥棒なのか、と真幌は思う。しかし、そこで少し調子に乗って口を開いた。
「ふふふ。かかりましたね、探偵の罠に」
「その罠って、かかった相手に下着を見せつけることか?」
「うぐっ」
つい先程の恥ずかしさが蘇り、真幌は今すぐここから消えたくなる。多分、顔は真っ赤だ。泥棒なんぞに言い負かされ、我ながら情けないと思う。
「そ、それで、どうして見つかっても逃げようとしなかったんですか?」
真幌は無理やり言葉を絞り出し、話を戻した。すると疑明から思わぬ返事が戻ってきた。
「ああ。その件で、オレからも少し話したいことがある」
「え、なんですか?」
真幌が訊くと、疑明は簡易クローゼットの前からちゃぶ台に戻ってくる。
「まず先に、あんたが質問した侵入ルートだけど、オレは玄関から入った。窓を割ったり換気口をこじ開けたりするような破壊行為は一切しないって決めてるんだ」
「へぇ。じゃあ、ピッキングってことですか? 鍵はしっかり閉めてたはずです」
「ああ、そうだな」
「よくそんな簡単に頷きますね……」
当たり前のように他人の家への侵入を語る泥棒に、真幌は思わず呆れてしまった。
「別に、オレは泥棒だぞ。ピッキングくらい当たり前だろう。この家に使われてる錠はピンタンブラーキーという、鍵の中央に溝があり片側にキザミのあるタイプのものだ。鍵の表面に複数の窪みがあるディンプルキーといったような、防犯性の高い鍵が出てくるまでは、ほとんどの住宅でこのピンタンブラーキーが使用されてた。そんでもって、これは錠の中にあるピンを鍵のキザミで押し上げ、内筒を回転させるというシンプルな構造になってる。要はピンを押し上げればいいだけだから、練習すればヘアピンでも開けられるようになる」
「それくらいは知ってます。これでも一応探偵なんです」
「それはそれは、失礼しました」
一ミリも気持ちのこもっていない声で、疑明が謝ってくる。
「ドアロックも紐か何かを使って外したんですよね?」
「ああ。探偵さまのおっしゃる通り。ピアノ線はいつも持ち歩いてるから」
真幌の質問に、疑明は正直に首肯した。
ピッキングで鍵を開けたあと現れるドアロックは、紐やリボンなどがあれば簡単に外すことができる。ドアロックの輪の部分に紐を通し、その紐を挟むように一旦ドアを閉める。あとはドアの隙間から出た紐を上に移動させつつ、中のドアロックを動かして外すだけだ。
「でも、さすが探偵さま。ピッキングで侵入されたくらいじゃ動揺しないんだ」
「ええ、まぁ」
真幌は軽く頷いた。正直、この家に手練れの泥棒がきたら、あっさり侵入されるだろうことは想像がついていた。そのため、現金や通帳はしっかり隠している。押入れの中の家電製品の空段ボールに、説明書に挟んでしまっておくのがオススメだと明地に聞いた。大抵の空き巣は棚やテレビ台やクローゼットの服の隙間、冷蔵庫や本棚などを漁り、一〇分ほどで何も見つからなければそのまま去っていく。
そして真幌は、この虚弱セキュリティな家を利用し、逆に泥棒を捕まえてやろうとも考えていた。侵入されないに越したことはないので鍵はしっかりかけていたが、忍びこまれた際の罠も同時にしかけていたのだ。
侵入されてからが本番なのだよ、と、真幌は自信満々に発言しようとする。しかし、疑明が先に口を動かした。
「じゃあ、スムーズに本題に移れそうだな。玄関にあった、隠しカメラの件だ」
「えっ? バレてたの!?」
罠をあっさりと看破され、真幌は驚いて声を上げた。
「そりゃあ、靴箱の上に見た目立派な万年筆が転がってたら、誰でも少しは気にするさ。本職の泥棒なら、それが高価なものか確かめようと手に取るんじゃないか? レンズがついてることくらい、すぐにバレるぞ。まぁ、オレは始めから怪しく思って確かめたが」
その万年筆は、キャップのクリップ部分に隠しカメラがついている。本来は、違法なお店や会社などに侵入して内部を撮影するために事務所から支給されたものだ。しかし真幌はここ最近、その万年筆を家の玄関にしかけるようにしていた。また、同じように腕時計型のものを、居間の窓にも。これで油断した泥棒の顔を収めてやろうと企んでいたのだ。
「どうして見つかっても逃げようとしなかったのか、だったか。オレは家を出る際に、姿が映ってしまったカメラのメモリーデータを消していくつもりだったんだ。だけど、その前に見つかってしまった。そこで、変に逃げて心象を悪くするよりは、こうして大人しく捕まった上で話をした方がいいと考えた」
「話って。いくら顔がいいからって、話して解決するような問題じゃないですよ!」
「何それ、褒めてくれてんの? 別に見逃してくれなんて言うつもりはないよ。オレの方からあんたに、少し訊きたいことがある」
そういえば、先程から少し話したいことがあると言っていた。
「……なんですか?」
「牧原真幌。あんた、不審者に狙われてたりするのか?」
真幌は目を大きくして疑明の顔を見た。
驚いた。
その疑明からの質問は、「はい」か「いいえ」で答えるなら、間違いなく「はい」だった。
「誰かに侵入される覚えのある奴しか、玄関に隠しカメラをしかけたりはしないだろう。加えて、あんたの言ってた『お前だったのか、この変態』という、家に入ったオレに対する言葉。これは、過去にオレ以外の人に、侵入またはそれに近い行為をされたというふうに取れる。オレの観察にあんたが気づいた様子はなかったから、オレの他にもあんたの周りをうろついてた人物がいる。第一、あんたはオレのことを何度か変態と呼んだが、オレはあんたに変態行為などしていない。他の奴と間違われてると考えられる」
いやいや、乙女の家に侵入し、許可なくクローゼットを開けるのはまさに変態行為ではないのか? と真幌は思う。そもそも、人の家に勝手に上がってご飯を食べるのが好きなんて、かなり極まった変態ではないのだろうか。
しかし、疑明の推論は全て正しかった。
呆気に取られる真幌に、疑明は続ける。
「オレ、ご飯をいただきに侵入したあと、必ずお返しにしてることがあるんだ」
「はぁ。と言いますと?」
「その家にある問題を一つ、推理し、解決してるんだ」
推理。そのワードに、真幌の身体はぴくりと反応する。
「牧原真幌、ハマチのたれ漬けとサラダ、ご馳走様。お返しに、あんたの抱える問題を推理させてほしい」
勝手に食べておいてお返しとはなんだ、と真幌は思う。
しかし、である。このイケメンが只者ではないことを、真幌はこれまでの会話の中で感じ取っていた。
彼の推理をもっと体感してみたい。胸がどくどくと騒ぎだすのがわかる。
「……じゃあ、お手並み拝見させてもらおうかな」
真幌が頷くのを見て、疑明は僅かに口角を上げた。
*
