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第九話
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なんだかすごくよく寝たような気がする。
おはるは隣にいなかった。窓から朝日が射している。雀の鳴き声やあさり売りの声が聞こえてきた。
「おはよ、夏樹せんせ」
「おはよ、早起きなんだな?」
「女郎は客より遅く寝て客より早く起きるもんでありんす。ほい、これ使いな」
手水を渡されたので身支度を整える。大雑把に剥がされた着物を拾う。そろそろこれも洗ってもらわねぇとな……。洗濯係に頼んでおくか。
「せんせ、今日は忘れ物しないどくれよ」
「はは、きちんと確認するよ」
「忘れたらわちきが貰うだけだけどね!」
と言いつつ笑うおはるの目に光が射す。ああ、やっぱり少し赤い目が綺麗だ。思わず頬を両手で掴んでしまったから、おはるはムッスーとした顔になった。
「また綺麗とか言う気かい?」
「あ、わりぃ。でも、本当に綺麗だからさ」
「わちきの目を褒めるの、せんせぐらいだよ。悪い気はしないけどね」
おれが手を離せば、おはるは猫を追い出すようにしっしっ、と手を振る。綺麗過ぎて怖いんだよって言うとまた叩かれそうだからやめておくか。
サクラソウの鉢植えは窓際に飾られたようだ。朝日を受けて濃い桃色の花が開いている。花屋を呼び止めて話を聞いたら、これが良いと渡されたもの。おはるは、欠けた茶碗で水をやっていた。きちんと世話してくれるようだ。気に入ってくれたみたいで良かった。
「そういえばせんせ、わちきの着物、あんたの涙と鼻水でドロドロのベタベタでありんす」
「わ、わりぃ! 新しいの持ってくるよ!」
「ほんとかい? 嘘じゃないだろうね?」
「嘘吐かないって!」
ああ、そうだった。おれ、泣いたんだった。鼻水まで流して、情けねぇや。男がこんなに泣くって、頼りないだろうな……。
でも、なんだかすっきりした。おはるは全部聞いてくれた。嫌な顔は、多分、してなかった。胸に埋もれて泣いてたから、顔見てねぇけど、声があったかかった。一緒に泣いてくれるくらいには、心のあったかい子なんだ。
そういや、熱があったのに、交合しちまった。無理させたかもしれない。
「おはる、具合はどうだ? 熱、下がったか? 動悸は?」
「あー……あー……大丈夫でありんす」
視線が宙を彷徨っていた。おれはおはるの肩を掴んで額を合わせる。うん、熱はひいてそうだ。ついでに脈診とくかな。手首を掴む。どくどく、規則正しく流れている。悪いところはなさそうだな。おはるは俯いていた。やっぱりどっか悪いのか?
「大丈夫か?」
「せんせ、そういうことするなら言ってからにしてくんな!」
「ぁ痛っ!」
平手打ちが頬に入る。おはるの顔が鴇色になっていた。小焼を前にして照れたおけいのようだ。あそこまでは赤くなってねぇか。おけいは茹で蛸のようになっちまうもんな。
「わりぃ。今度からそうするよ」
「もう! 驚かせないでくんな!」
「イテッ!」
反対側の頬も叩かれる。少し視界が歪んだ。
さて、そろそろ行かねぇとな。薬箱を手に、立ち上がる。おはるが羽織を着せかけてくれる。背にぴったりくっつかれた。
「夏樹せんせ、次はいつ来なすんえ?」
「えーっと、着物探してくっからなぁ」
「だから、真面目に答えなくて良いんだよ。もう、来てくんなくとも……わちきはかまわないから。せんせは、忙しいお人だろ?」
「そりゃまあ、病は待ってくんねぇし……」
「……せんせ、わちき……やっぱりおかしいよ」
振り向いたら、胸に飛び込まれた。ぎゅうぅっと強く抱き締められる。
「胸が苦しいんだ。ドキドキして……苦しい……」
「そりゃ大変だ! えっと、動悸のーーッ!」
