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第十九話
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「何番でも付き合ってやるなんて言わなきゃ良かった……」
わちきは言葉をこぼす。夏樹せんせはわちきをぎゅっと抱えたまま眠っている。
まさか、六番もするなんて思わなかった。顔に似合わず腎張なんだ、このせんせ。後始末する間もなく抱き締められて寝ちまったから、脚の間が濡れたまんまだ。
房事の最中に何度も「好きだ」って言われた。
「可愛い」とも「綺麗だ」とも。恥ずかしいったらありゃしない。これで酒に酔ってて起きたら綺麗さっぱり忘れてるとかだったらしょうちしないよ。殴ってやりんす。
目を閉じて、開けば朝だ。夏樹せんせはわちきを抱えたまま。寝顔が可愛い。元から可愛い顔してっけど、寝顔がこれまた可愛い。そこいらの女郎の寝顔より可愛いんじゃないかねぇ、ああ、この見世の奴らと比べたら誰でも可愛くなっちまうか。ゆっくり休んでくれたら良いんだ。忙しい人なんだから、ゆっくりゆっくり。
わちきはせんせを起こさないように腕の中から抜け出す。後始末をしておこう。あと、茶を淹れよう。
部屋を出て、始末の後に台所でお湯をもらっていく。他の女郎はまだ寝ているようだった。朝まで付き合わされている女郎もいるかと思いきや、静かなもんでありんす。わちきの足音だけが廊下に響く。障子を開く。お茶を淹れていたら、せんせが起きた。布団にぼーっと座っている。
「おはよ、夏樹せんせ」
「ん。おはよ、おはる……」
「手水を持ってきてやりんす。少し待ちんしょ」
廊下に出れば、おらんが目を擦りながら手水を持ってこようとしていたので、受け取って、そんまま夏樹せんせに渡した。せんせはすぐに顔を洗って歯を磨いている。房楊枝をきっちり折って、小さく伸びをしていた。
お茶を出せば、ふうふう言いつつ飲んでいる。猫舌なのかと思ったが、そのまま飲んでるから、熱いのでもけっこう平気なのかねぇ。
「それにしても、まさか六番もやるなんて、わちきは思わなかったよ」
「わ、わりぃ!」
「まあ。わちきも夏樹となら何番でもとか言っちまった手前、断れなかったけんど、いくらなんでも度合いってもんがありんす」
「ごめん。……おはるん中、気持ち良くて……止められなくなっちまって……。あ、そうだ。どっか痛むか? 大丈夫か?」
「平気でありんす。それにしても、夏樹せんせって腎張だったんだねぇ。なんだか意外でありんす」
「そ、そんなんじゃ、ねぇよ」
顔を赤くして首をふるふる振る姿が可愛いから、ついいじめたくなっちまう。床の時は艶やかで色っぽいのに、今は犬のように人懐こくて可愛らしいから、軽く混乱しちまう。
二番目の時から、精汁をやる時に名前を呼んでくれたっけ。あれが嬉しかったのは内緒にしておこう。言ったらずっとやられちまう。名前を呼ばれたらわちきは弱くなっちまうんだ。胸がキュンキュンして、中を締めつけちまう。もしかしたら夏樹せんせはそれをわかってるのかもしれない。
帰り支度を手伝ってやる。煙草入れも財布も持たせたし、一応聞いといてやろうかね。
「夏樹せんせ、忘れ物はないかい?」
「えー、そうだなぁ、んー……無いと思うけど……」
「……小焼兄さんから聞いたんだが、せんせっていつも忘れ物しないように点検してるんだろ? 何でここには忘れちまうんだい」
「あはは、何でだろな? おはるといると安心すっのかなぁ」
