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青松落色
携帯電話とストレイキャット
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青松落色6
あれから数日、九龍の街はやけに静かだ。
スラムでも貧困街でも失踪事件は起こっていない。だがその静けさが逆に不気味だった。まるで───嵐の前のような。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あれ…上、忘れ物してる」
お昼過ぎ。昼食をとろうとして台所に立った大地はテーブルに携帯電話を見付けて首をひねった。
上、忘れ物なんてほとんどしないのに。
しかも携帯電話だ。これが無かったら仕事にならないんじゃないか?でも、上が出ていったのはだいぶ前。取りに帰ってきていないということは特に支障がないのか?
上に電話で聞こうとして、いや電話はここにあるんだったと思い直す。代わりに、猫に電話をかけた。
「…喂ぃ?」
「あ、猫!上いる?」
「んー…いねーけど…どした?」
眠そうな声。寝てたのかなぁ。なら、猫のところに行ったんじゃないのか。どこ行ったんだろう?
「上、携帯忘れちゃったみたいでさ。無いと困るかなって。どこ居るかわかる?」
「あー…天成楼のほうとかじゃね…?用事あるって言ってたかも…」
「わかった、ありがとう!」
通話を切り、大地は考える。
天成楼か。スラムから外れた花街だから、あんまり危ない感じでもないな。
この何日か九龍も落ち着いてるし…散歩がてら携帯を届けに行ってみようかな?明るいうちなら大丈夫だろう。
そう思いつつ大地は支度をし、久しぶりの1人での外出にウキウキしながら家を出た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
午後の陽が窓から差し込み、目が覚めた猫は寝ぼけ眼で時計を見た。何だ…早ぇな、まだ寝るか…?自問しゆっくりと首を回す。
枕の横には乱雑に置かれた携帯。目をやると、通話履歴の画面を開いたままだった。
着信、30分前大地から。不在…じゃねぇ、出てる。出たっけ。出たか。なに話した?上が…忘れ物?した?で俺は…。
「───やっべ」
言った。天成楼って。
起き抜けで頭が働いておらずうっかりした。まだ失踪事件も収束してないこの状況で、上はなるべくなら大地を1人で外に出したくないはずだ。
行き先を教えるべきではなかった…しかも、天成楼。あの辺りはスラムよりはマシだが、マシなだけで、お世辞にも安全とも開けているとも言えない場所。
ため息をついて起き上がる。
万が一、これが原因で何かがあったら事だ。樹や燈瑩なら自力でどうにでもできるので放っておくし東に関してはどうなろうと全く構わないが、大地は別である。
猫の中で‘子供’のカテゴリーに入っており、女子供は守るというのは猫の矜持なのだ。
猫は頭をワシャワシャと掻いて天井を仰ぎ、大地の携帯を鳴らした。
「只今、電波の届かないところにあるかー…」
クソが。
密集し過ぎている建物のせいで、九龍内には電波は元より太陽の光さえ届かない道や家が数え切れないほどある。恐らく大地はすでに天成楼付近の入り組んだ路地まで到着してしまっているのだろう。
「もー…しゃあねぇなー…」
舌打ちをして寝具を跳ね除け、寝巻きの甚平に羽織を重ねる。邪魔な前髪を適当に丸めると、猫は下駄をつっかけ急いで天成楼へと向かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
想像していたより、暗い。
昼間なのにやけに気温も低く、肌寒さに大地は少し身震いした。
名前と場所は把握していたが実際にこの辺りに来たことは無かった。花街の側なのでもっと明るいものかと思っていたが、ジメジメとした路地に囲まれ陰鬱な感じだ。
来なきゃ良かったかな。
上、本当に居るんだろうか。
猫に電話をしようにも携帯のディスプレイには圏外の表示。どんどん心細くなってくる。
不安な気持ちで天成楼を探し歩いていると、それに拍車をかけるように突然悲鳴が路地に響いた。
曲がり角の向こうからだ。ほどなく、そこから2人の男が女の子を引きずって出てくるのが見えた。
え。
男と目が合う。大地は咄嗟にかたわらの建物に駆け込んだ。男達が何か話して、1人こちらに近付いてくるのが聞こえる。
大地はさらに奥へと逃げ込んだ。しかし、どうやらここは廃墟のようでどの部屋にもボロボロの家具や機械、積まれた瓦礫があるだけだった。
「わっ!…いっ、たぁ…」
明かりがないせいで散らばる瓦礫に躓き転倒する。足首に鈍い痛み。ひねったんだろうか。
後ろから男が追いかけてきていたので、慌てて部屋の隅の物陰に身を隠す。
どうしよう。どうしよう。
上の言うことをきいておけばよかった。
後悔する大地のすぐ側にまで足音が迫り、男の影が覆いかぶさりかけた────瞬間。
バキッ。
音と共に、男が壁にめり込んだ。顔を上げた大地が目を凝らしてよく見ると、男の頭に誰かが飛び蹴りを決めている。
その人物は軽い身のこなしで着地して、大地の腕を引っ張りため息混じりに言った。
「何してんだ馬鹿」
暗がりの中、立っていたのは猫だった。
あれから数日、九龍の街はやけに静かだ。
スラムでも貧困街でも失踪事件は起こっていない。だがその静けさが逆に不気味だった。まるで───嵐の前のような。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あれ…上、忘れ物してる」
お昼過ぎ。昼食をとろうとして台所に立った大地はテーブルに携帯電話を見付けて首をひねった。
上、忘れ物なんてほとんどしないのに。
しかも携帯電話だ。これが無かったら仕事にならないんじゃないか?でも、上が出ていったのはだいぶ前。取りに帰ってきていないということは特に支障がないのか?
