はるなつ来たり夢語

末千屋 コイメ

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第十話

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 小焼とおけいと話していたら、階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。ガラリッ、襖が開く。
「おっ、夏樹もいたのか!」
雪次ゆきじ……、おまえは何だってここに?」
「俺はおけいに本を貸しに来たんだぜ。ほら、新刊だ」
「わぁ、ありがとうございますやの」
 雪次から本を受け取り、おけいは笑った。隣で小焼がへの字口をしているが、これはいつもの表情だ。
 雪次は俺と小焼の幼馴染で、貸本屋阿武あぶ屋の若旦那だ。いつも本を担いで方々の妓楼を回っている。昔はおけいの客だったが、おけいは小焼に心底惚れていたので振られた。だけど、未だに新刊が出たら一番に読ませているようだ。
「なぁおけい、小焼と交合とぼすのに飽きたら、俺としようぜ!」
「うふふ。残念ながら、ウチはもう小焼様のおっきいまらやないと、満足できへん身体やの。雪次様の粗末なすぼけまらやと感じもしやんの」
 とまあ、恥ずかしげもなく、朝からそんなことを言えるのは、さすが吉原一の花魁だっただけある。これには雪次も苦笑いをしていたし、小焼も口の端が引き攣っているように見えた。爪を噛みそうだったので手を掴んで下ろす。小焼は何も言わずに、視線だけをおれに向け、手を振り払う。熱い手だ。小焼の手は、あったかい。
「あ、そうそう、夏樹。今、外をうろうろ出歩かない方が良いぜ」
「へ? 何でだ?」
「千寿が死んじまったろ? だから、だぜ」
「ああ……。わかった。ありがとな」
 また、だな。
 きっと、また、おれは罵倒される。
 人が死ぬ度に、罵詈雑言を浴びせられる。わかってる。わかってた。そういうのが、医者だ。助けてなんぼなんだから、死なせちまったら意味が無い。おれだって、助けたいし、救いたい。できることなら、皆。
 死んだら、おれには何にもしてやれない。手当てもできない。死んだってことを伝えるしかできない。
「千寿の情夫いろは、ヤクザものだとか聞いたことがあるぜ。そいつに会うと厄介だぜ?」
「そうだな……」
「お前が一生懸命やってんのは俺も鬼も知ってんだぜ! だから、そんな顔は無しだ!」
「私は鬼ではないです」
「ひぇっ、冗談だから睨むなって!」
「睨んだつもりはありませんが」
 仲が良いのか悪いのか、喧嘩するほど仲が良いって言うから、悪くはないかもしれねぇな。小焼は雪次の頬をつねっていた。前まですぐ殴ってたから、つねるだけ優しいのかもしんねぇな。
 その後は風呂敷包みを受け取り、雪次と共に中臣屋を出た。雪次はすぐに大見世に向かっていく。貸本の案内をするんだと。うろうろ出歩かない方が良いと言われたし、養生所に寝かしている病人も気になるから、早足で道を往く。
 そこかしこを湯屋へ向かう女郎が歩いている。ごうっと吹いた風で桜が舞い上がる。ああ、やっぱりここの桜は綺麗だ。
「夏樹様」
「おっ、万寿まんじゅ。湯屋の帰りか?」
「そうでございんす」
 桶を抱えた女郎に声をかけられた。ともゑ屋の昼三、万寿だ。こいつも亡くなった千寿と同様に、おけいについていた新造だった。千寿と万寿は番付で一、二を争うほどの人気女郎だが、二人の仲はとても良かったらしい。
「千寿はわっちより先に吉原ちょうを出ちまいやした。共に競い合おうとゆびきりした約束は守ってもらえず……」
「……わりぃ」
「坊主に聞きんした。千寿は、夏樹様がもう少し早く来たら、助かったかもしれないと。しかして、これがこの子の天寿。仏様に呼ばれたのだと」
 不意に首を撫でられる。ぞわっとした感覚が背を滑り落ちていく。湯屋帰りだからかほのかに糠の甘い香りがした。
「わっちの親友を殺しといて、女遊びにうつつを抜かしてたんでありんすか」
「っ、ちが……」
 ーーいいや、違わないか。
 もう少し、もう少しだけ早く、おれがともゑ屋に着いてたら、何か変わっていたかもしれない。千寿も助けられた。まだ息をしていた、きっとそうだ。
 万寿は濡れた瞳でおれを睨んで、そのまま行っちまった。
 謝っても許されない。死んだらもう帰ってこないんだ。もうあの笑顔だって見ることができない。先日まで飴を咥えて笑ってたってのに……何で……?
 ああ、そっか。おれが悪いのか。