「最初はやっと犯人を捕まえたと思ったんです。けれど、話を聞いていると、どうやらあなたではないとわかりました」
ちゃぶ台を挟んで真っ直ぐ向かい合って座り、真幌は疑明に現状の説明をする。
「あなたの言った、不審者に狙われているというのは本当です。この頃、干している洗濯物が盗まれていることが何度かありました。下着は外で干さないようにしているんですけど、キャミソールやストッキングなどを中心に盗られました。他にも、ポストに『好きです、つき合ってください』とだけ記された手紙が入っていたり、知らないアドレスから『ずっと見ているよ』なんてメールが届いたりすることもありました」
疑明は親指と人さし指で顎を挟みながら、黙って聞いている。
「よく観察されていてご存じかと思いますが、最近、日中誰もいなくても部屋の電気はずっとつけっぱなしにしていました。仕事の終わりが夜遅いので、不審者に室内に入られ暗闇で待たれてたりしたら嫌だったからです」
「警察には届けたの?」
よく観察されていてご存じ、という皮肉はスルーして、疑明が訊ねてくる。
「いえ。犯人の特徴は何もわかりませんし、手掛かりも今のところないです。この状態で警察に届けたとして、やってくれることと言ったらパトロールの強化くらいでしょう。それなら警察には知らせず、犯人を泳がせておいて手掛かりを掴む方が事件解決に近いと判断しました」
「へぇ。さすが探偵さま、たくましいね」
「……バカにしてます?」
「褒めてるんだよ。でも、手掛かりはなし、か。容疑者もいないの?」
言いながら、疑明はきょろきょろと室内を見回している。
「容疑者ですか? 一応、何人かいるんですが。だけど、かもしれないってくらいで」
「誰?」
「えーと、三人いまして。まず、事務所から出る宅配物の引き取りをお願いしてる、運送会社の若いお兄さんです。あの人なら事務所に入ってわたしの出勤状況を確認できるので、安全にわたしの家に近づけます。よく荷物を受け取りながら事務の子と世間話をしてるので、事務所内の世事にも詳しいんです。ただ、長居しながら事務所内をじろじろ見たり、社内の話を盗み聞きしてる素振りがあるって噂になってるんです」
「運送会社の不審な男性……。それから?」
疑明に急かされ、真幌はすぐに続ける。
「えと、二人目は二つ隣の部屋に住む四〇代くらいのオジサンです。これは近所の井戸端会議で聞いたんですが、どうやら前科があるらしいんです。それも、強制わいせつ罪が理由で、三年ほど服役されてたとか」
「ふむ。近所の井戸端会議ねぇ。となると、面白くするために多少の脚色はしてあるかもな。その話がどこまで本当か。でもまぁ、同じ罪の再犯で捕まるというのもよくあること、気をつけておくに超したことはないか。で、次は?」
次で三人目になる。真幌は最後の容疑者について、できるだけ細かく説明する。
「最後は、この地区を担当されているポスティングのバイトの男性です。おそらく三〇代で、メガネをかけた人。よく、いろんなお店のチラシを入れていくんですが、ウチのアパート、全室分のポストが階段前に集まっているんです。そこへ行くには、一階の庭の横を通りすぎることになるので、ちょっとこっそり庭の方へ入ることも簡単にできます。それに、最近なぜかチラシの量が増えてるんです。細かくやってきて、下見をしてると考えられます」
真幌は部屋の隅に視線をやった。そこには捨てる暇がないチラシが山になっている。
「掃除くらいしろよ」
疑明が端正な顔をしかめながら言った。
「紙は回収の日が決まってるから、その日にまとめてやろうと」
「結局その日を忘れたり、忙しくて逃したりしてこうなってんだろ。今のうちからまとめて掃除しといた方がいいだろってことだ」
「う、うるさいです。勝手に忍びこんだ泥棒に言われたくないです!」
恥ずかしく、真幌は顔の体温が一気に上がるのを感じる。そもそも人を招く予定などなかった部屋なのだ。特に男を上げるなんて、想定すらしていない。今考えると、台所も掃除できていないし、脱衣所の方には洗濯前の服が溜まったままだ。泥棒とは言えイケメンである異性の手前、真幌は両手で顔を隠したくなる。
「でもまぁ、ポスティングの男性、か。これで三人。誰にも証拠はなく、逆に牧原真幌の被害妄想という可能性もあ
るが」
「や、被害妄想なんかじゃないですから! 実際に衣類を何点か盗られてるんです! ……まぁ、その三人の中に犯人がいない可能性は大いにありますが」
証拠どころか、強いて容疑者を挙げるならこの三人、というレベルの話だ。
問題を解決すると、疑明は言った。しかしこの状況から、どう推理を進めていくつもりなのか。真幌はドキドキしながら彼の方を見た。
「なるほどねぇ」
疑明はそう呟くと、おもむろに立ち上がり窓の方へと歩み寄っていく。
真幌も慌てて腰を上げ、後に続いた。
「こっちが洗濯物を干してる庭か」
「そうです。外へ出ますか? サンダル取ってきますけど」
疑明はしっかりと靴を脱いで靴下で部屋に上がっていた。全く泥棒らしくない。ご飯を盗み食いしにきただけで、他に迷惑をかけるつもりはないという彼の意思を感じる。
「ああ。侵入したことはあるが、念のため見ておきたい」
疑明がそう答えたので、真幌は玄関へ走り、軽く近所に出かけるときに履く大きめのサンダルを取ってきた。縁側の下にも樹脂製のアウトドア用サンダルを置いているので、自分はそれで庭に出られる。
真幌は先に立ち、窓の鍵を開けて縁側から庭へ下りる。その際、庭を出たすぐ横に、すっかり忘れていた嫌なものが見えたが、とりあえず気づかなかったフリをした。
疑明もサンダルを履いてついてきて、二人で庭に並ぶ。
この築三〇年の二階建てアパートは、周囲をぐるりとブロック塀に囲まれている。道路に面した塀の内側には広めのスペースがあり、隣の部屋との間を板で仕切る形で、一階に住む者は庭として利用できるようになっていた。
真幌は設置してある物干し竿の向こう、頭より高い位置にあるブロック塀に目を向ける。
こういった外界からの視線を遮る塀は、泥棒に狙われる原因となりやすい。加えて真幌の部屋の庭は、塀に囲まれたアパートの入口に最も近い位置にあり、仕切り板を一枚超えるだけで簡単に侵入できてしまうのだ。仕切り板はブロック塀よりも低く、簡単によじ登れる高さである。
「一見さんの泥棒も、気軽に寄っていってくださいと言わんばかりのこの空間、どうです?」
自虐をたっぷりこめて、真幌は訊く。
「暖簾つきの居酒屋かよ。まぁ、まさにその通りって感じだが」
疑明は納得するように頷いた。それからアパート入口側の仕切り板に近づいていく。板の上に手をかけ、軽々と身体を持ち上げて板の向こうの景色を覗いた。
「やっぱり、容疑者を三人に絞るのは間違いですかね」
