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第八話
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王さんが言っていたように、あたしは営業部に異動になった。王さんの抜けた穴を埋めるように、王さんがやっていた仕事を引き継ぐ形で。
ただの事務員だった私には営業のことなんてわからないけど、デスクでの仕事は王さんよりも綺麗にできると思う。王さんがどうして退職したかは知らされてない。噂だと、ヘタをして取引相手に消されたらしい。あたしもそんな世界に今から入らなければいけない。怖い。裏社会なんて、見たくない。
うちはけっこう大手の製薬会社だ。新薬と称した違法薬品の取引も闇市でしているらしい。噂ではなく、本当に。
王さんの仕事を引き継ぐ形にはなっているけど、営業素人のあたしに王さんが扱っていたような重要案件は無理だから、営業部内で分担されていた。あたしに与えられたのは『白鴉』への営業。鴉にお弁当を奪われてから、ちょくちょく通うようになった料理屋だ。王さんのパソコンにはデータがきっちり纏められていた。あのハンサムな店主さんの名前は朱雨泽。ああ見えて三十路前らしい。二十代前半に見えてたけど、童顔なんだ……。先天的な病気を持ってるらしいけど、詳しく書かれていない。持病があるの意外。すごく元気そうに見えるのに。
とりあえず、王さんが退職したことのご報告とあたしが後任になったご挨拶をしに行くように言われたので、会社を出る。細長いビルが林立している大通りを曲がり、少し暗い細い道を抜け、まっすぐ歩くこと十分ほど。ゴミ捨て場が見えてくる。相変わらず鴉がいる。鴉は縁起が悪いから好きじゃない。鳴いたら人が死ぬって言うし、鳴かないで欲しい。同じ事務職の陳さんも行方不明になってしまった。闇市で良い男を見つけたんじゃないかって言う人もいた。白鴉の店主さんに会いに行ってからどうなったか誰も知らない。帰りに襲われたのかもしれないし、怖いなぁ。
それでも、あたしには関係ないか。
陣さんは細身で可愛い子だから狙われたのかもしれないけど、あたしは丸くてぷにぷに。でもデブって言うほど太ってるわけではなくて、標準体重だ。脂肪だって標準より少し低いくらい。周りから見たらデブにしか見えないけど、まだ肥満じゃないもの。一番健康的だもの!
と、誰かに言いたい思いを抱きつつ、白鴉に辿り着いた。扉には準備中の札がかけられている。確か、王さんのメモには準備中の時が一番話をしやすいと書いてあった。そりゃ営業中だと調理してるから忙しいものね。今は夕方からの営業のために仕込みをしている時間なんだと思う。私は扉をゆっくり押して中に入る。
「ハイハイ、依頼かな? ーーあれ、姐姐?」
「こんにちは! 本日は、王妃紗麻が退職したので、後任として、私、韩藍洙が、こちらの担当になりましたご報告に参りました」
「へえ。藍洙姐姐がオレの担当になってくれたんだ。嬉しい!」
「え! きゃああ!」
雨泽さんは厨房から出てきてあたしをぎゅうっと抱き締める。長身ハンサムに抱き締められるなんて思わなかったし、突然のこと過ぎて身動きが全くできない。半袖から伸びる腕には顔に似合わずしっかりした筋肉がついている。
「オレね、姐姐のような子がタイプなんだ。とっても嬉しいよ。よろしくね!」
「は、は、はい! よろしくお願いします!」
離れてくれたけど、両肩を掴まれたまま。あたしと目線を合わせるために屈んで、ニコッと人懐こい笑顔を見せてくれた。まるで大型犬のようだって言ったら失礼かもしれないけど、本当に大型犬のようだった。タイプって言われて思わず顔がニヤつきそうになったのを、頑張って堪えた。社交辞令かもしれないから、期待してはダメ。雨泽さんはあたしの頬を両手で包む。少し、冷たい手だった。「料理人が冷たい手なら、体温で食材が傷まないから良いものを食える」って、先輩から聞いたことがある。雨泽さんの手は、冷たいから、料理人にぴったりなんだ……。
「オレ、姐姐を食べたいな」
「だ、ダメです!」
琥珀色の瞳がうっすら涙に濡れる。急にそんなことを言われるなんて思わなかった! 王さんは枕営業をしてたくらいだから、ここでもそんなことをしていたのかもしれない。あたしはそういう営業をしていないってきっちり断っておかないと。
「そっか。じゃあ、食べられたくなったらいつでも言ってね。姐姐は後任になったばかりだから、すぐに手をつけちゃ駄目だよね」
「あ、あたしは! そういうことしませんので!」
「哈哈哈、海老のように赤くなって可愛いね。そうだ、エビチリ食べてって!」
と言ったと思ったら、雨泽さんは厨房に戻って早速冷蔵庫から海老を取り出していた。
チラッと冷蔵庫の中が見えたんだけど、人間の脚っぽいものが見えた気がする。きっと気のせい、よね?
