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第三十章
第三話
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「え?」
鬼平は戸惑った。
「ここ一週間の話じゃなくてね、あのさ、あなたが倒れた時に話してたこと。あの時私はちゃんと聞けなかったでしょ? だから、もし話せるなら話してほしいと思って。それにあれは私のせいだし。やっぱり、聞いておかないといけないなって思った。無理にとは言わないけど……」
智香は鬼平の表情を伺いながら訂正した。
鬼平は頷かなかった。智香がなぜ、そんなことを言い出したのか考える前に、机の上のびんを眺めていた。
……父親から受けた暴力について誰かに話したのは、あの時が初めてだった。今でも当時のことを思い出せば、呼吸が乱れていくのがわかる。もうずっと前のことなのに、目を閉じれば父親の手が伸びてくるような気がした。
「鬼平くん? 大丈夫?」
智香に呼びかけられて、鬼平は顔を上げた。
「え? あ、うん。……大丈夫。話せる、と思う」
それから鬼平が語ったことは以前保健室のベッドの上で語った内容と大差ない。今はもう、両親は離婚して、それ以来父親と会うことはなく、母親と暮らしていることを加えて話した。智香は鬼平の話を、悲しそうな目で彼を見つめながら聞いた。
「あのさ、その、あなたって変わった喋り方するでしょ? 吃音って言ったっけ? それと今話したことって、関係あるの?」
鬼平は目を伏せた。
「いや、関係ない、と思う。お父さんが僕の身体を……触る前から、ずっとこんな喋り方だった。そ、そのことで二人が揉めてるのを聞いたことがある……けど」
「そうなの?」
「う、うん……でも、その後悪くなった、っていうのはそうかもしれない」
「そう……」
智香は目を細めた。気まずくなって沈黙が流れた。
「私、何かあなたに聞かなくちゃいけないことがあったような気がする。ねえ、何だっけ?」
それから突然智香がそう言い、鬼平は困ったように微笑んだ。
「あっ! そうだこれだよ」
智香はびんを手にして苦々しく言った。
「確か、あの時、これを渡してほしいって言ってたよね? それで対価がどうって……何だっけ?」
鬼平はいよいよ落ち着かなくなって腕をかき、なんとか決心して言った。
「ちゃ、ちゃんと聞いてほしい」
鬼平が真剣な表情で言うと、智香もそれに応えて頷いた。
「ぼ、僕がこれを買った後、ね、願いを言ったんだ。でも、それは……僕には大きすぎた。だ、だから……ごめん!」
「なんであなたが謝るの?」
智香は困惑して言った。そして笑って流そうとしたが、一向に表情を緩めない鬼平を見て、次第に雲行きが怪しくなっていった。智香から見て、鬼平が何かを思い詰めているのは明らかだった。
「……ねえ、その願いってどんな願い? 私に言える願い?」
不審に思って智香が聞いた。鬼平は答えなかった。
「……言わないと、渡さないよ?」
智香が目を細めて言った。
「言えない」
「え?」
智香は鬼平が初めてそんな風にキッパリと否定したので驚いた。しかしすぐに、その勢いは消えて、元のように気弱な雰囲気に戻った。
「い、言えない。でもきっとそのせいで、その願いの対価のせいで、鈴本さんはこんなに大変な目に遭ったんだ……と思う」
智香は眉をひそめた。
「こんなに大変な目に遭わせるような願いって、一体何? もうみんな終わったっていうのに。あ、お父さんにまだ会ってないか。ごめんこっちの話。でも、もうこんなこと起こらないよ。これ以上起こるなら、びんの方が対価を貰いすぎていると思うけど?」
智香は同意を求めるように鬼平を見た。だが鬼平は頬を強張らせたままだった。
「か、考えすぎかどうかは、ね、願いを取り消してからでも遅くない」
それから鬼平は会話を中断するように、急いで用意していた千九百五十四円を取り出した。智香の表情はますます険しくなった。
「何も聞かないで、びんを渡して。そうしたら、もう変なことは起こらない……と思うから」
「え、でも……」
智香は机の上に乗ったお金とびん、それと鬼平の顔を見比べて迷っていた。鬼平の様子がどこかおかしいことくらい、智香にはすぐわかった。だが、彼が本気でそう言っているのもわかって、智香は戸惑った。
それから鬼平の願いが何だったのか考えた。そんなにも大それた願いは何だろう、と。だが、智香には、どんな願いであれ、そんなものを鬼平が願ったようには、いや、そんなことを彼が考えるようにはとても思えなかった。
このまま鬼平の言う通りにしていいものか、智香は迷った。
