9 / 30
第九話
しおりを挟む
雨泽さんの持病についての説明は正直言って、よくわからなかった。難しい言葉ばかりじゃなくて、逆にかんたんな言葉ばかりだったから。検査内容も検査結果もかんたんでわからなかった。
雨泽さんは終始笑顔を絶やさない。自分の病気について語ることが好きかのように、溌剌としていた。まるで浪曲でも歌っているかのようだった。
あたしが理解できたのは、雨泽さんの病気は治せないということ。
薬がまだ開発されていないような病気だと思う。症例が少なくて稀なケースだから、弊社では研究されていないかもしれない。罹患率が高くて死亡率も高い症例なら、「死にたくない」って人が大金を積んで開発援助するけど、このケースは弊社で取り扱いそうにない。
雨泽さんも見た目が元気そうで、どこも悪そうに見えないし、薬を欲しがってるようにも見えない。病気だとわかってるから、診断した医者がいるんだと思うけど、その医者さえ何も対応してないのかな。先天性だから、放置されてたのかも。赤ん坊に処置できないし。
するっ、と、あたしの頬を冷たい手が滑る。
「オレの心配してくれるの?」
「うちは製薬会社なんで、研究部門に話を通しておこうかと」
「哈哈哈、ありがとう。でも、オレは、このビョーキと一生付き合っていかないといけないからさ。だから、藍洙姐姐を食べたいな」
舌舐めずりをする姿が婀娜っぽかった。
見惚れてちゃ駄目だってば! あたしは触れられている手を掴んで引き離し、卓につけさせる。油断も隙もない。そういうことはお断りしておかないと。王さんから引き継ぎたくない案件だわ。
「つれないねぇ」
「あたしはそういうことお断りなんで!」
「ざーんねーん。藍洙姐姐、オレの好みドストレートなのになぁ。味見だけでも駄目? ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
「駄目です!」
「ケチぃ」
「あたしは枕営業してません! エビチリ美味しかったです! ありがとうございました! それでは!」
「あ、待って待って。オレの頼み事も聞いて欲しいな」
立ち上がり、帰ろうと踵を返したところで、雨泽さんに後ろからギュッと抱きつかれる。それにしても何でこの人こんなに距離が近いの!
「頼み事って何です? 離れて離れて!」
「ハイハイ。姐姐、ほんとつれないねぇ。きみのところのお薬持ってきて欲しいんだ。鉄剤ってやつ? あと、輸血用血液製剤? だったっけ? オレのビョーキの薬ないんだもん。それ持ってきてくれたら、嬉しいな」
「わかりました。……って、輸血パックがいるの?」
「そう! 輸血パック! O型が良いなぁ。うまいんだよね。もちろん、全血製剤にしてね」
振り向いたら、けらけら笑う顔が見えた。開いた口から鋭くて長い犬歯が見える。
うまいって……飲むつもりなのかな……。
「輸血パックは輸血するためであって飲むものではないし、血液は飲み物ではないわよ」
「ーーオレのビョーキ、そういうことって、わかってもらえない?」
「痛っ!」
手を取られて、かぷっと噛まれた。熱がじんわり広がっていく。ぬるり、と感覚がした。噛み傷を舌が這う。
なんなのこれ!