そう真幌が言うと、板から着地した疑明が振り返る。
「三人に絞る、というのは間違いかもしれない。でも、怪しい者をリストアップする作業は必要だ。そうしないと、推理は始まらない」
「……確かに、漠然とした状態で考えていても、中々次の一歩が決まらない気がします。だけど、容疑者を挙げて推理を始めても、そちらに考えが偏ってしまい、その中に犯人がいなかったときが怖いです」
「怪しい者リストは随時追加していくんだよ。そこは柔軟でいいんだ。もしあんたが言う一見さんが犯人だったとしても、そいつとあんたの間にはすでに関係が生まれてる。『好きだ』なんて熱い手紙をもらったりしたんだろ? 絶対にどこかで影が見えてくる」
疑明の言葉は心強かった。彼は従うべき自分のやり方を持っている。
探偵をしていても、そこまで冷静に物事を考えられたことがなかったような気が真幌はした。
「ところで、居間の棚に置いてあった腕時計、あれも隠しカメラだよな」
話を戻すように言って、疑明は顎で窓の方を示した。
「え、なんでわかったんですか?」
「玄関の隠しカメラの話をしたとき、あんたの目線が不自然にそっちへ行ったから」
自分でも気づけていなかった事実に、真幌は驚いた。おそらく一瞬の出来事だったはずである。この男、本当にただの泥棒なのだろうかと、真幌はまじまじ疑明を見てしまう。
「あのカメラ、窓の方に向けられてたけど、犯人の顔は?」
「あー、あの隠しカメラ、実はしかけたの最近で。まだ話してなかったですね。この頃というふうに言ってましたが、正確に言えば不審者に狙われ始めたのは先週から、ここ一週間ほどの出来事なんです。差出人不明のメールだけは、その少し前から届いていましたが。カメラを会社から持ち帰ったのが二日前で、それからまだ不審者は現れていないです」
隠しカメラを持ち帰る前から、一日中電気を点けっぱなしにし、洗濯物を外で干さないようにするなどの対策は始めていた。撮影を開始してからは、たまに洗濯物を吊るして留守を演じてみたりしたが、まだ犯人は釣れていない。
「なるほどね」
疑明は眉間を指で挟むポーズでじっと考えこむ。
「何かわかりそうですか?」
真幌が訊ねると、疑明は軽く首を横に振った。
「今はまだなんとも。中に入って、犯人からの手紙なんかを見てみたい」
疑明は部屋へ戻ろうと窓の方を向き、ちらりとその横手に目を移す。
「まぁ、一つわかったことと言えば、あんたの荒んだ生活くらい」
ひー、と真幌は叫びそうになる。庭に出るときも思ったが、そちらにはどうしても見られたくないものがあった。どうして片づけておかなかったんだと自分を責める。
そこにあるのは、頭を結ばれた黒いゴミ袋だった。透けて見えるその中身は、大量のビールの空き缶。
休日や、仕事が早く終わった日、真幌は必ずビールを飲む。好きなのだ。冷えたビールを喉に流しこむのも爽快だし、苦みをじっくり味わって飲むのも幸せだ。カクテルを可愛く飲んでいた方が、女子的にはポイントアップかもしれないが、真幌は居酒屋でもとりあえずビールを頼む。
中身を飲み終わった缶はまとめて捨てようと、水で流して袋に溜めるようにしている。しかし、その袋を部屋の中に置いておくのは邪魔で、庭の、部屋からは見えない窓の横に出していたのだ。
「べ、別にいいじゃないですか! 女子が家で一人、ビール飲みまくってたって。女子力が下がったって、彼氏ができなくたって、わたしはこれをやめられない!」
「別にそこまで言ってないし、変に開き直られても困るけど。まぁ、勝手にどうぞ」
疑明はどうでもよさそうに真幌から目を逸らし、先に窓を開けて部屋に上がっていった。
*
真幌だって、時間がないことを言い訳にしてばかりいるわけではない。
捨てられず溜まっているゴミも、分別はきっちりしてあり、邪魔にならない場所にまとめて置いている。
「こっちは燃えるゴミで、こっちはチラシの山……。いや、どうしてこんなに溜めこむんだよ。こういうところに埃が溜まって、部屋の空気が汚れていくんだ」
「い、いつでも捨てられるようにはしてあるんです! でも、ゴミ捨て場が二ブロック先にあって、これが中々遠くて……」
「言い訳するなよ、あんたの部屋だろ。普段の生活をしっかりしてないから、今日だって遅刻するんだよ」
いつの間にか、今度はゴミ捨て場までの距離を言い訳にしていた。しかも、まったくもって正しい指摘を受け、何も反論できない。
くそう、どうして勝手に入りこんだ泥棒なんぞにこんなこと言われなければならないのか。そう思いながら、真幌はむぅと頬を膨らます。
「で、ゴミ屋敷の部屋を見回って、何かわかりましたか? コソ泥さん」
「まだなんとも……。それで、さっき話であった犯人からの手紙は?」
嫌味たっぷりな口調で言った真幌の言葉を無視し、疑明は室内を見回す。
「はいはい。待ってください。今、出しますから」
真幌は部屋の壁際に置いているカラーボックスに近づき、二段目の引き出しを開けると、例の不審者からもらった手紙を取り出す。
「これです」
そう言いながら開いて疑明に見せると、疑明が「ほぅ」と面白そうな声を漏らした。
「なるほど、そうきたか」
「……何がそうきたか、ですか?」
「手紙っていうから手書きをイメージしてたけど、パソコンで書かれてたんだな」
真幌に届いた手紙は、『好きです、つき合ってください』とパソコンのメモ帳で書いて印刷された、とても簡素なものだった。
「これ一通だけ?」
「はい。手紙はそうです。ちなみに、こちらのごく普通の封筒に入れて投函されていたのですが、切手は貼られていませんでした。犯人が直接ポストに入れたようです」
真幌は手紙と一緒に保管していた白い封筒を、ぴらぴらと振ってみせる。
「一行目に、一文だけ。なんの工夫も見られない。これがラブレターだとしたら、本気度が全く感じられない」
「あー。確かに気持ちは全然伝わってきませんね。ていうか、むしろ気持ち悪い」
「ということは、犯人はあんたのことが好きってわけではないのかもしれない。手紙を入れたのには、他の目的があるのかも」
「他の目的ですか? ただの変質者の嫌がらせだと思ってましたが……」
犯人がこんな手紙を送ってくる目的。変質者の行動に意味などあるのだろうか。
そう疑問に思いながら、真幌は考える疑明の表情を窺い見る。
すると、疑明がじろりと細めた目を真幌に向けてきた。
「何? じろじろこっち見て」
「や、やー、何かわかったのかなと」
「これだけじゃ、簡単なことしかわからない。普通、ラブレターを書くとしたら手書きだろう。それもこんな見栄えの悪いものしかできないようなパソコンスキルなら、なおさら。なら、なぜ手書きにしなかったのか」
「それって……?」
「当たり前だろ、文字から自分を特定されたくなかったからだ」
