Bro.

十日伊予

文字の大きさ
上 下
1 / 179

出生

しおりを挟む
 嵐と言えど雷はなく、夜はひたすら真っ暗だ。その暗闇の中に、巨人が地を踏み荒らす地鳴りのように、雨音だけが響く。
 雨は家を強く打ち、薄い板だけの屋根の隙間から、絶え間なく漏れては落ちてくる。冷たい雨漏りは、ナャの、強く日の照る土地で育った若い褐色の肌をつたっていく。腰巻き一枚では寒く、彼の腕には気持ち悪いくらいに鳥肌が立っていた。このあたりの男たちは皆、腰に派手な柄の布を巻いただけの格好をしていて、一年を通して暑い日が続くこの土地ではナャも不便に感じたことはなかったが、異質な大雨は彼に「寒い」という滅多に覚えない感覚を与える。彼はその感覚に戸惑っていたが、その場にいた彼以外は誰もそんなことを気にしていなかった。そんな余裕はない。お産の真っ最中なのだから。
 ナャの母親は妊婦の手を取り、役に立たない息子の代わりに、自分の新しい娘となるべき妊婦を励ましている。産婆は眉間に皺をよせ、妊婦はこの出産で死んでしまうだろうと頭の隅で考えながらも、できる限りを尽くしている。
「いや! 許して!」
 うら若い妊婦──ドナは泣き叫ぶ。彼女の出自がラジュガ村でも、ラジュガ村の周りのどの村でもないことを示す真っ白な肌には、どこもかしこも多くの傷跡が刻まれている。その傷を負わせ、ドナをこの村に流れ着かせた大雨と、今夜の嵐はよく似ている。蘇る恐ろしい記憶に怯え、出産の痛みにもだえ、彼女は取り憑かれたように叫んでいた。
「殺さないから! 育てるから! 許して! 助けて!」
 生まれ出ようとしている子に、その子を無理やり孕ませた父親に、許しを乞う。生き別れた夫に助けを求める。その叫びは時々形をなくし、思い出したように言葉という姿に戻る。その繰り返しだ。
 ナャは不安に襲われていた。川辺に流れ着いたドナを拾い、面倒を見るうちに、彼女に恋をした。彼女を繋ぎ止めるため、望まない腹の子は自分が捨てると約束をした。ナャは気の弱い男だ。村の誰もが知っている。村の誰もがばかにする。そんな自分が、好いた女の産んだ子を川に沈めることができるのか。どうかドナの気が変わり、子どもを育てさせてくれますように。ナャは会ったことも、見たこともない神に祈る。ドナが子どもを育てさせてくれたら、ぼくは彼女の夫にもなれるのに。肩のあたりで結んだ自分の長い黒髪の先を、指でいじった。どうしていいかわからない。
「落ち着きな!」
 産婆が取り乱すドナを叱りつける。
「頭が見えたよ、もうすぐだ」
 その言葉はドナには届かない。彼女はただ恐怖し、泣き喚くことしかできない。
 大きな川が氾濫し、川にほど近いラジュガ村は水に浸っていた。高床の家のおかげで村人は無事でいられたが、このまま雨が続くと、家々が流されてしまう。ナャの家にいる人間以外は、誰も彼も雨に怯えていた。雨をつかさどり、国を統べる偉大な神に祈りを捧げた。どうかお情けをください、と。
 どれだけ激痛が続いただろうか。突然、絞り出すような鳴き声が響く。雨音は赤ん坊の産声をかき消そうとするが、赤ん坊は力いっぱい泣く。ドナは何が何やらわからないまま、産声へと目をやった。
 ナャが赤ん坊を抱いている。小さい──ドナの頭にそう浮かぶ。けして小さくない、歳を重ねた産婆が今までに見たこともないくらいに大きな子どもだ。けれど、ナャの痩せた腕に抱かれる赤ん坊は、ドナには小さな小さなみどりごに思えた。もっと恐ろしい化け物が胎から出てくると思っていたが、産んだのは人の子だった。
「どうする?」
 不意に、ナャの震える声が、ドナの意識を割いた。彼女が見やると、ナャはすがるような目をしている。ドナはナャとした約束を思い出した。生まれてくる子どもは捨ててきて。たしかに彼女はそう言った。
 ドナの気持ちが揺れる。答えられず、押し黙っていると、雨足はさらに強まった。より一層雨の音が大きくなる。赤ん坊の声が覆い隠された。
「息子か」
 雨音の中、男のしゃがれた声が明瞭に聞こえる。それが人間の声でないことは、その場の全員が本能で理解した。
