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第七話
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ぼーっと、籬の向こう側を見る。うちは小見世で惣半籬だから、外がよく見える。それなのに、ここから出られないって思うと、なんだか急に悲しくなってきた。あの逃げた男は今頃どっかでよろしくやってんだろなぁって、わちきを迎えに来るって約束も消えちまったんだろうなって。別にそれほど好いてもなかったけど、外に出してくれるって言うから……惚れたフリをしてただけなんだ。きっとそう。フリだ。フリ。惚れたら負けだ。ここだと、惚れちまったら面倒なことになる。
心に背負いこんだ重みがじんわり熱を持つ。ああ、どうしたもんか。せんせの煙草入れを懐に入れている。いつ通っても良いように。あんな良い人が、こんな小見世に通ってくれる訳がない。そもそも、わちきじゃ釣り合わないだろ。もっと大見世の女郎のが良いに決まってる。……とは思うんだ。でも、わちきは、期待しちまってる。あんな上等な布団を貰えるなんて思わなかった。布団が欲しいなんて言ってない。それともなんだ、寝心地が悪かったから嫌味で贈ってきたのか! ……いいや、あのせんせは優しいから、きっと、違うんだ。優しさで、良い布団を贈ってきた。そんだけだ。ここでわちきと寝ようとかそういう想いは一切なくて、わちきに良い布団で寝てもらいたいから……。なんだかそれもおかしいような気がしてきた。いっそ、小焼兄さんに理由を聞いても良かったかもしれない。さっさと帰っちまったから、詳しく聞けなかったけど、幼馴染と言っていたし……嘘を吐くなとも言われた。そんで、必ず来るから煙草入れは置いていくって……。あの兄さんも優しいんだ。鬼だけど。
人の波ができる。品定めをする男達の視線が肌に突き刺さる。今夜の相方を見つけるための、品定め。わちきは商品でしかないから、ここで選ばれるを待つ。こちらから誘う気にもならなかった。選ばれたくない。昨日までなら、通りがかる男に声をかけていたのに、ああ、おかしい。わちきはおかしくなっちまった。これもあのせんせのせいだ。さすがに昨日の今日で来てくれたりはしないかな。忘れ物を受け取りに、だけでも良いから……。小焼兄さん、きちんと夏樹せんせに伝えてくれたんだか。
なんだか甘い香りがする。視界の端に濃い桃色の花と白い羽織が見えた。顔を上げる。人懐こい犬のような笑みが見えた。
「せんせ、何だいこれ?」
「花屋がくれたんだ。サクラソウだってさ」
「そりゃ見たらわかるけどさ……」
何でこの人は薬箱持ってんのに植木鉢まで持ってんだか……。来てくれたことに、胸がじーんと痛む。ちょっと鼻が痛い。ああ、泣きそうになっちまうよ。ただの通りすがりかもしれないんだから、たまたま立ち寄っただけかもしんないんだからさ。泣いてどうすんだよわちき!