「ふぅん。まあ、忘れちまってもわちきが預かるか勝手に使うだけでありんす」
煙草に火を入れて、吹く。煙の向こう側でせんせは笑っている。煙管を黙って差し出せば、受け取って吸ってくれた。顔に似合わずに煙草を吸うから、やっぱり軽く混乱しちまう。子供のような無邪気な笑顔を浮かべてると思えば、床になれば色気のある男の顔になるんだから、どうなってんだろこのせんせ。とんっ、と灰皿を叩く音がする。吸い終わった頃合いを見計らって、唇を塞いだ。
「な、何だよおはる、驚くだろ!」
「嫌かい?」
「……嫌じゃねぇよ」
昨晩もけっこう口吸いしたってのに、また口吸いしてるや。気持ち良い。首を絞めてくるのは無意識にやってるのか狙ってやってるのかわかんないけど、気持ち良いからいいや。頭がぽーっとして、ふわふわ浮いているような感覚がする。最初におさしみはしないんじゃねぇのかって言ってたくせに、こんなに口吸いしてるのはどうなってんだか。唇を離せば銀糸が繋がる。
その後は帰り支度を再開する。夏樹せんせは薬箱を弄っていた。今日はこのまま養生所に戻らずに往診に行くんだと。自分の腹に薬を塗りこんでいた。
「そういえば、夏樹せんせ、一つ聞いて良いかい?」
「ん、何だ?」
「惚れ薬ってのは、あるのかい?」
「両国の四ツ目屋で売ってるやつだな。小焼が昔おれにくれたよ」
「は? 小焼兄さんとせんせってそういう……?」
「あはは、違う違う。小焼に聞かれたら殴られっぞ。小焼は薬だからって持って来たんだ。同じやつ作れるだろってな」
「ほーん。で、惚れ薬ってのは作れるもんかい?」
「ああ、何度か頼まれたことはあったけど、効果がきちんとわかってないものを渡すのもわりぃからさ、作ったことはないんだ。地黄丸を基礎にして腎に効くものを使えば良いとは思うんだが……」
「そんなら、今度作っておくれよ。なぁに、効果があるかどうか、わちきが飲んでやりんす」
「はは、そりゃ悪いよ」
と返しつつ、夏樹せんせは薬箱を閉じる。
惚れ薬でも作れば、わざわざ両国まで行かずともここで取っていくことができるし、女郎も喜びそうなんだけどねぇ。そんで、店も繁盛するだろうに。やっぱり養生所にいるから店の金儲けのことは考えてないのかねぇ……。いや、これは言い方の問題か。
「夏樹せんせ、そんなら頼みがあるんだ」
「おっ、何だ?」
「嫌な客と床に入る時に濡れなくて唾だけじゃ痛みがあって困っている子がいんす。その子の為に薬を作ってくんないかい? わちきもそんな薬があれば助かりんす」
「そりゃ大変だな。わかった、作っとくよ」
やっぱり、言い方の問題か。優しいから、応えてくれる。
「せんせ、そのついでに惚れ薬を作ってくんな。そうしたら、嫌な客だろうがどうにでも相手することができるから」
「うーん……、でもなぁ、きちんと効果があるかわかんねぇものを渡すことはできねぇからさ」
「そこをなんとか」
「まあ、おはるの頼みなら受けてやんねぇとな。あいわかった。ぬめり薬と惚れ薬だな。考えておくよ」
「頼んだよ」
小指を絡めて約束する。このせんせなら任せておけば後は良いようにしてくれる。普段の仕事の合間にでも考えてくれると思う。余計な仕事を増やしちまったような気もするけど、息抜きにでもなってくれりゃ良いかな。
「そういえば、おけいから聞いたよ。せんせがわちきの手紙で陰茎を拭ってたって」
「ひぇっ! やっぱりあいつ喋ったのかよ!」
「あっはっは、良いよ良いよ。それ聞いた時は腹が痛くなるくらい笑っちまったさ。今も笑っちまうけどね!」
