はるなつ来たり夢語

末千屋 コイメ

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終話

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 冬を迎え、妓楼では大火鉢が出されている。今日は月の初めのの日だから、亥の子の祝いでぼた餅が配られている。でも、わちきは甘い物が嫌いだから関係無い。祝いだから食えって言われても、全く食う気がしないもんだ。
 ついでに、ぼた餅を渡されていた夏樹せんせは「おれは良いよ」と言って断っていたにも関わらず、渡されていた。妓楼を訪ねる度に貰うから、薬箱とは別にぼた餅だけがぎゅぎゅっと詰まった箱を持っている。
「ほい、おはる」
 ぼた餅の詰まった箱を持たされる。意外とずっしり重みが増してきた。また次の妓楼でも増えるのかねぇ。嫌になっちまうよ。誰が食べるんだこんなに――って、ああ、小焼兄さんに渡すんだったや。
「もー、どうしてこうも皆遠慮してんのに配ってくんのかねぇ。わちき、嫌になっちまうよ」
「まあ、お祭りだから仕方ねぇかな。いっぱいあったら、小焼が喜ぶよ」
「あの兄さん、甘い物好きだよねぇ」
「いや、甘すぎるもんは嫌いだとか言ってたぞ。おけいの作る大福とか」
「……あれは、毒じゃないかい」
「あはは、小焼と同じようなこと言ってやんなよ。泣いたら面倒だぞ」
「それもそうだね」
 箱を抱えなおす。当たり前のように隣に立って歩けることに少しだけ涙がこぼれそうになる。
 その日、湯屋から帰ったら、内所に夏樹せんせがいた。
 そういや、角部屋のが具合悪そうにしてたっけなぁとぼんやり考えつつ部屋に戻って、ぼうっと布団に転がってたら、見世番の源次が部屋に飛び込んできた。
「春日さん、大変でげすよ!」
「何が大変だってんだい? ああ、角部屋の未空みそらねえさんが、おっんじまったかい?」
「勝手に未空ねえさんを殺すんじゃないざんす! そうじゃなくて、夏樹先生が」
「内所にいたろ? まぁた、血でも吐いたってのかい、あの人」
「違うざんす!」
 さっさと用件を言えってんだい。わちきは眠くて仕方ないってんのに。頭もぼんやりとしか働かないんだ。源次が「あー」だの「うー」だの何か言いたそうにしているところへ、やかましいくらい早歩きの音が聞こえてくる。今度は番頭の茂吉だ。
「春日! 寝てる場合か!」
「あいあい。源次も茂吉も何を騒いでんのさ。わちきは眠くって仕方ないってんのに」
「お前を身請けしたいって話だってのに、寝てる場合か!」
「は?」
 身請け? また夢のような話をしていんす。
 わちきは布団に座りなおす。もしかしてこれ夢の話なんじゃないかい? 頬を抓ってみるが、痛い。夢ってわかってりゃ痛いか。うーん、頭がぼんやりする。やっぱり寝ようかね。
 寝転がったら茂吉と源次が騒ぐ。
「おい! 春日!」
「春日さん、寝てる場合じゃないざんすよ!」
「ふわぁ……」
「春日!」
「春日さん!」
 二人して部屋にずかずか入ってきて、わちきを担ぎ上げる。寝たいってのに、何なんだこの強引さ。抵抗する気もないくらいには眠い。そのまま内所に連れてかれたが、眠くて亡八の話もよくわかんない。目も開かないくらいに眠かったんだ。
 でも、この言葉だけは、わちきにはよく聞こえた。
「夏樹先生がお前を身請けしたいと、百両持って来た。今朝方樽代を告げて、この時分に準備するくらいだ。それくらいお前を欲しがっている」
「はぁ?」
「まだ寝ぼけてんのかい!」
「痛い痛い痛い! 抓ってんじゃないよクソババァ!」
「あんたねぇ! その態度じゃやってけないよ!」
 遣手婆に頬を抓られたので、腹が立って抓り返してやった。互いに頬を抓り合ったまま。お陰で目が覚めた。そんで、胸がぎゅっと熱くなった。言葉の意味がやっとわかった。