犯行予告で新聞の文字を切り抜いたものを利用したりするのを漫画やドラマで見たことがある。それと似たようなものということだろうか。
「なんか大げさすぎません? 悪いことをしてるから、本人を特定されてはまずいのもわかりますが。こんなストーカー疑惑くらいでは、警察も筆跡鑑定なんてしませんし」
「大げさ? 何か大きな事件でも想像したのか? 単なるストーカーでも、そういう手法を使うことだってあるだろう。例えば手書きだったとして、その文字にあんたのよく知る特徴があったりしたらどうする?」
真幌はドキリとする。
「わたしが字を知ってるほど、身近な人が犯人ということですか? 誰?」
「そういう可能性もあるってことだ。あと、あんた探偵だろう、ちょっとは自分で考えろ」
最後、疑明は呆れたふうに言って、次のヒントを探すように部屋の中を見回す。
先程挙げた三人の中では、真幌が字をよく知る人はいない。自分の字を知られているかもと用心し、パソコンを使ったのだとしたら、仕事で接することのある運送会社のお兄さんが一番怪しいところだが、説得力に欠ける。
――一応、探偵で頑張ろうとしてるけどさ……。
そう思い、真幌は口を閉じたまま下唇をきゅっと噛む。考えても、真相は全くわかりそうにない。
疑明は部屋の扉の横にあるコンパクトデスクの方へ移動していた。そこに立てていた写真に目を向けながら、真幌に訊ねてくる。
「この人は誰?」
写真の中では男が一人、穏やかに笑っている。背景は緑の山々で、真幌の実家がある大分県の田舎の風景だ。
「父親です」
そう真幌が答えると、疑明はよくよく観察するように目を細めて写真に顔を近づけた。
「いつの写真だ? すごく若く見えるけど」
「わたしが小学生の頃の写真ですので、父はまだ三〇前後ですね」
「……そうか」
疑明は僅かに口を動かし短く返事をした。写真から目を離し、チラシが溜まっている部屋の隅へ足を向ける。
「どうしてこんな昔の写真を置き続けてるのか、訊かないんですか?」
おそらく疑明は察しているだろうと思いながら、真幌は訊いた。
「だいたいわかる気がするが……。そう訊いてくるってことは、話したいのか?」
話したいのか、と言われ、真幌はハッとした。確かに自分はこの初対面の泥棒に、身の上話をしようとしていた。
相手は選ばなかったのかもしれない。むしろ、変な心配をさせたくなく、親しい人物には話しにくかった。
このうだつの上がらない日々のことを、誰かに聞いてほしかった。
「わたしの父、探偵だったんですよ」
チラシの前でしゃがむ疑明の背中に、真幌は話し始めた。
「地元の九州では有名で、解決した事件はたくさん。調査だけじゃなく推理もできる人だったので警察に協力なんかしたりして。『お父さんすごい』と幼心にいつも感心してました」
疑明は手元でチラシを漁り続けている。ただ、慎重に音を立てないようにしてくれているようで、話を聞いてくれているのはわかった。
「だけどまぁ、写真が古いことからおわかりかと思いますが、亡くなってしまいまして。仕事中の事故だったんです。殺人事件を調査してたとき、犯行を突き止められた犯人が逆上して父に襲いかかり、頭をブロック塀に打ちつけられて……。警察は世間に何も公表しませんでした。そもそも探偵に協力を依頼していること自体、秘密にしています。探偵のような胡散臭い存在を頼っていると知られると、世間の信用が落ちると考えているんです。……でも、お葬式には警察の方を始め、多くの人がきてくださいました。その後、家で父の遺品を整理していたとき、クッキーの平たい空き缶にたくさんの手紙を見つけました。それは全て、父親に感謝した依頼人が送ってきた手紙でした。で、まぁ、何が言いたいかというとですね。わたし、父に憧れていたんです」
父親の死後、真幌の心には父親のような探偵になりたいという思いが深く根づいていた。そのため短大卒業後、母親の反対を押しきり、調査員を募集している探偵事務所の多い東京に出てきたのだった。そして、テレビの取材依頼も多く私立探偵事務所にしてはかなり有名な明地探偵事務所にアルバイトで滑りこむことに成功した。
「でも、探偵事務所にバイトで入ってみても毎日失敗ばかりで。正社員になれるわけでもなく、依頼人に感謝されるわけでもなく。母には実家に帰って結婚しろと言われ続け……」
このまま仕事を続け、この先自分がどうなるのか。
どうなりたいのか。
最近さっぱりわからない。
真幌が言葉を切り、数秒が経過したとき、ずっと黙っていた疑明が振り返った。
疑明はどこか退屈そうに細めた目で真幌を見る。
「で、どうするんだ? 探偵頑張るの? それとも結婚したいのか?」
「え、えと……」
夢はあった。しかし、今は即答できなくなってしまっている。
真幌がもごもごしていると、疑明は「ふーん」と興味なさそうに声を間延びさせた。
「なんだ、結婚したいのかと思ってたよ。こんなの持ってるし」
そう言いながら、漁っていたチラシの中から数枚を取ってひらひらと振ってみせてくる。
それは結婚式場やウエディングドレスの広告だった。
「べ、別に持ってるわけじゃないです! ポストに入ってたやつを、そのままそこに置いてただけ」
ポストに入っていたチラシに関しては、内容などほとんど確認していなかった。チラシと共に手紙が入っていないか、チェックするくらいだ。
「へぇ、なるほど」
あっさりと言って、疑明は立ち上がる。真幌が結構長く語ったにもかかわらず、真幌の父親や現在の悩みの話には特に感想などないようだった。
この男、他人に興味がないのか。人の作るご飯には夢中になるくせに、と真幌は思う。
「他はどこを調べるつもりです? ここまでで何かわかりましたか?」
部屋の中を見回す疑明に、真幌は訊ねる。
「そうだな。まだ一つ、気になってることがある」
疑明が目線をやったのは居間の扉の外だった。そちらへ向かって、スタスタと歩きだす。
気になっていること?
そう疑問に思いながら、真幌は彼の後に続くのだった。
*
棚一段が埋まるほどのビールにチューハイ、食べたいときに数枚ずつつまんでいる小分けされたパッケージのハムに、蓋が開けっ放しのチーズの箱。
「ちょ、あんまりじろじろ見ないでください!」
居間を出た疑明が一直線に向かったのは、台所の冷蔵庫の前だった。真幌よりも先にそこへ辿り着いた疑明は、誰に許可を得るでもなく思いっきりそのドアをオープンした。
冷蔵庫の中を見られるのは、生活を覗き見られているようで無性に恥ずかしい。
先程一度チェックされていることは知りつつも、真幌は疑明の視界を塞ごうと必死に冷蔵庫の前に開いた手を差し出した。
――ていうか普通、人の家の冷蔵庫、勝手に全開にするか?
