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第二部
22・狙いと誤算
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「久しぶりだな」
と枢機卿は言った。
私は、厩で数人の屈強な兵士に囲まれて為す術もなく捕まってしまったのだ。
『お嬢様が剣など慣れないものを振り回してお怪我なさったら大変ですよ』
兵士はそう言って、剣を構える私に向かって何の躊躇いも見せずに近づいてきた。数人の傭兵に対して、私と、私の背後で震えている侍女。抵抗して仮に一人くらい倒す事が出来たとしても、侍女を庇いながらそれ以上は無理。自分と侍女が余計な怪我をする結果にしかならないと理解せざるを得なかった。ジュードたちがどうなったのか分からなかったけれど、助けが来る様子もなくて、侍女と騎士は厩に縛られ、私は枢機卿の館に連れ込まれた。もう二度と足を踏み入れたくなかったのに。
館の一室に閉じ込められた。襲撃を受けたのは夕暮れだったけれど、今はもう夜明けが近い筈だ。
「これ以上罪を重ねたところであなたどうせ終わりなんだから。悪足掻きしたって、もう誰もあなたの下にはつかない」
「ふん……つかぬ者は従えればよいだけだ」
やはり私の言葉に耳を貸す訳はない。それにしても、この男は前に会った時と随分人相が変わったようだった。頬は削げ、落ちくぼんだ銀色の目がぎょろりとした印象になっている。震える手に酒杯を持って話の合間に口に運ぶ。
「そんな姿で誰も従う訳ないよ」
同情する気などさらさらないけれど、あんなに威厳だけは備えていたのに、落ちぶれた様子に哀れさは感じる。
「五月蠅い」
「なんで傭兵に騎士団を襲わせるなんて馬鹿なことしたの?」
あの裏切りが成功していたら私たちはおしまいだった。でも、失敗したから枢機卿は反逆者と呼ばれ失墜している。
私たちは、一時は、いずれは力を手に入れる為に手段を問わない枢機卿の勢いに負けるかも知れないと思っていたのに、今や王家の権威を取り戻しつつある。あんな危ない橋を渡らなくても枢機卿は優勢だったのに、どうしてあんな事をしたのだろう、と私たちは話し合っていたのだった。
「失敗する筈がなかった……二つの誤算がなければ」
と枢機卿は言った。
「誤算?」
「そうだ。一つ目は、ソマンドの侵攻が早すぎたこと。二つ目は、貴様らが忌々しいなんらかの仕掛けで聖剣の奇跡を起こして見せたことだ」
「仕掛けなんてないよ!」
「だったらなんだ? おまえかジークリートのどちらかが聖王だなどと言うつもりか?」
「それは……わからないけど……」
あの戦いのあと落ち着いてから、私とジークは何度も試してみたけれど、どちらが抜いても聖剣は光らなかった。王家の未来が翳っているので建国王の魂が一度だけの奇跡を起こしてくれたのかも、なんて二人で想像したりしていたのだけれど。
「ふん、まあ今更どうでもよい」
「一つ目はなんなの? ソマンドの侵攻が早すぎた、ってどういうこと?」
「ソマンドの兵と我が兵が力を合わせてさえいれば、貴様らの騎士団を圧殺出来るのは確実だった」
――この男は、なにを言っているのだろう? 祖国に攻め入って来た敵国の兵と力を合わせる?