 わかったら、涙が無意識につーって頬を流れていって、それから滝のように流れ出る。こんなに泣いちまうなんて、わちきらしくない。やっぱり、あの人の所為でわちきはおかしくなっちまったんだ。恋の病なんて信じてなかったが、やっぱりあったらしい。
 散々泣いたら亡八も遣手婆も貰い泣きしたようで、目に涙を浮かべていた。周りを見れば、源次も茂吉も泣いていた。
「何で皆一緒に泣いてんだい、馬鹿のようでありんす」
 憎まれ口を叩けば、叩くだけ、涙がこぼれていく。わちきの隣に寄ってきたおらんが「おいらん、行っちゃやだ」と言う。わちきはおらんの頭を撫でてやる。この子には悪いが、わちきは外に出たい。すぐにでも出たい。
「おらん、あんたなら立派な御職の姉さんになりんす。わちきがいなくても平気さ」
「やだよ。おいらんねえさんに会えなくなるはいやだ!」
「……わちきも嫌。わちきは、夏樹せんせの女房になりんす。ずっと会えない訳じゃないんだから、そんなに好かないことを言わないでくんなんし」
 頬を撫でて涙を拭ってやる。珠のような肌をしていて、器量も良い。きっと良い御職になる。わちきのような素行不良な御職じゃなくて、立派な花魁になれるはずだ。
 それから五日後。朋輩に「お達者で」と心の籠っていないような言葉をかけられ、おらんには大門まで抱きつかれたまま、わちきは久方ぶりに娑婆の空気を吸った。
 大門から外の景色を見るのはいつぶりだっけ? 何年ここにいたんだっけ? 妹もいなくなっちまったけど……早く苦界から出られて良かったと思っておくんだ。わちきが代わりに生きてやる。あの子は水揚もされずに、そのまま死んだから、身体が綺麗なまんま仏になったんだ。きっと、極楽浄土に行けたに違いない。
「あ、おはる。大門出てすぐでわりぃんだけど、中臣屋に挨拶に行くの忘れてたから引き返すよ」
「……夏樹せんせ、何でそんなとこ抜けてんだい」
「あはは、だってさ、初めてな事ばっかでずぅっと気を張っててさ、やっと解放されたから……。あ、一服もしてぇな」
「そんなら中臣屋でしたら良いもんであ――……良いさ」
「別にそんまま話してくれて良いぞ?」
「馬鹿言っちゃいけないよ。わちきはもう玄人の女じゃないんだ。言葉遣いだって……素人女のようにしないと……」
「あいあい。そんじゃ、無理しない程度にな。『わちき』は可愛いから、そんままでいてくれよ」
「な、何言ってんだい!」
「ぁ痛っ!」
 思わず頬を打っちまった。左頬を押さえて夏樹せんせは笑ってる。怒らないから、許してくれるから……だからって甘えちゃいけないんだ。他の男にしたらぶん殴り返されちまうはずだから、気をつけないと。
 手を繋いで引き返す。仲の町を通って、江戸町二丁目、だったかの角を曲がる。さすがに大店だけあって店構えからして大きいね。中臣屋の店の前には金色の髪の子供がいた。
「あ、夏樹せんせ! おはるさんも一緒やな!」
「おう千歳。父ちゃんいるか?」
「父様なら、配達に出てしもた。母様なら奥におるよ」
「そっか。そんじゃ、母ちゃん呼んできてくれっかな」
「あーい!」
 千歳は元気に返事をしてから店に引っ込んでいった。
 店の中に入って、板間に座らせてもらう。ちょっと間を置いて、空色の髪が見える。おけいがにこにこしている。手には皿を持っている。その上に何だか妙な色をした団子らしきもの。
「ちょうど良かったやの。ウチ、お団子を作ったから食べて欲しいの」
「あ、はは、おれ、甘い物苦手だからさ……」
「わちきも苦手だから……」
 見るからに不味そうだ。お団子ってこんな色してたっけ? さっき宴で出されてた紅白団子を思い出してみたが、全然違う。これは、泥団子って言われても信じる色をしているよ。
「これは甘くないお団子やの。食べてやの」
「自分で食べたのかい?」
「……ウチの、お団子、食べてくれへんの?」
「泣かないでくんなよ! わかった! 食べてやりんす! その代わり、灰皿と火を貸してくんな!」
「わかったやの」
 団子の乗った皿を受け取る。おけいはにこにこしながら引き返していった。このままこっそり外に投げ捨ててやりたいが……それは勿体ないもんだ。食べるしかないか。
