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二十三時の信号機
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チカ、チカと点滅する黄色。その点滅に合わせて過去の記憶が引き起こされる。
笑顔、はにかみ、険しい顔。そして苛立ちと呆れ顔──。
「あの、大丈夫っすか?」
拭くのを諦めた涙を垂れ流したまま、ぼんやり振り向く。まさか泣いているとは思わなかったのか、それとも滲んだメイクでか、気まずそうに目が伏せられた。
夜の二十三時。横断歩道手前で立ち尽くしている私に、その青年は声をかけた。
「……大丈夫っすか」
よほど酷い顔だったのだろう。もう一度青年は尋ねる。何が大丈夫なのかはわからないまま、私は頷いた。
「うん、大丈夫……」
「いや、大丈夫じゃないっすよね。ちょっと待っててください」
ランニングをしていたのだろう。ティーシャツにハーフパンツの青年は、待っていろと言うと離れていった。
こんな顔で家に帰るわけにもいかず、かといって行くあてもない。だから待っていろと言われなくても、まだここを動く気はなかった。
「これ、よかったら」
「え……いいの?」
戻ってきた彼から缶ジュースを渡される。自動販売機で買ってきてくれたのだろう、冷たく冷やされていた。
「ありがとう、いただきます」
「いえ」
本当は何も口に入れる気にはならなかったけど、飲まないわけにもいかず、飲み口を開ける。甘い炭酸飲料を一口だけ飲んだ。シュワシュワと泡が消えていく。
「……」
駅から少し歩き、これといって店もないこの通りは、夜になるとほぼ人がいなくなる。
声をかけてくれた青年はなんと言っていいのかわからないのか、気遣わしげに私を見ていた。立ち去るタイミングを逃したのかもしれない。
無言で立ち、ぼろぼろのメイクで缶ジュースを手にしている自分がふとおかしくなり、久しぶりに頬に力が入った。
「浮気されちゃったんです」
まだ友達にも話していないことを、初対面の青年に話す。何してるんだろうと思いながら、乾き始めていた涙を拭った。
「……恋人っすか」
「うん。まぁ、別れたから元恋人だけど」
知らない人だからこそ話せたのか、私の気分は少しだけ晴れやかになった。反対に青年は、明らかに戸惑っている様子を見せる。
そりゃそうだよねと思いながら、少しだけ申し訳なくなった。
「すんません、俺、慰めるのとか下手で……」
「ううん、声かけてくれてありがとう。ちょっとスッキリした。ジュースもご馳走様」
「いえ、なら良かったっす」
ファミレスで別れ話をした後、どうやって電車に乗ってここまで帰ってきたのか覚えていない。浮気をした挙句開き直った元恋人に対して、まだ怒りも後悔もわかず、ただぼんやりと足を止めていた。
けれどもう涙は溢れてこない。
「ほんとにありがと。帰るね」
「いきなり声かけた俺が言うのもあれっすけど、ひとりで大丈夫っすか?」
「うん。すぐそこだから」
声をかけ、ジュースを奢り、帰り道の心配までしてくれる青年。そんなに私は酷い状態なのだろうか。意識がはっきりしだしたからこそ、少し恥ずかしくなる。
「じゃあ」
「っす」
小さく手を振る私に、青年はぺこりとお辞儀をする。優しい人だったなと思いながらついに横断歩道を渡り出すと、後ろの体も走り出した気配がした。
「はぁっ、脇腹、痛い」
汗で張り付く髪が鬱陶しい。ヘアゴムを忘れたことを後悔していた。
「喉も、痛いし」
時折車のヘッドライトが照らす夜道を、ひとりで走っていた。走り出した十分前の元気はどこかへ消え、今はノロノロとただ足を動かしている。生ぬるい夏の夜は風がなく、息苦しさが消えない。
脇腹と喉の痛みに耐えきれず、信号機の下でついに足を止めた。
「はぁっ」
久しぶりの運動で乱れている息を整える。走るのってこんなにキツかったんだっけと思いながら顔を上げた。そこで、この場所は、と目を細める。