「貴様らは、何故あの時にソマンドが侵攻してきたと思っているのか? レイアークが二つに割れたのは最近始まったことではない。そして、二つに割れているからと言って軍事力が落ちている訳ではない。愚か者のアーレンと違い、私は兵隊を増やす事に注力していた」
「……まさか」
「気づいたか。そうだ、私がソマンドを引き込んだのだ。私に力を貸せば国境の街はくれてやろうと。その代わり、確実に騎士団の息の根を止めてくれと。騎士団を殲滅すれば、聖剣を手にしたお飾りのエイラインを将とした我が軍勢があっさり王宮を陥落させていた筈だ。聖剣を奪ったのは、アーレンの誕生式典に合わせた訳ではない。その頃にはとうにアーレンの息の根を止めている予定だった。だが……ソマンドの氏族間の抗争は、私の見込みより激しかった。私が密約を結んだ氏族とは別の氏族が侵攻の計画に気づき、抜け駆けして攻め込んで来たのだ。故に、奴らとは手を組めず、騎士団と共闘せざるを得なかった結果、傭兵も数を減らし、確約された筈の勝利を得られなかった……」
「そんな! あの戦いで、騎士にも傭兵にも犠牲が出たのに! それが、あんたの目論見のせい? それに、国境の街を売るつもりだった?! そこにもレイアークの民が暮らしていて、売られたら、奴隷のように扱われるかも知れないのに!」
「知るか、そんなことは。全てのレイアークの民は私に傅くべきであるのにそうしなかった結果だ」
枢機卿はふうっと酒臭い息を私に吐きかけた。
「他人に同情などしている場合か? そなたは今や私のもの。己の心配をした方がよくはないのか」
そう、私はいったいどうなるのか。今更この男は何故私を攫ったりしたのか。
王宮を離れて暫くは、私の身柄を捕えられれば、勇者として亡くなった筈のリオンは偽者だったと叫ばれて人の心が離れてしまうのではと危惧していた。けれど、今はジークが王太子として信望を集めていて、今更過ぎた事を言い立てた所で枢機卿が王家に反逆した事実は動かないと皆わかっている。
一応相手は聖職の頂点に立っている者であるから出兵して身柄を押える事は控え、出頭を待っている……そんな状況だと聞いていたから、私はあまり危機感を持っていなかった。なのに。
「そなたを痛めれば良い声で鳴くだろうし、あるいは殺して死体を送り付ければアーレンやジークリートを絶望の底に叩き込んでやることが出来るだろう」
「そんなことしたって……」
この男は本気だ。痛い程にそれが伝わってきて、どうしたって私の声はか細くなる。私の為に死ぬとあっさりと言ったジーク。私と一緒に生きようと言ったジーク。自分が死ぬのよりも、かれが苦しむのが怖い!
「だが、そんな事でひととき気晴らしをするだけではつまらぬ。そなたは先ほど、誰も私に従わぬと言ったな。従わぬならば従わせるまでだ」
「さっきも言ってたけど、そんなの無理だから! わ、私を殺したって、お父さまやジークがあんたに屈する訳ないでしょ。みんなだって」
「いや。この国では、王家の血は絶対だ。だからこそ、先王の正式な息子であるアーレンと私が争って二十年も決着がつかなかったのだ。だから、王族を皆殺しにすればよい。私とエイライン、そしてエイラインの妻となるそなた以外の全てを。そうすれば愚かな民は私とエイラインに、そしてそなたの産む子に跪くだろう」
「そ、そんなばかな事出来る訳ないじゃない! 誰もあんたに味方なんかしないわ。お金で雇っている傭兵がいくらか残ってるだけの状態で何が出来るっていうの!」
「朝になれば私はアーレンの下へ出頭する。しかし、そなたの命が私の手に握られている以上、アーレンは私に手出しは出来ぬ。あれは我が弟とは思えぬ腑抜けだからな。アーレンはそなたの身柄と引き換えに私を赦免する。そうして、そなたがアーレンのもとへ戻る時、そなたはもうエイラインの妻になっておるのだ。アーレンの娘の夫である方の甥が王太子となるのは自然な事だ。跡目がはっきりと定まったら、一人ずつ暗殺してしまえばいい……」
「そんなことになる訳ないわ」
でも。私は枢機卿の目を見てぞっとする。そんな事うまく行く訳ない、お父さまが認める訳ないしみんなだってエイラインが王太子になって納得する訳ない。今までうまく行かなかった癖にそう簡単にみんなを暗殺なんて出来ない筈。
だけど、追い詰められたこの男は、そうやって逆転出来る事を信じ込んでいる。自分を信じ込ませて、最後まで足掻くつもりなのだ。昏い光を放っている目には、狂気と思しきものが宿っている。漏らす必要のない真意をわざわざ私に喋って聞かせたのも、恐らくは、私などどうにでも出来るから怯えさせておこうと思っての事。自分の計画が破綻するかも知れないと思えば、さっき言ったみたいに私を殺して死体を送り付けるなんて事もやりかねない。
枢機卿は私の顎に指をかけ引きつった顔を上げさせて、恐怖の色を読み取り満足そうだった。
「もうジークリートに抱かれたのか?」
「いやらしい言い方しないで。私たちは結婚するまでそんなこと」
「そうか。ジークリートが木石ゆえに哀れな事になるな。愛する男を知らぬままにそなたはエイラインのものになる」