「おれが食べるよ」
「えっ!」
 おけいが灰皿を持って戻ってきたのと同時に、夏樹せんせが団子を口に入れていた。おけいは目を輝かせて喜んでいるようだった。……奥の方で、阿鼻叫喚してないかちょっと心配になってきたね。声をかけられたら、奉公人達は若旦那の奥さんだから、断るに断れないだろうし。
 夏樹せんせは団子を頬張っている。なんだか妙な音が聞こえる。ごきゅ、ばきゅ、って、団子を噛んで鳴るような音じゃないだろうに。大丈夫かいこれ。
「どう? 美味しい? 美味しい?」
「うん。塩味が効いてて美味いよ。味噌の加減がちょうど良いな。これならおれも食べられるよ。小焼も喜ぶだろうな」
「良かったやの。うふふ」
 頬に両手を当てておけいは上機嫌だ。本当に美味いのかこれ……。夏樹せんせが嘘を吐いているようには全く見えなかった。一個残っているから、わちきも口に入れてみる。思わず吐き出しそうになったのを両手でなんとか抑える。なんだこれ、一気に辛味が鼻を抜けていって、鼻がつーんと痛い。その後に急に変な甘みが襲いかかって来るし、だからって辛いのがましになっていくわけでもなく、やっぱり刺激が強いまんまだ。吐きそうだし、涙が出てくる。
 何で笑顔で食えたんだこのせんせ! ……あ、そうだ。夏樹せんせ、舌がおかしい時があるんだった。
 なんとか飲み込んだとこで、おけいはお茶を持ってきてくれていた。煮えたぎった湯呑みが目の前に置かれる。お茶の風味は全て消し飛んでいる。で大店の女房をしていられるなら、わちきは……なんだか自信が出てきた。できるような気がする。
 夏樹せんせはお茶をふうふうしてから飲んでいた。
「今日のお茶は上手く淹れられたと思うの。どう?」
「そうだなぁ、いつもより味がしっかりしてるよ」
「えへへ、嬉しいやの」
 ……夏樹せんせの優しさがひどく恐ろしいものだって思ってきた。本当に味がすんのかね? わちきもふうふうしてから飲む。色のついた湯だった。なんだこれ。夏樹せんせは何の味を感じたってんだ。この人の舌、どうなってんだ? そんだけなんか疲れてんのかね……。宴会してる時もぼんやりしてたくらいだ。
 わちきは煙草に火を入れて吸う。肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくり吹いた。やっぱり、このくらい喉にくる煙草が良いや。甘いのは性に合わない。夏樹せんせが作った煙草のほうが美味いって、煙草屋も商売あがったりになっちまいそうだ。一服ついたから、そのまんま煙管をせんせに渡す。
「もー! いちゃつかんといてやのー!」
「あんた、他人のこと言えないだろうに。いつでも人目を憚らずにいちゃついてるから、周りはあてられっぱなしだって言ってたよ」
「はうぅ……恥ずかしいやの」
 おけいはもじもじしている。可愛らしい仕草だから、これで何人もの男を虜にしちまったんだろう。男手ばかりの店でよく襲われずにいるとは思うが、……夫がアレだから手も出しにくいか。
 その後、中臣屋の大旦那様がご祝儀をくれた。夏樹せんせは遠慮していたが、けっきょく受け取ることになった。いくら入っているかわかんないが……大店だから、ちょっち期待しちまう。
 中臣屋を出て、再び大門を出る。いちいち確認されるのが面倒だが、女は足抜けだと思われちまうから仕方ない。
 今日は薬箱を持っていないからか夏樹せんせの手が行き場を失っているように揺れているので、わちきはその手を掴んでやった。
「せんせ、薬箱無いと手がうろうろしちまうんだね」
「あー、ちょっと不安になっちまうんだ。あれ、お守り代わりにもなってっから……。でも、おはるが手を繋いでくれてたら安心するよ」
「ふーん、そうかい」
 手を強く握り返される。さすがにいつも重い薬箱を持っているから握力が強いんだ。その力強さに脚の間が少し軋む。ああ、こんなところで盛ってんじゃないよわちき!