あたしは近くの席に座る。雨涵ちゃんが近寄ってきた。相変わらず、首にはメモ帳をさげていた。
「ら……ね……あ…………き」
「え、えっと?」
「雨涵はね、藍洙姐姐のこと好きだって」
「あ! ありがとう!」
雨泽さんの説明で雨涵ちゃんが何を言いたいか理解できた。可愛くなって、雨涵ちゃんの頭を撫でる。王さんのメモには、雨涵ちゃんのことは書いてなかった。わからないのか見たらわかるから書いてないだけなのかな。
やがてエビチリが運ばれてくる。仕込みはもう終わったのか雨泽さんがテーブルの向かい側に座った。その横に雨涵ちゃんが座る。顔は、似ていない。目の色は一緒。髪の色も少し似ているけど、雨涵ちゃんのほうが明るい。親子ではない、かな? 兄妹でもなさそう。関係は全くわからない。
「ところで藍洙姐姐、オレのこと、どれくらい知ってるの?」
「王さんがまとめてくれたメモ程度にしか。店、お名前、年齢、持病持ちぐらい。何の持病かは書かれていなかったので……」
「そっか。それなら、話しておいたほうが良いかな。オレの、ビョーキについて。雨涵は難しいお話だから、店の前で遊んでおいで。静静がそこまで来てるよ」
雨泽さんの声で雨涵ちゃんは席を立つ。
扉を開くその時、こちらに向かって可愛らしい声で「カァ!」と鴉の鳴き真似をした。雨泽さんの口がにんまり、三日月のような弧を描いていた。
ただの事務員だった私には営業のことなんてわからないけど、デスクでの仕事は王さんよりも綺麗にできると思う。王さんがどうして退職したかは知らされてない。噂だと、ヘタをして取引相手に消されたらしい。あたしもそんな世界に今から入らなければいけない。怖い。裏社会なんて、見たくない。
うちはけっこう大手の製薬会社だ。新薬と称した違法薬品の取引も闇市でしているらしい。噂ではなく、本当に。
王さんの仕事を引き継ぐ形にはなっているけど、営業素人のあたしに王さんが扱っていたような重要案件は無理だから、営業部内で分担されていた。あたしに与えられたのは『白鴉』への営業。鴉にお弁当を奪われてから、ちょくちょく通うようになった料理屋だ。王さんのパソコンにはデータがきっちり纏められていた。あのハンサムな店主さんの名前は朱雨泽。ああ見えて三十路前らしい。二十代前半に見えてたけど、童顔なんだ……。先天的な病気を持ってるらしいけど、詳しく書かれていない。持病があるの意外。すごく元気そうに見えるのに。
とりあえず、王さんが退職したことのご報告とあたしが後任になったご挨拶をしに行くように言われたので、会社を出る。細長いビルが林立している大通りを曲がり、少し暗い細い道を抜け、まっすぐ歩くこと十分ほど。ゴミ捨て場が見えてくる。相変わらず鴉がいる。鴉は縁起が悪いから好きじゃない。鳴いたら人が死ぬって言うし、鳴かないで欲しい。同じ事務職の陳さんも行方不明になってしまった。闇市で良い男を見つけたんじゃないかって言う人もいた。白鴉の店主さんに会いに行ってからどうなったか誰も知らない。帰りに襲われたのかもしれないし、怖いなぁ。
それでも、あたしには関係ないか。
陣さんは細身で可愛い子だから狙われたのかもしれないけど、あたしは丸くてぷにぷに。でもデブって言うほど太ってるわけではなくて、標準体重だ。脂肪だって標準より少し低いくらい。周りから見たらデブにしか見えないけど、まだ肥満じゃないもの。一番健康的だもの!