「夏樹せんせ、あの布団はいったいどういうつもりなのさ!」
「あれは、うちの養生所で余ってたやつなんだ」
「あっそう……」
「わ、わりぃ! うちの押し入れの肥やしにしちまうのも勿体無かったから」
「別に怒っちゃいないよ……」
ああ、そういうことだったのか。なんだかぬか喜びしちまったよ。このせんせ、優しいから……気にしてくれたんだとは思うけどね。悪い気はしない。でも、なんか、喜んじまった自分が少し情けないというかなんというか。
「で、煙草入れ取りに来たんだね? ほら、持っていきな」
「へ? ここで受け取って良いのか?」
「何言ってんのさ。ここで受け取らずに何処で受け取る気だい?」
「おまえに渡したいものとかあるから、あがって良いか?」
「せんせ、今、わちきを……おまえって言いんした?」
「あ、駄目だったか? わりぃ!」
「いや、良いよ。おまえでもね。そんで、客としてあがってくれるならわちきも嬉しいよ。見ての通り、男日照りになりそうでありんす」
「おう。そんじゃ、お邪魔するよ」
夏樹せんせは人懐こい笑みを浮かべて、見世番に声をかけていた。すぐに支度しろと声がかかる。言われなくともわかってる。……「おまえ」って呼ばれたからか、心がまたぎゅっとなっている。ほんと、面倒なものを背負いこんじまったねぇ……。
せんせの手を取ろうと思ったけど、薬箱と植木鉢で塞がっているから袖を掴んでやった。そのまま部屋まで案内してやる。他の部屋から喘ぎ声が聞こえてくる。障子が開きっぱなしになってるから、屏風の向こう側で交合してるのがわかる。まだ床入れの時刻でもないってのに、お熱いもんだ。
「部屋に布団置いたんだな? 見世先で飾るものだと思ってたよ」
「だいたいはそうだけど、あんな布団、小焼兄さんくらいしか運べないさ」
「あはは、確かにそうだな。あれがうちに運ばれた時も何往復もしてたよ」
「――ほい、煙草入れ返すよ」
「おう。預かっててくれてありがとな」
煙草入れを返すとすぐに煙管と煙草を取り出していた。わちきは煙草盆を渡す。火入れがされ、紫煙が漂う。可愛い顔には似合わないほどの艶やかさがある。たまに見せる男の顔が、すごく色っぽい。いつも人懐こく笑ってるからわからないだけで、もしかしたら、けっこう端正な顔つきをしているのかもしれない。目尻が垂れてっから、やっぱり可愛いとは思っちまうんだけど。
禿が台の物を運んで来てくれたので、酌をする。肴が硯蓋に乗っている。変わり映えのしない枝豆や豆腐の煮物だ。
「せんせ、わちきにも煙草おくれよ」
「おれので良いのか?」
「良いよ。わちきは、せんせの煙草好きでありんす」
「ははっ、さては勝手に吸ったな?」
「忘れる方が悪いんでありんす」
煙管を受け取って口に含む。やっぱり美味い煙草だ。夏樹せんせは枝豆を唇に挟んでいた。それから酒を飲んでいる。微かに薬の香りがする。薬箱があるからってのもあるだろうけど、せんせの着物にも染み込んでいるんだと思う。
「夏樹せんせ」
「ん? わっ」
こっちを向いたので、煙を吹きかけてやる。煙管を煙草盆に置き、太腿を撫でつつ、擦りついてやる。
「せんせ……、わちき、胸がドキドキして、ちょっと熱があるみたいなんだ」
上目遣いでこう言えば、だいたいの男はわちきを乱暴に押し倒す。目が大きく見開かれた。ほら、押し倒して良いんだ。のってきな。
「そりゃ大変だな!」
「へ?」
「動悸と熱か……。それって、いつからだ? 脈は、と……」
「あの、せんせ……」
「脈は大丈夫そうだな。口開けてみな」
駄目だ。本物のお医者せんせにこう言ったら病人扱いされちまう。今までは坊主が化けた医者だったから使えたのかね。せんせはわちきの手首を握って脈を診たし、口を開かせて喉まで診てくれた。優しいし、心配してくれてるってのはわかるんだけど、そうじゃないんだよ!