 堤を歩いていけば、見慣れた黄金色が見える。
「おっ! 小焼ー!」
 夏樹せんせは空いた方の手を振る。声に気付いたらしい小焼兄さんが小さく振り返してくれた。いつもどおりの仏頂面をしていた。
「おめでとうございます」
「おう、ありがとな!」
「ありがと」
「……突然なんですが、猫を飼いませんか?」
「は?」
 小焼兄さんは荷の一つの箱を見せてくれた。白くて可愛い子猫がいた。湯屋の通りでよく見かける猫に似ている。そういや、お腹が膨らんでたのを見たような気がする。あの子が産んだ子か。
「今年も、市――伯母の家の白猫が子を産みまして、この子だけ引き取ってくれる家がまだ見つかっておらず……」
「おまえ、纏めて配り歩いてんのか?」
「いえ。事前に聞いていたところに連れて行ってますよ。しかし、二匹を飼うのが難しくなったと、この子だけ残されまして……夏樹のところなら生薬をねずみに齧られない為に猫がいても良いでしょう?」
「うーん。そりゃあ良いけど……、おはるはどうだ?」
「え? わ、わちきに聞くのかい?」
「おれは、おはるが飼いたいって言うなら飼うし、要らないって言うなら遠慮するよ」
「それだと、夏樹せんせは何にも考えてないだろうに……。わちきに合わせないでくんな。一緒に考えなよ」
「おはるの言うとおりですね」
 そう言うと小焼兄さんは子猫を抱き上げて、夏樹せんせに抱かせていた。急に渡されて驚いたのか、慣れていないのか、少し慌てた様子のせんせは困ったように眉を八の字に下げる。それから「うーん」と考えているようだった。
 わちきは、猫を飼いたいと思う。だって、あの白い猫がわちきとせんせを出会わせてくれたんだ。だから、この子を飼えば、きっと良いことがあると思うんだ。でも、夏樹せんせはどう思っているかわからない。
「うーん、わからねぇや。おれ、どうしたらいっかな?」
「何でそこで迷うんですか。貴方が飼いたいか飼いたくないかってだけですよ」
「そうなんだけど、命を扱うんだ。そう簡単な話じゃねぇよ」
「……では、しばらく預かってもらえませんか? 猫を欲しいって人を見つけてくるまでの間で良いので」
「命を預かるのか。そりゃまた大儀だな」
「夏樹せんせ、わちきは猫飼いたいよ」
「おっ、そっか! そんなら飼うよ!」
「大丈夫か」
「へ? 何がだ?」
 小焼兄さんは少し厭きれたような溜息を吐いてから、ふわっと笑った。そんでから、わちきの頭を撫でた。力加減ができていないから少し痛いような撫で方だ。ついでに耳元で囁かれる。
「夏樹を頼んだ」
「あい。わちきに任せておきな」
「へ? 何だ? 何でおまえら、二人で楽しそうにしてんだ?」
「貴方には関係ないですよ。私は配達の続きがありますので」
「あいあい。わかったよ。あばよ」
「では、また」
 道を譲って、小焼兄さんを見送る。
 夏樹せんせは子猫を抱えていた。薬箱を持つ代わりにわちきの手を握るではなく、猫を抱っこするに変わったね。猫は胸にくっついて目を細めて、喉をごろごろ鳴らしている。可愛いもんだ。
 ちょっと歩き疲れたけど、やっとの思いで伊織屋に辿り着いた。小さい店だとは聞いていたが、わちきが思うよりも立派な店構えをしていた。養生所は隣にあるようだった。
 伊織屋に入れば、奉公人が押し寄せてきた。思ったより人が多くいる。挨拶されるが、名前と顔を覚えるのに時間がかかりそうだ。それから薬も覚えなきゃいけないと考えたら、ひどく疲れそうだ。ちょっと気が遠くなっちまう。
 ご両親に挨拶をする。わちきにしては珍しく緊張した。どこの屋敷者を相手にしても緊張しなかったのに、こういう時は緊張しちまうもんだ。二人とも優しい人だった。夏樹せんせが優しいんだから、優しいに決まってるか。
