上 下
9 / 12

戻れないところまで

しおりを挟む
 緑の匂いというのだろうか。スーッとする香りを吸い込みながらティーカップを傾ける。温かいハーブティーが喉を通り、胃に広がっていった。

「……美味しいです」
「少しは落ち着けたでしょうか」
「はい……」

 落ち着いて話せる場所に行こうとなり、近いからという理由で気づけば乙部さんの部屋にお邪魔していた。
 物が少なくシンプルながらもオシャレな空間、ハーブティーを常備しているところに乙部さんらしさを感じる。座っているクッションもふかふかで、ほかの家具にもこだわりを感じた。
 乙部さんは私に何があったのかを無理に聞かず、テーブルを挟んでただ微笑んでいてくれた。話してもいいし、話さなくてもいいと言って貰えている気がして、すごくありがたいなと思う。
 ハーブティーで気分が落ち着いた今なら話せるかもなと口を開き、言葉を探した。

「乙部さんに距離をとったほうが良いって言われたのに、私、鳴沢くんと食事に行ったんです……でも鳴沢くんは私に前の恋人を重ねていたかっただけみたいで……また自分を都合よく扱う相手を見抜けなかったのが、悔しいというか、情けなくて……」

 ティーカップの中でたゆたう薄緑を眺めながら、自分の気持ちを言葉にしていく。乙部さんが優しい人だと知っていても、抱えている感情を他人に話すのは怖かった。

「……どうかご自分を責めないでください。池田様は何も悪くないのですから。情けないことなんて何一つありません」

 顔を上げると真剣な瞳と視線が重なる。乙部さんはただ私の言葉を受止め、助言をするでもなく、寄り添ってくれた。
 それがどうしようもなく嬉しく、ほっとして、また目頭が熱くなる。それで良いんだよ、傷ついて良いんだよと言われている気がした。
 しかし乙部さんが続けた言葉に、込み上げていた熱も引いていく。

「……実は個人的に調べてみたのですが、以前お付き合いしていた女性に振られてからその女性と似ている方と付き合っては捨てる、最低な人間だとわかりました」
「え……?」
「池田様を傷つけたことはとうてい許せません。しかし、早い段階で本性を知ることができたのは幸いでした」

 乙部さんの言っていることが耳には入っても上手く理解できない。呆気に取られる私とは反対に、乙部さんは落ち着いていて、それがさらに私を困惑させた。
 鼓動が速くなって、呼吸も浅くなる。嫌な寒気が背中を這った。

「え、そんなことどうして乙部さんが知ってるんですか? どうやって調べたの……?」
「……どうやってだと思いますか? なぜ私が彼のことを調べたと思いますか?」

 質問が質問で返されて、一つも答えは得られない。
 テーブルの向こうに座っていた乙部さんは、戸惑う私に近づいてくる。まだ状況が理解できないながらも、無意識に体を引いた。
 しかし乙部さんの体は止まることはなく、いつしか壁際に追い込まれてしまう。
 両腕が壁に付けられ、身動きが取れなくなる。すぐそばにまで近づいた乙部さんは私を覆うように動きを止める。
 壁と彼に挟まれ、閉じ込められてしまった。

「乙部、さん……?」
「……私なら池田様を悲しい目にあわせたりしません。酷い行為で傷つけたりしません。あなたをないがしろにする人間から守りたいのです……お願いです、俺から離れていかないで」
「っ」

 懇願するような必死な声。辛そうに眉を寄せる顔。初めて見る彼の姿に、どうしたら良いのかわからなかった。
 今まで優しく接してくれた乙部さん。その優しさはどこか歪だったのだと、今はっきりわかった。それに人と深く関わることでまた傷つくのではないかと、ためらいもある。
 彼に身を任せてしまったら、その歪さに飲み込まれてしまいそうだった。

「……でも、これ以上乙部さんと一緒にいたら、戻れなくなりそうで……それが怖いんです」
「戻れない……?」
「はい……以前の私にも、以前の私たちにも」

 すぐそばにある乙部さんの顔からはいつもの爽やかさが消え、どこか艶やかな色気が漂っている。
 強い眼差しと視線を重ねてしまえば、もう口を開くこともできなかった。

「戻る必要なんてありません。俺とあなたで、一緒に、戻れないところまで行きましょう……ね?」

 息が触れるほどそばに顔が近づく。私は身動きもできず、ただ息を止めていた。
 さらに体が屈められ「いいですか?」と確認するかのように鼻が擦り合わされる。香った柑橘系の香水にむせかえりそうになりながら、考えることをやめ、瞼を下ろした。
 ついに唇と唇が触れ、ぴったりと密着する。

「ん……」

 彼の歪な愛を受け入れると決めた私は、体の力を抜く。繰り返されるキス、乙部さんの熱をただ感じていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

練習なのに、とろけてしまいました

あさぎ
恋愛
ちょっとオタクな吉住瞳子(よしずみとうこ)は漫画やゲームが大好き。ある日、漫画動画を創作している友人から意外なお願いをされ引き受けると、なぜか会社のイケメン上司・小野田主任が現れびっくり。友人のお願いにうまく応えることができない瞳子を主任が手ずから教えこんでいく。 「だんだんいやらしくなってきたな」「お前の声、すごくそそられる……」主任の手が止まらない。まさかこんな練習になるなんて。瞳子はどこまでも甘く淫らにとかされていく ※※※〈本編12話+番外編1話〉※※※

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

ハイスペックでヤバい同期

衣更月
恋愛
イケメン御曹司が子会社に入社してきた。

仮面夫婦のはずが執着溺愛されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
仮面夫婦のはずが執着溺愛されちゃいました

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

突然婚〜凄腕ドクターに献上されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
突然婚〜凄腕ドクターに献上されちゃいました

10 sweet wedding

国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~

汐埼ゆたか
恋愛
絶え間なく溢れ出る涙は彼の唇に吸い取られ 慟哭だけが薄暗い部屋に沈んでいく。    その夜、彼女の絶望と悲しみをすくい取ったのは 仕事上でしか接点のない上司だった。 思っていることを口にするのが苦手 地味で大人しい司書 木ノ下 千紗子 (きのした ちさこ) (24)      × 真面目で優しい千紗子の上司 知的で容姿端麗な課長 雨宮 一彰 (あまみや かずあき) (29) 胸を締め付ける切ない想いを 抱えているのはいったいどちらなのか——— 「叫んでも暴れてもいい、全部受け止めるから」 「君が笑っていられるなら、自分の気持ちなんてどうでもいい」 「その可愛い笑顔が戻るなら、俺は何でも出来そうだよ」 真摯でひたむきな愛が、傷付いた心を癒していく。 ********** ►Attention ※他サイトからの転載(2018/11に書き上げたものです) ※表紙は「かんたん表紙メーカー2」様で作りました。 ※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

処理中です...