「台所で白湯貰ってくるよ」
「良いよ良いよ気の所為だったようでありんす!」
「いや、それでも気になるよ。熱はあるっぽいしな」
額を合わせられてなんだか妙に気恥ずかしい。そりゃあ熱も出ちまうって! 生娘でもないし、昨夜肌を重ねてもいるのに、恥ずかしくなってきた。何でわちき、熱があるって言っちまったんだ! 夏樹せんせは本当に台所に白湯を取りに行っちまったし、戻ってきて薬を合わせてくれた。……これ、何に効く薬なんだか。熱さましだとは思うんだけど、わちきは風邪をひいてもいない。でも、飲まないとせっかく夏樹せんせがわちきの為に作ってくれたんだから。
「にっが!」
「そりゃあな、良薬は口に苦しって言うだろ」
「ううぅ、あ、ありがとね」
「おう。これ、明日の昼に飲んでくれな。白湯で飲んでくれたら良いから」
とか言いつつ紙に粉薬が包まれている。明日の昼は……飲まないで良いね。
いっそ初めから口吸いでもしてその気にさせたら良かったのかね。脚の間が軋んで滴ってるのが自分でもわかるくらいだ。抱かれたい、と思うなんて初めてだよ。フリはいくらでもしてきたけど、本当にこの人になら抱かれたい、とかさ。
「そういや、このサクラソウは何だってんだい?」
「おはるにあげようと思って」
「植木鉢でかい? まあ……良いけどね……」
殺風景な部屋に花を置くのも良いと思う。花屋から貰ったとか言っていたような気もするけど、わちきに贈ろうって思って来てくれたんなら嬉しい。花は好きだから、育てよう。良い香りもする花だ。甘くて、華やかな気分になる。
「あと、これ」
「紅白の小花と鶴のつまみ簪なんて持ってきてどういうつもりでありんす?」
「深川の部屋にあったんだと」
「形見ってわけかい。……ありがとね。わちきは、顔を見ることさえできなかったから」
簪を受け取る。上等な簪だ。あの子は、良い姉さんの下につけたんだね……。可愛がってもらわないと、こんな上等な簪を貰えないだろうに。わちきよりも器量も気立ても良い子だったから大見世に買われたってのに……可哀想な子だよ。涙が頬を伝う。いよいよ泣いちまったよ。客の前で泣くのは、弱みを見せるからって嫌だってのに。
そしたら、夏樹せんせはわちきをぎゅっと抱き締めて、背をとんとん優しく叩いてくれた。本当に、この人は優しいんだ。わちきが押したら離れて薬箱から出した紙で頬を拭ってくれた。目が合う。こげ茶色の瞳が少し濡れていた。もらい泣きしなくっても良いのに。わちきはせんせの襟首を掴んで、唇を塞ぐ。舌を差し入れて絡めた。ちゅっちゅっ、微かな水音と熱い吐息がこぼれる。舌を絡めて、吸って、唾液を飲み込んで、頭がぼうっとしてくる。気持ち良いんだ。やっぱり、この人、口吸いが上手だ。
「ぁ……なつ、きせんせ……」
吐息混じりに名を呼べば、熱っぽい瞳と目が合う。わちきはせんせの首に唇を押し当てる。赤い華が咲いた。
「痕つけられっと、ちょっと困るんだよな」
「女郎に痕つけられるんだから、江戸っ子としては良いもんでありんす」
夏樹せんせは笑って後ろ頭を掻いている。わちきの歯形もくっきり残ったままだ。これで、他の見世の女郎にわちきの存在が知られるはず。特別な存在がいるって、気付いたら良い。これだけこの人に触れてるのはわちきだけかもしれないけど。
「せんせ、ほら、布団においで」
「ん。おれも寝たことないからな」
「まだ寝かさないかんね」