「そんなに笑わねぇでくれよぉ! そういうなら、おまえだって、おれの名前どれだけ間違えてんだよ」
「わちきはお医者せんせと違って学が無いからね、難しいことはわかりんせん」
夏樹せんせは困ったように眉を下げて笑っていた。笑いあった。なんだか気持ちの良い朝だ。気怠さも残ってるけど、いつもよりうんと良い朝だ。
「そんじゃ、また来るよ」
「うん。待ってるよ、夏樹」
「あはは、ずっと呼び捨てでも良いぜ。あばよ!」
見世先まで行って、手を振りながら後朝の別れを告げた。
わちきは部屋へ戻る。今日は忘れ物は無さそうだ。そう毎回何か忘れて行かれても預かるのも少し気を使っちまうよ。
朝粥を貰って、一息つく。湯屋に行った後は、昼見世まで二度寝しよう。おらんに掃除を任せてわちきは見世を出る。見送りの女郎や帰っていく客、湯屋へ向かう女郎が道のあちこちにいた。わちきの足元を猫が通り過ぎた。白くて可愛い猫だ。
「ああ、あんたかい。せんせを見世に連れて来てくれた子だね」
わちきの脚に頭を擦り付けてくるもんだから、わちきはしゃがんで顎を撫でてやった。ごろごろ、愛らしく喉を鳴らしている。可愛いねぇ。
「お姉ちゃん、猫好きなん?」
「あい。好きでありんす」
草履が見えたので顔を上げる。黄金色の髪に碧い瞳のおのこがいた。おのこはわちきと一緒に猫を撫でる。……この子、きっと、あれだね。
「あんた、中臣屋の子かい?」
「うん。私は中臣屋の千歳や。父様の名は小焼。母様の名はけい」
「その二人なら、わちきはよぉく知っていんす。……へえ、あんた、どっちの顔も良いとこどりしてんねぇ。男前じゃないかい」
「えへへ、ありがとう!」
「謙遜したほうが良いもんでありんす。まあ、その顔だと謙遜したら嫌味になっちまうかねぇ。……じゃあ、わちきは湯屋に行くから、親御さんによろしくね」
「お姉ちゃんの名前聞いてへんよ」
「わちきは春日でありんす」
「春日っていうと……、ああ! おはるさんや! 夏樹せんせの女房やな!」
「ち、違うよ! わちきは女房じゃない!」
慌てて訂正をする。女房じゃない。いつかそうなれたら嬉しいとは思うけど、女房じゃない!
千歳はわちきの顔をじーっと見てくる。この子は父親譲りで目を見てくるのか。俯いて話さないから声がよく聞こえて良いけれど、けっこうはきはき話すから少し耳が痛いし、近くを通るもんがこっちを見てくすくす笑ってる。
「ほんなら、許嫁か?」
「それも違いんす。わちきはただの小見世の貧乏女郎さ」
「でも、夏樹せんせ……一昨日くらいに、父様に『所帯を持つことにしたんだ』って話してたんよ」
「は?」
「そん時に、おはるさんの話してた」
「そう言われてもねぇ」
そんなこと聞いてないもんだ。所帯を持つことにしたって……いったいどういうつもりなんだか。次に来た時にしっかり話を聞く必要がありそうだね。
ここでこんまま千歳に付き合ってたら湯屋が満員になっちまうから、さっさと行こう。わちきはそのまま足早に立ち去る。後ろから「また遊んでなぁ」って声が聞こえてきたので、手を振っておいた。
あのせんせのことはさっぱりわかんない。また胸が熱くなっちまう。昨夜の房事を思い出したら、脚の間が軋んじまう。ああ、駄目だ駄目だ。あの人のことばっか考えちゃ駄目なんだ。
湯屋の前に辿り着くと、遠くに夏樹せんせが見えた。周りにはちらほらしか人がいない。大声でも出せばすぐに気付いてもらえそうだ。声をかけようか。いや、やめとくか。
