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1547 序章
崩壊の足音
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ドナはトパをおんぶ紐で背負い、洗濯物の詰まった桶を抱えて川へゆく。祖母は生業の床屋の仕事に励み、シャマシュはナャが連れ出している。
川のひと気のない場所を選び、じゃぶじゃぶと服を洗い始める。あの大男とのこともあって、村人からは良い目でみられていないものだから、みんなが集まるいつもの洗濯場所には居づらかった。
背中から、「アー」とトパの声が聞こえてくる。ちょっと振り返り、ドナはひとことふたこと話しかけた。と、背後に何人かの女が近づいてくるのが見える。ドナはうんざりして洗濯物へと視線を移した。
「あんた」
きつい口調で呼ばれる。ナャの妹、テムだ。ドナの後ろに、腕を組んで仁王立ちする。彼女と仲のいい村の女も、何人か取り巻きをしている。
「出て行くならさっさと出て行きなさいよ。兄さんもあの男もだなんて、都合が良すぎるんじゃないの」
テムが言い、取り巻きがくすくす笑う。
「やっぱりあんたは兄さんを利用してるだけ。兄さんが大切だったら、船子屋になんて行かない。ねえ、なんで兄さんの子を産んだの? 愛してないのに抱かれることができるの? ああ、気持ち悪い」
ドナは胸が悪くなる。わたしがナャを拒んだって、彼は無理やりにするのに。そう言い返してやりたかったが、テムを逆上させるだけだとわかっている。黙って手を動かし、この嫌な時間が過ぎるのを待つ。
「ドナって娼婦みたいよね。ドナの故郷の女はみんな、そうなのかもね」
取り巻きの一人が言う。
「体を売れるような女なんだから、ナャに子どもを育てさせず、旅芸人の一座に入ればよかったのに。その薄い髪や肌の色も、巡業先のお金持ちに気に入られて買ってもらえたかもしれないのにね」
「金持ちの『おめかけ』なんて、ドナにはもったいないよ」
好き放題に言われるのはシャマシュを産んでからずっと続いているが、慣れることはできない。悲しさや怒りが込み上げ、何も言い返せない自分が情けなくなる。ナャが傍にいたって、彼はテムたちの嫌味を止められるほどしっかりしていない。彼が叱っても、村の人間はみんなそれを馬鹿にして取り合わないのだから。
「あんたみたいな尻軽女、あの青い目の子と一緒にいなくなればいいのよ」
テムが侮蔑を口にした瞬間、空に閃光がほとばしった。同時に、割れるような雷鳴が鳴り響く。ぎゃああ、とトパが大声をあげて怖がる。ドナが振り返ると、テムたちの後ろにあの大男がいた。ドナに普段向けるのとはかけ離れた、怒りに満ちた鬼のような表情でテムたちを睨みつけている。ドナの胸が高鳴った。
「お前たち、ドナに何をしている」
低い、ゴロゴロとうなる雷のような声だ。テムががくがくと足を震わせる。取り巻きの何人かが、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「なぜドナにそんな言葉を言う」
大男の問いに、女たちは何も言えない。
「もういいです。もう大丈夫。この子が怖がるから、やめてください」
体をゆすってトパをあやしてやり、ドナが大男に言う。大男は納得できなかったが、ドナが言うからにはと、深呼吸をして怒りを落ち着けた。彼が落ち着いていく間に、テムたちは逃げ出した。
「あー、おかしい。あんなに威張ってたのに、腰を抜かして」
テムたちがいなくなると、ドナは笑った。大男はドナの隣に座る。すると、ドナがもたれかかってきた。
「嬉しい。こうやって怒って、守ってもらえるなんて、この村ではずっとなかったから」
「……すまなかった」
大男は目をふせる。
「この村では、いつもああなのか? 私はドナになんて苦労をさせてきたのか……。もっと早くお前を見つけ出せていたら」
悔やみ、彼女の手を取る。ドナの生活で荒れた手を、大きな手で包み込むように握った。
「私と行こう。もう苦労はさせない」
しっかりとドナの目を見つめる。金色のまなこが潤んで、きらきらと光った。
「お前の故郷に戻ってもいい。都に行ったっていい。どこでも、お前の望む所で暮らそう。そうだ、都だ。都はいいぞ、ドナ。都にはなんでもある。お前のために大きな家を建てて、毎日豪華な食事を用意して、なんだって手に入れてやる。お前は何もしなくていいし、好きなことをなんでもしていい。都なら、私たちに子ができても、立派な教育を与えてやれる」
彼の言葉に、彼との満たされた生活を想像し、ドナの瞳も輝き出す。
「この子たちも……」
空いた手で背中の重みに触れ、ドナがつぶやく。大男は頷いた。
「ドナの子だ。そう望むなら、連れて行こう」
彼女の顔がぱあっと明るくなった。娘から手を離し、大男に抱きつく。誰が見ていようがもう関係はなかった。