襟首を掴まれ、強引に言葉を塞がれた。唇が熱い。絡まる舌も、吐息も、熱い。うっすら涙に濡れた赤い瞳が、婀娜っぽくてゾッとした。飲み込みきれなかった唾液が口の端から落ちる。
「違うよ、せんせ。見立て違いでありんす」
頬を撫でられ、ニカッと笑われた。病じゃないなら良いが……気になっちまうな……。
「あはは、そっか」
「せんせ、わちきのこと、好きかい?」
「おう。好きだよ」
「…………ああ、やっぱり、そうだった」
「へ? 何がだ?」
「気にしなさんし。独り言でありんす」
笑ってたのに急にしぼんじまったな。それから、バシッと胸を叩かれた。痛い。おけいよりも痛い。
とりあえず薬出しとくか。気の所為だとしても苦しいだろうし、お守り代わりにでもなるだろ。もっかい座って薬箱を開く。動悸の薬なら、作ってあったはずだ。これこれ。
「これ、また動悸がした時に白湯に溶かして飲んでくれ。あ、あと、ちゃんと熱の薬も昼に飲むんだぞ。今下がってても昼には上がるからな」
「はぁ……。わかりんした。もうとっとと帰りな。わちきも湯屋行って飯食って二度寝するよ」
「あいあい」
薬箱を提げて階段を下りる。おはるは見世先まで見送ってくれた。手を振りつつ後にする。
ともゑ屋の前に人が集まっていた。亡骸が運び出されてるようだ。禿や新造、朋輩までもが泣いている。皆に愛されている立派な姉さんだったから……な。
あー、駄目だ駄目だ。ここで泣いてちゃみっともない! 男は涙を見せるもんじゃない。泣くものじゃない。女々しいって言われちまう。
「夏樹」
「お、小焼。朝早いんだな」
「おけいが泣き喚いてましてね……。ほとんど寝てませんよ」
「あ、あー……、わりぃ……」
けっこう遅い時間だったが、おけいの耳にも入ったみたいだ。可愛がってた妹が亡くなったんだもんな……そりゃ悲しいし、泣くだろうな。おけいが泣き虫でなかったとしても泣くだろう。
小焼はひとつあくびをした後、横を向いた。丸められた菰が運ばれている。両手を合わせて目を伏せていた。
助けたかった。
でも、無理だった。おれが見世に着いた時には、千寿の息は無かった。呼びかけにも応えてくれなかった。解毒させようにも、吐かせようにも、なんにも、反応が無かったんだ。隣に同じように倒れていた男はまだ息をしていた。呼びかけたら反応があった。だから、助けた。
何でそのまま殺さなかった?
何故死なせなかった?
どうして助けた?
何度も何度も何度も何度も何度も、言われた。
こっちは、下衆人だってのに!
助けるなら、女のほうにしろ!
吐き捨てるように、言われた。
でも、おれには、できなかったんだ。男を見捨てることも、千寿を助けることも。どちらも。
「夏樹!」
「わ、わわわっ、な、何だ小焼? 驚かせねぇでくれよ!」
「……首、痕ついてますね」
「あ、ああ! これ、これな、あはは、どうしたもんかな……。おけいのように布巻いとくか! なんてな」
「冗談はさておき……おけいに会ってもらえますか」
「おう。わかったよ」
小焼の後ろを歩く。また気の病を拗らせちまってるかな……。乱心したんだろうな。おれの所為だよな。おれが、可愛がっていた妹を助けられなかったうえに、毒を盛った下衆人を助けたから。しかも昨夜は小焼としっぽりする気だったはずだから……余計にだ。
中臣屋に入る。番頭や小焼の父ちゃんの宗次郎さんに挨拶してから二階に向かう。
すすり泣く声が聞こえる。泣いてるよな……まだ泣いてんだな……。小焼が寝てないって言ったくらいだ、本当に、寝てないんだ。
襖を開く。布団の上に青い髪が見えた。顔が上がる。
「おけい。夏樹を連れてきました」
「夏樹様……」
「あ、えっと、おけい……その……わりぃ。おれ……」
「ありがとうございますやの」
「へっ?」
お礼を言われた……?
