桜に酔いし鬼噺

末千屋 コイメ

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第四十四話

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◆◇◆◇◆◇
 雀と烏の鳴き声で目を覚ました。視界には薄い桃色が広がっている。身体を起こす。景一の膝を枕にして眠ってしまっていたようだ。疲れているだろうに、座らせたままなんて悪いことをしたな。
彼女の瞼がゆっくり開いた。天色の瞳がぼんやり薄い涙に濡れている。
「おはようございます」
「おはようございますやの。はう!」
 すってんころりん、という音が似合うように彼女は転んだ。足を抱えたような体制でうずくまっている。
「大丈夫ですか?」
「足が痺れてしもたの……」
「すみません。支度は自分でしますんで貴女は休んでてください。何か欲しい物があるなら取ってきますが、ありますか?」
「欲しいものは無いの。ただ――」
「ただ?」
「あ、うぅ……うう」
「何ですか?」
 景一はうずくまったまま足を擦り合わせてもじもじしている。何だろうか? 腹が痛いなら温石を熱してきてやろうと思うが何処にあるかわからない。
「言ってくれないとわからないです」
「うぅ……ししに行きたいの……」
「わかりました」
 彼女を抱えて部屋を出る。廊下には疎らに人がいた。気にせず厠へ向かって歩く。景一は顔を恥ずかしそうに隠している。この子は何を恥ずかしがっているんだろうか? 抱えられていることだろうか。それなら背負ってやったほうが良かったか? どちらにせよ人に見られるのは変わらないだろう。ただでさえ目立つ髪色をしているのが二人揃っているんだから。不寝番が驚いたような表情をして近付いてきたが、足が痺れて立てないので運んでいると伝えたら納得して笑っていた。景一の頬が一気に赤く染め上がる。階下にある女郎だけが使う厠の前で下ろしてやる。足の痺れは取れたようでよたよた歩いていった。
……待っていた方が良いだろうか。いや、もう歩けるなら良いだろう。他の客の見送りをするだろうし、部屋へ戻っていても良いだろう。ここにいると妙に目立ってしまう。
 私は彼女の部屋へ戻る。朝露屋の消炭が迎えに来るまで待っていよう。それまでにあの子も帰ってくるだろう。障子に人影が二つ落ちている。誰かがこちらを覗いている。
「誰かいるんですか?」
「あ、あい! おいら、おきんって申しいす! どうぞ、お使いなんしぇ!」
「お、おいらは、おぎんでありんす! どうぞどうぞ、お使いなんしぇ!」
 少し大きめの足音をたてながら手水を持参した禿達が私の前で頭を下げる。この子達が吾介の言っていた二人の禿だろう。震えたままなのは、鬼が怖いとかそういうあれだろう。私は鬼ではないので迷惑このうえないのだが……というか景一も「小鬼」と言われているのに……姉女郎だから良いのか。
 運び込まれた洗面用具で顔を洗う。歯を磨こうと思って房楊枝を手にしたところで障子が開く。
景一が戻ってきた。禿の二人がすぐに足元にくっついていた。
「あら、おきんとおぎんが持ってきてくれたやの?」
「あい。おいら達、ねえさんの旦那様に会いたくて来たんじゃ」
「ねえさんの愛してる鬼がどんな方か近くで見たかったんじゃ」
「私は鬼ではありません」
「ひいぃっ!」
「食われるぅ!」
「小焼様。二人を怖がらせたらあかんの」
 ……どうして私は叱られたんだろうか。鬼ではないから否定しただけなんだが。景一は禿達に他の部屋を回ってくるように言って私の前に座り、私の手を掴んで房楊枝を取りあげた。
「ウチが磨いてあげるの」
「自分でするから良いです……」
「ウチが磨いた方が、気持ち良いと思うの」
「っ、もう良いですから。自分でやるので返してください」
「……わかったやの」
 彼女に任せれば、良い心地なのはわかる。よくわかる。昨夜散々弄り回されて気をやったくらいだ。
 房楊枝を返してもらい、歯を磨き、口をゆすぐ。景一はにこにこしながらずっと隣にいる。
 呼び出した屋敷者も見送った後なのだろうか。聞く必要もないだろう。私には関係の無いことだ。
 身支度を済ませたところで朝露屋の消炭が「お迎いでごぜぇやす」と現れた。彼女も伴い、階下で後朝の別れをする。
「次はいつ来てくれるん? ウチ、待ってるの」