男の顔になってるから、寝ないとは思うが釘を刺しておく。せんせは笑った。人懐こい犬のような笑顔だ。昨日はやられっぱなしだったから、今夜はわちきがよがり泣かせてやりんす。と意気込んでいると忙しない足音が聞こえてきた。
「すいやせーん! 夏樹先生いやすかー!」
「おう! おれならここにいるよ!」
「ああ、すぐ来てくだせぇ! 千寿のやつが血を吐いて……!」
「っ! わ、わかった! すぐ行くよ! わりぃおはる! すぐ戻るから!」
「あ、うん……。行ってきな……」
「おう。行ってくる!」
着物を正すと薬箱を持って夏樹せんせは出て行っちまった。今のは……どこぞの見世の番頭だったかな。顔がよく見えなかったけど……。
ああ、廻しの客の気持ちがわかったよ。呼び出しされる売れっ子を相方にしたらどうなるかってのがよくわかった。わちきは残った酒を一気に飲み干して、布団に丸まった。虚しくなっちまったや。ああ、早く帰ってきてくんないかねぇ。
心に背負いこんだ重みがじんわり熱を持つ。ああ、どうしたもんか。せんせの煙草入れを懐に入れている。いつ通っても良いように。あんな良い人が、こんな小見世に通ってくれる訳がない。そもそも、わちきじゃ釣り合わないだろ。もっと大見世の女郎のが良いに決まってる。……とは思うんだ。でも、わちきは、期待しちまってる。あんな上等な布団を貰えるなんて思わなかった。布団が欲しいなんて言ってない。それともなんだ、寝心地が悪かったから嫌味で贈ってきたのか! ……いいや、あのせんせは優しいから、きっと、違うんだ。優しさで、良い布団を贈ってきた。そんだけだ。ここでわちきと寝ようとかそういう想いは一切なくて、わちきに良い布団で寝てもらいたいから……。なんだかそれもおかしいような気がしてきた。いっそ、小焼兄さんに理由を聞いても良かったかもしれない。さっさと帰っちまったから、詳しく聞けなかったけど、幼馴染と言っていたし……嘘を吐くなとも言われた。そんで、必ず来るから煙草入れは置いていくって……。あの兄さんも優しいんだ。鬼だけど。
人の波ができる。品定めをする男達の視線が肌に突き刺さる。今夜の相方を見つけるための、品定め。わちきは商品でしかないから、ここで選ばれるを待つ。こちらから誘う気にもならなかった。選ばれたくない。昨日までなら、通りがかる男に声をかけていたのに、ああ、おかしい。わちきはおかしくなっちまった。これもあのせんせのせいだ。さすがに昨日の今日で来てくれたりはしないかな。忘れ物を受け取りに、だけでも良いから……。小焼兄さん、きちんと夏樹せんせに伝えてくれたんだか。
なんだか甘い香りがする。視界の端に濃い桃色の花と白い羽織が見えた。顔を上げる。人懐こい犬のような笑みが見えた。
「せんせ、何だいこれ?」
「花屋がくれたんだ。サクラソウだってさ」
「そりゃ見たらわかるけどさ……」
何でこの人は薬箱持ってんのに植木鉢まで持ってんだか……。来てくれたことに、胸がじーんと痛む。ちょっと鼻が痛い。ああ、泣きそうになっちまうよ。ただの通りすがりかもしれないんだから、たまたま立ち寄っただけかもしんないんだからさ。泣いてどうすんだよわちき!
「夏樹せんせ、あの布団はいったいどういうつもりなのさ!」
「あれは、うちの養生所で余ってたやつなんだ」
「あっそう……」
「わ、わりぃ! うちの押し入れの肥やしにしちまうのも勿体無かったから」
「別に怒っちゃいないよ……」