罵倒されると思っていただけに、拍子抜けの声が出てしまった。
おけいはおれの前まで歩いてくる。おれの頬に手を添えて、軽くつねられた。痛い。そんでもって手が冷たい。そういや冷え性だった。
「夏樹様のことやから、ウチに叱られると思ってるやの。だから、つねってやったの!」
「あいたた……。でも、おれはーー」
ひゅんっ! と目のスレスレに、おそらく簪の先が見える。ぼんやりとしか見えない。その向こう側でおけいはにっこり笑った。
「それ以上言うたら、どんぐりまなこを抉り出すやの」
「この子は本気なので言わないでください」
「あ、あいあい」
小焼が横からおけいの手を掴んで下ろしてくれた。右手に握られているのは、やっぱり簪だった。
でも、おれは目玉を抉られるくらいのことをしたんだ。助けられなかった……。
「夏樹様が下衆人を助けてくれて良かったの。これで、百叩きや市中引き回しや獄門や磔にしてもらえるやの。それからそれから」
「おけい、その辺で」
「小焼様がそう言うなら」
小焼も少し怖くなったようだ。手が少し震えていた。にっこり笑うおけいは愛らしいが、時折見せる乱心した姿が怖い。
「だから、夏樹様は何も気負いせんといて欲しいの。千寿も、苦界から早く出られて良かったやの。なむあみだぶつ」
「そっか。そう言ってもらえたら……だいぶ楽になるよ」
苦界から早く出られた。
そう考えたら、良いのか。そっか。おけいの言うことも一理あるな。
下衆人も然るべき罰を受けっから……良いのか。助けて、良かったんだな。死なせて楽になるより生かして苦しませたほうが罰になるんだな。
……おれとしては、助けられるなら助けたい。救えるなら救いたいだけなんだけど。
「ところで夏樹様、首に痕ついてるやの。春日ちゃん?」
「わっ、あ、ああ。そうだよ。あ、そうだ。小焼、おけい、着物ってどうしてた? おれ、おはるーー春日の着物汚しちまったから新しいのをーー」
と話してる途中で小焼が珍しく口を開けて笑っていることに気付いた。おけいも一緒に笑っている。おれ、笑われること言ったか?
「そんなに笑うことねぇだろ!」
「すみませんっ、おかしくて……!」
「うふふ。小焼様がこんなに笑ってるの初めて見たやの。夏樹様ありがとうございますやの」
「どういたしまして? いや、笑うなって!」
長い睫毛に涙が溜まるくらいに笑われた。小焼がこんなに笑ってんのは、おれも初めて見た。昔は何言っても表情が変わらずだったから、嬉しいが、笑い過ぎだろ。
やっと落ち着いたところで、小焼が口を開く。
「それで、着物ですよね? おけいが玄人の時に貰ったものなら、すぐ渡せますよ」
「ウチ、潰そうと思ってたから、引き取ってもらえたら嬉しいの。仕立ててもろたけど、ほとんど着てなくて……小焼様がくれたやつばかり着てたから」
「あいあい。いちゃつきながら、ありがとな」
おけいは箪笥から着物を引っ張り出してくれた。黄色地に、白い花と格子柄の着物だった。おけいの髪の色がよく映えるが、おはるは、射干玉のような黒髪だからよく似合いそうだ。
「タダで貰うのもなんだから、いくらか言ってくれよ」
「それなら、お金より傷薬欲しいやの。今夜こそ、小焼様と……うふふ」
「引っ掻かないでくれた方が私は嬉しいんですが」
「違うの! 小焼様がウチを噛むからウチのやの!」
「うっ、すみません」
「あはは、わかったよ。傷薬な」
相変わらず仲の良い夫婦だ。ここまで人目を気にせずいちゃつかれると、なんだか微笑ましくなってくる。幸せそうにしてるから、おれも幸せな気分だ。
薬箱から傷薬を取り出し、おけいに渡す。小焼は着物を風呂敷に包んでくれていた。でもやっぱりタダで貰うのも気が引ける。財布を出そうとしたが、まるで手応えが無い。
