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1568 箱庭
否定と呪い
しおりを挟む真夜中、ラスは目を覚ます。アルバが帰ってから自室でしばらく暴れていたが、興奮とショックのあまり失神して、それからずっと眠っていた。部屋は暗く、ラスはしばらく自分がどこにいるかわからなかったが、やがて絵画用の油のにおいに気が付いてここは自室のベッドの上だと理解する。
「アルバと話さなきゃ……」
「いけません」
彼が体を起こしてつぶやくと、不意にベッドサイドから厳しい声がした。ハッとしてそちらに目を凝らすと、暗闇の中にぼんやりと女性の姿が見える。シンシアだ。彼女はラスのベッドサイドに椅子を置き、そこにずっと座っていたようだ。
「朝までお休みになってください」
シンシアは冷たい口調でそう言い、サイドテーブルに置かれていた水差しを手にする。慣れない手つきでグラスに水をそそぎ、ラスに差し出す。ラスはそれを受け取らず、他には誰がいるのかとあたりを見渡した。しかしシンシアが事前に人払いをしており、部屋にはラスと彼女の二人しかいない。
「……ザラス家に行ってくる。アルバに会う」
ため息をつき、ラスは額を押さえて言う。シンシアがちょっと顔を上げ、メガネの奥できつい目つきを見せた。
「いけませんと言ったでしょう」
「でも、話し合わなきゃ!」
たしなめようとしてくる彼女に、ラスは口調を荒くする。今度はシンシアがため息をついた。
「話し合うとは、何をですか」
「私たちのことだよ。アルバは間違った選択をしてる」
シンシアが呆れた調子になっていることも気が付かず、ラスは彼女に腕を広げて見せて必死に説明する。
「アルバはわかってないんだ! ザラスにいても、彼はしあわせじゃないはずだ。彼には私がいないとだめだ。アルバは傷ついてるから、抱きしめてあげられるのは私だけなんだよ。彼は私にしか癒せない──」
バシャッと、冷たい水がラスの顔にぶちまけられる。
冷たさと驚きで、心臓がドキドキと鳴る。水が頬を伝い、寝具に垂れてしみになる。ラスは目を見開き、グラスをこちらに向けたまま、自分を厳しく見据えるシンシアを見た。
「あなたは振られたのです。おわかり?」
ラスにグラスの中身をぶちまけたシンシアは、そう告げるとグラスをサイドテーブルへ戻す。「でも、でも」と、ラスの唇から動揺が漏れた。
「そんなのひどいよ……! 私がどれだけアルバに尽くして、愛して、捧げたか」
ぼんやりと状況を理解し、しかし彼女の言葉は受け入れられず、ラスは苦しげに顔を歪める。しかしどれだけ彼が悲痛な表情になろうとも、シンシアの冷徹な感情は揺るがない。
「あなただって、あなたの都合で女性を振ってきたでしょうが」
シンシアの言葉にぐうの音も出ず、ラスはうつむく。彼の耳は赤い。
「……君だって私たちがよりを戻すと嬉しいでしょ?」
濡れた顔を袖で拭い、ラスが苦し紛れにつぶやく。シンシアの目が一瞬だけ翳り、しかしすぐに冷たさを取り戻す。
「ラスさま、アルバさまはあなたを愛していないんです。だから、もう終わりなんです」
シンシアがまっすぐに告げた。
「思い通りにはならないものなんて、山ほどあります。人の心はその最たるもの。受け入れなさい」
そう続ける彼女は同情も、優しさも何一つ向けてくれない。ラスは押し黙る。シンシアが見せようとしてくる現実は、ラスの臓腑にいばらのように絡みついてぎゅうぎゅうと締め上げる。肺は苦しさに満ちて、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだ。
「……じゃあ、私はどうすればよかったんだよ!」
うつむいたまま、ラスは突然怒鳴る。シンシアはかすかに身を引いて、しかしすぐに姿勢を直した。
「生まれてこなければよかった!? 人生の全てを否定して自分を呪って生きていけばよかった!? 両親を殺して、私も死ねばよかった!?」
シーツを力いっぱい握りしめ、ラスはずっと自分の中だけで抱えていたものを吐き出してしまう。
彼から溢れ出す負の言葉たちを、事情も知らないが、シンシアは黙って聞いてやる。彼女は少しだけ同情を見せ、しかしラスを慰めることはしない。
ラスは自己否定の現実を吐き出すうちに、だんだんと落ち着いてくる。フーッ、フーッと肩で呼吸をして気持ちを抑えると、唇を血が滲むほど強く噛んで怒鳴るのをやめた。
「重すぎるよ……」
そして、涙と一緒にそんな言葉をこぼす。
「……苦しくて苦しくて、アルバがやっぱり愛してるって言ってくれて、救われたのに……。生きていてよかったのに……。彼のために──私のために、なんだってしてあげたのに……。全部嘘だったなんて……」
ぼろぼろと、ラスが涙を溢れさせる。彼は苦しげにしゃくりあげ、やがて声を上げて泣き出した。
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