そう思ってたら、咳をする音が聞こえる。障子を叩くような湿った音だった。夏樹せんせは口を拭って、そのまま行っちまった。その口と袖が赤かった。
わちきは言葉をこぼす。夏樹せんせはわちきをぎゅっと抱えたまま眠っている。
まさか、六番もするなんて思わなかった。顔に似合わず腎張なんだ、このせんせ。後始末する間もなく抱き締められて寝ちまったから、脚の間が濡れたまんまだ。
房事の最中に何度も「好きだ」って言われた。
「可愛い」とも「綺麗だ」とも。恥ずかしいったらありゃしない。これで酒に酔ってて起きたら綺麗さっぱり忘れてるとかだったらしょうちしないよ。殴ってやりんす。
目を閉じて、開けば朝だ。夏樹せんせはわちきを抱えたまま。寝顔が可愛い。元から可愛い顔してっけど、寝顔がこれまた可愛い。そこいらの女郎の寝顔より可愛いんじゃないかねぇ、ああ、この見世の奴らと比べたら誰でも可愛くなっちまうか。ゆっくり休んでくれたら良いんだ。忙しい人なんだから、ゆっくりゆっくり。
わちきはせんせを起こさないように腕の中から抜け出す。後始末をしておこう。あと、茶を淹れよう。
部屋を出て、始末の後に台所でお湯をもらっていく。他の女郎はまだ寝ているようだった。朝まで付き合わされている女郎もいるかと思いきや、静かなもんでありんす。わちきの足音だけが廊下に響く。障子を開く。お茶を淹れていたら、せんせが起きた。布団にぼーっと座っている。
「おはよ、夏樹せんせ」
「ん。おはよ、おはる……」
「手水を持ってきてやりんす。少し待ちんしょ」
廊下に出れば、おらんが目を擦りながら手水を持ってこようとしていたので、受け取って、そんまま夏樹せんせに渡した。せんせはすぐに顔を洗って歯を磨いている。房楊枝をきっちり折って、小さく伸びをしていた。
お茶を出せば、ふうふう言いつつ飲んでいる。猫舌なのかと思ったが、そのまま飲んでるから、熱いのでもけっこう平気なのかねぇ。
「それにしても、まさか六番もやるなんて、わちきは思わなかったよ」
「わ、わりぃ!」
「まあ。わちきも夏樹となら何番でもとか言っちまった手前、断れなかったけんど、いくらなんでも度合いってもんがありんす」
「ごめん。……おはるん中、気持ち良くて……止められなくなっちまって……。あ、そうだ。どっか痛むか? 大丈夫か?」
「平気でありんす。それにしても、夏樹せんせって腎張だったんだねぇ。なんだか意外でありんす」
「そ、そんなんじゃ、ねぇよ」
顔を赤くして首をふるふる振る姿が可愛いから、ついいじめたくなっちまう。床の時は艶やかで色っぽいのに、今は犬のように人懐こくて可愛らしいから、軽く混乱しちまう。
二番目の時から、精汁をやる時に名前を呼んでくれたっけ。あれが嬉しかったのは内緒にしておこう。言ったらずっとやられちまう。名前を呼ばれたらわちきは弱くなっちまうんだ。胸がキュンキュンして、中を締めつけちまう。もしかしたら夏樹せんせはそれをわかってるのかもしれない。
帰り支度を手伝ってやる。煙草入れも財布も持たせたし、一応聞いといてやろうかね。
「夏樹せんせ、忘れ物はないかい?」
「えー、そうだなぁ、んー……無いと思うけど……」
「……小焼兄さんから聞いたんだが、せんせっていつも忘れ物しないように点検してるんだろ? 何でここには忘れちまうんだい」
「あはは、何でだろな? おはるといると安心すっのかなぁ」
「ふぅん。まあ、忘れちまってもわちきが預かるか勝手に使うだけでありんす」