そう頭の中で思うが、しかし晩ご飯泥棒にそんなこと言っても無駄だろう。
「その、三分の一残ってる胡麻ドレッシング、賞味期限切れてる。冷蔵庫に保存してるものは、ちゃんと管理しとかないと」
「切れてるって言っても半月ほどじゃないですか。いいんです、使いきるから置いてるんです!」
後から買った青じそドレッシングにハマっており、胡麻ドレッシングの存在を忘れていたことは内緒にしておく。
「てか! いきなり冷蔵庫開けてなんなんですか! 気になることってなんですか?」
「ああ、それは――」
疑明が真幌の腕を押しのけ、冷蔵庫の中に手を伸ばす。
彼の手が掴んだのは、真幌が作り置きしていた冷凍保存のサラダだった。
「そのサラダ? さっきつまみ食いしたんですよね?」
「そう。これ、作ったのはいつだ?」
そう真幌に訊きながら、疑明は冷蔵庫を閉め、タッパーの蓋を開ける。緑と白の葉野菜の隙間に、焦げ色の薄切り肉が見え隠れする、ベーコンレタスサラダだ。味つけは塩と胡椒。ベーコンをじっくり炒め、その際に出る旨みごとレタスのソースにしている。手軽においしい、お気に入りのレシピだ。
「作ったのは一昨日の夜ですね。二、三日で食べきるつもりで。昨日は時間がなくて食べられなかったんですが」
真幌が答えると、疑明はふむと小さく頷いた。
「一昨日。じゃあ、やっぱり……」
「やっぱり?」
疑明の呟きに、真幌は疑問符を浮かべる。
「何かわかったんですか?」
「いや、まだ気になるだけの段階だが……。とりあえず、このサラダのレタス、傷んでる。食べてみろ」
「傷んでる?」
真幌は首を傾げ、疑明が持つタッパーに目を落とす。調理台の奥にあるツールスタンドから箸を取り、レタスを一切れ食べてみた。
「……確かに、作り置きにしてもシャキッと感がいつもより少ないような。味も苦いかも」
でもどうしてだろう、と真幌は思う。作り方はこれまでと変わらないのに。
そんな真幌の疑問などお見通しなのだろう、疑明が口を開く。
「その原因はここにある」
そう言って、疑明は冷蔵庫の一番下の段に手をかけ、おもむろに手前に引いた。
そこは野菜室で、ニンジン、キャベツ、カットしてジップロックに入れたアスパラやネギなんかが入っている。中には先程食べたレタスの、残りの半玉もあった。
疑明はそのビニールに包まれた半分のレタスを、片手で掬うように取って持ち上げた。
「半分だけ使ったレタスを、ビニール袋で頭を括って冷蔵保存。これはダメだな。どうしてこんなやり方をしてる?」
「えと、レタスみたいな葉物は水気が多いし、もしかしたら虫がいるかもしれないし」
「それでも、こんなやり方はダメだ。レタスから出た水分が結露してビニール内に溜まり、それが原因で葉腐れを起こす。また乾燥にも弱く、切り口から水分を失い、しなびて変色していく可能性もある。さらに言うなら、呼吸により排出されるエチレンガスの影響を説明しなければならないが」
疑明はそこで言葉を切り、真幌の表情を窺う。どうやら相手が難しい顔をしているのに気づいたらしい。
正直、これまで野菜の保存方法などあまり考えたことなかった。適当に冷蔵庫に入れ、できるだけ早く使いきろうと意識する程度だ。すっかり怒られているような気分だった真幌だが、しかし、次に疑明が発したのは意外なセリフだった。
「まぁ、今はそんなダメ出しはいいんだ」
「え、いいんですか?」
「とてもよくないが、それよりも訊きたいことがある」
「訊きたいこと?」
「ああ。一つ確認だ。さっきあんた、レタスの味について、シャキッと感がいつもより少ないと言ったな」
そう訊かれ、真幌は自分の発言を思い返しながら頷く。
「はい。言いましたけど、それが?」
「いつもより少ない。ということは、元々傷んでいたという可能性を除き、いつもは違う保存方法を採っていたのではと考えられる」
なるほど鋭いな、と真幌は思った。
「そうですね。実は、野菜の多くはいつも実家から送ってもらってるんですが――」
「それは知ってる。そっちの段ボール、差出人の苗字が牧原になってた。畑で採れた新鮮な野菜を送ってもらってるんだろ」
疑明が台所の床の隅にある段ボールに視線を飛ばす。中にはこの前の水曜日に届いたジャガイモが数個、まだ残っている。
そして確かに、段ボールに貼りつけてある宅配便の送り状には、母親の名前が書かれていた。というか、そんなところまでチェックしていたのかと、真幌は驚く。
「まぁ、送ってもらってるというか、二週に一度、必ず水曜日に勝手に送ってくるんですが。わたしが上京した五年前から、ずっと欠かさず。それで保存方法ですが、わたしはいつも送られてきた形のまま冷蔵庫にしまうようにしてて……。包丁でカットして余った分も、元の包みに戻したりして」
特にこだわった保存方法もないのだ。野菜の傷みも考慮せず、毎度まいど一番楽なしまい方をしていた。そのまま冷蔵庫へ、という完全に手抜きな技だ。
「送られてきた形のまま……。じゃあ、今回はビニール袋に入れて送られてきたってことか。いつもは違うのか?」
「あー。いつもはだいたい、少し湿った新聞紙で包んで送られてきます。レタスだけでなく、ニンジンやキャベツなども同じように。それで、その新聞紙のまま野菜室に」
「ふーん。それはまぁ正解だな。新聞紙は野菜を保湿、保温してくれ、余分な水分も吸収してくれる。冷蔵庫に入れるとき、芯を手でくり抜いて、そこへ濡らしたキッチンペーパーなんかを詰めとけば完璧だが……」
そう言いながら、疑明は考えこむように眉間を指で揉む。どうやらそのポーズは彼のお決まりらしい。
「でも、冷蔵庫で一日二日、ビニールで保存したくらいでここまで傷むか? とも思ったんだ。今の話を聞いて納得した。こんな梱包で郵送されたら、その間に傷んで当然だろう。ただでさえ葉野菜は鮮度や味が落ちやすいのに」
それから疑明は幾分か鋭い目を真幌に向けた。
「さっきあんた、いつもはだいたい新聞紙に包んで送られてくると言ったな。それは、たまにビニールで送られてくるときもあるってことか?」
適当な返答は許されない雰囲気があり、真幌は過去を思い出しつつおずおずと頷いた。
「はい。本当に数度ですが、ありました。野菜はレタスではなかった気がしますが」
「ほう。その、ビニールで送られてきたのはどういうときだ?」
「どういうとき……。えと、古新聞が切れてるとか? ……や、違う!」
真幌は一人で言って、ぶんぶんと首を横に振る。一つ、思い出したことがあった。
「そういえば一度、こんなことがあったんです。二年ほど前ですが、母親が友達と旅行に行ったとき、旅先から買った野菜を送ってきたんです。ビニール袋で梱包して、段ボールに入れて。あとから、旅行に行ってるときまでわざわざ送ってこなくていいと言ったんですが、その日は野菜を送る日だったから、と言うだけで。もしかするとその後も何度か、実家以外の場所から送ってきてたのかも」
真幌の実家は田舎だが、野菜の名産地でもない。その野菜がどこで採れたものかなど考えて食べることもなかったし、もし自分の田舎のものでなかったとしても、おそらく気づかないだろう。母は単純に娘の健康を心配して、野菜を送ってくれているのだ。
「つまり、家じゃないから古新聞を用意できなかったというわけか。ということは、今回もあんたの実家以外の場所から送られてきてると見ていいだろう」
疑明は真幌を見て、ふっと唇の端を上げる。推理をしているときのクールな表情から一転、それはどこか悪戯っぽい微笑みだった。
「謎は解けそう。あとはその問題を、解決するだけだ」
*
真幌は疑明と共に、再び居間へ移動した。
期待で胸がドキドキと弾むのを感じる。これから彼の推理が聞けるのだ。
泥棒だし、いけ好かない部分も多々あるが、疑明の頭脳の明晰さには何度か感心させられた。今、自分が抱えている問題に、彼がどんな答えを出すのか真幌は気になっていた。
果たして本当にこれだけで、不審者の正体はわかったのだろうか。
「容疑者として初めに三人挙げましたが、その人たちの中に犯人は?」
先に部屋の奥へ入りちゃぶ台の前に立つ疑明に、真幌は訊ねる。
疑明は首を左右に振った。
「これまでの話を聞いてて、それはないとわかるだろ」
おっしゃる通りである。今の質問は流れで一応しただけだった。検討していた可能性は、潰しておかなければならない。
疑明が推理する間、一緒に行動してきたのだ。彼が誰を疑っているかなんて感づいている。初めの容疑者三人の他に名前が挙がった人物も、一人だけだ。
「それじゃあやっぱり……」
だけど、疑明はなぜ確信に至れた? それが真実だとして、相手の動機は?