「嘻嘻っ、やっぱり藍洙姐姐うまいね。もっと食べたいなぁ」
「何言ってんですか! 帰りますからね!」
「ハイハイ。またのご来店をお待ちしてまーす。雨涵に声かけておいて」
「わかりました。それでは」
手をひらひら振る彼に背を向けて、扉を開く。雨涵ちゃんの姿は見えなかった。遠くまで遊びに行ったのかな? この辺は治安も悪いから心配になる。あたしもできればさっさと会社に戻りたい。明るいうちはまだ良いけど、暗くなってからここには来たくないなぁ。あの子も姿を消しちゃったし……怖くなる。
「ガァアア!」
「な、何?」
脇道から大きな鴉が飛び出してきた。口に何か咥えていて、あたしの前で落とした。
雨涵ちゃんの、メモ帳だ。何で? どうして? 鴉は怪我しているのか少し地面を跳ねる動きもおかしい。鳴き声も、なんだか悲痛に聞こえる。
メモ帳を拾う。手にべっちょり、何かがついた。裏返す。赤黒い。しかも、鉄の香りが、する。あたしは驚いてメモ帳を投げ捨てた。血、血だ。
鴉が地面に倒れた。血がついてる。やっぱり、怪我してる。あまり触りたくないけど、そんなこと言ってる場合じゃない。雨涵ちゃんが何処にいるかもわからない。血のついたメモ帳を摘み上げ、傷ついた鴉を抱えて、白鴉に駆け込んだ。
「ハイハイ、姐姐。忘れ物?」
「これ! これ!」
言葉が出てこなくて、雨泽さんに鴉とメモ帳を見せる。厨房に戻っていた彼は慌てた様子でこちらに来た。何か物を落としたようで、ガチャガチャ、金属の転がる音がした。
「ひどい! 静静がこんなにやられるなんて!」
卓に鴉をおろしてあげると、雨泽さんは救急箱を取ってきた。慌ててるからかそこいらの椅子にぶつかっていた。鴉が怪我したくらいでこんなに取り乱すものなんだ……。
「オレの家族にひどいことするなんて、絶対許さない」
怒りに満ちた低い声だった。いつも飄々としていて、陽気な男性が発したとは思えないくらい低い声。鴉に包帯を巻く手が震えてる。雨泽さんにしたら、鴉は家族なんだ……。それを鴉が怪我したくらいで、とか思ってしまったのを少し反省する。
「雨涵ちゃんの姿も見えなくて! これ! これ!」
「ーー! これ、雨涵の血の香りだ」
血のついたメモ帳を嗅いで、雨泽さんは目を細める。それからページを捲っていた。つたない文字で色んなことが書かれている。半分くらいを過ぎて、手が止まった。
「藍洙姐姐、オレのお願い聞いてくれる?」
「あたしにできることだったら」
「できるよ。オレ、今から雨涵を捜すついでに食材の調達に行くからさ、その間店番してて。客が来たら、内容をメモしといてくれたら良い。後でこっちから連絡するからさ」
「わかりました……」
「それじゃあ、お留守番よろしくね」
悲しそうに笑って雨泽さんは出て行った。包帯をぐるぐる巻かれた鴉が小さく「カア」と鳴いていた。
雨泽さんは終始笑顔を絶やさない。自分の病気について語ることが好きかのように、溌剌としていた。まるで浪曲でも歌っているかのようだった。
あたしが理解できたのは、雨泽さんの病気は治せないということ。
薬がまだ開発されていないような病気だと思う。症例が少なくて稀なケースだから、弊社では研究されていないかもしれない。罹患率が高くて死亡率も高い症例なら、「死にたくない」って人が大金を積んで開発援助するけど、このケースは弊社で取り扱いそうにない。
雨泽さんも見た目が元気そうで、どこも悪そうに見えないし、薬を欲しがってるようにも見えない。病気だとわかってるから、診断した医者がいるんだと思うけど、その医者さえ何も対応してないのかな。先天性だから、放置されてたのかも。赤ん坊に処置できないし。
するっ、と、あたしの頬を冷たい手が滑る。
「オレの心配してくれるの?」
「うちは製薬会社なんで、研究部門に話を通しておこうかと」
「哈哈哈、ありがとう。でも、オレは、このビョーキと一生付き合っていかないといけないからさ。だから、藍洙姐姐を食べたいな」
舌舐めずりをする姿が婀娜っぽかった。
見惚れてちゃ駄目だってば! あたしは触れられている手を掴んで引き離し、卓につけさせる。油断も隙もない。そういうことはお断りしておかないと。王さんから引き継ぎたくない案件だわ。
「つれないねぇ」
「あたしはそういうことお断りなんで!」
「ざーんねーん。藍洙姐姐、オレの好みドストレートなのになぁ。味見だけでも駄目? ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
「駄目です!」
「ケチぃ」
「あたしは枕営業してません! エビチリ美味しかったです! ありがとうございました! それでは!」
「あ、待って待って。オレの頼み事も聞いて欲しいな」
立ち上がり、帰ろうと踵を返したところで、雨泽さんに後ろからギュッと抱きつかれる。それにしても何でこの人こんなに距離が近いの!