ああ、そういうことだったのか。なんだかぬか喜びしちまったよ。このせんせ、優しいから……気にしてくれたんだとは思うけどね。悪い気はしない。でも、なんか、喜んじまった自分が少し情けないというかなんというか。
「で、煙草入れ取りに来たんだね? ほら、持っていきな」
「へ? ここで受け取って良いのか?」
「何言ってんのさ。ここで受け取らずに何処で受け取る気だい?」
「おまえに渡したいものとかあるから、あがって良いか?」
「せんせ、今、わちきを……おまえって言いんした?」
「あ、駄目だったか? わりぃ!」
「いや、良いよ。おまえでもね。そんで、客としてあがってくれるならわちきも嬉しいよ。見ての通り、男日照りになりそうでありんす」
「おう。そんじゃ、お邪魔するよ」
夏樹せんせは人懐こい笑みを浮かべて、見世番に声をかけていた。すぐに支度しろと声がかかる。言われなくともわかってる。……「おまえ」って呼ばれたからか、心がまたぎゅっとなっている。ほんと、面倒なものを背負いこんじまったねぇ……。
せんせの手を取ろうと思ったけど、薬箱と植木鉢で塞がっているから袖を掴んでやった。そのまま部屋まで案内してやる。他の部屋から喘ぎ声が聞こえてくる。障子が開きっぱなしになってるから、屏風の向こう側で交合してるのがわかる。まだ床入れの時刻でもないってのに、お熱いもんだ。
「部屋に布団置いたんだな? 見世先で飾るものだと思ってたよ」
「だいたいはそうだけど、あんな布団、小焼兄さんくらいしか運べないさ」
「あはは、確かにそうだな。あれがうちに運ばれた時も何往復もしてたよ」
「――ほい、煙草入れ返すよ」
「おう。預かっててくれてありがとな」
煙草入れを返すとすぐに煙管と煙草を取り出していた。わちきは煙草盆を渡す。火入れがされ、紫煙が漂う。可愛い顔には似合わないほどの艶やかさがある。たまに見せる男の顔が、すごく色っぽい。いつも人懐こく笑ってるからわからないだけで、もしかしたら、けっこう端正な顔つきをしているのかもしれない。目尻が垂れてっから、やっぱり可愛いとは思っちまうんだけど。
禿が台の物を運んで来てくれたので、酌をする。肴が硯蓋に乗っている。変わり映えのしない枝豆や豆腐の煮物だ。
「せんせ、わちきにも煙草おくれよ」
「おれので良いのか?」
「良いよ。わちきは、せんせの煙草好きでありんす」
「ははっ、さては勝手に吸ったな?」
「忘れる方が悪いんでありんす」
煙管を受け取って口に含む。やっぱり美味い煙草だ。夏樹せんせは枝豆を唇に挟んでいた。それから酒を飲んでいる。微かに薬の香りがする。薬箱があるからってのもあるだろうけど、せんせの着物にも染み込んでいるんだと思う。
「夏樹せんせ」
「ん? わっ」
こっちを向いたので、煙を吹きかけてやる。煙管を煙草盆に置き、太腿を撫でつつ、擦りついてやる。
「せんせ……、わちき、胸がドキドキして、ちょっと熱があるみたいなんだ」
上目遣いでこう言えば、だいたいの男はわちきを乱暴に押し倒す。目が大きく見開かれた。ほら、押し倒して良いんだ。のってきな。
「そりゃ大変だな!」
「へ?」
「動悸と熱か……。それって、いつからだ? 脈は、と……」
「あの、せんせ……」
「脈は大丈夫そうだな。口開けてみな」
駄目だ。本物のお医者せんせにこう言ったら病人扱いされちまう。今までは坊主が化けた医者だったから使えたのかね。せんせはわちきの手首を握って脈を診たし、口を開かせて喉まで診てくれた。優しいし、心配してくれてるってのはわかるんだけど、そうじゃないんだよ!
