九龍懐古

愛月撤灯

内緒と掛け違え

愛月撤灯３





「燈瑩トウエイ！」

思いがけない来訪者に、気怠げに扉を開いた月ユエが声を弾ませる。

「お疲れ様、これお土産」

燈瑩トウエイはカットフルーツが入った袋を掲げた。瑞々しい火龍果ドラゴンフルーツを取り出し美味しそうに囓かじる月ユエへ、落ち着いたトーンで聞いてみる。

「今日働きたくないの？」

少しの間ま。目を伏せる月ユエの次の言葉を、燈瑩トウエイはゆっくりと煙草に火を点け待った。

「ん…昨日ちょっと…ね」

‘ちょっと’というのが何のことだか説明はなかったが、月ユエが話さないのなら踏み込んで聞くのも無粋だろう。
それに心当たりもある。この周辺を縄張りにしていたマフィアの、よくない噂話。

そうなんだと返すだけに留めて、燈瑩トウエイは虚空に煙を流す。ほんのわずか重たくなった空気を取り払う様に月ユエが明るい声を出した。

「でもそんなこと言ってる場合じゃないね。ちゃんと仕事始め…」
「もう始まってるよ」

燈瑩トウエイはその言葉尻を噛み、真意を掴めないでいる月ユエに向けて柔らかく告げる。

「丸一日、俺が買った」

月ユエはしばらく目をパチクリとさせていたが、事態を把握すると絞り出すように言った。

「嘘…全部の時間帯…？」
「うん」
「貴方…アタシ、高かった・・・・でしょう…」

その台詞に燈瑩トウエイは声を立てて笑い、部屋を出ようとドアノブに手を掛ける。

「それだけ月ユエが良い女ってことじゃない？俺はもう帰るから、１日ゆっくり──…」

言い終わらないうちにその背中へと走った月ユエが後ろから抱きついた。潤んだ瞳で燈瑩トウエイを見上げ呟く。

「買ったなら…ちゃんと傍にいて？」

振り向いた燈瑩トウエイに唇を寄せ、なし崩し的にベッドへと倒れ込むと髪留めをほどく。長い黒髪が頬に落ちた。

「…そういうつもりじゃなかったんだけど」
「わかってる。アタシがこうしたいだけ」

下心があった訳では無いとバツが悪そうに眉を下げる燈瑩トウエイに、月ユエはクスッと幸せそうな笑みを見せた。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「今日はいいお休み貰っちゃった」

真夜中過ぎ、ベッドの上でブランケットを体に纏わせた月ユエが煙草を片手に笑う。燈瑩トウエイは星明かりに照らされたその可愛らしい横顔を見ながら紫煙を口にため、静かに尋ねた。

「月ユエの人気だったら、こんなに働かなくても大丈夫なんじゃない？お店の売り上げは減るだろうけど…オーナーに相談してみたら？」

オーナーの様子から、金銭的な問題ではなく一いち個人として月ユエを大事にしているのだという印象を燈瑩トウエイは受けていた。
月ユエは少し考え、貴方にならいいかなとポツポツ話しはじめる。

「妹が居るのよ、香港の孤児院にね。オーナーしか知らないけど」

どうやら家族と死に別れた後、遺品の整理中に腹違いの妹の存在に気が付いたとのこと。まだ年端も行かない妹。保護施設での暮らしを知った姉の月ユエは、こうして水商売で妹の分まで生活費を稼いでいた。
珍しい話ではない。九龍のスラムで両親がいる子供なんて数えるほどで、片方でも残っていればかなりの御の字。まぁ親が健在ならスラムここにいる必要性がそもそも無い…それは燈瑩トウエイもまたしかり。

「陽ヨウ──…ええと、妹はアタシのこと知らないから、アタシだって名乗ってはないんだけど。妹宛に毎月仕送りしてるの。あの子が独り立ち出来るまでは頑張りたいかな」

この話にはオーナーも協力しているようだ。
自分も孤児院出身で微力ながら子供達の支援活動に精を出すオーナーは、月ユエの想いに共感したらしい。２人の間にある絆の正体。