 挨拶が終われば次は養生所に向かう。外に出なくとも渡り廊下で続いているらしい。こっちはきっちり整頓されていた。人は、少ない。患者が少ない方が良いとは思う。だって、それだけ病人がいないってことだ。そんでも、医者が生業なら患者がいたほうが良いのかね? でも、ここは養生所だから関係無いか。わちきにゃわかんない。
 患者にも挨拶をした。「こんなにべっぴんなお嫁さんを貰って!」とか言われた。じいさんばあさんは感極まって泣いてくれるから、わちきも貰い泣きしちまった。嬉しくって、泣いちまった。
 猫は店の方で飼うことになったらしく、女中が抱っこして行った。
 ようやく夏樹せんせの部屋に入って、落ち着いた。慣れないことばかりだから、どっと疲れちまった。せんせにもたれて休んでいたら、ふいに胸を触られる。
「ちょっと、せんせ何触ってんだい!」
「あ、いや、その、わりぃ。触りたくなって」
「はぁ……、わちき、疲れて何にもする気ないよ。好きに触りな」
「あいあい。なんだかやわらかくって、すべすべだから触ってたら癒されるんだ」
 何言ってんだかわかんないが、胸が好きなのはよくわかってる。
 疲れて何かをやり返す気も出ないから好きに触らせてやる。せんせはわちきの胸を下から持ち上げたり、上から押したり、揉んだりしていたが、急に乳首を抓られて、わちきの口から「アッ」と甲高い声がもれた。
「も、もう! 何すんのさ!」
「したいんだ。……駄目かな?」
「っ、その顔と声は反則だよ! ンッ!」
 わちきが返事する前に唇を塞がれる。首を軽く絞められて、頭がぼうっとしてくる。ただでさえ疲れてるのに、こんなことされたら訳がわかんなくなっちまう。抵抗しようにも力が入らない。脚の間に差された手が躊躇いもなくぼぼをくじる。水音が鳴っちまうくらいに濡れてるのが恥ずかしくて、わちきはせんせの肩に額をつける。あんまり声出したら、患者にも聞こえちまうから、我慢しないと。
 で、けっきょく、夕餉までの間に一番だけした。急にそんなことをするから、終わった後に腹が立って殴りつけたら、その時分に丁稚の子が来たから、妙な所を見られちまったし、ああもう、恥ずかしい。
 今は大火鉢の出された吉原ちょう内を往診している途中だ。
 ぼた餅の詰められた箱を片手に方々の妓楼を回る。夏樹せんせが普段こうやって色んなとこで診察してるってのがよくわかる。中には艶っぽい女もいるが、全く好意に気付いていないようだった。「好きでありんす」と言われたら「あいあい、おれも好きだよ」と返すくらいだ。相変わらず、この鏡のような優しさは治んないもんだ。
 診察してすぐどんな病でどの薬が必要かってのがわかるくらいだから、このせんせ、腕はかなり良い。頭も良いはずだ。それなのに妙なところで大雑把というか抜けてることがある。完璧じゃないから、親しみやすくて愛らしく見えちまうのかね。
「お大事に」
「お大事にね」
 菓子屋の女将の往診が終わって、豆大福の折詰が増えた。こりゃあいよいよ菓子だらけになっちまってる。
 夏樹せんせはわちきの隣で人懐こいような笑顔を浮かべていた。黄金色の髪を見つけて、更に表情が緩んでいる。
「小焼兄さん、ぼた餅と豆大福の詰め合わせ貰ってくんな」
「こんなにですか?」
「おまえならこれくらい朝飯前だろ」
「それはそうですが……。ありがとうございます」
 小焼兄さんはわちきが抱えていた菓子を纏めて引き取ってくれた。早速豆大福を頬張って嬉しそうにしている。仏頂面が崩れたら、年よりも幼く見える顔をすんだから、可愛いもんだね。
 菓子も渡せたし、用事も終わったから、さっさと吉原ちょうを後にする。通行手形を見せて、堂々と大門をくぐれるのは気持ち良いもんだ。
 堤を歩いていって、ここにあるのが見返り柳ってことをつい先日教えてもらった。ここから吉原を想って見返る男が多いからだそうだ。一夜の夢に浸って、その夢のことを思い出すのが、ここってわけらしい。
「夏樹せんせも、ここで見返ることあったのかい?」