黄色を点滅させる信号、横断歩道を見て、昨日の記憶が呼び起こされた。心配してくれた青年を思い浮かべながら、絶対に困ったよなぁと苦笑する。
「あれ」
まるで昨日の再現かのように、また声が聞こえる。そんなはずないよねと思いながら振り返ると、少し驚いた顔が私に向けられていた。
「あ、やっぱ昨日の……あの後、大丈夫でした?」
彼も走っていたのか、うっすらと汗をかいている。昨日、この場所で私に声をかけた青年だった。まさかまた会うとは思っていなかった私も驚きで目を丸くする。
「はい。ほんと、昨日はありがとうございました。あ、ジュース代……」
「いや、いっすよ」
ジュース代を返そうとポケットを漁るが、スマートフォンしか持っていないことを思い出す。青年も財布が無いことに気づいたのか、気にしなくていいと軽く手を振った。
「走ってるんすか」
「え、あぁ、うん……これを機に、理想の自分に近づこうかなと思って。気分転換にもなるしね」
昨日は視界が霞んでいて分からなかったけど、青年は整った顔立ちをしていた。振り向いた顔が今日は泣いていないからか、少しホッとしているように見える。
「あ、私、片瀬千帆《かたせちほ》っていいます」
「米崎悠《よねざきはるか》っす」
「悠くんはトレーニング?」
「はい、俺、陸上部なんで」
「へぇ、大学?」
「そっす。片瀬さんは……」
「あ、千帆でいいよ。私は大学三年」
「じゃあ俺の二個上っすね」
私が二個上なら、悠くんは大学一年生か。高い背に、がっしりとした筋肉質な体つき。サークルではなく部活に所属していることからも、本気でスポーツをしている人だとわかった。
さすがに個人情報を聞きすぎたと思っていたけど、会話を切り上げられることもなく安心する。
「元気そうでよかったっす」
「……じっとしてると色々考えちゃって。……私にも足りないところがあったのかなとか、見る目がなかったのかな、とか」
また言わなくてもいいことを、気づけばするりと口にする。さっき名前を知った関係でこんなことを言われても面倒だろうなと後悔した。
しかし悠くんは特に気にする素振りを見せない。ただ淡々と言葉を返した。
「好きだった人を悪く言われるのは嫌かもだけど、俺は、相手が悪いとしか思えないっす。何にしても、浮気をしていい理由にはならないっすから」
自分の考えをはっきりと言う悠くん。何が悪かったのか考える度に自分を責めてしまっていた私は、その冷静な声にハッとした。
「……悠くんって、しっかりしてるよね」
「え? 俺、よく友達に抜けてるって言われますよ」
きちんと自分の考えを持っていなければ、こんな言葉は出てこないだろう。私の方が歳上だというのに、すごいなと感心する。
大学一年のときって何を考えていただろうと二年前の自分を思い出した。特にこれといって学びたいこともなく、友達と遊んでばかりだった気がする。
「よし、じゃあ格好良い体になって、夏を満喫しようかな。トレーニング中なのに、引き止めてごめんね」
「いえ、声かけたのは俺なんで……」
しばらく休んだからか、脇腹と喉の痛みは治まっていた。もう少し頑張ろうかなと腕を上げ、伸びをする。トレーニングとして走っている悠くんをこれ以上引き止めるのも申し訳なかった。
昨日と同じように、ひらひらと手を振る。悠くんもまたぺこりとお辞儀した。
「あの、千帆さん。明日も走るっすか?」
「ん? うん、天気が悪くなければ」
「っすか。……じゃあ、また明日」
「うん。また、明日」
明日はどうしようかなと思っていたけど、理想に近づきたいと言った手前、どうしようか悩んでるなんて言えなかった。
一瞬、何かを考えるような顔をした悠くんは、それ以上何も言わずに私とは別方向に走り出す。
「また明日かぁ」
連絡先も知らず、顔見知りになったばかりの人とまた明日と別れるのは不思議で、くすぐったかった。明日の約束をするなんて、久しぶりな気がする。