上に電話で聞こうとして、いや電話はここにあるんだったと思い直す。代わりに、猫に電話をかけた。
「…喂ぃ?」
「あ、猫!上いる?」
「んー…いねーけど…どした?」
眠そうな声。寝てたのかなぁ。なら、猫のところに行ったんじゃないのか。どこ行ったんだろう?
「上、携帯忘れちゃったみたいでさ。無いと困るかなって。どこ居るかわかる?」
「あー…天成楼のほうとかじゃね…?用事あるって言ってたかも…」
「わかった、ありがとう!」
通話を切り、大地は考える。
天成楼か。スラムから外れた花街だから、あんまり危ない感じでもないな。
この何日か九龍も落ち着いてるし…散歩がてら携帯を届けに行ってみようかな?明るいうちなら大丈夫だろう。
そう思いつつ大地は支度をし、久しぶりの1人での外出にウキウキしながら家を出た。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
午後の陽が窓から差し込み、目が覚めた猫は寝ぼけ眼で時計を見た。何だ…早ぇな、まだ寝るか…?自問しゆっくりと首を回す。
枕の横には乱雑に置かれた携帯。目をやると、通話履歴の画面を開いたままだった。
着信、30分前大地から。不在…じゃねぇ、出てる。出たっけ。出たか。なに話した?上が…忘れ物?した?で俺は…。
「───やっべ」
言った。天成楼って。
起き抜けで頭が働いておらずうっかりした。まだ失踪事件も収束してないこの状況で、上はなるべくなら大地を1人で外に出したくないはずだ。
行き先を教えるべきではなかった…しかも、天成楼。あの辺りはスラムよりはマシだが、マシなだけで、お世辞にも安全とも開けているとも言えない場所。
ため息をついて起き上がる。
万が一、これが原因で何かがあったら事だ。樹や燈瑩なら自力でどうにでもできるので放っておくし東に関してはどうなろうと全く構わないが、大地は別である。
猫の中で‘子供’のカテゴリーに入っており、女子供は守るというのは猫の矜持なのだ。
猫は頭をワシャワシャと掻いて天井を仰ぎ、大地の携帯を鳴らした。
「只今、電波の届かないところにあるかー…」
クソが。
密集し過ぎている建物のせいで、九龍内には電波は元より太陽の光さえ届かない道や家が数え切れないほどある。恐らく大地はすでに天成楼付近の入り組んだ路地まで到着してしまっているのだろう。
「もー…しゃあねぇなー…」
舌打ちをして寝具を跳ね除け、寝巻きの甚平に羽織を重ねる。邪魔な前髪を適当に丸めると、猫は下駄をつっかけ急いで天成楼へと向かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
想像していたより、暗い。
昼間なのにやけに気温も低く、肌寒さに大地は少し身震いした。
名前と場所は把握していたが実際にこの辺りに来たことは無かった。花街の側なのでもっと明るいものかと思っていたが、ジメジメとした路地に囲まれ陰鬱な感じだ。
来なきゃ良かったかな。
上、本当に居るんだろうか。
猫に電話をしようにも携帯のディスプレイには圏外の表示。どんどん心細くなってくる。
不安な気持ちで天成楼を探し歩いていると、それに拍車をかけるように突然悲鳴が路地に響いた。
曲がり角の向こうからだ。ほどなく、そこから2人の男が女の子を引きずって出てくるのが見えた。
え。
男と目が合う。大地は咄嗟にかたわらの建物に駆け込んだ。男達が何か話して、1人こちらに近付いてくるのが聞こえる。
大地はさらに奥へと逃げ込んだ。しかし、どうやらここは廃墟のようでどの部屋にもボロボロの家具や機械、積まれた瓦礫があるだけだった。
「わっ!…いっ、たぁ…」
明かりがないせいで散らばる瓦礫に躓き転倒する。足首に鈍い痛み。ひねったんだろうか。
後ろから男が追いかけてきていたので、慌てて部屋の隅の物陰に身を隠す。
どうしよう。どうしよう。
上の言うことをきいておけばよかった。
後悔する大地のすぐ側にまで足音が迫り、男の影が覆いかぶさりかけた────瞬間。
バキッ。
音と共に、男が壁にめり込んだ。顔を上げた大地が目を凝らしてよく見ると、男の頭に誰かが飛び蹴りを決めている。
その人物は軽い身のこなしで着地して、大地の腕を引っ張りため息混じりに言った。
「何してんだ馬鹿」
暗がりの中、立っていたのは猫だった。
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