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第三十一章
第二話
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「やめて!」
鬼平が送った合図も忘れて、智香は六条の腕を掴んだ。六条は、智香の手を振り払おうとしたが、仰向けになって唇から血を流している鬼平を見て、満足した。
「これでわかったか?」
六条は吐き捨てるように言い、鬼平を殴った手を擦りながら立ち上がった。六条は乱れた呼吸のまま、床にのびている鬼平の横の鞄を乱暴に開け、中からびんを取り出した。
「これか? なんだ、つまらない形だな。その辺の店に売ってるみたいじゃないか」
六条は失望したように言った。
「ほら、料金だ」
それから、ポケットをまさぐると百円玉を横になっている鬼平に投げつけた。それが鬼平の顔に当たって、床に音を立てて転がった。
「有難いと思えよ。こんなガラクタもどきに百円も出してあげるんだから。じゃあな、もう二度と喋ることはないだろう」
そう言うと六条はびんを小脇に抱え、そそくさと教室を出て行った。
「大丈夫!?」
六条の姿が見えなくなると、智香は急いで鬼平に近づき、身体を起こすのを手伝った。
「……う、うん」
鬼平は返事をしたが、ピリッと走るような痛みで顔をしかめ、切れている唇に指を当てた。にじみ出た血が指に付き、ちょうど髪から覗いている片目は痛みでズキズキと鳴るようだった。
「ひどい。なんなのあいつ。何の恨みがあるっていうの?」
智香はため息をつきながら、急いでポケットからティッシュを出して、鬼平に渡した。
鬼平はそれを、何度か宙を掴みながらも受け取って口に当てた。
「それに、びんも持ってかれちゃったし。あんな奴に持ってかれるなんて! 私、今すぐ奪い返しに行ってくる!」
智香は憤慨し、立ち上がると、今にも走り出そうとした。鬼平は慌てて手を伸ばし、智香の腕を掴んだ。
「どうして止めるの? あいつ、何言うかわかんないよ? もし変なことを言ったら、きっと大変なことになる。鬼平くんも知ってるでしょ? その前に止めなきゃ!」
智香は抗議した。
「ち、違う」
鬼平は逃れようとする智香をなんとか抑えながら言った。
「何が違うの?」
鬼平は机の中に手を伸ばした。彼が中から引きだしたものを見て智香は驚いた。
「え? これ、どういうこと? 嘘。これって『びんの悪魔』? どうして?」
鬼平はびんを持ったまま笑おうとしたが、痛みで顔をしかめた。唇を舐めると、血の味が口の中に広がった。
「あ、あいつが持って行ったのは、に、偽物。……ひゃ、百円ショップの……似たやつ」
そう言って鬼平は、もう片方の手に握っていた百円玉を智香に見せた。智香は「びんの悪魔」を見つめると、困惑した表情を鬼平に見せた。
「ええと、これが本物で、あいつが奪ったのは偽物……? 本当に?」
鬼平は頷き、笑った。智香は全身の力が抜けていくのを感じた。鬼平につられて自分も笑いそうになった。だが、智香にはまだ不可解なことがあった。
「でも、だったらどうしてあなたは素直に偽物を渡さなかったの? そうしたらこんなに殴られることもなかったのに」
いぶかしむような目つきで、智香は鬼平に聞いた。鬼平はびんの輝きを見つめ、言葉を探した。びんは薄っすらと鬼平の酷い顔を写していた。
「……す、素直に渡せば、あ、あいつは疑うかもしれない、と、思って」
そう言って鬼平は、痛みで目を細めた。
「しょうがなかったって……でも、それじゃ、あいつも偽物だって気付くんじゃないの? そうしたら、もう一度奪いに来るかもしれないじゃない」
智香はその時を想像して、ハラハラしながら聞いた。
「そ、それはない……と思う。たぶん」