と、誰かに言いたい思いを抱きつつ、白鴉に辿り着いた。扉には準備中の札がかけられている。確か、王さんのメモには準備中の時が一番話をしやすいと書いてあった。そりゃ営業中だと調理してるから忙しいものね。今は夕方からの営業のために仕込みをしている時間なんだと思う。私は扉をゆっくり押して中に入る。
「ハイハイ、依頼かな? ーーあれ、姐姐?」
「こんにちは! 本日は、王妃紗麻が退職したので、後任として、私、韩藍洙が、こちらの担当になりましたご報告に参りました」
「へえ。藍洙姐姐がオレの担当になってくれたんだ。嬉しい!」
「え! きゃああ!」
雨泽さんは厨房から出てきてあたしをぎゅうっと抱き締める。長身ハンサムに抱き締められるなんて思わなかったし、突然のこと過ぎて身動きが全くできない。半袖から伸びる腕には顔に似合わずしっかりした筋肉がついている。
「オレね、姐姐のような子がタイプなんだ。とっても嬉しいよ。よろしくね!」
「は、は、はい! よろしくお願いします!」
離れてくれたけど、両肩を掴まれたまま。あたしと目線を合わせるために屈んで、ニコッと人懐こい笑顔を見せてくれた。まるで大型犬のようだって言ったら失礼かもしれないけど、本当に大型犬のようだった。タイプって言われて思わず顔がニヤつきそうになったのを、頑張って堪えた。社交辞令かもしれないから、期待してはダメ。雨泽さんはあたしの頬を両手で包む。少し、冷たい手だった。「料理人が冷たい手なら、体温で食材が傷まないから良いものを食える」って、先輩から聞いたことがある。雨泽さんの手は、冷たいから、料理人にぴったりなんだ……。
「オレ、姐姐を食べたいな」
「だ、ダメです!」
琥珀色の瞳がうっすら涙に濡れる。急にそんなことを言われるなんて思わなかった! 王さんは枕営業をしてたくらいだから、ここでもそんなことをしていたのかもしれない。あたしはそういう営業をしていないってきっちり断っておかないと。
「そっか。じゃあ、食べられたくなったらいつでも言ってね。姐姐は後任になったばかりだから、すぐに手をつけちゃ駄目だよね」
「あ、あたしは! そういうことしませんので!」
「哈哈哈、海老のように赤くなって可愛いね。そうだ、エビチリ食べてって!」
と言ったと思ったら、雨泽さんは厨房に戻って早速冷蔵庫から海老を取り出していた。
チラッと冷蔵庫の中が見えたんだけど、人間の脚っぽいものが見えた気がする。きっと気のせい、よね?
あたしは近くの席に座る。雨涵ちゃんが近寄ってきた。相変わらず、首にはメモ帳をさげていた。
「ら……ね……あ…………き」
「え、えっと?」
「雨涵はね、藍洙姐姐のこと好きだって」
「あ! ありがとう!」
雨泽さんの説明で雨涵ちゃんが何を言いたいか理解できた。可愛くなって、雨涵ちゃんの頭を撫でる。王さんのメモには、雨涵ちゃんのことは書いてなかった。わからないのか見たらわかるから書いてないだけなのかな。
やがてエビチリが運ばれてくる。仕込みはもう終わったのか雨泽さんがテーブルの向かい側に座った。その横に雨涵ちゃんが座る。顔は、似ていない。目の色は一緒。髪の色も少し似ているけど、雨涵ちゃんのほうが明るい。親子ではない、かな? 兄妹でもなさそう。関係は全くわからない。
「ところで藍洙姐姐、オレのこと、どれくらい知ってるの?」
「王さんがまとめてくれたメモ程度にしか。店、お名前、年齢、持病持ちぐらい。何の持病かは書かれていなかったので……」
「そっか。それなら、話しておいたほうが良いかな。オレの、ビョーキについて。雨涵は難しいお話だから、店の前で遊んでおいで。静静がそこまで来てるよ」
雨泽さんの声で雨涵ちゃんは席を立つ。
扉を開くその時、こちらに向かって可愛らしい声で「カァ!」と鴉の鳴き真似をした。雨泽さんの口がにんまり、三日月のような弧を描いていた。
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