煙草に火を入れて、吹く。煙の向こう側でせんせは笑っている。煙管を黙って差し出せば、受け取って吸ってくれた。顔に似合わずに煙草を吸うから、やっぱり軽く混乱しちまう。子供のような無邪気な笑顔を浮かべてると思えば、床になれば色気のある男の顔になるんだから、どうなってんだろこのせんせ。とんっ、と灰皿を叩く音がする。吸い終わった頃合いを見計らって、唇を塞いだ。
「な、何だよおはる、驚くだろ!」
「嫌かい?」
「……嫌じゃねぇよ」
昨晩もけっこう口吸いしたってのに、また口吸いしてるや。気持ち良い。首を絞めてくるのは無意識にやってるのか狙ってやってるのかわかんないけど、気持ち良いからいいや。頭がぽーっとして、ふわふわ浮いているような感覚がする。最初におさしみはしないんじゃねぇのかって言ってたくせに、こんなに口吸いしてるのはどうなってんだか。唇を離せば銀糸が繋がる。
その後は帰り支度を再開する。夏樹せんせは薬箱を弄っていた。今日はこのまま養生所に戻らずに往診に行くんだと。自分の腹に薬を塗りこんでいた。
「そういえば、夏樹せんせ、一つ聞いて良いかい?」
「ん、何だ?」
「惚れ薬ってのは、あるのかい?」
「両国の四ツ目屋で売ってるやつだな。小焼が昔おれにくれたよ」
「は? 小焼兄さんとせんせってそういう……?」
「あはは、違う違う。小焼に聞かれたら殴られっぞ。小焼は薬だからって持って来たんだ。同じやつ作れるだろってな」
「ほーん。で、惚れ薬ってのは作れるもんかい?」
「ああ、何度か頼まれたことはあったけど、効果がきちんとわかってないものを渡すのもわりぃからさ、作ったことはないんだ。地黄丸を基礎にして腎に効くものを使えば良いとは思うんだが……」
「そんなら、今度作っておくれよ。なぁに、効果があるかどうか、わちきが飲んでやりんす」
「はは、そりゃ悪いよ」
と返しつつ、夏樹せんせは薬箱を閉じる。
惚れ薬でも作れば、わざわざ両国まで行かずともここで取っていくことができるし、女郎も喜びそうなんだけどねぇ。そんで、店も繁盛するだろうに。やっぱり養生所にいるから店の金儲けのことは考えてないのかねぇ……。いや、これは言い方の問題か。
「夏樹せんせ、そんなら頼みがあるんだ」
「おっ、何だ?」
「嫌な客と床に入る時に濡れなくて唾だけじゃ痛みがあって困っている子がいんす。その子の為に薬を作ってくんないかい? わちきもそんな薬があれば助かりんす」
「そりゃ大変だな。わかった、作っとくよ」
やっぱり、言い方の問題か。優しいから、応えてくれる。
「せんせ、そのついでに惚れ薬を作ってくんな。そうしたら、嫌な客だろうがどうにでも相手することができるから」
「うーん……、でもなぁ、きちんと効果があるかわかんねぇものを渡すことはできねぇからさ」
「そこをなんとか」
「まあ、おはるの頼みなら受けてやんねぇとな。あいわかった。ぬめり薬と惚れ薬だな。考えておくよ」
「頼んだよ」
小指を絡めて約束する。このせんせなら任せておけば後は良いようにしてくれる。普段の仕事の合間にでも考えてくれると思う。余計な仕事を増やしちまったような気もするけど、息抜きにでもなってくれりゃ良いかな。
「そういえば、おけいから聞いたよ。せんせがわちきの手紙で陰茎を拭ってたって」
「ひぇっ! やっぱりあいつ喋ったのかよ!」
「あっはっは、良いよ良いよ。それ聞いた時は腹が痛くなるくらい笑っちまったさ。今も笑っちまうけどね!」
「そんなに笑わねぇでくれよぉ! そういうなら、おまえだって、おれの名前どれだけ間違えてんだよ」
「わちきはお医者せんせと違って学が無いからね、難しいことはわかりんせん」