「ばかにしないでよ! だいたい、あんたの口から愛なんて言葉聞きたくない!」
「ははは、愛など妄想の産物に過ぎぬよ。人の奥底にあるものは、支配欲だ。強き者だけがそれを満たせる。愛などとほざく者はそれしか縋る物がない負け犬なのだ」
「あんたは聖職者の癖に人の心すらない哀れな存在だよ!」
「黙れ、生意気な!」
突然頬を叩かれて私は床に倒れる。枢機卿はせせら笑って、
「女は子を産む道具に過ぎぬのだから小賢しい口などきいてはならぬ。まあ、エイラインがそなたを躾けるだろう。そういう点ではあれは優秀だ」
「あんたの考え方は本当に腐ってるよ!」
「黙れと言っているだろう」
枢機卿は私の髪を引っ張って懐から短刀を取り出した。殺されるのかと思って私は声にならない悲鳴をあげる。
けれど枢機卿はただ私の髪を一房切り取っただけだった。
「そなたが我が手にあるという証拠だ。アーレンとジークリートがどんな顔をするか楽しみだな」
「お父さまもジークもあんたなんかに負けないから」
「ふん、まだ強気は失せぬか」
枢機卿は私を突き放すと、冷たい目で見下ろした。
「まあ、確かにそなたはレティシアに似て美しい。堅物のジークリートが迷うのも解る気はするな」
「そんなの関係ないわ」
私はべつに容姿でジークを誘惑したつもりはないのにそう言われて反射的に言い返してしまう。これ以上怒らせても何にもならないと心の奥で思いつつも。
けれどもう私の言葉なんてあまり耳に入っていない様子で、枢機卿は私を見下ろしながら言った。
「私が散らしてしまいたいが、可愛い息子エイラインの妻になる娘に手を出す訳にはいかぬからということなのだぞ」
「……!」
「ふん、わかったら大人しくしておけ。エイラインは生憎不在だが明日には戻る。戻ればそなたはエイラインの妻になるのだ」
「だれがそんなこと!」
「自害など出来ぬよう見張りを置くからつまらぬことは考えぬようにな」
そう言い捨てて、枢機卿は扉を閉めて出て行った。窓もない部屋に私はひとり、絶望的な気持ちで取り残された。
と枢機卿は言った。
私は、厩で数人の屈強な兵士に囲まれて為す術もなく捕まってしまったのだ。
『お嬢様が剣など慣れないものを振り回してお怪我なさったら大変ですよ』
兵士はそう言って、剣を構える私に向かって何の躊躇いも見せずに近づいてきた。数人の傭兵に対して、私と、私の背後で震えている侍女。抵抗して仮に一人くらい倒す事が出来たとしても、侍女を庇いながらそれ以上は無理。自分と侍女が余計な怪我をする結果にしかならないと理解せざるを得なかった。ジュードたちがどうなったのか分からなかったけれど、助けが来る様子もなくて、侍女と騎士は厩に縛られ、私は枢機卿の館に連れ込まれた。もう二度と足を踏み入れたくなかったのに。
館の一室に閉じ込められた。襲撃を受けたのは夕暮れだったけれど、今はもう夜明けが近い筈だ。
「これ以上罪を重ねたところであなたどうせ終わりなんだから。悪足掻きしたって、もう誰もあなたの下にはつかない」
「ふん……つかぬ者は従えればよいだけだ」
やはり私の言葉に耳を貸す訳はない。それにしても、この男は前に会った時と随分人相が変わったようだった。頬は削げ、落ちくぼんだ銀色の目がぎょろりとした印象になっている。震える手に酒杯を持って話の合間に口に運ぶ。
「そんな姿で誰も従う訳ないよ」
同情する気などさらさらないけれど、あんなに威厳だけは備えていたのに、落ちぶれた様子に哀れさは感じる。
「五月蠅い」
「なんで傭兵に騎士団を襲わせるなんて馬鹿なことしたの?」
あの裏切りが成功していたら私たちはおしまいだった。でも、失敗したから枢機卿は反逆者と呼ばれ失墜している。
私たちは、一時は、いずれは力を手に入れる為に手段を問わない枢機卿の勢いに負けるかも知れないと思っていたのに、今や王家の権威を取り戻しつつある。あんな危ない橋を渡らなくても枢機卿は優勢だったのに、どうしてあんな事をしたのだろう、と私たちは話し合っていたのだった。
「失敗する筈がなかった……二つの誤算がなければ」
と枢機卿は言った。
「誤算?」
「そうだ。一つ目は、ソマンドの侵攻が早すぎたこと。二つ目は、貴様らが忌々しいなんらかの仕掛けで聖剣の奇跡を起こして見せたことだ」
「仕掛けなんてないよ!」
「だったらなんだ? おまえかジークリートのどちらかが聖王だなどと言うつもりか?」
「それは……わからないけど……」
あの戦いのあと落ち着いてから、私とジークは何度も試してみたけれど、どちらが抜いても聖剣は光らなかった。王家の未来が翳っているので建国王の魂が一度だけの奇跡を起こしてくれたのかも、なんて二人で想像したりしていたのだけれど。
「ふん、まあ今更どうでもよい」
「一つ目はなんなの? ソマンドの侵攻が早すぎた、ってどういうこと?」
「ソマンドの兵と我が兵が力を合わせてさえいれば、貴様らの騎士団を圧殺出来るのは確実だった」
――この男は、なにを言っているのだろう? 祖国に攻め入って来た敵国の兵と力を合わせる?