「どうして? そんなこと言い切れる?」
鬼平は頷いた。
そしてその理由を智香に伝えるため、ごちゃごちゃになった感情の中から言葉を探しに出て、その途中にあった微かな痛みを無視して通り過ぎると、ようやく見つけたそれを彼女に差し出した。
「あいつは、僕からびんを奪えれば、それでいいんだ……そ、それ以外のことは、どうでもいいんだ。だ、だから、びんが本物かどうかも気にしない……だから、……大丈夫」
鬼平は自分に納得させるようにそう答えた。でも、言った後で、どうしてこれで大丈夫と言えるのか、よくわからなくなった。
智香は、その言葉を聞いた後もしばらく不安そうに六条が去っていった廊下の方を見ていた。だが、やがて身体の緊張を解いて笑うと、
「そうね。わかった。その言い分、信じてみる」
と言った。それから彼女は鬼平にぐいと近づくと、
「でも、」
と言って、鬼平の持っていたびんを手に取り、鬼平の目を覗き込んで続けた。
「さっきあいつが言ってたことは本当? その、私の気持ちを、勝手に変えた? 答えてくれないと……警告しておくよ。場合によっては、絶対に許さないから」
智香は真剣な眼差しで、鬼平にそう問いかけた。鬼平はその瞳の中に自分が吸い込まれ、とらわれたのが、わかった。
丸め込まれた彼は、ごくりと唾を飲みこみ、ゆっくりと自分の奥底に眠っている言葉を呼びだし始めた。
だが、その一方で、本当はどうにかして、智香の追及から逃れたいと思っていた。
自らの願いや、「女神」、あるいは〝愛〟だの〝恋〟だのとかいう厄介なもの、それらすべてから逃げ出して、その二つの価値が傷つけられない場所まで、走って行きたかった。
だが、もはや呼び出された言葉は喉元まで来ていた。
それに彼の身体はすでに、動くことをやめていたし、なによりびんを握っている智香の手を振り払う事はどうやってもできなかった。
鬼平は観念して、ポツリと呟いた。
「……あれは、僕のせい」
鬼平が送った合図も忘れて、智香は六条の腕を掴んだ。六条は、智香の手を振り払おうとしたが、仰向けになって唇から血を流している鬼平を見て、満足した。
「これでわかったか?」
六条は吐き捨てるように言い、鬼平を殴った手を擦りながら立ち上がった。六条は乱れた呼吸のまま、床にのびている鬼平の横の鞄を乱暴に開け、中からびんを取り出した。
「これか? なんだ、つまらない形だな。その辺の店に売ってるみたいじゃないか」
六条は失望したように言った。
「ほら、料金だ」
それから、ポケットをまさぐると百円玉を横になっている鬼平に投げつけた。それが鬼平の顔に当たって、床に音を立てて転がった。
「有難いと思えよ。こんなガラクタもどきに百円も出してあげるんだから。じゃあな、もう二度と喋ることはないだろう」
そう言うと六条はびんを小脇に抱え、そそくさと教室を出て行った。
「大丈夫!?」
六条の姿が見えなくなると、智香は急いで鬼平に近づき、身体を起こすのを手伝った。
「……う、うん」
鬼平は返事をしたが、ピリッと走るような痛みで顔をしかめ、切れている唇に指を当てた。にじみ出た血が指に付き、ちょうど髪から覗いている片目は痛みでズキズキと鳴るようだった。
「ひどい。なんなのあいつ。何の恨みがあるっていうの?」
智香はため息をつきながら、急いでポケットからティッシュを出して、鬼平に渡した。
鬼平はそれを、何度か宙を掴みながらも受け取って口に当てた。
「それに、びんも持ってかれちゃったし。あんな奴に持ってかれるなんて! 私、今すぐ奪い返しに行ってくる!」
智香は憤慨し、立ち上がると、今にも走り出そうとした。鬼平は慌てて手を伸ばし、智香の腕を掴んだ。