疑問はまだ真幌の中をぐるぐると回っている。
「疑ってるのはわたしの母ですか? でも、なぜ?」
真幌は初め、数少ない周囲の人物から、怪しい者を三人挙げた。だがその際、母親のことなんて一ミリも頭に浮かんではこなかった。
数年前に上京してきたこの地では、真幌の人間関係などとても範囲の狭いものだ。三人の中から犯人が見つからなければ――例えば見ず知らずの人間の犯行だったりしたら、今回の事件はお蔵入りになるだろうと真幌は思っていた。
だが、まさか母親が犯人だと言われるとは。
「なぜ、というのはあんたの母親の動機を訊いてるのか? それともなぜそう思ったか、か? まぁ、どっちもだろうな」
そう言いながら、疑明は真幌に目を合わせてきた。
「答えは全部、あんたが話してた」
「えっ、わたしが?」
どういうことだろう、と真幌は首を捻る。
「まず、母親が結婚を急かしてくるという話。母親はあんたに本気で早く結婚してほしがってるんじゃないか?」
「結婚? そりゃまぁ、早くしてほしいと思ってるんじゃないですか? 彼氏はまだか、孫はまだかなんて話、しょっちゅう電話で話してきますし。地元に戻ってきてほしいってのもあると思いますが」
「そう。でも、あんたが思ってるよりももっと、母親は本気みたいってことだ。探偵をやってた旦那を亡くしてるんだろ? それも影響してるかもしれない」
そこまで言うと、疑明は歩きだした。部屋の隅にまとめて置いてあるチラシの前で、なぜか畳に片膝を突く。
「まず、この部屋にはおかしな部分がある。このチラシ……」
疑明は先程漁っていたチラシを、もう一度物色し始める。
「チラシがおかしい? どういうことですか?」
「さっき、オレはあんたに訊いたはずだ。これを持っている訳を」
そう口にしながら、疑明がこちらに数枚のチラシを突きつけてくる。それは一〇分ほど前にも見せられた、結婚式場やウエディングドレスの広告だった。
「持っている訳? だから、それはポストに入ってただけって――」
真幌のセリフが終わる前に、疑明は口を開く。
「そう。あんたはそれを自分で取ってきたわけではないと言った。でも、それだとおかしいだろ?」
真幌にも考えるのを促すように、疑明は少し間を空けた。
「……いいか? 普通、結婚関係のチラシはポストに投函しない」
真幌は部屋の隅に広がるチラシたちに目を落とす。ピザ屋の広告、お弁当配達の宣伝、新聞勧誘、新築マンションの案内。その中に混ざるようにして、式場やドレスのチラシはポストに入っていたのだ。
「ブライダル関係のチラシはポストに入れない?」
「ああ、そうだ。あまりチラシを投函して宣伝するものではないからな。その部屋に住んでるのがどんな人かわからないのに、チラシを入れていくか? 結婚に興味のない老人や学生だったり、すでに夫婦だったりする可能性も高いのに」
なるほど、と真幌は思った。確かに、結婚に進行形で興味がある人というのは、世の割合で見ると少ない方だろう。夫婦の住む家にそんなチラシを入れたりしたら、クレームにもなりかねない。
ブライダル関係のチラシはポスティングで宣伝しない。ということは、このチラシは誰かがピンポイントで真幌を狙ってポストに入れたということになる。
「いったい誰が入れたのか。それを考えていたとき、あんたの母親の話を聞いて疑いだしたんだ。母親が、あんたに結婚を意識させるためにチラシを集めて届けたんじゃないかと」
疑明は立ち上がると、カラーボックスに近づき、その上に真幌が置いていた犯人からの手紙を手に取る。
「こいつを作って入れたのもあんたの母親だろう。字を見られて娘に自分が犯人だとバレないようパソコンで書いたんだ。差出人不明の嫌がらせメールを送ったのもそうだ。母親、あんたのアドレス知ってたんじゃないのか?」
「ちょっと待ってください。アドレスは教えてますけど、母はどうしてそんなこと」
「どうしてって、それも結婚を意識させるためだろう。変質者、ストーカーの存在を匂わせ、女の一人暮らしは危険と思わせて」
「じゃ、じゃあキャミソールやストッキングを盗んでいったのも」
「おそらく同じ理由か。もしくは探偵を辞めて実家に帰ってきてほしがってるのか。とにかく母親が犯人だろう。不審者に狙われてると焦らせ、何か行動を起こさせようとしたのかもな」
「そんな。でも、母は田舎にいて、そんなこと――」
そう言いながら、違う、と真幌は思った。それはつい先程、疑明が話をしながら解き明かしていた。
「それじゃあ、確認してみるか」
疑明は手紙を戻し、台所の方へと入っていく。真幌が後を追ってみると、疑明は床に膝を突き、母親から送られてきた野菜の段ボールをチェックしていた。どうやら蓋の表に貼られた運送便の送り状を確認しているようだ。
「この依頼主の欄に書かれてるのは、あんたの田舎の住所か?」
そう訊かれ、真幌は疑明の肩越しに送り状を覗きこむ。
「はい、そうです」
「そう。でもまぁ、ここに住所が書かれてるからと言って、本当にその地域から送られてきてるとは限らない」
疑明はスマホをポケットから取り出すと、送り状を見ながら画面を細かくタップしだす。
「運送便の追跡サービスに、送り状ナンバーを入力した。ほら、見てみろ」
そう言って、真幌にスマホの画面を見せてきた。
表示されているのは、荷物の配達状況のページだ。その発送の担当店の欄には、真幌が今住むアパートの、隣町の営業所が記されていた。
「ほんとにこっちにきてる……」
そう呟くと同時に、真幌はぶるっと身震いする。身体の底からぞくぞくとした感覚が駆け上ってきたのだ。いつもの、素晴らしい推理を目の当たりにしたときの条件反射だ。
疑明の言うことは、全て筋が通っている。真幌が抱えていた問題の裏側を、完全に暴いてしまった。それも、短い時間、部屋の中を見て回っただけで。
「オレが挙げたのは、まだ可能性の話だ。確かな証拠がないからな。チラシや手紙の指紋を調べれば、犯人を確定することは可能かもしれないが。ただ、あんたにはそれよりも簡単に事実を確認する方法があるだろ」
そう言って、疑明は手に持ったスマホをぷらぷらと振ってみせてくる。
真幌はこくりと唾を飲み、居間で自分のスマホを手に取ると、電話帳の中から母親の名前を選択した。
*
母親はあっさりと罪を認め、しかしそれを謝ろうとはしなかった。
『あんた、早く帰って結婚しぃよ。どうせ仕事もうまくいってないんやろ? ただでさえ安定せん職場で、ずっとアルバイト。この先どうすんの。彼氏でもおればいいけど、あんた自分からそんなん作りにいくタイプじゃないし。こっちでならお見合いでもセッティングしたるから』
そんな感じのことを、真幌が口を挟む隙もないほど母親は捲し立てた。今日まで東京でこちらに住んでいる同級生と遊び、明日、大分に帰るそうだ。そしてどうやら、犯行に及んだ理由は、結婚を意識させるためという、疑明が推理した通りだったよう。
