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28・氷結晶の伝説
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リカルドの予測した通りなのか、誰の訪れもなく数日は静かに過ぎた。
王の兵に歯向かい傷つけたという、これだけははっきりした罪が私たちに刻まれてしまった訳だけれど、もう私たちは、己の利益の為だけに不条理な罪を押し付けてくる王に黙って従う気はなかった。王権に対する忠誠はあるけれど、ジュリアン王個人に対する忠誠などない。私たちは復讐の為だけでなく、祖国の為、民の為にも、あの男の本性を皆の前で暴き、あの男が玉座に相応しいか問いたいと考えていた。
ユーグさまは、王の兵に囚われた罪びととしてではなく、自らの騎士たちを引き連れて王の従兄ラトゥーリエ公爵として王都へ出向き、謁見を願うつもりだと言う。
これまでユーグさまが外出もままならず、騎士を常駐させる必要もなかった為、ラトゥーリエ家の騎士団は小隊に分かれて領内に派遣されている状態なのだけれど、彼らを招集すれば戦力になる。ただ、それをしてしまうと王への叛意ありと捉えられかねない状況だったし、ユーグさまはシルヴァンだった時には、王と事を構えるよりも私だけを安全な場所に逃がした方が良いと考えていたからそのままになっていたのだった。
王都では、粛清の嵐が吹き荒れている。人々は恐怖によって王に支配されている。ユーグさまが自身と父アンベール侯の潔白を主張し、逆に第一王位継承権者として王の行状不適切を訴えれば、人々は心情的にはそれを正しいと思うだろう。
ただ……ユーグさまにはまるで味方がいない。十年も領地に引き籠り、貴族として社交もしない、冷酷無情の『冷血公爵』――それが、王都の人々がユーグさまに抱いている印象だ。逆らうどころか邪魔だというだけで王からどのように罰されるか知れない王政のもとで、信用の無いユーグさまがいくら声を上げたところで、従う人がいるとは思い難い。私はそれを言ったけれども、ユーグさまの決意は固い。
「どのみち、王が我々を見逃すとは思えない。今度はもっと大掛かりな軍隊を寄越してくるだろう。そうなったら戦闘になり、住民にも犠牲を強いてしまうかも知れない。俺はまだ罪に問われてはいてもそれが確定している訳ではない。ラトゥーリエ家の旗印と少数の騎士のみを伴って、長く宮廷に無沙汰してしまった為に生じた誤解を解く為に王に謁見を願うという形であれば、王都への道は開かれる筈だ」
「しかし、無傷で行く事は出来ても、無傷で帰って来られるとは思えないぞ」
とリカルドが尤もな指摘をする。帰る場所がなくなってしまい、彼はずっとラトゥーリエ邸に滞在している。彼の館は押収されてしまい、レジーヌがどうしているかはわからない。
「ああ。だから、アリアンナはリカルドとここで待っていて欲しい。アンベール侯を王自身から無罪と言わせることは出来ないにしても、半信半疑の人々に無罪をきっと確信させ、きみたち親子の名誉を回復したいと思っている。そして、もし俺が処刑されるような事になりそうならば、二人で逃げて欲しい」
「まだそんなばかな事を仰るの!」
私は声をあげる。
「だけど……」
「なにが、だけど、なの。ユーグさまと離れて、ましてやユーグさまのいない世界で、私はどうやって生きてゆけると仰るの。私を助けて自分だけ死のうだなんて、まだユーグさまはシルヴァンのままなの?! そんなことなら、一緒に凍ってしまった方がましだわ」
「ははは、手厳しいな」
「笑い事じゃないでしょ、リカルド。ユーグさま、生きるのも死ぬのも一緒よ。ユーグさまが先に死んだら、私は一人ぼっちで自分で命を絶つわ。そうしたら、一緒に天の国に行く事は出来なくなるわ」
「アリアンナ――」
「そうだぜ、公爵。お嬢さんが自殺したら、死んで行く先はばらばらだ。折角奇跡のように氷結晶を溶かしたっていうのに、それじゃ勿体ないぜ」
室内で第四の声がした。呪術師――名はアランという。ラトゥーリエ公爵とアンベールの娘の事情を知った彼をリカルドは最初強制的に館に留めおこうとしたけれど、彼は自ら協力を申し出た。貴族だの王だのには興味はないが、氷結晶を溶かした人間には興味があるし、自分を雇うならば絶対に裏切ったりはしないと。
確かに、氷結晶は消えたけれども、何がどうなったのかもよくわからないままだし、協力者は一人でも多い方がいい。アランは知識も豊富で頭も切れ、おまけにある程度の武術も身に付けているという。ユーグさまは、傭兵という形で彼を雇い入れたのだった。
「呪術を解けるのはかけた本人だけ。術者以外が術を解くには呪力を凌ぐ程の精神力が必要……俺は、呪力を凌ぐ精神力なんて存在する訳ないと思っていたが、呪力なんか欠片も持ち合わせないお二人さんが解いちまったんだから驚きだったよ。ま、氷結晶が創られた経緯を思えば、これだったからこの方法でうまく行ったのかも知れんなあ」
氷結晶が創られた経緯。
アランによると、二百年程前に、ユーグさまに術をかけた呪術師よりもっと高位の、伝説級の女呪術師がいたそうだ。女呪術師には想い人がいたけれど、彼には既に恋人がいた。嫉妬に狂った女呪術師は、彼を凍らせてずっと傍に置いておくという目的の為に、氷結晶を創り出したというのだ!