大男もドナをしっかりと抱きしめる。ひとひねりで人間を殺せてしまうような恐ろしい彼の大腕は、ドナにはたくましくて安心できる、惚れた男のあたたかい腕だった。
川のひと気のない場所を選び、じゃぶじゃぶと服を洗い始める。あの大男とのこともあって、村人からは良い目でみられていないものだから、みんなが集まるいつもの洗濯場所には居づらかった。
背中から、「アー」とトパの声が聞こえてくる。ちょっと振り返り、ドナはひとことふたこと話しかけた。と、背後に何人かの女が近づいてくるのが見える。ドナはうんざりして洗濯物へと視線を移した。
「あんた」
きつい口調で呼ばれる。ナャの妹、テムだ。ドナの後ろに、腕を組んで仁王立ちする。彼女と仲のいい村の女も、何人か取り巻きをしている。
「出て行くならさっさと出て行きなさいよ。兄さんもあの男もだなんて、都合が良すぎるんじゃないの」
テムが言い、取り巻きがくすくす笑う。
「やっぱりあんたは兄さんを利用してるだけ。兄さんが大切だったら、船子屋になんて行かない。ねえ、なんで兄さんの子を産んだの? 愛してないのに抱かれることができるの? ああ、気持ち悪い」
ドナは胸が悪くなる。わたしがナャを拒んだって、彼は無理やりにするのに。そう言い返してやりたかったが、テムを逆上させるだけだとわかっている。黙って手を動かし、この嫌な時間が過ぎるのを待つ。
「ドナって娼婦みたいよね。ドナの故郷の女はみんな、そうなのかもね」
取り巻きの一人が言う。
「体を売れるような女なんだから、ナャに子どもを育てさせず、旅芸人の一座に入ればよかったのに。その薄い髪や肌の色も、巡業先のお金持ちに気に入られて買ってもらえたかもしれないのにね」
「金持ちの『おめかけ』なんて、ドナにはもったいないよ」
好き放題に言われるのはシャマシュを産んでからずっと続いているが、慣れることはできない。悲しさや怒りが込み上げ、何も言い返せない自分が情けなくなる。ナャが傍にいたって、彼はテムたちの嫌味を止められるほどしっかりしていない。彼が叱っても、村の人間はみんなそれを馬鹿にして取り合わないのだから。
「あんたみたいな尻軽女、あの青い目の子と一緒にいなくなればいいのよ」
テムが侮蔑を口にした瞬間、空に閃光がほとばしった。同時に、割れるような雷鳴が鳴り響く。ぎゃああ、とトパが大声をあげて怖がる。ドナが振り返ると、テムたちの後ろにあの大男がいた。ドナに普段向けるのとはかけ離れた、怒りに満ちた鬼のような表情でテムたちを睨みつけている。ドナの胸が高鳴った。
「お前たち、ドナに何をしている」
低い、ゴロゴロとうなる雷のような声だ。テムががくがくと足を震わせる。取り巻きの何人かが、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「なぜドナにそんな言葉を言う」
大男の問いに、女たちは何も言えない。
「もういいです。もう大丈夫。この子が怖がるから、やめてください」
体をゆすってトパをあやしてやり、ドナが大男に言う。大男は納得できなかったが、ドナが言うからにはと、深呼吸をして怒りを落ち着けた。彼が落ち着いていく間に、テムたちは逃げ出した。
「あー、おかしい。あんなに威張ってたのに、腰を抜かして」
テムたちがいなくなると、ドナは笑った。大男はドナの隣に座る。すると、ドナがもたれかかってきた。
「嬉しい。こうやって怒って、守ってもらえるなんて、この村ではずっとなかったから」
「……すまなかった」
大男は目をふせる。
「この村では、いつもああなのか? 私はドナになんて苦労をさせてきたのか……。もっと早くお前を見つけ出せていたら」
悔やみ、彼女の手を取る。ドナの生活で荒れた手を、大きな手で包み込むように握った。
「私と行こう。もう苦労はさせない」
しっかりとドナの目を見つめる。金色のまなこが潤んで、きらきらと光った。
「お前の故郷に戻ってもいい。都に行ったっていい。どこでも、お前の望む所で暮らそう。そうだ、都だ。都はいいぞ、ドナ。都にはなんでもある。お前のために大きな家を建てて、毎日豪華な食事を用意して、なんだって手に入れてやる。お前は何もしなくていいし、好きなことをなんでもしていい。都なら、私たちに子ができても、立派な教育を与えてやれる」
彼の言葉に、彼との満たされた生活を想像し、ドナの瞳も輝き出す。
「この子たちも……」
空いた手で背中の重みに触れ、ドナがつぶやく。大男は頷いた。
「ドナの子だ。そう望むなら、連れて行こう」
彼女の顔がぱあっと明るくなった。娘から手を離し、大男に抱きつく。誰が見ていようがもう関係はなかった。
大男もドナをしっかりと抱きしめる。ひとひねりで人間を殺せてしまうような恐ろしい彼の大腕は、ドナにはたくましくて安心できる、惚れた男のあたたかい腕だった。
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