大きな背中を見送りながら、髪を耳にかける。まだ彼のことをよく知らないのに、悠くんと話している時は元恋人のことが頭から離れていると気づいた。
笑顔、はにかみ、険しい顔。そして苛立ちと呆れ顔──。
「あの、大丈夫っすか?」
拭くのを諦めた涙を垂れ流したまま、ぼんやり振り向く。まさか泣いているとは思わなかったのか、それとも滲んだメイクでか、気まずそうに目が伏せられた。
夜の二十三時。横断歩道手前で立ち尽くしている私に、その青年は声をかけた。
「……大丈夫っすか」
よほど酷い顔だったのだろう。もう一度青年は尋ねる。何が大丈夫なのかはわからないまま、私は頷いた。
「うん、大丈夫……」
「いや、大丈夫じゃないっすよね。ちょっと待っててください」
ランニングをしていたのだろう。ティーシャツにハーフパンツの青年は、待っていろと言うと離れていった。
こんな顔で家に帰るわけにもいかず、かといって行くあてもない。だから待っていろと言われなくても、まだここを動く気はなかった。
「これ、よかったら」
「え……いいの?」
戻ってきた彼から缶ジュースを渡される。自動販売機で買ってきてくれたのだろう、冷たく冷やされていた。
「ありがとう、いただきます」
「いえ」
本当は何も口に入れる気にはならなかったけど、飲まないわけにもいかず、飲み口を開ける。甘い炭酸飲料を一口だけ飲んだ。シュワシュワと泡が消えていく。
「……」
駅から少し歩き、これといって店もないこの通りは、夜になるとほぼ人がいなくなる。
声をかけてくれた青年はなんと言っていいのかわからないのか、気遣わしげに私を見ていた。立ち去るタイミングを逃したのかもしれない。
無言で立ち、ぼろぼろのメイクで缶ジュースを手にしている自分がふとおかしくなり、久しぶりに頬に力が入った。
「浮気されちゃったんです」
まだ友達にも話していないことを、初対面の青年に話す。何してるんだろうと思いながら、乾き始めていた涙を拭った。
「……恋人っすか」
「うん。まぁ、別れたから元恋人だけど」
知らない人だからこそ話せたのか、私の気分は少しだけ晴れやかになった。反対に青年は、明らかに戸惑っている様子を見せる。
そりゃそうだよねと思いながら、少しだけ申し訳なくなった。
「すんません、俺、慰めるのとか下手で……」
「ううん、声かけてくれてありがとう。ちょっとスッキリした。ジュースもご馳走様」
「いえ、なら良かったっす」
ファミレスで別れ話をした後、どうやって電車に乗ってここまで帰ってきたのか覚えていない。浮気をした挙句開き直った元恋人に対して、まだ怒りも後悔もわかず、ただぼんやりと足を止めていた。
けれどもう涙は溢れてこない。
「ほんとにありがと。帰るね」
「いきなり声かけた俺が言うのもあれっすけど、ひとりで大丈夫っすか?」
「うん。すぐそこだから」
声をかけ、ジュースを奢り、帰り道の心配までしてくれる青年。そんなに私は酷い状態なのだろうか。意識がはっきりしだしたからこそ、少し恥ずかしくなる。
「じゃあ」
「っす」
小さく手を振る私に、青年はぺこりとお辞儀をする。優しい人だったなと思いながらついに横断歩道を渡り出すと、後ろの体も走り出した気配がした。
「はぁっ、脇腹、痛い」
汗で張り付く髪が鬱陶しい。ヘアゴムを忘れたことを後悔していた。
「喉も、痛いし」
時折車のヘッドライトが照らす夜道を、ひとりで走っていた。走り出した十分前の元気はどこかへ消え、今はノロノロとただ足を動かしている。生ぬるい夏の夜は風がなく、息苦しさが消えない。
脇腹と喉の痛みに耐えきれず、信号機の下でついに足を止めた。
「はぁっ」
久しぶりの運動で乱れている息を整える。走るのってこんなにキツかったんだっけと思いながら顔を上げた。そこで、この場所は、と目を細める。
黄色を点滅させる信号、横断歩道を見て、昨日の記憶が呼び起こされた。心配してくれた青年を思い浮かべながら、絶対に困ったよなぁと苦笑する。