夏樹せんせは困ったように眉を下げて笑っていた。笑いあった。なんだか気持ちの良い朝だ。気怠さも残ってるけど、いつもよりうんと良い朝だ。
「そんじゃ、また来るよ」
「うん。待ってるよ、夏樹」
「あはは、ずっと呼び捨てでも良いぜ。あばよ!」
見世先まで行って、手を振りながら後朝の別れを告げた。
わちきは部屋へ戻る。今日は忘れ物は無さそうだ。そう毎回何か忘れて行かれても預かるのも少し気を使っちまうよ。
朝粥を貰って、一息つく。湯屋に行った後は、昼見世まで二度寝しよう。おらんに掃除を任せてわちきは見世を出る。見送りの女郎や帰っていく客、湯屋へ向かう女郎が道のあちこちにいた。わちきの足元を猫が通り過ぎた。白くて可愛い猫だ。
「ああ、あんたかい。せんせを見世に連れて来てくれた子だね」
わちきの脚に頭を擦り付けてくるもんだから、わちきはしゃがんで顎を撫でてやった。ごろごろ、愛らしく喉を鳴らしている。可愛いねぇ。
「お姉ちゃん、猫好きなん?」
「あい。好きでありんす」
草履が見えたので顔を上げる。黄金色の髪に碧い瞳のおのこがいた。おのこはわちきと一緒に猫を撫でる。……この子、きっと、あれだね。
「あんた、中臣屋の子かい?」
「うん。私は中臣屋の千歳や。父様の名は小焼。母様の名はけい」
「その二人なら、わちきはよぉく知っていんす。……へえ、あんた、どっちの顔も良いとこどりしてんねぇ。男前じゃないかい」
「えへへ、ありがとう!」
「謙遜したほうが良いもんでありんす。まあ、その顔だと謙遜したら嫌味になっちまうかねぇ。……じゃあ、わちきは湯屋に行くから、親御さんによろしくね」
「お姉ちゃんの名前聞いてへんよ」
「わちきは春日でありんす」
「春日っていうと……、ああ! おはるさんや! 夏樹せんせの女房やな!」
「ち、違うよ! わちきは女房じゃない!」
慌てて訂正をする。女房じゃない。いつかそうなれたら嬉しいとは思うけど、女房じゃない!
千歳はわちきの顔をじーっと見てくる。この子は父親譲りで目を見てくるのか。俯いて話さないから声がよく聞こえて良いけれど、けっこうはきはき話すから少し耳が痛いし、近くを通るもんがこっちを見てくすくす笑ってる。
「ほんなら、許嫁か?」
「それも違いんす。わちきはただの小見世の貧乏女郎さ」
「でも、夏樹せんせ……一昨日くらいに、父様に『所帯を持つことにしたんだ』って話してたんよ」
「は?」
「そん時に、おはるさんの話してた」
「そう言われてもねぇ」
そんなこと聞いてないもんだ。所帯を持つことにしたって……いったいどういうつもりなんだか。次に来た時にしっかり話を聞く必要がありそうだね。
ここでこんまま千歳に付き合ってたら湯屋が満員になっちまうから、さっさと行こう。わちきはそのまま足早に立ち去る。後ろから「また遊んでなぁ」って声が聞こえてきたので、手を振っておいた。
あのせんせのことはさっぱりわかんない。また胸が熱くなっちまう。昨夜の房事を思い出したら、脚の間が軋んじまう。ああ、駄目だ駄目だ。あの人のことばっか考えちゃ駄目なんだ。
湯屋の前に辿り着くと、遠くに夏樹せんせが見えた。周りにはちらほらしか人がいない。大声でも出せばすぐに気付いてもらえそうだ。声をかけようか。いや、やめとくか。
そう思ってたら、咳をする音が聞こえる。障子を叩くような湿った音だった。夏樹せんせは口を拭って、そのまま行っちまった。その口と袖が赤かった。
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