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1547 序章
崩壊
しおりを挟むナャは地に伏せ、ビクビクと痙攣するのみで痛みを訴えることもない。彼に息があるのを見ると、大男は立ち上がった。片足を上げ、ナャの頭を踏みつけようとする。彼にはためらいも、たいした感情もない。顔の周りを飛んでいるうるさい羽虫を潰すような、そんな軽い気持ちでいる。
「やめて!」
大男がナャの頭を踏み潰す直前、ドナが叫ぶ。
「やめて、やめて……」
涙をポロポロとこぼして懇願する。愛していなくたって、子ども二人を一緒に育てた相手だ。殺されるのは望んだことではない。それ以上は目にしたくないと、顔を両手で覆った。
「ど、どうした⁉︎ 泣かないでくれ、お願いだ、お前の嫌なことはもうしない」
うろたえ、大男は慌ててナャの上から足をどける。ひざまずくと、不安げな表情でドナの顔を覗き込んだ。大男がドナに意識を向けたので、祖母とテムがその隙にナャに駆け寄った。シャマシュはその場で腰を抜かし、わんわんと大泣きしている。
「ドナ? 私に顔を見せてくれ」
大男がドナの腕をそっと掴む。ドナが恐る恐る顔から手を離すと、大男は自分のマントで彼女の涙を拭いてやった。
ドナの目は、首を傾げて自分を見つめる、大男の慈愛に満ちた目を見る。それから、その後ろの阿鼻叫喚に視線を移した。動かないナャ。彼にすがりついて気が狂ったように泣き喚く祖母たち。武器を取り落とし、腰を抜かして怯えている男たち。それから、涙も、垂れる鼻水もよだれも、誰にも拭いてもらえずひとりぼっちで泣いている息子。しかし、彼女の視界はすぐに大男で占められた。大男はドナに顔を寄せ、柔らかくキスを落とす。
「もう行こう。ドナは馬車に乗っていてくれ。お前の子たちは私が取ってこよう」
唇を離し、大男は穏やかに笑う。ドナは寒気を感じた。大男を押し退け、ふらふらとシャマシュに歩み寄る。トパは祖母がしっかりと抱いている。本当は娘も連れていきたいが、これ以上彼に傷つけさせたくはない。
「シャマ──」
「うあぁああんッ‼︎」
母親に気がつくと、シャマシュは目を見開いて更に大きな声で泣き始める。ドナの、息子に差し出そうとしていた手がピタリと止まった。彼女は少しの間、絶望とともにそこに立ち尽くす。
大男が彼女の隣に寄り添い、肩を抱く。ドナがあたりを見渡すと、テムと目が合った。憎しみに満ちた顔で、彼女は支離滅裂な暴言を吐いている。ドナはもう一度息子を見やる。しあわせにしたい、ではなく、しあわせになりたい、そんな思いが胸にわき上がる。
「雷神さま」
ドナは大男──雷神の手を取った。雷神が手を握り返してくれる感触に、彼女は乾いた笑みを浮かべた。
「この子たちはいいから、もう行きましょう」
そう言って、シャマシュに背を向ける。ごめんね、そう小さくつぶやいた彼女の目のふちには涙が潤んでいる。しかしそれは、シャマシュが知る由もない。
母の背中が遠くなっていく。シャマシュはそれに、父親を傷つけたあの怪物へ抱く以上の恐怖を覚えた。地面に手をついて一生懸命立ち上がると、母親の後を追う。ドナは馬車に乗り込んだ。
「かーちゃん。どこいくのかーちゃん」
シャマシュはその小さい手を必死に伸ばす。行ってはいけないと、祖母たちの叫び声が聞こえる。馬が鞭打たれ、馬車は走り出す。シャマシュは声をあげて、それを追いかけた。しかし、すぐに足がもつれ、顔から転んでしまった。顎や膝をすり剥き、血と痛みが滲む。
「かーちゃん! かーちゃあんー‼︎」
幼いシャマシュが悲痛な泣き声をあげる。ドナは雷神の腕の中で、振り返ることも、声を聞くこともなかった。
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