「うーん、おれは往診で何度も行くからそんなに見返らないかな」
「だろうねぇ」
 しょっちゅう出入りするものからしたら、些細なことなんだ。わちきはせんせの腕に縋りつく。
「急にどうしたんだ、歩きづれぇよ」
「寒いからさ。くっついてたら、せんせもあったかいし?」
「それもそうだな!」
 当たり前のようにくっついて歩ける。それだけでもう、わちきは幸せだ。当たり前のことなのに、先日までは、こんなこともできなかった。毎晩好きでもない男に御開帳して、気をやるフリをして、疲れて眠る。そんだけだった。でも今は違う。今は、好きな男にだけ御開帳できる。だけど、養生所で交合とぼすのは、急患が来た時に、すごくお預けを食うことになる。この前だって、くじられて、気をやりそうな時に呼び出されて、夏樹せんせは朝まで帰ってこなかった。おまけに、その急患ってのが、すでに事切れてるもんだったから……優しいせんせはぐずぐずになっちまってて……色々大変だった。
 ああ、思い出したら気が悪くなっちまった。けっきょく、続きもできてないんだ。ご無沙汰だから、今夜あたり、どうだか……。でも、わちきから誘ったら裾っ張りだとか思われそうで嫌だね。せんせは優しいから気にしないとは思うけど……なんか嫌になっちまう。ぎゅっと腕を抱き締める。
「おはる、帰ったらやりたい」
「は?」
「わりぃ。やっぱり駄目か?」
「……ううん。良いよ。好きにしんす」
「そっか。そんじゃ、帰ったらしような」
 いつもより低い声で囁かれる。それだけで脚の間が潤ってしまう。ああもう、この人、どうしてこういう時は色気があんだろう。妙な色気にあてられっぱなしだ。
 養生所に戻り、奉公人達に迎えられる。夏樹せんせは患者を診るからってんで、わちきは先に二階に向かう。自室の布団は敷きっぱなしになっている。日当たりが良いから、このまま干せて良いんだ。患者を診終ったらしいせんせが部屋に入ってすぐわちきにのしかかってくる。くすぐったくて、二人して笑った。
「なんだかまだ身請けされたのが夢のようだよ」
「あはは、夢じゃねぇよ。夢を語るのはまた今度にしような」
「もう、何言ってんのさっ! ひゃんっ」
「あー……やっぱりおはるの乳、やわらかくって、すべすべで良いな」
「あんたねぇ、わちきの胸しか興味無いのかい!」
「いや、そんなことねぇよ。おれは、おはるの全部が好きだ」
「わかりんした。もう、好きにしなよ……」
「あいあい。好きにするよ。今、加減ができそうにねぇから、ごめんな」
「アッ!」
 耳朶に唇を押し当てられて、紡がれる言葉に、妙な色気に、ぞくぞくした。
 誰にでも優しい医者は、わちきには少し意地悪なようだ。特別になれて、嬉しい。なんだかまだ夢のように感じちまう。ふわふわして、ぼうっとして、口吸いの度に夢を見ているような気がしてきた。
 でも、これは夢を語ったもんじゃない。わちきが感じた現の話だ。
 遠くで騒ぐ声が聞こえる。軽く首を絞められてた手が緩む。夏樹せんせは慌てたように服を整えていた。
「わりぃ、おはる! またお預けだ!」
「もう! 何でこうなっちまうんだろ!」
 ドタバタ、やかましい足音が駆けあがって来る。夏樹せんせが部屋を飛び出したら、その足音と共に引き返していった。
 売れっ子を相手にしてたら、こうなっちまうもんだ……。仕方ない、また待つしかないね。戻ってきたら、夢の続きを見せてもらうんだ。
 寝てもない夢語に今日も両想い、ってね。



 了



~~~
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
本編はこれにて完結です。
この後は、番外編を追加していく予定ですので、もうしばらくお付き合い頂けましたら嬉しく思います。
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