「どうして止めるの? あいつ、何言うかわかんないよ? もし変なことを言ったら、きっと大変なことになる。鬼平くんも知ってるでしょ? その前に止めなきゃ!」
智香は抗議した。
「ち、違う」
鬼平は逃れようとする智香をなんとか抑えながら言った。
「何が違うの?」
鬼平は机の中に手を伸ばした。彼が中から引きだしたものを見て智香は驚いた。
「え? これ、どういうこと? 嘘。これって『びんの悪魔』? どうして?」
鬼平はびんを持ったまま笑おうとしたが、痛みで顔をしかめた。唇を舐めると、血の味が口の中に広がった。
「あ、あいつが持って行ったのは、に、偽物。……ひゃ、百円ショップの……似たやつ」
そう言って鬼平は、もう片方の手に握っていた百円玉を智香に見せた。智香は「びんの悪魔」を見つめると、困惑した表情を鬼平に見せた。
「ええと、これが本物で、あいつが奪ったのは偽物……? 本当に?」
鬼平は頷き、笑った。智香は全身の力が抜けていくのを感じた。鬼平につられて自分も笑いそうになった。だが、智香にはまだ不可解なことがあった。
「でも、だったらどうしてあなたは素直に偽物を渡さなかったの? そうしたらこんなに殴られることもなかったのに」
いぶかしむような目つきで、智香は鬼平に聞いた。鬼平はびんの輝きを見つめ、言葉を探した。びんは薄っすらと鬼平の酷い顔を写していた。
「……す、素直に渡せば、あ、あいつは疑うかもしれない、と、思って」
そう言って鬼平は、痛みで目を細めた。
「しょうがなかったって……でも、それじゃ、あいつも偽物だって気付くんじゃないの? そうしたら、もう一度奪いに来るかもしれないじゃない」
智香はその時を想像して、ハラハラしながら聞いた。
「そ、それはない……と思う。たぶん」
「どうして? そんなこと言い切れる?」
鬼平は頷いた。
そしてその理由を智香に伝えるため、ごちゃごちゃになった感情の中から言葉を探しに出て、その途中にあった微かな痛みを無視して通り過ぎると、ようやく見つけたそれを彼女に差し出した。
「あいつは、僕からびんを奪えれば、それでいいんだ……そ、それ以外のことは、どうでもいいんだ。だ、だから、びんが本物かどうかも気にしない……だから、……大丈夫」
鬼平は自分に納得させるようにそう答えた。でも、言った後で、どうしてこれで大丈夫と言えるのか、よくわからなくなった。
智香は、その言葉を聞いた後もしばらく不安そうに六条が去っていった廊下の方を見ていた。だが、やがて身体の緊張を解いて笑うと、
「そうね。わかった。その言い分、信じてみる」
と言った。それから彼女は鬼平にぐいと近づくと、
「でも、」
と言って、鬼平の持っていたびんを手に取り、鬼平の目を覗き込んで続けた。
「さっきあいつが言ってたことは本当? その、私の気持ちを、勝手に変えた? 答えてくれないと……警告しておくよ。場合によっては、絶対に許さないから」
智香は真剣な眼差しで、鬼平にそう問いかけた。鬼平はその瞳の中に自分が吸い込まれ、とらわれたのが、わかった。
丸め込まれた彼は、ごくりと唾を飲みこみ、ゆっくりと自分の奥底に眠っている言葉を呼びだし始めた。
だが、その一方で、本当はどうにかして、智香の追及から逃れたいと思っていた。
自らの願いや、「女神」、あるいは〝愛〟だの〝恋〟だのとかいう厄介なもの、それらすべてから逃げ出して、その二つの価値が傷つけられない場所まで、走って行きたかった。
だが、もはや呼び出された言葉は喉元まで来ていた。
それに彼の身体はすでに、動くことをやめていたし、なによりびんを握っている智香の手を振り払う事はどうやってもできなかった。
鬼平は観念して、ポツリと呟いた。
「……あれは、僕のせい」
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