「あ……財布忘れたや」
それを聞いて、小焼がまた笑っていた。
二回も笑うって珍しいこともあんだな。今日は良い事ありそうだ。
おはるは隣にいなかった。窓から朝日が射している。雀の鳴き声やあさり売りの声が聞こえてきた。
「おはよ、夏樹せんせ」
「おはよ、早起きなんだな?」
「女郎は客より遅く寝て客より早く起きるもんでありんす。ほい、これ使いな」
手水を渡されたので身支度を整える。大雑把に剥がされた着物を拾う。そろそろこれも洗ってもらわねぇとな……。洗濯係に頼んでおくか。
「せんせ、今日は忘れ物しないどくれよ」
「はは、きちんと確認するよ」
「忘れたらわちきが貰うだけだけどね!」
と言いつつ笑うおはるの目に光が射す。ああ、やっぱり少し赤い目が綺麗だ。思わず頬を両手で掴んでしまったから、おはるはムッスーとした顔になった。
「また綺麗とか言う気かい?」
「あ、わりぃ。でも、本当に綺麗だからさ」
「わちきの目を褒めるの、せんせぐらいだよ。悪い気はしないけどね」
おれが手を離せば、おはるは猫を追い出すようにしっしっ、と手を振る。綺麗過ぎて怖いんだよって言うとまた叩かれそうだからやめておくか。
サクラソウの鉢植えは窓際に飾られたようだ。朝日を受けて濃い桃色の花が開いている。花屋を呼び止めて話を聞いたら、これが良いと渡されたもの。おはるは、欠けた茶碗で水をやっていた。きちんと世話してくれるようだ。気に入ってくれたみたいで良かった。
「そういえばせんせ、わちきの着物、あんたの涙と鼻水でドロドロのベタベタでありんす」
「わ、わりぃ! 新しいの持ってくるよ!」
「ほんとかい? 嘘じゃないだろうね?」
「嘘吐かないって!」
ああ、そうだった。おれ、泣いたんだった。鼻水まで流して、情けねぇや。男がこんなに泣くって、頼りないだろうな……。
でも、なんだかすっきりした。おはるは全部聞いてくれた。嫌な顔は、多分、してなかった。胸に埋もれて泣いてたから、顔見てねぇけど、声があったかかった。一緒に泣いてくれるくらいには、心のあったかい子なんだ。
そういや、熱があったのに、交合しちまった。無理させたかもしれない。
「おはる、具合はどうだ? 熱、下がったか? 動悸は?」
「あー……あー……大丈夫でありんす」
視線が宙を彷徨っていた。おれはおはるの肩を掴んで額を合わせる。うん、熱はひいてそうだ。ついでに脈診とくかな。手首を掴む。どくどく、規則正しく流れている。悪いところはなさそうだな。おはるは俯いていた。やっぱりどっか悪いのか?
「大丈夫か?」
「せんせ、そういうことするなら言ってからにしてくんな!」
「ぁ痛っ!」
平手打ちが頬に入る。おはるの顔が鴇色になっていた。小焼を前にして照れたおけいのようだ。あそこまでは赤くなってねぇか。おけいは茹で蛸のようになっちまうもんな。
「わりぃ。今度からそうするよ」
「もう! 驚かせないでくんな!」
「イテッ!」
反対側の頬も叩かれる。少し視界が歪んだ。
さて、そろそろ行かねぇとな。薬箱を手に、立ち上がる。おはるが羽織を着せかけてくれる。背にぴったりくっつかれた。
「夏樹せんせ、次はいつ来なすんえ?」
「えーっと、着物探してくっからなぁ」
「だから、真面目に答えなくて良いんだよ。もう、来てくんなくとも……わちきはかまわないから。せんせは、忙しいお人だろ?」
「そりゃまあ、病は待ってくんねぇし……」
「……せんせ、わちき……やっぱりおかしいよ」
振り向いたら、胸に飛び込まれた。ぎゅうぅっと強く抱き締められる。
「胸が苦しいんだ。ドキドキして……苦しい……」
「そりゃ大変だ! えっと、動悸のーーッ!」
襟首を掴まれ、強引に言葉を塞がれた。唇が熱い。絡まる舌も、吐息も、熱い。うっすら涙に濡れた赤い瞳が、婀娜っぽくてゾッとした。飲み込みきれなかった唾液が口の端から落ちる。
「違うよ、せんせ。見立て違いでありんす」
頬を撫でられ、ニカッと笑われた。病じゃないなら良いが……気になっちまうな……。
「あはは、そっか」
「せんせ、わちきのこと、好きかい?」
「おう。好きだよ」
「…………ああ、やっぱり、そうだった」
「へ? 何がだ?」
「気にしなさんし。独り言でありんす」
笑ってたのに急にしぼんじまったな。それから、バシッと胸を叩かれた。痛い。おけいよりも痛い。
とりあえず薬出しとくか。気の所為だとしても苦しいだろうし、お守り代わりにでもなるだろ。もっかい座って薬箱を開く。動悸の薬なら、作ってあったはずだ。これこれ。
「これ、また動悸がした時に白湯に溶かして飲んでくれ。あ、あと、ちゃんと熱の薬も昼に飲むんだぞ。今下がってても昼には上がるからな」
「はぁ……。わかりんした。もうとっとと帰りな。わちきも湯屋行って飯食って二度寝するよ」
「あいあい」
薬箱を提げて階段を下りる。おはるは見世先まで見送ってくれた。手を振りつつ後にする。
ともゑ屋の前に人が集まっていた。亡骸が運び出されてるようだ。禿や新造、朋輩までもが泣いている。皆に愛されている立派な姉さんだったから……な。
あー、駄目だ駄目だ。ここで泣いてちゃみっともない! 男は涙を見せるもんじゃない。泣くものじゃない。女々しいって言われちまう。
「夏樹」
「お、小焼。朝早いんだな」
「おけいが泣き喚いてましてね……。ほとんど寝てませんよ」
「あ、あー……、わりぃ……」
けっこう遅い時間だったが、おけいの耳にも入ったみたいだ。可愛がってた妹が亡くなったんだもんな……そりゃ悲しいし、泣くだろうな。おけいが泣き虫でなかったとしても泣くだろう。
小焼はひとつあくびをした後、横を向いた。丸められた菰が運ばれている。両手を合わせて目を伏せていた。
助けたかった。
でも、無理だった。おれが見世に着いた時には、千寿の息は無かった。呼びかけにも応えてくれなかった。解毒させようにも、吐かせようにも、なんにも、反応が無かったんだ。隣に同じように倒れていた男はまだ息をしていた。呼びかけたら反応があった。だから、助けた。
何でそのまま殺さなかった?
何故死なせなかった?
どうして助けた?
何度も何度も何度も何度も何度も、言われた。
こっちは、下衆人だってのに!
助けるなら、女のほうにしろ!
吐き捨てるように、言われた。
でも、おれには、できなかったんだ。男を見捨てることも、千寿を助けることも。どちらも。
「夏樹!」
「わ、わわわっ、な、何だ小焼? 驚かせねぇでくれよ!」
「……首、痕ついてますね」
「あ、ああ! これ、これな、あはは、どうしたもんかな……。おけいのように布巻いとくか! なんてな」
「冗談はさておき……おけいに会ってもらえますか」
「おう。わかったよ」
小焼の後ろを歩く。また気の病を拗らせちまってるかな……。乱心したんだろうな。おれの所為だよな。おれが、可愛がっていた妹を助けられなかったうえに、毒を盛った下衆人を助けたから。しかも昨夜は小焼としっぽりする気だったはずだから……余計にだ。
中臣屋に入る。番頭や小焼の父ちゃんの宗次郎さんに挨拶してから二階に向かう。
すすり泣く声が聞こえる。泣いてるよな……まだ泣いてんだな……。小焼が寝てないって言ったくらいだ、本当に、寝てないんだ。
襖を開く。布団の上に青い髪が見えた。顔が上がる。
「おけい。夏樹を連れてきました」
「夏樹様……」
「あ、えっと、おけい……その……わりぃ。おれ……」
「ありがとうございますやの」
「へっ?」
お礼を言われた……?
