夏の夜、じれったく

たがわリウ

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予想外な贈り物

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 駅からの道は坂になっている。息を乱し、歩いているのと変わらない速度で足を動かした。足を止めたいけど、意地でどうにか前に進む。

「坂、きっつ」

 この坂を登ると、信号がある。立ち尽くしていた私に悠くんが声をかけた場所だ。
 昨日のまた明日、という声を思い出し、ソワソワとしながら顎の汗を拭った。ついに坂を登りきり、重い足を止める。
 道路の縁石に人が座っていた。足音と呼吸音で気づいたのだろう、私を見るとすぐに立ち上がる。ぺこりと頭を下げる悠くんに近づいた。

「悠くん、もしかして待っててくれたの?」
「あ、いや、会えたら渡したい物があったんで……」
「え、なに?」

 渡したい物。突然のことで思い当たる物は何も浮かばない。首を傾げる私に、四つ折りのルーズリーフが差し出された。
 何が書かれているか分からないまま、反射的に受け取る。開くと、手書きの文字が並んでいた。

「これって……」
「よかったら参考にしてください。細かい目標がわかんなかったんで、有酸素と筋トレどっちも入ってます」

 渡されたのは私のために組み立てられたトレーニングメニューだった。端の方にはとった方が良い食べ物も書かれている。

「すごいね」

 まさか名前を知っているだけの間柄でここまでしてくれるとは思わなかったため、驚きで言葉が出てこない。すると悠くんは、ハッとして目を伏せた。

「すんません、俺、勝手に……こんなん渡されても困るっすよね。周りからもお節介なとこあるって言われてんのに、またやっちまった……」
「え、ううん。私はありがたいよ。動画とか探してみたんだけど、どれがいいのかよく分かんなかったし」

 ため息を吐き、項垂れる悠くんに慌てて首を振る。きっとすべてに対して真面目な子なんだろうなぁと思った。そうじゃなかったら、知り合いでもない人に声をかけてジュースを奢ったりしないだろう。

「なら良かったす。あ、これだと家でできるんで、夜に走らなくてもよくなるっすよ」
「あ、そうなんだ。でも走るのは続けようかな」
「そっすか」
「うん、だって……」

 そこまで言って私は口を閉じる。次に続けようとした言葉に、自分自身も驚いていた。
 急に話すのをやめた私に、悠くんは少し不思議そうにする。こぼしそうだった言葉とは違うものを急いで口にした。

「……だって、気分転換になるしね」
「たしかに、気分転換も大事っすもんね」

 浮気をされたことを思い出したのだろう。気分転換と言った私に、悠くんは少し気まずそうに視線を外す。嘘とは言えない小さな隠し事をした私も、どこか居心地悪くなった。
 取り繕うように、明るい声を出す。

「ほんとにありがと。友達とか家族に運動始めたって言っても、どうせすぐやめるでしょって感じで。真剣に考えてもらえて、嬉しい」
「……良かったっす」

 ルーズリーフをまた四つ折りにすると、大切にポケットにしまう。笑顔で感謝を伝える私に、悠くんは安堵したように雰囲気をゆるめた。
 しかし少し照れもあるのか、ぎこちなく足の爪先がトントンと地面を叩く。

「ここまでしてもらったからには結果出さないとなぁ」
「焦らず、楽しく続けるのが一番っすよ」
「そっか、そうだね。無理しない程度に頑張ってみるよ」

 見上げた悠くんの顔には、微笑みが広がっている。私との会話で笑ってもらえたことが嬉しくて、心がじんわり暖かくなった。
 だって、悠くんに会えなくなる──。
 さっき咄嗟に言うのをやめた言葉を、心の中でそっとなぞった。



「千帆、なんか良いことあった? 最近楽しそう」
「え? そう?」

 隣からかかった声にスマートフォンから視線を外す。横に座っている友達が探るように私を見ていた。

「今もにやけてる」
「何言ってんの、嘘でしょ?」 
「ほんと」

 ニタニタと笑い、面白がっている友達に、私は姿勢を正す。友達の言葉が本当かは分からないけど、真顔になることを意識した。

「で、何かあったの? しばらくは落ち込んでるかと思ったのに」
「いや、何もないって。あれじゃん、ちょっと動くのに慣れて、運動が楽しくなってきたからかな」
「ふーん。続いてるのすごいね」