「だからやらなくちゃいけないのよ、色々…昨日もそれで──…」

月ユエは続けて何か言いかけたが、ブランケットを口元にたぐりよせて苦笑いをした。

「なんか恥ずかしいね。こんなこと話すの」

内緒にしておいてよ、とはにかむ。
燈瑩トウエイは煙草を揉み消し月ユエに向き直った。

「俺に何か出来ることある？」
「子供は気にしなくていいの。でも、今日は助けられちゃったし…甘えちゃおっかな…」

フフッと悪戯に笑う月ユエが両腕を広げる。

「抱き締めて」

燈瑩トウエイは要望通りに柔らかく月ユエを抱き締める。と、再びベッドへと引き倒された。首筋に顔を埋めてくる月ユエの髪を梳き問う。

「こんなのでいいの」
「いいよ」

目を瞑り頷く月ユエ。その体温を感じながら燈瑩トウエイも瞼を閉じた。ひんやりとした風が窓の鉄格子を抜け、混沌に沈む夜の九龍の香りを運ぶ。

───────この時間がずっと続けばいいなんて、そんな、ガラにも無い事を想った。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「合同営業？」
「そう。明日と明後日だって」

ある集金日。燈瑩トウエイの疑問符に、差し入れの火龍果ドラゴンフルーツをパクパクとつまみながら月ユエが首を縦に振る。

「オーナーが仲良くしてる店舗だけど、最近キャストの人数が減っちゃったみたいでね…貴方も知ってるお店なんじゃないかしら？」

燈瑩トウエイは若干言葉を濁した。それを目ざとく見咎めた月ユエが唇の端を吊り上げる。

「貴方人気なんでしょう、女の子達に」
「いや…そんなことは…」
「嘘ばっかり。恋人居ないの？」
「居ないよ」
「モテるのに？」
「そうでもないって。でもありがとね」
「ほんと、子供らしくないんだから」

ませた返答に呆れた様子を見せる月ユエだが、反対に燈瑩トウエイはことさら優しい表情で言った。

「歳知ってるのなんて月ユエくらいだよ」

そして、内緒にしておいてよといつかの月ユエの仕草を真似する。‘幼い’ということは九龍このまちでは不利なのだ。これまで努つとめて年齢を悟られないようにしてきた。

「え、どうしてアタシには言ったの？」
「んー……どうしてだろうね？」

どうしてなんて、答えは決まっているだろうと燈瑩トウエイは思った。しかし、何となく────核心を突く事を躊躇した。深入りせず上手く進める道を選んできた、今までの生き方が、そうさせた。

はぐらかす燈瑩トウエイの額を月ユエは指先で叩く。

「痛っ」
「生意気ね。まぁいいわ…でも、少しは子供っぽく振る舞いなさいよ」

歳バレてるんだからと笑みを浮かべる月ユエ。

「何か子供らしいこと言ってみて？」

急な無茶振りに燈瑩トウエイは悩んだが。

「じゃあ」
「ん？」
「火龍果それの最後の１個、貰ってもいい？実は俺も食べたかった」
「…よろしい」

月ユエが腕を組んで言う。一呼吸置いて２人ともプッと吹き出し、顔を見合わせて笑った。

この関係が崩れ去ってしまうことなど、まだ知る由もなく。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





週末。いつも通り【酔蝶】へと集金に訪れた燈瑩トウエイは、月ユエへと声を掛ける。

「お疲れ様。どうだった？合同営業」
「別に…この後も集金？」
「ん？うん、何軒か」
「そう」
「なにかあったの」

あきらかにトゲのある雰囲気の月ユエに、くわえ煙草を灰皿に置きつつ問い掛ける燈瑩トウエイ。
月ユエはそれを手に取り深く煙を吸い込む。フィルターに包まれた葉が空気を含んで勢いよく燃えて、一瞬真っ赤に光った。

「あのお店の…亜麻色の髪した娘、可愛いね。売れてるんでしょ？貴方とまた寝たいって言ってたよ」

吐き捨てる様に口にする月ユエ。白煙だけが部屋を流れる。

「他の娘とも忙しいみたいじゃない」

あのお店、とは合同営業先のことか。他店の娘達からなにかを聞いたらしい。
燈瑩トウエイは好意を寄せてくる相手を特に拒まない。店舗の利益に繋がれば、それも仕事の範疇はんちゅうなので。

「人のことは２回も断ったくせして…よっぽど魅力がなかったってこと？」

違う、むしろ逆・だ、だから断った。そう思ったが何を答えても言い訳になってしまう気もした。黙りこくる燈瑩トウエイに月ユエの苛立ちが募る。

「仕事なら誰とでも寝るの？」
「月ユエがそれ言うの？」

余計なセリフが反射的に口をついた。

視線が交わりしばらくの沈黙。そのまま互いに言葉をかわすことはなく、燈瑩トウエイは部屋から出て行く。



それ以降……燈瑩トウエイが、【酔蝶】へと姿を現すことはなかった。



そしていくらかの月日が流れたある日曜。
燈瑩トウエイの電話に、オーナーからの着信が入る。