「頼み事って何です? 離れて離れて!」
「ハイハイ。姐姐、ほんとつれないねぇ。きみのところのお薬持ってきて欲しいんだ。鉄剤ってやつ? あと、輸血用血液製剤? だったっけ? オレのビョーキの薬ないんだもん。それ持ってきてくれたら、嬉しいな」
「わかりました。……って、輸血パックがいるの?」
「そう! 輸血パック! O型が良いなぁ。うまいんだよね。もちろん、全血製剤にしてね」
振り向いたら、けらけら笑う顔が見えた。開いた口から鋭くて長い犬歯が見える。
うまいって……飲むつもりなのかな……。
「輸血パックは輸血するためであって飲むものではないし、血液は飲み物ではないわよ」
「ーーオレのビョーキ、そういうことって、わかってもらえない?」
「痛っ!」
手を取られて、かぷっと噛まれた。熱がじんわり広がっていく。ぬるり、と感覚がした。噛み傷を舌が這う。
なんなのこれ!
「嘻嘻っ、やっぱり藍洙姐姐うまいね。もっと食べたいなぁ」
「何言ってんですか! 帰りますからね!」
「ハイハイ。またのご来店をお待ちしてまーす。雨涵に声かけておいて」
「わかりました。それでは」
手をひらひら振る彼に背を向けて、扉を開く。雨涵ちゃんの姿は見えなかった。遠くまで遊びに行ったのかな? この辺は治安も悪いから心配になる。あたしもできればさっさと会社に戻りたい。明るいうちはまだ良いけど、暗くなってからここには来たくないなぁ。あの子も姿を消しちゃったし……怖くなる。
「ガァアア!」
「な、何?」
脇道から大きな鴉が飛び出してきた。口に何か咥えていて、あたしの前で落とした。
雨涵ちゃんの、メモ帳だ。何で? どうして? 鴉は怪我しているのか少し地面を跳ねる動きもおかしい。鳴き声も、なんだか悲痛に聞こえる。
メモ帳を拾う。手にべっちょり、何かがついた。裏返す。赤黒い。しかも、鉄の香りが、する。あたしは驚いてメモ帳を投げ捨てた。血、血だ。
鴉が地面に倒れた。血がついてる。やっぱり、怪我してる。あまり触りたくないけど、そんなこと言ってる場合じゃない。雨涵ちゃんが何処にいるかもわからない。血のついたメモ帳を摘み上げ、傷ついた鴉を抱えて、白鴉に駆け込んだ。
「ハイハイ、姐姐。忘れ物?」
「これ! これ!」
言葉が出てこなくて、雨泽さんに鴉とメモ帳を見せる。厨房に戻っていた彼は慌てた様子でこちらに来た。何か物を落としたようで、ガチャガチャ、金属の転がる音がした。
「ひどい! 静静がこんなにやられるなんて!」
卓に鴉をおろしてあげると、雨泽さんは救急箱を取ってきた。慌ててるからかそこいらの椅子にぶつかっていた。鴉が怪我したくらいでこんなに取り乱すものなんだ……。
「オレの家族にひどいことするなんて、絶対許さない」
怒りに満ちた低い声だった。いつも飄々としていて、陽気な男性が発したとは思えないくらい低い声。鴉に包帯を巻く手が震えてる。雨泽さんにしたら、鴉は家族なんだ……。それを鴉が怪我したくらいで、とか思ってしまったのを少し反省する。
「雨涵ちゃんの姿も見えなくて! これ! これ!」
「ーー! これ、雨涵の血の香りだ」
血のついたメモ帳を嗅いで、雨泽さんは目を細める。それからページを捲っていた。つたない文字で色んなことが書かれている。半分くらいを過ぎて、手が止まった。
「藍洙姐姐、オレのお願い聞いてくれる?」
「あたしにできることだったら」
「できるよ。オレ、今から雨涵を捜すついでに食材の調達に行くからさ、その間店番してて。客が来たら、内容をメモしといてくれたら良い。後でこっちから連絡するからさ」
「わかりました……」
「それじゃあ、お留守番よろしくね」
悲しそうに笑って雨泽さんは出て行った。包帯をぐるぐる巻かれた鴉が小さく「カア」と鳴いていた。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
夫を愛することはやめました。
杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。
忌むべき番
藍田ひびき
恋愛
「メルヴィ・ハハリ。お前との婚姻は無効とし、国外追放に処す。その忌まわしい姿を、二度と俺に見せるな」
メルヴィはザブァヒワ皇国の皇太子ヴァルラムの番だと告げられ、強引に彼の後宮へ入れられた。しかしヴァルラムは他の妃のもとへ通うばかり。さらに、真の番が見つかったからとメルヴィへ追放を言い渡す。
彼は知らなかった。それこそがメルヴィの望みだということを――。
※ 8/4 誤字修正しました。
※ なろうにも投稿しています。
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる