桜に酔いし鬼噺

末千屋 コイメ

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第二十六話

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◆◇◆◇◆◇
 夜になった。いつものように清掻すががきが鳴り響いている。
 ともゑ屋は相変わらずの繁盛ぶりだ。文乃が心中したとあって、客の入りが少ないかと思ったが、そうでもないようだった。彼女の馴染みは既に別の女郎を買いに行ったのかそれとも喪に服しているのか。どちらだろうが私には関係の無い話だったな。
 部屋で用意された酒と肴をちびちび楽しんでいると、障子がすぅーっと開いて彼女が来た。
 私を見るなり、泣きだしそうに瞳を潤ませている。いや、既に泣いていた。涙が頬を伝わり、ぽとり、ぽとり、畳に落ちている。涙を袖で拭いつつ、彼女は隣に座った。
「どうして泣いているんですか?」
「小焼様……お昼に一緒におった子は……誰やの……?」
「ああ。あれは夏樹の妹です」
「夏樹様の……? ウチ、もう、来てくれへんと思ったの……ウチ……淋しかったの……」
「『また来る』と言ったでしょう」
「うん。小焼様は嘘を吐かへんって、ウチ、信じてるの……。でも、怖いの。ウチ、とても怖いの。小焼様が他の女に盗られるんやないかって。ウチの知らない所で、ウチの知らない女と一緒におるんやないかって。ウチの知らない女を抱いてるんやないかって。知っている女やったら、もっと嫌やの。小焼様は、その、真っ赤な瞳に、ウチだけを映してて欲しいの。ウチだけを見てて欲しいの」
 泣き止んだ彼女の瞳が歪む。笑っているのか悲しんでいるのかどちらにも見える表情をしている。
 さっきから景一は何を言っているんだろうか。さっぱり意味がわからない。
「夏樹様の妹さん……とても器量良しやったの……」
「……そうですね。確かに器量は良い方だと思います。髪が艶々しておりますし、肌も餅のようですし」
「小焼様は、髪の黒い女が好きやの……? それなら……」
 景一は端に置いていた硯を頭上でひっくり返す。墨汁を被った髪が黒くなる。どろり、濃い墨汁だったのだろう。髪に乗ったままになっている。
「どう? ウチ、黒くなったの。小焼様の好みになれた?」
「それだと貴女のせっかくの綺麗な髪色が台無しになってしまいますよ」
「あ、うぅ……」
 慌てた様子で頭を手拭いで拭き始めた。彼女はいったい何をしたいんだろうか。
「ふぅ……。小焼様。ウチ、お願いがあるの」
「何ですか?」
「伊織屋さんに行かんといて。夏樹様の妹さんに会わんといて」
「それは無理なお願いですね。伊織屋はうちの上客ですし、夏樹は私の数少ない友人でもあります。そこに妹のおふゆも勿論入っています」
「嫌やの! ウチは……小焼様を盗られたくないの……!」
「貴女はさっきから何を言ってるんですか?」
 盗られるとは何だ?
 景一は何を勘違いしているのだろうか。それなら自分だって毎晩私の知らない男に御開帳しているだろうに……。女郎だから、それが勤めだから、仕方ない話ではあるが。
 景一は大きな瞳を再び涙で潤ませている。天の色のように透き通っていて少し恐れてしまう。
 頭を撫でれば落ち着いてくれるだろうか。確か、頭を撫でられるのが好きだったはずだ。いつもにこにこ笑ってくれていた。頭を撫でようと手を伸ばす。
 が、その手を払われる。
「小焼様、お願いやの……。ウチから離れんとって……ウチだけを、その真っ赤な瞳で見てて……ウチだけを、その目に映してて欲しいの……」
「まずは落ち着いてください。何を言っているかわかりません」
「嫌やの。ウチ、他の女に小焼様を盗られるんは、嫌やの!」
「景一」
 錯乱しているのか話が通じない。聞いているようで聞いていない。
 名を呼ぶと、景一は悲しそうに笑い、懐に手を入れ、懐紙を取り出した。何かが包まれているようだ。包みがゆっくりと開かれる。
 雲に月が隠れたのか部屋が暗くなった。よく見えなくなる。
 ふわり、彼女が縋りついてきた。首に巻かれた赤い布が揺れる。甘い香りが舞う。桜の香りだ。もう咲いていないのに何処から香るのだろうか。
 長い睫毛に露のように乗った涙を拭えば、嬉しそうに、にっこりと笑った。笑顔に変わりは無い。擦り寄って来るのも普段のままで、まるで子犬のようで愛らしくさえも思ってくる。
 だが、月が雲から顔を出して異変に気付いた。
 彼女の手には剃刀が握られていた。握り締めているからか、手から赤色の雫が垂れている。血は苦手だ。気が遠くなるのを何とか堪える。噎せ返るような血の香りに頭がくらくらする。
「このまま一緒になられへんのやったら……死んだ方が良いの……」
「死んだら元も子もないでしょうが」
「ううん。あの世で一緒になれるって……錦姉様が言うてたの。だから、文乃姉様も昨夜旅立ったの。小焼様も一緒に逝こ? ウチと一緒になって欲しいの」
「死ぬなんて馬鹿馬鹿しい。生きている方が良いに決まっているでしょう。そもそも、あの世の事なんて誰にもわからないでしょうが」
「うん……それは……そうやの……。小焼様の言うてる事は正しいの……」
「わかってくれたなら良いです」
 景一は数度頷くと私から離れた。わかってくれたようだ。こんな所で死ぬ訳にはいかない。
 彼女の気の病がこんなにも恐ろしく、悲しいものだとは思わなかった。
「ウチは……小焼様が他の子と一緒になるんを見るくらいなら……死ぬの……」
 首の赤い布が宙を舞ったと同時に、畳、障子、天井にまで赤い花が咲き、散った。

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