 またスマートフォンに視線を戻し、画面をスワイプする。開いている通販サイトでスポーツウェアを探していた。
 友達に悠くんの事は言っていない。あれこれ訊かれるのも面倒だし、なぜだか、この関係を人に言うのは勿体ないと思った。

「あ、これいいかも」
「ん? なに?」
「なんでもない」

 鮮やかな水色に指を止める。なんとなく悠くんっぽい感じがして、水色のティーシャツをカートに入れた。



 手にしているティーシャツを天井に向けて広げる。袋から出したばかりのそれは、新品の匂いがした。
 静かな部屋でベッドに横になる俺は、しばらくそのままシャツを眺める。

「ほんとに貰って良かったのか……」

 自動販売機で買ったジュースとトレーニングメニューのお返しとして、千帆さんから貰った物だ。どちらも勝手に自分が渡しただけだし、こんなにきちんとしたものが返ってくるとは予想外だった。
 自分では普段選ばない明るい色。きっと悠くんに似合うと思って、と笑った彼女を思い出す。

「……俺に選んでくれたんだよな」

 わざわざ俺にどんな物が似合うか考えて、選んでくれた千帆さん。これを選んでいる時、彼女の頭には俺がいたのかと思うと、心臓の辺りがぎゅっと痛んだ。
 その痛みを誤魔化すかのように、俺はシャツを握りしめる。寝返りを打ち瞼を下ろした。
 俺は自然と、彼女と明日も会えたらいい。会いたい、と思っていた。こんな風に誰かを想うのは初めてで、湧き上がる気持ちをどうしたら良いのかわからない。
 視界が暗くなっても浮かぶのは、千帆さんの柔らかな笑顔だった。



 前から走ってくる男性が視界に入り、一瞬心臓が跳ねる。しかし私を見ることもなくすれ違ったため、また走るスピードを速めた。悠くんではなかったことを残念に思っている自分に気づく。
 今日も会えるかな。ティーシャツは気に入って貰えただろうか。運動が楽しくなってきたよ。
 近くを悠くんも走っているのかもしれないと思うと、ソワソワと落ち着かなくなる。結んだ髪を揺らして、坂を登った。

「お疲れっす」
「あ、悠くん」

 後ろから声がかかったかと思えば、すぐに隣に長身が並ぶ。待ち望んでいた声に、思っていたよりも高い声で返事をした。
 どちらともなく足をゆるめ、夜道を並んで歩く。

「それ……ティーシャツ、着てくれたんだ」
「うす」

 悠くんが着ている水色のシャツを見て、嬉しさで口元がゆるんだ。わざわざ着てくれたのだろう彼に、ほんとに優しいなぁと思う。

「サイズ合ってて良かった。やっぱりこの色、悠くんに似合うと思ったんだよね」
「……俺のために選んでもらえて、すげぇ嬉しいっす」

 噛み締めるように言った悠くんは、そっと目を伏せる。彼の耳が赤くなっていることに気づいて、私にも熱が移った。
 しばらくふたりとも無言になり、照れとむず痒い空気が広がる。こんなに悠くんが照れるとは思っていなかったからか、どくどくと鼓動が速くなった。
 この空気をもう少し壊したくなかったけど、伝えなくてはならないことを思い出し、口を開く。

「私、明日からバイトのシフト入ってて数日走れないんだ。バイトない日は走るから、また会った時はよろしくね」
「っす。……なんのバイトしてるんすか」
「えっと、カフェのホール。美味しいから悠くんも良かったら来てよ。隣駅の近くなんだけど、知らない? レンガっぽい建物の……」
「あー、あそこっすか」

 隣駅はこの辺りだと一番栄えているから、もしかしたらと訊いてみる。悠くんも駅周辺をよく利用するのか、あそこかと頷いていた。
 話しているうちに、もうすぐ坂を登りきってしまう。悠くんと別れれば、次に会えるのは数日後。
 頭に浮かんだ寂しいという感情を隠して、悠くんの隣をゆっくり歩いた。
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