「貴様らは、何故あの時にソマンドが侵攻してきたと思っているのか? レイアークが二つに割れたのは最近始まったことではない。そして、二つに割れているからと言って軍事力が落ちている訳ではない。愚か者のアーレンと違い、私は兵隊を増やす事に注力していた」
「……まさか」
「気づいたか。そうだ、私がソマンドを引き込んだのだ。私に力を貸せば国境の街はくれてやろうと。その代わり、確実に騎士団の息の根を止めてくれと。騎士団を殲滅すれば、聖剣を手にしたお飾りのエイラインを将とした我が軍勢があっさり王宮を陥落させていた筈だ。聖剣を奪ったのは、アーレンの誕生式典に合わせた訳ではない。その頃にはとうにアーレンの息の根を止めている予定だった。だが……ソマンドの氏族間の抗争は、私の見込みより激しかった。私が密約を結んだ氏族とは別の氏族が侵攻の計画に気づき、抜け駆けして攻め込んで来たのだ。故に、奴らとは手を組めず、騎士団と共闘せざるを得なかった結果、傭兵も数を減らし、確約された筈の勝利を得られなかった……」
「そんな! あの戦いで、騎士にも傭兵にも犠牲が出たのに! それが、あんたの目論見のせい? それに、国境の街を売るつもりだった?! そこにもレイアークの民が暮らしていて、売られたら、奴隷のように扱われるかも知れないのに!」
「知るか、そんなことは。全てのレイアークの民は私に傅くべきであるのにそうしなかった結果だ」
枢機卿はふうっと酒臭い息を私に吐きかけた。
「他人に同情などしている場合か? そなたは今や私のもの。己の心配をした方がよくはないのか」
そう、私はいったいどうなるのか。今更この男は何故私を攫ったりしたのか。
王宮を離れて暫くは、私の身柄を捕えられれば、勇者として亡くなった筈のリオンは偽者だったと叫ばれて人の心が離れてしまうのではと危惧していた。けれど、今はジークが王太子として信望を集めていて、今更過ぎた事を言い立てた所で枢機卿が王家に反逆した事実は動かないと皆わかっている。
一応相手は聖職の頂点に立っている者であるから出兵して身柄を押える事は控え、出頭を待っている……そんな状況だと聞いていたから、私はあまり危機感を持っていなかった。なのに。
「そなたを痛めれば良い声で鳴くだろうし、あるいは殺して死体を送り付ければアーレンやジークリートを絶望の底に叩き込んでやることが出来るだろう」
「そんなことしたって……」
この男は本気だ。痛い程にそれが伝わってきて、どうしたって私の声はか細くなる。私の為に死ぬとあっさりと言ったジーク。私と一緒に生きようと言ったジーク。自分が死ぬのよりも、かれが苦しむのが怖い!