「台所で白湯貰ってくるよ」
「良いよ良いよ気の所為だったようでありんす!」
「いや、それでも気になるよ。熱はあるっぽいしな」
額を合わせられてなんだか妙に気恥ずかしい。そりゃあ熱も出ちまうって! 生娘でもないし、昨夜肌を重ねてもいるのに、恥ずかしくなってきた。何でわちき、熱があるって言っちまったんだ! 夏樹せんせは本当に台所に白湯を取りに行っちまったし、戻ってきて薬を合わせてくれた。……これ、何に効く薬なんだか。熱さましだとは思うんだけど、わちきは風邪をひいてもいない。でも、飲まないとせっかく夏樹せんせがわちきの為に作ってくれたんだから。
「にっが!」
「そりゃあな、良薬は口に苦しって言うだろ」
「ううぅ、あ、ありがとね」
「おう。これ、明日の昼に飲んでくれな。白湯で飲んでくれたら良いから」
とか言いつつ紙に粉薬が包まれている。明日の昼は……飲まないで良いね。
いっそ初めから口吸いでもしてその気にさせたら良かったのかね。脚の間が軋んで滴ってるのが自分でもわかるくらいだ。抱かれたい、と思うなんて初めてだよ。フリはいくらでもしてきたけど、本当にこの人になら抱かれたい、とかさ。
「そういや、このサクラソウは何だってんだい?」
「おはるにあげようと思って」
「植木鉢でかい? まあ……良いけどね……」
殺風景な部屋に花を置くのも良いと思う。花屋から貰ったとか言っていたような気もするけど、わちきに贈ろうって思って来てくれたんなら嬉しい。花は好きだから、育てよう。良い香りもする花だ。甘くて、華やかな気分になる。
「あと、これ」
「紅白の小花と鶴のつまみ簪なんて持ってきてどういうつもりでありんす?」
「深川の部屋にあったんだと」
「形見ってわけかい。……ありがとね。わちきは、顔を見ることさえできなかったから」
簪を受け取る。上等な簪だ。あの子は、良い姉さんの下につけたんだね……。可愛がってもらわないと、こんな上等な簪を貰えないだろうに。わちきよりも器量も気立ても良い子だったから大見世に買われたってのに……可哀想な子だよ。涙が頬を伝う。いよいよ泣いちまったよ。客の前で泣くのは、弱みを見せるからって嫌だってのに。
そしたら、夏樹せんせはわちきをぎゅっと抱き締めて、背をとんとん優しく叩いてくれた。本当に、この人は優しいんだ。わちきが押したら離れて薬箱から出した紙で頬を拭ってくれた。目が合う。こげ茶色の瞳が少し濡れていた。もらい泣きしなくっても良いのに。わちきはせんせの襟首を掴んで、唇を塞ぐ。舌を差し入れて絡めた。ちゅっちゅっ、微かな水音と熱い吐息がこぼれる。舌を絡めて、吸って、唾液を飲み込んで、頭がぼうっとしてくる。気持ち良いんだ。やっぱり、この人、口吸いが上手だ。
「ぁ……なつ、きせんせ……」
吐息混じりに名を呼べば、熱っぽい瞳と目が合う。わちきはせんせの首に唇を押し当てる。赤い華が咲いた。
「痕つけられっと、ちょっと困るんだよな」
「女郎に痕つけられるんだから、江戸っ子としては良いもんでありんす」
夏樹せんせは笑って後ろ頭を掻いている。わちきの歯形もくっきり残ったままだ。これで、他の見世の女郎にわちきの存在が知られるはず。特別な存在がいるって、気付いたら良い。これだけこの人に触れてるのはわちきだけかもしれないけど。
「せんせ、ほら、布団においで」
「ん。おれも寝たことないからな」
「まだ寝かさないかんね」
男の顔になってるから、寝ないとは思うが釘を刺しておく。せんせは笑った。人懐こい犬のような笑顔だ。昨日はやられっぱなしだったから、今夜はわちきがよがり泣かせてやりんす。と意気込んでいると忙しない足音が聞こえてきた。
「すいやせーん! 夏樹先生いやすかー!」
「おう! おれならここにいるよ!」
「ああ、すぐ来てくだせぇ! 千寿のやつが血を吐いて……!」
「っ! わ、わかった! すぐ行くよ! わりぃおはる! すぐ戻るから!」
「あ、うん……。行ってきな……」
「おう。行ってくる!」
着物を正すと薬箱を持って夏樹せんせは出て行っちまった。今のは……どこぞの見世の番頭だったかな。顔がよく見えなかったけど……。
ああ、廻しの客の気持ちがわかったよ。呼び出しされる売れっ子を相方にしたらどうなるかってのがよくわかった。わちきは残った酒を一気に飲み干して、布団に丸まった。虚しくなっちまったや。ああ、早く帰ってきてくんないかねぇ。
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