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十日伊予

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1547 序章

冷たい水

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「今日は、船を、教えてあげる」
 早朝、父親にそう言われ、シャマシュは飛び上がった。
「いいの! いいの⁉︎」
 年相応にはしゃぐが、すぐにハッとしてうつむく。
「でも、だめだよ。父さんに無理させられない」
「だい、じょうぶ。シャマシュは、子どもなんだから、父さん、に、任せて」
 ナャは右手でシャマシュの頭を撫でてやる。シャマシュはしばらく、でも、でもと言っていたが、やがて小さく「教えて」とつぶやいた。ナャがシャマシュを連れて家を出ようとすると、トパが「わたしもー!」と駄々をこねる。祖母が、女の子が船なんか乗るもんじゃないよ、と一喝した。
 昨晩、祖母と話して、シャマシュに漁を教えてやることにした。祖母は危ないからよせと言ったが、ナャはそれを押し切った。七つになっても船を出したこともないなんて、この辺りの男の子ではあり得ない。誰も面倒を見てくれないのだから、この先のためには多少の無理をしてでも自分が教えなければいけない、と。
「おい、ナャ、何しにきたんだ」
 杖をついて川に来たナャに、村の男たちが心配して声をかける。ナャが「息子に船を教えに」と答えると、誰もが止めようとした。けれど、自分が代わりに教えると言いだす者は誰もいない。この子のためだからと、ナャはふらつく体で男たちを押し退けた。心配そうなシャマシュに笑いかけ、船子屋へ行く。船子屋の前で楽しげに話していたドナの記憶が、ナャにもシャマシュにも蘇った。息子にそれを意識させないように、ナャは明るく振る舞う。そして、小屋の奥に眠る自分の船から、埃っぽい布を剥ぎ取った。
「この、船はねえ、シャマシュのお祖父さんが、遺してくれたんだよ」
 愛おしげに船べりを撫で、ナャがつぶやく。シャマシュに亡き祖父の話を聞かせてやりながら、船を運んだ。力の強いシャマシュがほとんど運んだようなものだったが、なんとか川岸まで持って来られた。シャマシュにかいを持たせて扱い方を教えてやり、船を川に浮かべる。
「大丈夫か。そんな体で、手入れもしてない船で」
 ハディウが心配して近寄ってきた。何かあった時、すぐに助けられるようにナャたちの船のそばに自分の船をつける。
「父さん、見て! ぼく上手いでしょ」
 シャマシュはすっかり興奮し、力一杯かいを動かしてみせる。けして上手い漕ぎ方とは言えないが、シャマシュの腕の力に船は進んだ。
 ナャは優しく笑う。また明日、船の練習をしようとその場で約束をした。そのうち、魚の取り方や市場の商人への売り方も教えてあげる、と。シャマシュはひどく喜んで、かいを握った両手の代わりに足をバタバタとさせた。
 その日の夕方、シャマシュはこっそりと川に向かう。明日も父が船に乗せてくれる。その前に一人で練習をして、明日父の前で上手く船を扱って褒められたかった。
 空には入道雲が出ている。風も生ぬるい。しかし、幼いシャマシュにはそんなことはどうでも良かった。船を小屋から引っ張り出し、川に浮かべると飛び乗った。かいを漕ぎ、深い場所へと進んでいく。風が強く吹き始めた。
 夕立が来そうだと、祖母が言った。ナャは村の子たちと遊んでいたトパに帰るように言う。それから、シャマシュはどこだろうと辺りを見渡した。シャマシュはよく村のはずれで一人で遊んでいるから、そこに探しに行ってもいない。ポツ、と雨が降ってきた。嫌な予感がして、ナャは祖母に声をかけてシャマシュを探す。彼が川の淵に浮かぶ船にシャマシュを見つけた頃には、雨は本降りになっていた。
「助けて! 助けて!」
 父親に気がついて、シャマシュは泣き叫んだ。ナャに助けを求めて身を乗り出すと同時に突風が吹いて、船はひっくり返る。ナャが息をのんだ。少しの沈黙の後に、シャマシュは水面から顔を出し、転覆した船にしがみついた。しかし、四年間手入れをしていない古い船は、強風で今にも壊れてしまいそうだ。
 ナャは息子の名前を叫ぼうとしたが、すぐに言葉が出てこない。半身の自由を失ってから、言葉さえ上手く出なくなっていた。自分の無力さを身にしみ、それでも彼は行かずにはいられない。今から助けを呼んでも、間に合わない。村人が助けに来てくれるかどうかすら。ナャは冷たい水の中におぼつかない足を入れ、杖を頼りに少しずつ、それでも全力で進んでいく。
 シャマシュの目に、自分を助けにくる父親の姿が映る。しかし、ナャの捨て身の勇気も虚しく、その姿はすぐに水に呑み込まれた。一瞬、ナャの右手が水面にちらつく。彼の不自由な半身ではもがくこともかなわず、その一瞬を最後に、ナャは深い淵の中に消えていく。
 シャマシュが絶望の叫び声を上げた。その声は雨音にかき消される。父を求めて船から手を離すと、川は無慈悲にシャマシュさえも呑み込んだ。

 翌日、シャマシュは隣の村の漁場で見つかった。すぐ近くの中洲に打ち上げられたおかげで、命はある。
 ナャが見つかったのは、その三日後のことだった。
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