「だが、そんな事でひととき気晴らしをするだけではつまらぬ。そなたは先ほど、誰も私に従わぬと言ったな。従わぬならば従わせるまでだ」
「さっきも言ってたけど、そんなの無理だから! わ、私を殺したって、お父さまやジークがあんたに屈する訳ないでしょ。みんなだって」
「いや。この国では、王家の血は絶対だ。だからこそ、先王の正式な息子であるアーレンと私が争って二十年も決着がつかなかったのだ。だから、王族を皆殺しにすればよい。私とエイライン、そしてエイラインの妻となるそなた以外の全てを。そうすれば愚かな民は私とエイラインに、そしてそなたの産む子に跪くだろう」
「そ、そんなばかな事出来る訳ないじゃない! 誰もあんたに味方なんかしないわ。お金で雇っている傭兵がいくらか残ってるだけの状態で何が出来るっていうの!」
「朝になれば私はアーレンの下へ出頭する。しかし、そなたの命が私の手に握られている以上、アーレンは私に手出しは出来ぬ。あれは我が弟とは思えぬ腑抜けだからな。アーレンはそなたの身柄と引き換えに私を赦免する。そうして、そなたがアーレンのもとへ戻る時、そなたはもうエイラインの妻になっておるのだ。アーレンの娘の夫である方の甥が王太子となるのは自然な事だ。跡目がはっきりと定まったら、一人ずつ暗殺してしまえばいい……」
「そんなことになる訳ないわ」
でも。私は枢機卿の目を見てぞっとする。そんな事うまく行く訳ない、お父さまが認める訳ないしみんなだってエイラインが王太子になって納得する訳ない。今までうまく行かなかった癖にそう簡単にみんなを暗殺なんて出来ない筈。
だけど、追い詰められたこの男は、そうやって逆転出来る事を信じ込んでいる。自分を信じ込ませて、最後まで足掻くつもりなのだ。昏い光を放っている目には、狂気と思しきものが宿っている。漏らす必要のない真意をわざわざ私に喋って聞かせたのも、恐らくは、私などどうにでも出来るから怯えさせておこうと思っての事。自分の計画が破綻するかも知れないと思えば、さっき言ったみたいに私を殺して死体を送り付けるなんて事もやりかねない。
枢機卿は私の顎に指をかけ引きつった顔を上げさせて、恐怖の色を読み取り満足そうだった。
「もうジークリートに抱かれたのか?」
「いやらしい言い方しないで。私たちは結婚するまでそんなこと」
「そうか。ジークリートが木石ゆえに哀れな事になるな。愛する男を知らぬままにそなたはエイラインのものになる」
「ばかにしないでよ! だいたい、あんたの口から愛なんて言葉聞きたくない!」
「ははは、愛など妄想の産物に過ぎぬよ。人の奥底にあるものは、支配欲だ。強き者だけがそれを満たせる。愛などとほざく者はそれしか縋る物がない負け犬なのだ」
「あんたは聖職者の癖に人の心すらない哀れな存在だよ!」
「黙れ、生意気な!」
突然頬を叩かれて私は床に倒れる。枢機卿はせせら笑って、
「女は子を産む道具に過ぎぬのだから小賢しい口などきいてはならぬ。まあ、エイラインがそなたを躾けるだろう。そういう点ではあれは優秀だ」
「あんたの考え方は本当に腐ってるよ!」
「黙れと言っているだろう」
枢機卿は私の髪を引っ張って懐から短刀を取り出した。殺されるのかと思って私は声にならない悲鳴をあげる。
けれど枢機卿はただ私の髪を一房切り取っただけだった。
「そなたが我が手にあるという証拠だ。アーレンとジークリートがどんな顔をするか楽しみだな」
「お父さまもジークもあんたなんかに負けないから」
「ふん、まだ強気は失せぬか」
枢機卿は私を突き放すと、冷たい目で見下ろした。
「まあ、確かにそなたはレティシアに似て美しい。堅物のジークリートが迷うのも解る気はするな」
「そんなの関係ないわ」
私はべつに容姿でジークを誘惑したつもりはないのにそう言われて反射的に言い返してしまう。これ以上怒らせても何にもならないと心の奥で思いつつも。
けれどもう私の言葉なんてあまり耳に入っていない様子で、枢機卿は私を見下ろしながら言った。
「私が散らしてしまいたいが、可愛い息子エイラインの妻になる娘に手を出す訳にはいかぬからということなのだぞ」
「……!」
「ふん、わかったら大人しくしておけ。エイラインは生憎不在だが明日には戻る。戻ればそなたはエイラインの妻になるのだ」
「だれがそんなこと!」
「自害など出来ぬよう見張りを置くからつまらぬことは考えぬようにな」
そう言い捨てて、枢機卿は扉を閉めて出て行った。窓もない部屋に私はひとり、絶望的な気持ちで取り残された。
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