 布を張っただけの玄関から、大男がこちらを覗いている。その背丈は、人の男が隣に並べば幼い子どもに見えるほどだ。腰に白い布を巻いた紺色の下穿きのほかは何も身につけず、筋肉隆々な体を堂々と晒している。これこそが完璧な生き物だといった容貌だ。だが、頭の先から履き物の中まで縦に続く、体をふたつに引き裂かれでもしたらできるような大きな傷と、澄んだ青いまなこを囲む黒い「白目」が、彼を完璧で偉大な存在ではなくおどろおどろしい怪物のように見せていた。彼は背丈のそう変わらない大女に支えられてようやく立っているといったふうだが、そのせいで弱々しく見えるなどといったことは全くない。
 人の形をした人ならざる者たちの来訪に、ナャの母親と産婆は悲鳴をあげ、腰を抜かした。大男が何者かを知っているドナは、両手で顔を覆って声にならない声を絞り出す。大男が手をこちらに向けたので、ナャはゆっくりと赤ん坊を彼に渡した。ナャの心臓は恐怖でばくばくと鳴る。
 取り乱す人間たちに、大男に肩を貸す大女が、あからさまにいらだちを見せる。
「こうべを垂れなさい!」
 大女が厳しい声音で言い放つ。
「このお方は全ての命を育む神。慈しみと破壊の源。雨神様に、なぜひれ伏さない」
 雨神──。
 大女が口にした名に、ナャも、母親も、産婆も身を震わせる。この世に数多におわす神々の中で、最高神に次ぐ高位の神。この国を興し、治め、国の誰もが崇める国祖神。本来なら、こんな取るに足らない村に出向き、村人に姿を見せるような存在ではない。ひと目、お目どおりが叶うのなら死んでもいい、そう願って一生を終える国民などごまんといる。そんな尊大な神が、今、目の前にいる。ナャの胸に、恐怖のほかに、場違いなほどの興奮が押し寄せた。
 けれどドナにとっては、偉大な神は自分から全てを奪った怪物だった。雨神には、夫との子を殺され、無理矢理に孕まされ、夫と生き別れさせられた。彼女の胸に誉などない。おぞましい記憶が、ドナの中で反芻される。
「構わないよう」
 雨神は、人間たちに平伏を求める大女を制す。
「ですが、お兄さま」
「水神。私は機嫌がとても良い」
「……わかりました」
 大女──雨神の眷属である水神は、兄神の言葉に渋々引き下がる。雨神はドナの赤ん坊を手にし、それをまじまじと見た。
「目当てのものがようやく手に入った」
 からすのように真っ黒な髪の毛が、濡れて元来より黒さを増し、雨神の顔にぺったりと張り付いている。彼が唇の端を吊り上げてにんまりと笑うと、その髪の毛が口元にかかる。
「どうせ捨てる赤子だ。要らないものを私がどうしようと文句はなかろう。なァ?」
 そう言って、ドナを見やる。ドナはうめき声をあげた。
 ドナに腕を掴まれ、ナャはハッとする。ドナがそうしたことに大した意味はない。ただ、恐怖と痛み、疲労の中で、手を伸ばした先にナャがいただけだ。けれどそれは、ナャが勇気を振り絞るには十分な理由となった。
「もう……もうやめて……。わたしから奪わないで……」
 ドナの微かなつぶやきが聞こえる。唇を震わせ、ナャはこぶしをぎゅっと握りしめた。
「雨神さま!」
 出て行こうとする雨神を呼び止める。雨神が振り返ると、そこには床に額を擦り付けて懇願するナャがいた。
「子どもを返してください」
 それがどれだけ不遜なことかわかっている。自分ごとき、雨神には息を吐くほど簡単に殺せる存在だとも、わかっている。けれどナャはそう言った。体はがたがたと震え、汗がふき出る。それでも、その声はきっぱりとしていた。母親は、ここにいるのはあの気の弱く情けない息子かと、信じられないといった目で見ている。
「なんだぁ? その娘の新しい男か? これは私の子だよう。お前が育てると言うのか?」
 雨神が眉をひそめる。ナャは唇を一度強く噛んで、それからまた口を開いた。
「その子はドナがお腹で育てました。ぼくの子じゃなくてもドナの子です。どうか母親から奪うなんて、ひどいことはやめてください」
「雨神さまになんて口を!」
 ナャに、水神が怒りをあらわにする。よせ、と、雨神はそれを制した。