「近いうちに必ず……」
「ウチ淋しいの。だから早く来て欲しいの。小焼様だけに――あなただけに抱かれたいの」
ひしっと抱きつかれたので背中に腕を回して抱き締める。頻繁に通えたら良いんだが、そうもいきそうにない。身請けできたら、とも思うが千両を優に超えるであろう。通う金を全て貯金に回して、とも考えたが……通わないと気狂いになってしまううえに他の男に身請けされるかもしれない。屋敷者なら簡単に妾として囲えるだろう。上と繋がっているなら、忘八も商売に有利な方へ靡くに決まっている。父様は上手く話をつけてくれただろうか……。
「お前がつらいのはよくわかります。必ず迎えに来ますから、待っていてください」
「はう。小焼様がウチを『お前』って呼んでくれた。嬉しい」
 頭をぽんぽん叩いてから彼女に背を向け、歩みを進めた。
 消炭がニタニタ笑みを浮かべている。何がそんなにおかしかったのだかわからない。
 朝露屋の二階にあがる。既に父様が来ていた。
「小焼、おはよう」
「おはようございます」
「今朝は肌つやが良いな。景一ととっぷり楽しんだのかぁ。父様は嬉しいぞ」
「朝から大声で話さないでください。耳が痛い」
「ははは。ほら、迎え酒だ。飲め飲め」
「まったく……」
 父様から猪口を受け取り、酒を飲みくだす。喉越しが良く爽やかな旨みがある。華やぐ香りが鼻を抜けていく。とろみはあるが、すっきりしていて飲みやすい。
 朝から酒を楽しむのもどうかと思うが……まあ良いか。たまには父様に付き合ってやろう。
「景一にあれは渡せたか?」
「ええ。受け取ってもらえましたし、返事は『はい』でしたよ。また泣かせてしまいましたが」
「そうか。それなら良かった。父様は可愛い息子が心配で夜しか眠れなかったぞ」
「寝ているではありませんか。それで、例の件は?」
「きっちり通してある。父様に任せとけー!」
「ありがとうございます」
 父様に頭を下げる。相変わらず朝から騒がしいくらいの大声で笑っている。元気だから良いか。
 運ばれてきた梅粥にはふはふ言いながら口をつける。美味い。五臓六腑に染み渡るようだ。出汁の取り方が上手いのだろうか……昆布の旨味や塩味が活かされているような気がする。梅干しも塩辛くなくて良い。紫蘇の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
 梅粥に舌鼓をうっていると麦汁を出された。透明感のある濃い茶色の麦汁を口に含む。独特の香ばしさとほのかに甘みを感じるすっきりした味わいが梅粥に合う。茶粥でも良さそうだと思う。
「ごちそうさまでした」
「小焼はきちんと両手を合わせて良い子だな」
「何を言うんですか」
「だはは。そうとんがらかすない」
「はあ」
「それにしても、色恋も何も知らず、櫛を贈ったお前が……きちんと花嫁衣装を持参するまで惚れるなんて父様は思わなかったぞ」
「私も思いませんでしたよ。櫛にそんな意味があったことも」
「今となっては、良い思い出だなぁ。景一はふりなんてせず、真を誓って、お前にぞっこんのようだしな」
「父様が変なことを言うから」
「小焼は優しいからな! 騙されていたら可哀想だと思ったんだ!」
 あの子は嘘を吐いていない。ふりをしていない。いつでも心は売っていなかった。身体は売物買物だが、心はずっと決まっていた。自分の唇をなぞる。背筋を這うような快感が通った。あの鋭い感覚は何だったのだろう。口に手を突っ込まれた時は驚いたが、歯を触られ、舌を押され、妙な快感と息ぐるさに気をやってしまった。そういえば、汚れた褌はどうなった? 忘れてきてしまったな。曖昧な意識の中で、彼女が褌を嗅いでいたのを見たような気もする。あまり良い香りはしないと思うんだが……。
 朝餉と父様との話を終えたので養生所へ向かう。引手茶屋の軒先には玉菊灯篭がずらりと並び、壮観だ。昼でもなかなか趣がある。茶屋の鉢植に白い蕾を見つけた。日除けの簾に絡み、涼しそうに見える。これだけ育っているなら、夜には咲いていそうだな。あの子の髪に咲いていた白い花を思い出す。夕顔の飾り。私が来ると聞いて挿してくれたのだろう。
「よっ小焼。えれぇ機嫌が良さそうだな。何か良いことでもあったか?」
「ええ。所帯を持つことにしました」
「おれとか?」
「は?」
「わりぃ。冗談だからそんなに睨まねぇでくれ。赤い瞳が怖いんだよ」