 風呂敷包みを抱えなおす。着物、渡してやらねぇと……財布も取りに行かねぇと……。
 胸が苦しい。目が熱い。まずい。こりゃ、駄目だ。座りこむ。早く帰らなきゃなんねぇのに。動けない。仲の町のど真ん中に座ってたら邪魔になっちまうし、迷惑だ。
 声が聞こえてくる。
 あいつは女郎を見殺しにした。
 下衆人を生かして女を殺したあいつも罪人だ。
 女遊びに夢中で急ぎの用を蔑ろにした。
 ああ、そうだ。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、おれの所為だ。
「道のど真ん中にいられたら迷惑ですよ」
 声が降ってくる。そりゃ邪魔だな。おれもわかってるよ。
 脇に手を差し込まれ、ひょいっと抱え上げられた。荷の積んである車に乗せられる。風呂敷包みも薬箱も乗せられた。
「まったく……」
 金色の髪が揺れる。車の引き手が溜め息を吐く。怖いぐらいに美しい赤い瞳と目があった。
「あはは……、わりぃな、小焼」
「お前は馬鹿だ」
「お、おう……。そう、だな……。馬鹿だよ」
「……たまには、言い返したらどうですか」
 小焼は車を引き始める。馬の尻尾のように結い上げられた髪が揺れている。背筋がしゃんとしていて、立派だ。広い背中が逞しいし頼りがいがある。同じ男でも、おれとは全然違う。おれは背が低いし、力もそんなに無い。『人を支えられる立派な大樹のような男になるように』と願ってつけられた名前も、なんだか期待外れになっちまってる。母親に似てるから、威厳も無いし、へたれだな、ほんと。
 母ちゃんは無理しないでおまえの好きなようにしなさいと言ってくれたし、父ちゃんは何も言わない。
 養生所を造るのにお偉いところに掛け合ってくれたのは父ちゃんだ。それっきり、何も言わない。伊織屋の皆が手伝ってくれてるのは……何かあんのかな、気にしたことなかったな。
「なあ小焼、そのまま聞いてくれ……。いや、聞き流してくれてかまわねぇけどさ……」
 小焼は何も答えない。風に吹かれた桜の花びらが無数に舞っていて綺麗だ。風が吹く度に花の命は消えていく。散る間際が一番綺麗なんて、残酷だな。
「おれ、ずっと……おまえが羨ましかったんだ。憧れてた。おれより背がずぅっと高いし、顔も鼻梁が通ってて綺麗だ。髪も目も怖いぐらいに美しいし、なにより、言動がしっかりしてる。おれ、駄目なんだ。すぐに何がしたいかわからなくなる。他人の事ばっか気にして、他人の目ばっか見て、自分ってのがわからなくなって……おれ、何が好きだったかもわかんねぇんだ……食べ物とかはわかっけど……何だったかな……」
 何話してんだっけ? おかしいな、こんな事言うはずじゃなかった。涙が頬を流れ落ちる。
 聞き返すことの多い小焼だ。これもきっと耳にまで届いてない。おれの独り言になってる。でも、そのほうが良い。
 大門を抜け、見返り柳を通り過ぎた。急に車を止めて、小焼が振り返る。
「夏樹が話してくれなかった好きなもの、ひとつだけ知ってますよ」
「おれが話してないもの?」
 不意に唇に熱が伝わる。滲んだ視界の間近で赤い瞳が光る。ああ、本当に綺麗だな。
 ん? あれ?
「小焼、今……」
「おけいが言ってましたよ」
「…………あいつ、喋ったのかよ」
「独り言、ですかね」
 嘘だな。小焼はおれの額をつついて、また前を向き、車を引き始めた。
「まあ、貴方の気持ちには応えられません。私はおけいのことが好きですから」
「おまえ、それ、よく恥ずかしげもなく言えたな?」
「酔っているのかもしれませんね」
「はは、そっか……。振られちまったなぁ」
 なんだか胸につっかえていたものが取れたような気がする。空が青い。おけいの髪にそっくりだ。何でも包み込んじまうんだな、あれは。
「今日はゆっくり休んでください。着物は私が春日に渡してきますし、財布も返してもらいますから」
「でも、往診がーー」
「医者はお前の他にもいる! 薬ならうちでも配れる!」
「わ、わかったよ、休む……」
「いつかお前は言ってたろ。周りの人に頼れってな。お前も頼れ」
「っ、……そうするよ」
 小焼がこんな話し方するの、いつぶりだっけな……。
 背中しか見えないけど、おまえが怒ってんのはわかるよ。
 薬を届けるだけなら任せたら良いか、そっか。頼って……良いんだな……。
 なんだか急に眠くなってきて、おれは寝てしまった。

 
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