凍らされた男性の恋人は女呪術師の計略で、もう二度と近付けないよう、奴隷として遠い国に売られ、そして数十年が過ぎた。年老いた女呪術師は、彼女を憎む別の者に殺され、氷の像はそのまま残り、永遠に変わらないだろうと思われた。
けれどある日、老婆になった恋人が長い旅の果てに戻って来た。奴隷の身から解放され、静かに余生を送る事も出来たのに、ただ恋人に会いたい一心で辛い旅をしてぼろぼろになって帰って来たのだ。
老婆は涙を零して、凍ったままの恋人に寄り添った。彼女の涙が氷結晶の影響でみるみるうちに凍ってゆき、老婆と男性はひとつの氷の像になったように思われた――けれどその時、彼女の涙の一滴が彼の氷にひびを入れたという。絶対に溶けない筈の氷結晶が、数十年を経ても変わらなかった二人の想いに負けて術が解けたのだった。
そして二人は、老婆と青年の姿でありながらも、寿命で死ぬまで仲睦まじく過ごしたという――。
アランは、
「ガキの寝かしつけに聞かせる物語みたいなもんとしか思ってなかったが、案外本当なのかもな。女の一念が高度な呪術を負かしちまうとは参ったよ」
なんて言う。私は頬を赤らめた。
「勝とうだなんて思ってなかったわ。ただ、ユーグさまと離されたくないとばかり……」
「しかし、ふつう一緒に凍っちまおうなんて考えないぜ」
「私はただ、もう二度と大事なひとと離れたくないと思っただけよ」
ほんとうに、自分がそんな奇跡に近いような事を起こした、という実感はまるでない。気が付いたら呪いが解けていた、という感じだ。だって、私は自分が望むことを実行しようとしただけだもの……。
「まあそれは良かったけど、本当にアリアンナの言う通り、何の策もなく自分だけで王に会いにいくなんて、折角彼女が救ってくれた命を投げ捨てるようなものだぞ」
「だがリカルド、他に手はない」
「今のうちに一か八か逃亡するという手があるぞ」
「そんな事は出来ん。俺の領民を捨てて逃げるなど」
「まあそう言うだろうと思ったけどさ」
リカルドは軽く肩をすくめた。
王の兵に歯向かい傷つけたという、これだけははっきりした罪が私たちに刻まれてしまった訳だけれど、もう私たちは、己の利益の為だけに不条理な罪を押し付けてくる王に黙って従う気はなかった。王権に対する忠誠はあるけれど、ジュリアン王個人に対する忠誠などない。私たちは復讐の為だけでなく、祖国の為、民の為にも、あの男の本性を皆の前で暴き、あの男が玉座に相応しいか問いたいと考えていた。
ユーグさまは、王の兵に囚われた罪びととしてではなく、自らの騎士たちを引き連れて王の従兄ラトゥーリエ公爵として王都へ出向き、謁見を願うつもりだと言う。
これまでユーグさまが外出もままならず、騎士を常駐させる必要もなかった為、ラトゥーリエ家の騎士団は小隊に分かれて領内に派遣されている状態なのだけれど、彼らを招集すれば戦力になる。ただ、それをしてしまうと王への叛意ありと捉えられかねない状況だったし、ユーグさまはシルヴァンだった時には、王と事を構えるよりも私だけを安全な場所に逃がした方が良いと考えていたからそのままになっていたのだった。
王都では、粛清の嵐が吹き荒れている。人々は恐怖によって王に支配されている。ユーグさまが自身と父アンベール侯の潔白を主張し、逆に第一王位継承権者として王の行状不適切を訴えれば、人々は心情的にはそれを正しいと思うだろう。
ただ……ユーグさまにはまるで味方がいない。十年も領地に引き籠り、貴族として社交もしない、冷酷無情の『冷血公爵』――それが、王都の人々がユーグさまに抱いている印象だ。逆らうどころか邪魔だというだけで王からどのように罰されるか知れない王政のもとで、信用の無いユーグさまがいくら声を上げたところで、従う人がいるとは思い難い。私はそれを言ったけれども、ユーグさまの決意は固い。
「どのみち、王が我々を見逃すとは思えない。今度はもっと大掛かりな軍隊を寄越してくるだろう。そうなったら戦闘になり、住民にも犠牲を強いてしまうかも知れない。俺はまだ罪に問われてはいてもそれが確定している訳ではない。ラトゥーリエ家の旗印と少数の騎士のみを伴って、長く宮廷に無沙汰してしまった為に生じた誤解を解く為に王に謁見を願うという形であれば、王都への道は開かれる筈だ」
「しかし、無傷で行く事は出来ても、無傷で帰って来られるとは思えないぞ」
とリカルドが尤もな指摘をする。帰る場所がなくなってしまい、彼はずっとラトゥーリエ邸に滞在している。彼の館は押収されてしまい、レジーヌがどうしているかはわからない。
