はるなつ来たり夢語

末千屋 コイメ

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第十四話

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 年玉用の甘露梅かんろばい作りに引手茶屋の姉さん方が張り切っている頃、わちきは昼の張見世で煙草をふかしていた。着物もすっかりあわせから単衣ひとえに衣替えした。これからもっと暑くなってくる。汗のにおいは嫌いじゃない。そいつが生きてるのがよくわかる。夏の男の逸物は尿と精汁と汗のにおいが混じってひどく気が悪くなるもんだ。ついでによがり泣いてくれりゃ涙も流す。どれだけ身体から水を搾り取ってやれるかってのをやりたいもんだ。
 夏樹せんせからの手紙はすぐに返ってきた。しわしわによれちまっていたが、端がきっちり揃った手紙だった。何回も折りなおしてくれたのかね。小焼兄さんに話を聞けば、折りなおしたのは兄さんだと言う。あまりに大雑把に折るもんだから、とやってくれたらしい。「中身のほうが大事だと言っても見た目も大事だ」とかぼやいてたっけな。見目麗しい二枚目の小焼兄さんが言うと違う意味のようにも聞こえるが、真心が伝わりゃわちきは見た目はどうだって良いと思うんだ。
 で、それから一月ひとつき過ぎたくらいだ。格子の向こうで男達がこちらを見ている。昼だが、人通りはそこそこある。お屋敷者が吉原に流れてきているようだった。妓夫台に座る見世番にお勤め代を聞いては肩を落としていく姿を見かける。そんなに持ち合わせがないなら、外で夜鷹でも買りゃ良いじゃないか。もしくは局見世でも河岸見世にでも行きゃ良いのに。ぎりぎり小見世のわちきが思うもんでもないか。
「おまえさん、目が赤いなぁ?」
「は? ああ、そうでありんす」
 ほう、と男は声を出す。身の丈以上の大風呂敷を背負った男だった。どすん、と風呂敷が下ろされる。ああ、貸本屋だね。わちきは本を読まないから声をかけたことがないが、朋輩がよく新刊情報を聞いてるのを見かけたことがある。そいつは今朝腹が痛いだのなんだので身揚がりしてっから、代わりにわちきに声をかけたのか。あんまり目のことを言われたくないんだが、じっと見られたら睨み返してやりたくなるもんだ。ガンの飛ばしあいなら受けて立つってもんさ。ほら、すぐに目を逸らした。金玉のちっさい男なんじゃないかねぇ。
「わちきは本を読まないよ」
「まあまあ、そう言わずに。俺は阿武屋の雪次ってんだぜ!」
「阿武屋の雪次様ね。あいあい、わかりんした」
「お近づきの印に『桜鬼酔恋噺おうきすいれんはなし』でも貸してやるぜ」
「わちきの話聞いてたかい? 本は読まないって言いんした」
「これは新刊だぜ。後から読めなくなっちまうかもしれねぇくらいには珍しい本なんだぜ。ほら、百鬼夜行の小鬼が綴ったもんだ」
「ああ、おけいね。それなら本人に語ってもらいんす。さっさとお引き取りくんな」
 そういや、三日前くらいにも、おけいは夜見世に来た。さすがに大店のカミさんだけあって、禿に腹いっぱいに料理を食わせていくし、花代も渡していくほど豪勢に遊んでいく。そこらの男の客よりも羽振りが良いので、亡八も遣手婆も「中臣屋の奥様は良い客だ」と言っているくらいだ。「お礼の手紙を書いておきなさい」とか言ってくるくらいなので、書いておらんに持たせたら、戻ってきた時に飴を咥えていた。貰ったんだと。おらんは「黄金色の髪に目が青い鬼もいた」と言っていたので、子供がいるんだろう。あの夫婦、色鮮やかだから、子供も眩しいに違いありんせん。
 で、おけいは話して寝ていくだけかと思いきや、「今日は床の相手してやの」とか言って、そりゃあもう……なんなんだろうね、あの小鬼。さすがにてっぺんにいただけあって、させ上手でやり上手だ。身体が冷たいからひしって抱き締めるとひんやりしてて、これからの時期に一番良い客だと思うが、よがり泣かされるのは嫌だね。
 さて、雪次様はわちきとそれとなく話をして、やっと本を引っ込めてくれた。
「うーん、見れば見る程、お前は良い顔してるんだぜ」
「お褒めいただきありがとうございんす。遊んでいくならあがっていきな」
「俺にはともゑ屋に相方がいるんだぜ」
「あっそう」