『お母さん、あんたのことが心配やから。将来、一人は寂しいよ』
電話が切れたあと、真幌は大きくため息をついた。
母親は三〇代のうちに夫を亡くしている。それも、探偵という仕事のせいで。そんな母親の言葉には、なんだかいちいち説得力があった。
どうしたもんか、と真幌は心中で呟く。
今回の一件が、正直かなり心にきていた。
自分のことを心配して、母親がこんな犯罪めいた行動を起こすとは思いもしなかった。
電話で言われた言葉も、胸に刺さった。
この仕事を始めて五年、確かな未来は一向に見えてこないし、自分がどんな未来を望んでいるのかも、今はよくわからなくなってきている。このままだと何も実現できないまま、傷んだレタスのように萎れていく一方かもしれない。
だが、いったいどうすればよいのだろう。
真幌はしばらくスマホを握り締めたまま、居間で立ち尽くしてしまった。
「あんたの母親、元気いいな。電話の声、こっちまで聞こえてたぞ」
台所にいた疑明が、敷居を跨いで居間へ入ってきながら言った。
「それで、どっちにするんだ?」
「――えっ?」
「探偵を続けるのか。田舎に帰って結婚するのか。小さく背中丸めて、なんか悩んでるみたいだから」
疑明に回答を迫られるとは思っておらず、驚いた声を出してしまった。真幌はハッとして、背筋を伸ばす。しかし、力を入れたのは一瞬で、すぐにカクンと肩を落とした。
そんな二択、訊かれてもわからない。
「どうしたらいいのか……」
そう、真幌は消え入りそうな声で答えた。疑明が細めた目でじっと真幌を見てくる。
「何が正解かわからなくて、もう二五歳、友達の中にはもう結婚してる人も結構いて。わたしもいつかはお母さんに孫の顔、見せてあげたいし。でも、結婚はいつかすればいいんだから、今はバイトでも好きなことを続けたら、とも友達から言われたりして。子供できたら自由がなくなるよ、とか現実的な話も聞かされるし」
別に結婚したくないわけじゃない。いつかは子供がほしいとも思う。
しかし、やはり真幌の心には引っかかるものがあった。
「最後は結婚すればいいから今は好きなことをしてていい、っていうのは間違いだろう。女性にも手に職は大事だ。旦那に頼る生き方は、何かあったとき困るだろう。まぁあんたの場合、その好きなことが探偵で、職に繋がってるから大丈夫かもしれないが」
疑明のその言葉に、真幌はすんなりと納得した。父親が亡くなったあと、母親が一人で苦労する姿を見て育ってきたのだ。母親は事務のパートの安い給料でお米を買い、小さな畑で野菜を作ってご飯を食べさせてくれた。
しかし、疑明の大丈夫という意見を、鵜呑みにして安心はできなかった。
このアルバイトの探偵職が、果たして手に職と言えるようになるのかどうか。
再び、真幌は無意識にため息をついてしまう。
いろいろわからなくて、悩んでいるのだ。こんなふうに、答えを求めて迫られても困る。しかし、これまで答えを出すことから逃げていたのも事実なのだ。
真幌が黙っていると、横からも深く息をつく音が聞こえた。続けて、どこか呆れたような声が真幌の耳に届く。
「どうしてそんなに悩むことがあるんだ。何が正解かわからない? そりゃそうだろう、人生に答えなんてないんだから。あんたがやりたいようにやればいい。それをあんたが正解だと言えば、誰も否定はできないさ」
それから疑明は、居間の天井を見上げた。
「あんた、探偵を続けたいと思わないのか? 少なくともオレは、あんたの努力は認めるよ。ここまでやって、もう
少し頑張りたいと思わないのか?」
つられるように、真幌も頭上に顔を向ける。
――この部屋に入れば一発で探偵をしてるとわかる。
初め、そのようなことを疑明が言っていたが、そのヒントとなるものが天井にはあった。初めて見た人には、かなり異様な光景だろう。真幌からすると、なんだか必死な感じが丸出しで、見られるのはちょっと恥ずかしい。
真幌の家の居間の天井――特に布団を敷いている場所の上は、約七〇人もの人の顔写真で埋まっていた。
探偵や警察の業界用語に、面取りという言葉がある。これは相手の顔を確認し、その人がマル対か否かを判断する作業のことである。
例えば、多くの人が往来する繁華街や駅、一気に人が出てくる退社時間の会社の前、そんな場所でも、探偵はターゲットを捜し出し、調査をする必要がある。そのとき遠くからでもマル対を見定めることができないと、調査は失敗となってしまう。
ターゲットがマスクやマフラー、サングラスで顔を隠していたり、入手できた写真が数年前のもので顔が変わってしまっていたりする場合もある。そのとき、目元や骨格、さらに言うなら雰囲気で対象を特定できるよう、常に写真を眺めてその人を身近な人物として捉えられるようにしておく。その明地所長に教えてもらったやり方を、真幌は家でも常に実践していた。
「あー」
天井を見ているとじわりと感慨が湧いてきて、真幌は特に意味もなく声を伸ばした。
そこに写真を貼り始めたのは、探偵事務所に入って一ヶ月ほど経ったときだった。事務所に依頼があった案件のターゲットはもちろん、行方不明者だったり指名手配者だったり、どこですれ違ってもわかるように、どんどん写真を増やしていった。
代わりに、部屋に人を呼ぶことは諦めた。この部屋を見て、引かれるのが怖かったのだ。全ての写真を剥がし、貼り直すのは、時間がかかりすぎてできない。友達がお泊り会や宅飲みをしようと言ってくれることもあったが、泣く泣く断った。もし彼氏ができても、この部屋には入れられない。
そうやって、私生活まで制限しながら頑張ってきたのだ。
「……諦めたくないなぁ」
心の中で呟いたはずの声が、口から漏れ出ていた。
そんな真幌の前で、疑明がふっと息をつく。
「続けたければ続ければいいさ」
大股二歩で疑明が近づいてきたと思ったら、真幌は手からスマホを奪い取られていた。真幌が止める間もなく、疑明は画面が開きっ放しだったスマホを人さし指で操作する。
そして次の瞬間、疑明が真幌に顔を寄せ、スマホ画面をこちらに向けてきた。
――カシャッ。
インカメラで写真を撮られた。しかも、ツーショットだ。
「ちょっ、何!?」
驚いた真幌が写真を確認しようと、スマホを掴もうとしたとき、疑明がスマホを高く持ち上げた。真幌が背伸びして取り返そうとする間、疑明は親指で画面を素早くタップする。
「よし、これでオーケーだ」
「や、ちょっと、何したんですか?」
疑明にスマホを返され、真幌は急いでチェックする。そして、大声を上げた。
「待ってください! え!? 何してるんですか!」
今撮られた写真がチャットアプリで、母親に送信されていた。
いったいなんのつもりだ。どうしてこんなことを? 母親に、なんて言えば!?