「ああ。だから、アリアンナはリカルドとここで待っていて欲しい。アンベール侯を王自身から無罪と言わせることは出来ないにしても、半信半疑の人々に無罪をきっと確信させ、きみたち親子の名誉を回復したいと思っている。そして、もし俺が処刑されるような事になりそうならば、二人で逃げて欲しい」
「まだそんなばかな事を仰るの!」
私は声をあげる。
「だけど……」
「なにが、だけど、なの。ユーグさまと離れて、ましてやユーグさまのいない世界で、私はどうやって生きてゆけると仰るの。私を助けて自分だけ死のうだなんて、まだユーグさまはシルヴァンのままなの?! そんなことなら、一緒に凍ってしまった方がましだわ」
「ははは、手厳しいな」
「笑い事じゃないでしょ、リカルド。ユーグさま、生きるのも死ぬのも一緒よ。ユーグさまが先に死んだら、私は一人ぼっちで自分で命を絶つわ。そうしたら、一緒に天の国に行く事は出来なくなるわ」
「アリアンナ――」
「そうだぜ、公爵。お嬢さんが自殺したら、死んで行く先はばらばらだ。折角奇跡のように氷結晶を溶かしたっていうのに、それじゃ勿体ないぜ」
室内で第四の声がした。呪術師――名はアランという。ラトゥーリエ公爵とアンベールの娘の事情を知った彼をリカルドは最初強制的に館に留めおこうとしたけれど、彼は自ら協力を申し出た。貴族だの王だのには興味はないが、氷結晶を溶かした人間には興味があるし、自分を雇うならば絶対に裏切ったりはしないと。
確かに、氷結晶は消えたけれども、何がどうなったのかもよくわからないままだし、協力者は一人でも多い方がいい。アランは知識も豊富で頭も切れ、おまけにある程度の武術も身に付けているという。ユーグさまは、傭兵という形で彼を雇い入れたのだった。
「呪術を解けるのはかけた本人だけ。術者以外が術を解くには呪力を凌ぐ程の精神力が必要……俺は、呪力を凌ぐ精神力なんて存在する訳ないと思っていたが、呪力なんか欠片も持ち合わせないお二人さんが解いちまったんだから驚きだったよ。ま、氷結晶が創られた経緯を思えば、これだったからこの方法でうまく行ったのかも知れんなあ」
氷結晶が創られた経緯。
アランによると、二百年程前に、ユーグさまに術をかけた呪術師よりもっと高位の、伝説級の女呪術師がいたそうだ。女呪術師には想い人がいたけれど、彼には既に恋人がいた。嫉妬に狂った女呪術師は、彼を凍らせてずっと傍に置いておくという目的の為に、氷結晶を創り出したというのだ!
凍らされた男性の恋人は女呪術師の計略で、もう二度と近付けないよう、奴隷として遠い国に売られ、そして数十年が過ぎた。年老いた女呪術師は、彼女を憎む別の者に殺され、氷の像はそのまま残り、永遠に変わらないだろうと思われた。
けれどある日、老婆になった恋人が長い旅の果てに戻って来た。奴隷の身から解放され、静かに余生を送る事も出来たのに、ただ恋人に会いたい一心で辛い旅をしてぼろぼろになって帰って来たのだ。
老婆は涙を零して、凍ったままの恋人に寄り添った。彼女の涙が氷結晶の影響でみるみるうちに凍ってゆき、老婆と男性はひとつの氷の像になったように思われた――けれどその時、彼女の涙の一滴が彼の氷にひびを入れたという。絶対に溶けない筈の氷結晶が、数十年を経ても変わらなかった二人の想いに負けて術が解けたのだった。
そして二人は、老婆と青年の姿でありながらも、寿命で死ぬまで仲睦まじく過ごしたという――。
アランは、
「ガキの寝かしつけに聞かせる物語みたいなもんとしか思ってなかったが、案外本当なのかもな。女の一念が高度な呪術を負かしちまうとは参ったよ」
なんて言う。私は頬を赤らめた。
「勝とうだなんて思ってなかったわ。ただ、ユーグさまと離されたくないとばかり……」
「しかし、ふつう一緒に凍っちまおうなんて考えないぜ」
「私はただ、もう二度と大事なひとと離れたくないと思っただけよ」
ほんとうに、自分がそんな奇跡に近いような事を起こした、という実感はまるでない。気が付いたら呪いが解けていた、という感じだ。だって、私は自分が望むことを実行しようとしただけだもの……。
「まあそれは良かったけど、本当にアリアンナの言う通り、何の策もなく自分だけで王に会いにいくなんて、折角彼女が救ってくれた命を投げ捨てるようなものだぞ」
「だがリカルド、他に手はない」
「今のうちに一か八か逃亡するという手があるぞ」
「そんな事は出来ん。俺の領民を捨てて逃げるなど」
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