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第三十話

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 夢夏は「嫁にして!」と言われたら、誰でも二つ返事で了承するようなやつだ。
 わかってたのに。きっちり、理解していたはずなのに。
 苦しくて、つらくて、痛くて、痒くて、しっちゃかめっちゃかになっている。
 男が泣くもんじゃないのに、涙が止まらない。ずっと泣いてるから、目の下がかさついてきたし、瞼も腫れた。
 私は自分の部屋の布団に座らされた。久しぶりの自室だ。おももが一人で使っていたから、稽古用の三味線が出したままだった。今夜からはまた二人部屋だ。
「千歳。お茶どうぞやの」
 母様がお茶を持ってきた。
 色のついた熱湯だった。味がしない。香りがしない。お茶の風味が一切しない。
 父様はふうふうしてから飲んでいた。それから「お湯だ」と言っていた。
 変わらない、なんにも、変わってない。
 変わったのは、私だけ。
「ちぃにいさま。具合はいかがなの?」
「すみません。落ち着きました」
「良かったなの!」
 おももは笑った。我が妹ながら、可愛いと思う。そんじょそこらの女では敵わない可憐な娘だ。もしも妓楼にいたなら、すぐに表天鵞絨ビロードの五つ布団が貰える呼び出し昼三になってたはずだ。
 それくらい、おももは、美しい。
 やかましい足音が聞こえてきたと思えば、夏樹先生とおはるさんが飛び込んできた。
「何か忘れ物しましたか?」
「おまえ、おま、おまえ、な、ぁ……はぁ……はや、……はや、い……」
「息、整えてから話してください。何言ってるかわかりません」
 父様はいつもの仏頂面で夏樹先生に言っていた。おはるさんも息が乱れていてまだ話せそうにない。
「おまえなぁ、速過ぎんだよ!」
「普通ですが?」
「わちきら、全力で駆けてきたんだからね!」
「はあ? 何の用ですか?」
「うちの馬鹿息子がおももに櫛渡したろ。あれ、返してほしいんだ」
 おももの櫛を返してほしい?
 それはいったいどういうことだ? いや、意味をわかってないのに私に渡してきたものだから……、おももに渡した時もわかってなかったのか? だから返せと?
「嫌なの! ももは、夢夏せんせと夫婦めおとになるの!」
「それはそうなんだけどね、これは別の人のなんだよ。新しく準備しんす。ほら、返してくんな」
「嫌なの! もも、夢夏せんせから貰ったもの、返したくないなの!」
 おももとおはるさんが言い合いをしている。そのうち平手打ちをされないか心配だ。おはるさんは口より先に手が出るから……。
 おももの背後から父様が櫛を引っこ抜いていた。はらり、と纏められていた髪が落ちる。おももは頬を膨らませていた。
「これはおさがりなんで、おももはきちんと新しいのを夢夏に買ってもらいなさい」
「お父様がそう言うなら……」
「わりぃ小焼。ありがとな」
 櫛を受け取ろうとした夏樹先生を無視して、父様は私に櫛を差し出した。隣で母様がにこにこ微笑んでいる。
「意味をわかっていなかったにしろ、千歳に何か贈りたいと思った気持ちは真心です。お前が持っていなさい」
「……はい」
 櫛が、戻ってきた。
 そうだ、父様の言うとおり。櫛を渡す意味をわかっていなかったにしろ、夢夏は私に何かを贈りたくて、これを持ってきてくれた。
 ……それくらい、私は、想われている。

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