真幌がプチパニックになっていると、まもなくスマホが震えだした。母親からの着信だ。
「もう、ほんと、どうしてくれるの!」
とにかく釈明のため、電話に出なければならない。さらに余計なことをされるのを恐れ、真幌は疑明から離れるように玄関へ移動しようとする。
そんな真幌の背中に、声がかけられた。
「ちゃんと一人じゃないと言って、安心させてやりなよ。それで、自分が何をしたいのかはっきり伝えるんだ」
真幌は足を止め、疑明を振り返る。
その言葉で、彼の行動の意味が理解できた。全て、真幌のためだったのだ。
初めの宣言通り、真幌の抱える問題を解決するために――。
真幌は黙って前を向き、玄関へと向かう。気を遣ってくれているようで、疑明が後ろからついてくることはなかった。
*
『いつの間にこんなイケメンな彼氏ができとったん! もぉ、早く紹介してや! なんでさっき言わんかったん!』
「……それでさ、わたし、もうちょっとこっちで頑張りたいから――」
『出会いは? どこで知り合ったん? ていうか、どっちから告ったんよ。でも、こんなイケメンがあんたなんかとくっついてくれるわけ……まさかあんた既成事実を作って――』
「ちょ! わたしの話聞いてよ!」
母親はすっかりテンションが上がりきり、好き勝手捲し立てる。そんな母親に、真幌はなんとか自分の気持ちを話していった。
疑明は真幌のために、彼氏のフリをしてくれたのだった。電話をしながらふと下を見ると、彼が履いてきたらしい革靴がある。家の玄関に、自分のものより五センチほど大きなサイズの靴があるのは、なんだか妙にむず痒くなる光景だった。
『聞いちょる聞いちょる。……まぁ、あんたがまだ頑張るって言うなら、止められへんけど。でも、危ないことだけはせんといてよ。あと、無理せんと、たまにはこっち帰っといで。野菜、また送るからな。あっ、イケメンによろしく言っといて』
「うん……わかったよ」
話が終わり、電話を切ると、途端に辺りが静かになったように感じた。母親がどれだけ騒がしかったかがよくわかる。まだまだ元気そうで安心した。また実家に帰って、一緒にご飯を食べたいなと思った。
真幌はしゃがみこみ、そっと疑明の革靴をきちんと揃え直す。
晩ご飯泥棒は、その家に住む者が抱える問題を解決する。お代は作り置きのご飯、家庭の味だ。
今日、疑明が忍びこんできてよかったと思いかけている自分に気づき、真幌はぶんぶんと首を振る。彼がやっていることは犯罪だ。決して認めていいことではない。
だいたい、家庭の味が好きだからと言って、普通ここまでするだろうか。
それから少しの間、真幌は疑明の靴を触りながら、彼のことを考えた。いったいどういう思いで、晩ご飯泥棒をしているのか。その推理力を、どうしてこんなことに使っているのか。しかしいくら思考を巡らせても、今日初めて会った他人のことなど全くわからない。
だから、直接訊いてみることにした。
真幌は腰を上げ、居間へと戻る。
「終わったか」
ちゃぶ台の前で、疑明が腕を組んで立っていた。ずっとその体勢で、真幌の電話が終わるのを待っていてくれたのだろうか。
「はい、ありがとうございます。おかげさまで、問題は解決です」
「そうか。それはよかった」
疑明はかすかに口角を上げて微笑んだ。そんな彼に、真幌は質問をぶつけようとする。
「疑明さん、あのっ、どうして泥棒なんて――」
そのとき、手に持っていたスマホが再び震え始めた。また母親かしらと思いつつ、ちらりと画面を見て、真幌は思わず声を上げた。
「あっ! やばっ! 今何時!?」
電話は明地からだった。壁にかかる時計は現在、正午手前を示している。
自分の進みたい道が見え、頑張ろうと決めたのに、絶賛遅刻の真っ最中だったことを忘れていた。
通話マークをタッチすると、受話口が割れんばかりの激しい怒号が耳に突き刺さった。
『おいゴラまほろぉ! お前、今どこで何しとるんじゃ!』
真幌は反射的に肩を縮め、押入れの方を向きながら通話口に口を寄せる。相手に見えるわけでもないのに、へこへこ頭を下げ、真幌は謝罪の言葉を述べ続ける。
「ごめんなさいごめんなさい、すぐに行きますごめんなさい」
『お前、まだ家におるんか! どういうつもりじゃおお? この国にはお前だけに適用される祝日でもあるんかおお?』
所長は完全にスイッチが入っている。これはかなり長引きそうだった。
真幌が目を瞑りながら平謝りしていると、背後で錆びた蝶番の回る音がした。玄関の扉の音だ。ハッとして振り返ると、そこに疑明の姿がない。
逃げられた? まだ訊きたいことがあったのに。
そう思いながら、真幌はまだ怒声が聞こえるスマホを耳から離し、居間を飛び出す。玄関へと走る。
暗い玄関から、疑明の靴は消えていた。
扉を開けて辺りを見回すが、疑明の姿を見つけることはできなかった。
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