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第四十話

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 いつしか気を失っていた私は、また、夕餉を食べ損ねた。
 隣では父様が寝ている。何事も無かったように、規則正しい寝息をたてている。
 再び横になっても眠れない。不安が胸をぐるぐる掻き混ぜる。生きた心地がしない。
 あきのと、一緒になると決めた。しっかりしないと。男がしっかりしないでどうする。
 少し風に当たりたい。部屋を抜け出し、階段を降り、外に出た。
 灯籠に火が入っていて、綺麗だ。吉原は眠らない。欲と夢に溺れる町だ。見栄と嘘で塗り固められた国。ここで真を誓っても、嘘に思われてしまう。真に愛していたとしても、心の何処かで疑ってしまう。
 ……私も、疑っていたら良かったんだ。そうしたら、こんなにつらい気持ちになることは無かった。嘘だとわかっていたら、傷つかずに済んだのに。
 滲んだ視界を袖で拭う。夜風に当たろう。妙に上がった熱を冷まそう。
 この時分だと外を彷徨く者もいない。提灯を提げて歩いているのは私だけだ。他は見世に入って、一晩限りの恋人ごっこに夢現をぬかしているはずだ。
 私が提げている提灯は、鬼灯の形を模したものだ。母様が玄人時代に道中で使ったと聞いている。「百鬼夜行」と呼ばれた道中を私も見てみたかった。小鬼が魑魅魍魎を従えて練り歩く姿は圧巻だったと思う。
 お稲荷様に参って、道を戻る。そこかしこの見世から嬌声がうっすら聞こえる。もう気は悪くならない。今夜はそんな気分にはなれそうにない。
 端まで行けばドブのにおいがたちこめて、嘔吐しかける。なんとか抑え込んで遠ざかる。あそこで心中する者もいるらしいが、最期をあんなに臭い場所にするくらい、切羽詰まるのだろうか。それとも、逃げる力も残されていなかったのか。
 ……楽に、なりたいな。
 空には星がまたたいている。人は死んだら星になるんだと、母様が昔言っていた。御伽噺を語ってくれた。
 私も死んだら星になれるだろうか。ドブに飛び込むのは嫌だな。首を吊るのも嫌だ。意気地なし。
 袂で油紙がかさつく。薬を持ったままだ。あきのと夏樹先生に気付かれなくて良かった。これは伊織屋の薬だ。くすねたことを知られれば、どう思われるか。
 いっそのこと、嫌ってくれたら良いんだ。
 階段から突き落としても、あいつは私に「好き」と言ってきた。
 また、思い出してしまった。
 忘れようとする度に、思い出してしまう。
 人懐こい犬のような笑顔、優しく私の名を呼ぶ声。なにもかも思い出してしまう。
 ーーどうせ、忘れられない。
 父様の言ったとおりだ。忘れられない。身体を滅茶苦茶に犯されても、思い出してしまう。どうしても、忘れられない。
 店に戻る。皆寝ているから静かだ。明日も朝早くから配達があるはずだ。
 台所に握り飯が置かれていた。おももが握ってくれていたようだ。形が歪でしょっぱい。こんなので嫁に行くなんて、恥ずかしくなる。
 母様の部屋を覗ってみる。規則正しい寝息が聞こえる。部屋中甘い香りで満たされていた。頭がくらくらするような匂いに釣られて部屋に入る。
 このまま寝ている妹の首を絞められれば、どれほど楽になれる? おももが死んだところで、変わらないか? またふらふら違う女のところに行くか? 私のところには帰ってこない? どうしたら、忘れられる? どうしたら……。
「妹に夜這いでもする気やの?」
「か、かさま……?」
「千歳はウチに似て泣き虫やの……。よしよし、泣き止んでやの。父様に『困ります』って言われるやの」
 母様にぎゅっと抱き締められる。やわらかくて、甘い匂いがする。先ほど握り飯を食べたのに腹が減ってくる。
 私の顔を拭ってくれた。暗がりでよく見えないが、母様は笑っているようだった。
「ほのかに小焼様の香りがするやの」
「すみません、私は、また……」
「んーん。謝らんくてもええの。一度体に教え込まれてしもたら、欲しくなってしまうものやから。忘れられへんやの」
「忘れ……」
「千歳は、どうしたいん? 夢夏にどうしてもらいたかったんやの?」
「私は……夢夏に…………」
 夢夏に、どうしてもらいたかった?
 好きと言われた。一緒になろうと言われた。おれのモノになってと言われた。
 でも、捨てられた。
「抱いて欲しいなら、おももと夫婦になってでも、抱いてもらえばええの。三人でするのも悪くないやの」
「ちが、います……。私は…………」
 私は、抱いて欲しいんじゃない。身体の繋がりが欲しいんじゃない。
「夢夏と夫婦になりたいやの?」
「私は……私は…………一緒に…….」
「それなら、おももが邪魔やの。だから今、殺そうとしたやの? 寝ている間に、首を絞めて」
「ちが、ぃます。ゎた……しはっ、わた、……」
 止まりかけていた涙が再び流れる。
 妹を殺しても、なんにも変わらない。私が罪人になるだけで、きっと彼は手に入らない。
「優しい子やの。小焼様に似て、とても優しい子やの。千歳、夢夏はもう、おもものモノやの。そして、おももは夢夏のモノやの。あの子としては、どちらも欲しいみたいやったから、千歳は愛されてるやの」
「私は、捨てられ、ました……」
「それはそれ。これはこれ。捉え方の問題やの。抱かれるだけなら、いくらでも関係を続けられるやの。おももに話しておけば、隠れずに済むやの。でも、千歳は、それは嫌みたいやの」
「嫌です……」
「それなら、諦めて新しい男を作るか、あきのとよろしくやるしかないやの。小焼様だって息子を抱くのは心が痛いんやの」
 何にも答えられなくなる。
 惚れたほうが、負けなんだ。心から愛してしまったほうが、負けなんだ。吉原ではそれが当たり前だ。わかっている。私も、それくらいは、わかっている。
 母様は首巻きを外して、私に首を触れさせた。ざらりとした引っ掛かりとつやつやした手触りがある。首を切った跡。覚悟の証。父様が話してくれた、母様の想い。気の病を拗らせた結果の、覚悟。
 私には、覚悟が足りない。何もかもが、足りない。
「次に目が覚めたら、あきのと一緒に伊織屋に行って、夢夏に千歳の気持ちを話してきたらええの。小焼様にはウチから上手いこと言うてあげるやの」
 あきのを共すれば何か変わるか?
 私の気持ちを聞けば、考えが改まるか?
 ……忘れようと思うのに、会いに行くなんて。








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