「殺さないと言うのならそれもいい。任せようじゃないか」
 面白がっているように、目を細めて雨神が言う。
「私が育てようがこいつらが育てようが構わない。雷神の女が人と栄えるのも、それも一興。ああ、気に入ったよう!」
 雨神は授けてやろうと言わんばかりに、赤ん坊を持った手を差し伸べる。
「契れ! 産め! 心ゆくまで栄えるがいい! お前をこれの父親として認めよう。誇りを持って育てるがいい。この地には情けをやろう。豊かな水に抱かれ、子を多く残せ」
 そう言い終わると同時に、赤ん坊が雨神の手を離れ、ナャの腕の中へと移った。もう自分の子ではないとでも言うように、なんの未練も見せず、雨神は赤ん坊とナャに背を向ける。そうして、水神に支えられてよたよたと出ていった。
「ドナ!」
 二人の神がいなくなってから、ハッとして、ナャがドナに顔を向ける。ドナは子どもを産んだ姿のままで、床からナャを見上げた。
「わたし……なんで、この子を……」
 彼女は弱々しく赤ん坊へと手を伸ばす。
「どうしよう。愛せないのに……育てられないのに……」
「大丈夫。ぼくが育てる」
 愛おしげに赤ん坊を抱き寄せ、ナャが言う。
「ねえ、さっきのは」
 恐る恐る、ナャの母親が尋ねる。その後ろでは、産婆も怪訝な顔をしている。ナャは首を横に振った。
「聞かないであげて。なかったことにしよう。普通に暮らしたい、この子のためにも」
 そう言い、自分とは肌の色の違う赤ん坊に目を落とす。ドナの肌の白さとは違う、父親譲りの、透明感の強いなまっ白い肌。ナャの子ではないことは一目瞭然だ。それでも自分の子として育ててやりたい。流れ着いた余所者が偉大な国祖神の子を産んだと広まれば、この子はどんな目に遭うか。人並みの幸せな人生は到底無理だろう。托卵と言われようが、人の子として育てた方がいい。
 ナャは赤ん坊の額にそっと頬擦りをする。雨神から赤ん坊を授けられ、父と認められ、ナャには覚悟が生まれていた。何があっても「我が子」を幸福にしてやる覚悟が。
 夜通し降り続いた雨は、まるで夢だったかのようにぴたりとやみ、家を流しかねなかった水位すら下がっている。この奇跡に、神の加護だ、村の誰かがそうつぶやいた。ナャの母親が窓にかかる布を捲ると、空がうっすらと白んでいた。
「夜が明けてる」
 空を見上げ、母親がつぶやく。ナャは窓辺からさす光を見やり、それからまた赤ん坊の顔に目を移すと、顔をほころばせた。
「本当だ、雨もやんでる。太陽と一緒に生まれたんだね。生まれてきてくれてありがとう。君の名前は──」
 シャマシュ。
 その土地の古い言葉で、太陽をさす言葉だ。ナャは大切な宝物のようにその言葉を口にする。それから、ドナにも愛おしげな目を向けた。
 ドナには、ほんの少し、我が子への愛情めいたものが生まれていた。けれどそれだけだ。ナャへの愛は、生まれない。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

嘘つきな唇〜もう貴方のことは必要ありません〜

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:34,123pt お気に入り:5,278

赤い髪の騎士と黒い魔法使い

BL / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:224

その花の名前は…

BL / 連載中 24h.ポイント:6,811pt お気に入り:88

捨てられΩはどう生きる?

BL / 連載中 24h.ポイント:973pt お気に入り:141

今更愛していると言われても困ります。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:162,726pt お気に入り:1,979

暁の騎士と宵闇の賢者

BL / 連載中 24h.ポイント:5,809pt お気に入り:862

転生と未来の悪役

BL / 連載中 24h.ポイント:369pt お気に入り:572

処理中です...