「どうして私が貴方と所帯を――」
「聞き流してくれ!」
 夏樹は首を横に振りながら言う。おかしなことを言ったのはそっちなんだが……まあ良いか。
 彼には事前に色々話しているからわかっているはずなので詳しい話は抜きにして良いだろう。あの木箱の中身だって知っていたし、何と言うか共に考えたくらいだ。
「で、そう言うってことは、景一に喜んでもらえたんだな?」
「はい。泣かれましたが」
「まっ、そんだけ嬉しかったんだろうな。おまえの恋わずらいも治りそうだ」
「……一つ気になったことがあるんですが」
「何だぁ?」
「景一が私の褌を嗅いでいたんですが……」
「そっと見なかったことにしてやれ」
 即答された。夏樹がそう言うならそうした方が良いんだろうな。
「それなら、足袋でも贈った方が良いでしょうか?」
「何でおまえは自分の足の臭いを嗅がせようとしてるんだよ」
「そういうのが好きなのかと」
「あー……そーだなぁ……。やめとけ」
「わかりました」
 足袋を贈るのはやめておくか。父様にも言われたくらいだからな。
 養生所は相変わらず綺麗に片付けられている。訪ねてくる人に生薬を煎じてやったり、傷の手当てをしてやったり、夏樹は医者らしい働きをしている。伊織屋の手代の武兵衛が手伝いに入っているくらいだ。
 報告も終わったので帰るか。立ち上がったところで歪む視界に再び座る。
「おい小焼、大丈夫か?」
「大丈夫です。少し立ち眩みが」
 答えたは良いが動けない。金縛りのように身体が硬直する。胸のあたりがひどく痛む。脂汗が額を伝い、土間に点を落とす。
「……大丈夫じゃねぇだろ。わりぃ武兵衛、小焼をこっちに上げるの手伝ってくれ」
「あいあい。夏樹さんの頼みならお任せあれ。小焼さん、持ちやすよ」
「せーのでいくぞー。せーのっ!」
 私はいったい何をやってるんだか……。また変な迷惑をかけている。夏樹と武兵衛に引っ張りあげられて布団に寝かされた。体が怠い。夏だというのに寒い。震えで歯がガチガチ鳴っている。
「こりゃ熱がありやすねぇー。小焼さん、よく風邪ひいてやすね」
 湿った咳と共に血の混じった痰が出た。薬で咳は抑えられていても胸のあたりの痛みは取れないままだ。血を吐くのは何回目だろうか。また酒で喉が焼けたか? いや、これは……。
「武兵衛、あっちの手伝いをしてきてくれ。おれは小焼を診るから」
「あい」
 武兵衛は怪我人の手当てに向かう。夏樹は私の着物を開き、胸に耳をあてる。それから喉を診た。どうも表情が暗い。普段ならへらへら笑っているような奴が……何かあったのだろうか?
 声をかけようとしたが、咳に阻まれる。喉を込み上げ、吐き出されたのは赤い霙のような血。咳が止まらなくなり、胸のあたりが痛い。腹も痛くなってきた。背中をさすられて徐々に咳が止まる。
布団に私の吐いた血がこびりついてしまった。新しいのを、買わないと……。
「小焼、これ飲んでくれ」
「はい」
 水に溶かれた薬に口をつける。苦いようでいて妙に鼻の通るような香りがした。喉の違和感が消え、息がしやすくなる。こんなにすぐ薬を調合できる夏樹は名医と言えるだろう。
「落ち着いたか?」
「はい。迷惑かけてすみません」
「ここは養生所だから、迷惑かけたとか言わず、甘えりゃ良いんだよ。他ならぬおれが面倒みてやっから。なっ?」
「ありがとうございます」
「とりあえず、前と同じ薬を作っておくから」
「……これは、風邪なんですか?」
 普段より表情が暗いので気になった。無理に明るく取り繕っているようにも見えた。
 私には心当たりがある。夏樹にも心当たりがある。咳いて血を吐く病を、私も夏樹も知っている。
 この吉原内ちょうないでも流行っており、一昨日も大見世千鳥屋の女郎が一人亡くなったと読売が走り回っていた。
「風邪だ。風邪だよ」
流行病はやりやまいではなく?」
「風邪だよ! 医者のおれの診断が間違ってるって言いたいのか?」
「いいえ。夏樹がそう言うなら、そうなんでしょう」
 涙ぐんだ顔で言われても説得力は無い。
 薄々感じていたが……それなら……そうか。流行病――労咳ろうがいだと登楼もできなくなってしまう。風邪なら風邪で……夏樹の診断を信じよう。
 なんだか妙に眠い。このまま少しだけ甘えさせてもらうか。
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