罵倒されると思っていただけに、拍子抜けの声が出てしまった。
おけいはおれの前まで歩いてくる。おれの頬に手を添えて、軽くつねられた。痛い。そんでもって手が冷たい。そういや冷え性だった。
「夏樹様のことやから、ウチに叱られると思ってるやの。だから、つねってやったの!」
「あいたた……。でも、おれはーー」
ひゅんっ! と目のスレスレに、おそらく簪の先が見える。ぼんやりとしか見えない。その向こう側でおけいはにっこり笑った。
「それ以上言うたら、どんぐりまなこを抉り出すやの」
「この子は本気なので言わないでください」
「あ、あいあい」
小焼が横からおけいの手を掴んで下ろしてくれた。右手に握られているのは、やっぱり簪だった。
でも、おれは目玉を抉られるくらいのことをしたんだ。助けられなかった……。
「夏樹様が下衆人を助けてくれて良かったの。これで、百叩きや市中引き回しや獄門や磔にしてもらえるやの。それからそれから」
「おけい、その辺で」
「小焼様がそう言うなら」
小焼も少し怖くなったようだ。手が少し震えていた。にっこり笑うおけいは愛らしいが、時折見せる乱心した姿が怖い。
「だから、夏樹様は何も気負いせんといて欲しいの。千寿も、苦界から早く出られて良かったやの。なむあみだぶつ」
「そっか。そう言ってもらえたら……だいぶ楽になるよ」
苦界から早く出られた。
そう考えたら、良いのか。そっか。おけいの言うことも一理あるな。
下衆人も然るべき罰を受けっから……良いのか。助けて、良かったんだな。死なせて楽になるより生かして苦しませたほうが罰になるんだな。
……おれとしては、助けられるなら助けたい。救えるなら救いたいだけなんだけど。
「ところで夏樹様、首に痕ついてるやの。春日ちゃん?」
「わっ、あ、ああ。そうだよ。あ、そうだ。小焼、おけい、着物ってどうしてた? おれ、おはるーー春日の着物汚しちまったから新しいのをーー」
と話してる途中で小焼が珍しく口を開けて笑っていることに気付いた。おけいも一緒に笑っている。おれ、笑われること言ったか?
「そんなに笑うことねぇだろ!」
「すみませんっ、おかしくて……!」
「うふふ。小焼様がこんなに笑ってるの初めて見たやの。夏樹様ありがとうございますやの」
「どういたしまして? いや、笑うなって!」
長い睫毛に涙が溜まるくらいに笑われた。小焼がこんなに笑ってんのは、おれも初めて見た。昔は何言っても表情が変わらずだったから、嬉しいが、笑い過ぎだろ。
やっと落ち着いたところで、小焼が口を開く。
「それで、着物ですよね? おけいが玄人の時に貰ったものなら、すぐ渡せますよ」
「ウチ、潰そうと思ってたから、引き取ってもらえたら嬉しいの。仕立ててもろたけど、ほとんど着てなくて……小焼様がくれたやつばかり着てたから」
「あいあい。いちゃつきながら、ありがとな」
おけいは箪笥から着物を引っ張り出してくれた。黄色地に、白い花と格子柄の着物だった。おけいの髪の色がよく映えるが、おはるは、射干玉のような黒髪だからよく似合いそうだ。
「タダで貰うのもなんだから、いくらか言ってくれよ」
「それなら、お金より傷薬欲しいやの。今夜こそ、小焼様と……うふふ」
「引っ掻かないでくれた方が私は嬉しいんですが」
「違うの! 小焼様がウチを噛むからウチのやの!」
「うっ、すみません」
「あはは、わかったよ。傷薬な」
相変わらず仲の良い夫婦だ。ここまで人目を気にせずいちゃつかれると、なんだか微笑ましくなってくる。幸せそうにしてるから、おれも幸せな気分だ。
薬箱から傷薬を取り出し、おけいに渡す。小焼は着物を風呂敷に包んでくれていた。でもやっぱりタダで貰うのも気が引ける。財布を出そうとしたが、まるで手応えが無い。
「あ……財布忘れたや」
それを聞いて、小焼がまた笑っていた。
二回も笑うって珍しいこともあんだな。今日は良い事ありそうだ。
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