九龍懐古

日常茶飯

艇仔粥と九龍散歩・前

日常茶飯１





起きたら昼だった。



寝具を払いベッドを抜けだす樹イツキ。その視界に、カウンターでテレビを見詰めながら競馬新聞を握り締めている東アズマがうつる。
…これは多分、４連単、外す。樹イツキは何となく思いつつ顔を洗って歯磨きをし、キッチンにあった油炸鬼あげパンを齧った。
今日は──というか割と毎日──特にする事が無い。花街の方に出来た新店のご飯屋でも覗こうか。画面とにらめっこしている東アズマに一声掛け、家を出る。

建物の屋上まであがると晴れた空が広がっていた。遠くで吠える獅子山ライオンロック。クルッと街を見渡すと花街は眠りから覚めていない様子、近所まで行くし猫マオの処ところも寄ろうかと考えたが───まだ寝てるかも知れないな。とりあえず微信チャットを送るにとどめ、それから目的地へ足を向けた。

のんびり屋上を渡っている間あいだ、頭スレスレを何度も飛行機が通り過ぎる。窓から外を見ている乗客と目が合うんじゃないかってくらい近い。轟音が響く度、数百と立ち並ぶアンテナの隙間を縫って遊ぶ子供達が耳を塞いだ。

違法建築から違法建築へ歩く、歩く、偶たまに跳ぶ。全てのビルが隣接していて、エリアの端から端まで１度も地に足をつけず横断する事も出来る。…縦断か？まぁどちらにせよ。多分どっちも出来る。

暫しばらくしてお目当ての料理屋近辺に到着し、樹イツキはビルから生える看板や室外機を足がかりにトントンと下へ降りた。内階段を使ってもいいのだが、やたらめったら遠回りになる可能性がある。
階段では出口まで一直線に繋がらないのだ。いつの間にか違う建物になっていたり知らない家に辿り着いたり、とかく迷路の様な構造を全て把握するのは至難の業。路地や部屋や人の数も多過ぎる。その点、外壁をそのまま下くだれば迷子になる心配は皆無。問題は万人に推奨できる方法では無いということか。

水溜まりを避けて土を踏む。４階あたりで、壁を伝う水道管が割れているのを見た。
住人は水源確保の為に好き勝手パイプを繋いでいる。管理体制は杜撰ずさん、城塞福利がメンテナンスを頑張っているらしいが、九龍城の規模の大きさに全く追い付かないのが現状。建物内にも関わらず水が降ってくるので郵便配達員なんかは場所により傘をさして移動する。城塞はいつでも雨模様、手紙が濡れたら一大事。



「あれ？」

食事処に入った樹イツキは声を上げた。テーブル席に大地ダイチと燈瑩トウエイがいたからだ。樹イツキに気付いた大地ダイチは嬉しそうに手招きし、身体をズラして長椅子のスペースを空ける。呼ばれるままに腰をおろす樹イツキ。

「大地ダイチ、学校は？」
「お昼休み！哥ゴーが近くに居てね、新しいお店行きたいって誘ったら来てくれたの」

質問に明るく答える大地ダイチ、燈瑩トウエイが樹イツキも何か頼みなよとメニューを渡してくる。これは奢りの予感…でも毎度申し訳無いな、控え目に食べようか…。樹イツキが悩んでいるとそれを察した燈瑩トウエイが、気にしないで好きなだけ食べていいからまた今度仕事手伝ってと微笑む。
さっき家で油炸鬼あげパンをつまんだせいでちょっと粥かゆが食べたくなっていた樹イツキは、お言葉に甘えて艇仔粥を選択。あとはデザートを片っ端からいった。卓に運ばれてきた馬拉糕カステラを大地ダイチと半分こしている樹イツキを目にとめ、もう１個頼めばと鴛鴦茶ユンヨンチャーを啜る燈瑩トウエイ。言われた通りもうひとつ注文して今度は燈瑩トウエイに半分わけると、そういうことじゃないと笑われた。

お腹が膨れた頃に猫マオからの返信。今起きたらしい。学校へと戻る大地ダイチと付き添う燈瑩トウエイへ手を振り、樹イツキは開店記念品として配布されたミニ紹興酒の瓶を持って【宵城】に向かう。いつも通りのルートで天守を駆け登り朱塗りの露台へつくと小窓の鍵は既に開あいていた。

「おはよ猫マオ。これお土産」
「お、サンキュ。新店の飯旨かった？」

樹イツキが部屋へと入りチマッとした酒瓶を見せれば、可愛いじゃんと言って受け取った猫マオは栓を抜いて一息で飲み干した。飯は旨かったかとの質問に頷く樹イツキ。

「お前ら夜は【東風いえ】にいんの？」

その質問にも樹イツキは頷く。冷蔵庫の食材使わなきゃ！とか東アズマが言ってた気がする、今夜は外食しないだろう。ふーんと相槌を打った猫マオは、引き出しから何やら紙を１枚取り出して樹イツキに投げる。

「んじゃこいつ東アズマに渡しといて。あとコレ、お前にやる」

受け取った紙より、猫マオがテーブルに置いたコレ・・の方に樹イツキの視線は釘付け。コレは…尖沙咀チムサーチョイにある有名スイーツ店の、限定曲奇クッキー詰め合わせ缶じゃないか。なかなかお目にかかれない入手困難な代物。紙を雑にポケットへ突っ込み、樹イツキは大事そうに曲奇クッキーの缶を両手で抱えた。