 大見世に通うくらいだ。こんな小見世の女郎なんて見向きもしないだろうね。そういやこの人、小焼兄さんの知り合いだったような気がする。まあ、わちきにゃどうでも良いか。ともゑ屋っていうと、千寿のこともすっかり忘れられているように見える。仲の町でべそべそ泣いてた女郎を見かけることもすっかりなくなった。追善で燈篭でも作られるんだろうとは思うけどね。玉菊姉さんの燈篭と同じようにさげられるのさ、きっと。
 雪次様がようやくどっかに行ってくれたので、わちきは改めて外を眺める。煙がふわふわ浮いては、ごうっと吹いた風に消されていく。儚いもんだ。美しいものは一瞬でありんす。桜だってすぐに葉になっちまったもんだ。
「おはる! ああ、良かった。元気そうだ」
「……夏樹せんせ、帰ってきたのかい?」
「おう。帰ってきたよ。早速その辺から呼び出されててまいっちまいそうだ」
「ほーん。わちきより売れっ子でありんす」
「全然嬉しくない売れっ子だけどな」
 あはは、と笑いながら後ろ頭を掻いている。久しぶりに見た夏樹せんせはなんだか雰囲気が少し変わっているように見えた。どこが違うってのは、はっきりわかんないが、何か吹っ切れているように見えた。わちきは手を伸ばしてせんせの頬を撫でる。
「今夜、来ておくれよ。わちきはずっと寂しかったんだ。他の男に抱かれてる時も、ずっと、あんたのこと考えて御開帳してたんでありんす」
「そっか。そんなら、今夜行くよ」
「ん。待ってるよ」
 頬を撫でていた手を取られ、軽く小指を噛まれた。ぞくっとする。優し気に垂れた大きな目が濡れているようにも見える。可愛い顔をしてんのに、やることはそこいらの男よりも男っぽいから、わちきはどうにもあてられちまう。「あばよ」と手を振りつつ去るせんせに手を振り返す。胸がぎゅっとしめつけられるくらいには、苦しい。この面倒な想いをどうにか解いてもらわないと。ぼうっと見送っていれば、「あいつが……夏樹か……」と声が聞こえてきた。頬に傷のある男がいた。ヤクザものだってのは、わちきにもわかる。懐から匕首を取り出して、鞘から引き抜いていた。太陽光を受けた刃が煌めく。まずい。これは、まずい。報せないと!
 わちきは立ち上がり、急いで見世先に飛び出す。内所から怒号がとんできたが、今はそんなこたどうでもいい! あの人を、追いかけないと!
 駆けていくヤクザものの背が少し遠くに見える。わちきの足じゃ追いつけない。わちきは追いかけてきた番頭の茂吉に羽交い絞めにされる。
「ばっか、茂吉! わちきを捕まえずにあのヤクザものをどうにかするんだよ! このままじゃ、せんせが殺されちまう!」
「なんだって! 嘘じゃねぇだろな!」
「そんな嘘吐くかってんだい!」
 わちきは手足をばたつかせるが男の力にゃかなわねぇ。わちきの必死さが伝わったのか、茂吉はヤクザものをじっと見据えていたが動こうとしてくれねぇ。
「あたしらがかなうもんじゃねぇからもどっぞ」
「何言ってんだい!」
 引き摺られていく。駄目だってのに、戻るのは駄目だってのに。
 もう少し先の人ごみの中で、白い羽織が揺れているのが見える。その手前にヤクザものが見えた。
「夏樹!」
 わちきは精一杯の大声を出す。前を向いていた身体が振り向いて、こちらを見る。わちきは馬鹿だ。呼んだら、あのせんせは振り向くに決まってるし、足を止めるに決まってる。それに、あのヤクザものにはっきりわかるようになっちまう。ああ、馬鹿だ。わちきは馬鹿だ。馬鹿で馬鹿で、馬鹿だ。
 人ごみから悲鳴があがる。近くの見世の女郎の叫び声だ。ああ、ほら、わちきは馬鹿だ! 悲鳴を聞いた茂介の手が緩んだ。その隙に抜け出し、駆ける。人を掻き分けていく。何がどうなっているか見えない。人々が口々に「鬼だ」と言っている。そんなこと言ってる場合か!
 少し離れたところで、面番所の岡っ引きがヤクザものを捕らえているのが見えた。彼の手から赤く染まった匕首が叩き落とされていた。
 騒ぎの中心は、赤くて、赤くて、赤かった。白い羽織が赤い。地面も、赤い。刺されたのか斬られたのかわちきにはわからない。視界が滲んで、大粒の涙が頬を伝ってぼろぼろ零れていった。わちきが悪いんだ。わちきが馬鹿だから悪いんだ。涙が地面に落ちて、水たまりを作っていた。

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