「あれ」
まるで昨日の再現かのように、また声が聞こえる。そんなはずないよねと思いながら振り返ると、少し驚いた顔が私に向けられていた。
「あ、やっぱ昨日の……あの後、大丈夫でした?」
彼も走っていたのか、うっすらと汗をかいている。昨日、この場所で私に声をかけた青年だった。まさかまた会うとは思っていなかった私も驚きで目を丸くする。
「はい。ほんと、昨日はありがとうございました。あ、ジュース代……」
「いや、いっすよ」
ジュース代を返そうとポケットを漁るが、スマートフォンしか持っていないことを思い出す。青年も財布が無いことに気づいたのか、気にしなくていいと軽く手を振った。
「走ってるんすか」
「え、あぁ、うん……これを機に、理想の自分に近づこうかなと思って。気分転換にもなるしね」
昨日は視界が霞んでいて分からなかったけど、青年は整った顔立ちをしていた。振り向いた顔が今日は泣いていないからか、少しホッとしているように見える。
「あ、私、片瀬千帆《かたせちほ》っていいます」
「米崎悠《よねざきはるか》っす」
「悠くんはトレーニング?」
「はい、俺、陸上部なんで」
「へぇ、大学?」
「そっす。片瀬さんは……」
「あ、千帆でいいよ。私は大学三年」
「じゃあ俺の二個上っすね」
私が二個上なら、悠くんは大学一年生か。高い背に、がっしりとした筋肉質な体つき。サークルではなく部活に所属していることからも、本気でスポーツをしている人だとわかった。
さすがに個人情報を聞きすぎたと思っていたけど、会話を切り上げられることもなく安心する。
「元気そうでよかったっす」
「……じっとしてると色々考えちゃって。……私にも足りないところがあったのかなとか、見る目がなかったのかな、とか」
また言わなくてもいいことを、気づけばするりと口にする。さっき名前を知った関係でこんなことを言われても面倒だろうなと後悔した。
しかし悠くんは特に気にする素振りを見せない。ただ淡々と言葉を返した。
「好きだった人を悪く言われるのは嫌かもだけど、俺は、相手が悪いとしか思えないっす。何にしても、浮気をしていい理由にはならないっすから」
自分の考えをはっきりと言う悠くん。何が悪かったのか考える度に自分を責めてしまっていた私は、その冷静な声にハッとした。
「……悠くんって、しっかりしてるよね」
「え? 俺、よく友達に抜けてるって言われますよ」
きちんと自分の考えを持っていなければ、こんな言葉は出てこないだろう。私の方が歳上だというのに、すごいなと感心する。
大学一年のときって何を考えていただろうと二年前の自分を思い出した。特にこれといって学びたいこともなく、友達と遊んでばかりだった気がする。
「よし、じゃあ格好良い体になって、夏を満喫しようかな。トレーニング中なのに、引き止めてごめんね」
「いえ、声かけたのは俺なんで……」
しばらく休んだからか、脇腹と喉の痛みは治まっていた。もう少し頑張ろうかなと腕を上げ、伸びをする。トレーニングとして走っている悠くんをこれ以上引き止めるのも申し訳なかった。
昨日と同じように、ひらひらと手を振る。悠くんもまたぺこりとお辞儀した。
「あの、千帆さん。明日も走るっすか?」
「ん? うん、天気が悪くなければ」
「っすか。……じゃあ、また明日」
「うん。また、明日」
明日はどうしようかなと思っていたけど、理想に近づきたいと言った手前、どうしようか悩んでるなんて言えなかった。
一瞬、何かを考えるような顔をした悠くんは、それ以上何も言わずに私とは別方向に走り出す。
「また明日かぁ」
連絡先も知らず、顔見知りになったばかりの人とまた明日と別れるのは不思議で、くすぐったかった。明日の約束をするなんて、久しぶりな気がする。
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