「いいよ」
迷いを断ち切るように、智香はそう言うと、にっこり笑ってお金に手を伸ばした。そして、手元に持ってくる前で止め、そのまま鬼平を見つめる。
「でもやっぱり何も言わないのは、なし。だからもしその願いを取り消したら、私に願いが何だったのか、教えて」
智香に見つめられ、鬼平は目をそらした。そして小さな声で、
「……うん」
と同意した。それから彼は、まるで自分の夢物語を締めくくるようにびんを手に取って、こう言った。
「やっとだ……これで、」
「これでびんを手に入れられる」
どこかから声がして鬼平と智香は一斉に教室の扉の方を向いた。そこには一人の気弱そうな男が立っていて、卑屈な笑みを浮かべて二人を見つめていた。
六条恭介だった。
鬼平は戸惑った。
「ここ一週間の話じゃなくてね、あのさ、あなたが倒れた時に話してたこと。あの時私はちゃんと聞けなかったでしょ? だから、もし話せるなら話してほしいと思って。それにあれは私のせいだし。やっぱり、聞いておかないといけないなって思った。無理にとは言わないけど……」
智香は鬼平の表情を伺いながら訂正した。
鬼平は頷かなかった。智香がなぜ、そんなことを言い出したのか考える前に、机の上のびんを眺めていた。
……父親から受けた暴力について誰かに話したのは、あの時が初めてだった。今でも当時のことを思い出せば、呼吸が乱れていくのがわかる。もうずっと前のことなのに、目を閉じれば父親の手が伸びてくるような気がした。
「鬼平くん? 大丈夫?」
智香に呼びかけられて、鬼平は顔を上げた。
「え? あ、うん。……大丈夫。話せる、と思う」
それから鬼平が語ったことは以前保健室のベッドの上で語った内容と大差ない。今はもう、両親は離婚して、それ以来父親と会うことはなく、母親と暮らしていることを加えて話した。智香は鬼平の話を、悲しそうな目で彼を見つめながら聞いた。
「あのさ、その、あなたって変わった喋り方するでしょ? 吃音って言ったっけ? それと今話したことって、関係あるの?」
鬼平は目を伏せた。
「いや、関係ない、と思う。お父さんが僕の身体を……触る前から、ずっとこんな喋り方だった。そ、そのことで二人が揉めてるのを聞いたことがある……けど」
「そうなの?」
「う、うん……でも、その後悪くなった、っていうのはそうかもしれない」
「そう……」
智香は目を細めた。気まずくなって沈黙が流れた。
「私、何かあなたに聞かなくちゃいけないことがあったような気がする。ねえ、何だっけ?」
それから突然智香がそう言い、鬼平は困ったように微笑んだ。
「あっ! そうだこれだよ」
智香はびんを手にして苦々しく言った。
「確か、あの時、これを渡してほしいって言ってたよね? それで対価がどうって……何だっけ?」
鬼平はいよいよ落ち着かなくなって腕をかき、なんとか決心して言った。
「ちゃ、ちゃんと聞いてほしい」
鬼平が真剣な表情で言うと、智香もそれに応えて頷いた。
「ぼ、僕がこれを買った後、ね、願いを言ったんだ。でも、それは……僕には大きすぎた。だ、だから……ごめん!」
「なんであなたが謝るの?」
智香は困惑して言った。そして笑って流そうとしたが、一向に表情を緩めない鬼平を見て、次第に雲行きが怪しくなっていった。智香から見て、鬼平が何かを思い詰めているのは明らかだった。
「……ねえ、その願いってどんな願い? 私に言える願い?」
不審に思って智香が聞いた。鬼平は答えなかった。
「……言わないと、渡さないよ?」
智香が目を細めて言った。
「言えない」
「え?」
智香は鬼平が初めてそんな風にキッパリと否定したので驚いた。しかしすぐに、その勢いは消えて、元のように気弱な雰囲気に戻った。
「い、言えない。でもきっとそのせいで、その願いの対価のせいで、鈴本さんはこんなに大変な目に遭ったんだ……と思う」
智香は眉をひそめた。
「こんなに大変な目に遭わせるような願いって、一体何? もうみんな終わったっていうのに。あ、お父さんにまだ会ってないか。ごめんこっちの話。でも、もうこんなこと起こらないよ。これ以上起こるなら、びんの方が対価を貰いすぎていると思うけど?」
智香は同意を求めるように鬼平を見た。だが鬼平は頬を強張らせたままだった。
「か、考えすぎかどうかは、ね、願いを取り消してからでも遅くない」
それから鬼平は会話を中断するように、急いで用意していた千九百五十四円を取り出した。智香の表情はますます険しくなった。
「何も聞かないで、びんを渡して。そうしたら、もう変なことは起こらない……と思うから」
「え、でも……」
智香は机の上に乗ったお金とびん、それと鬼平の顔を見比べて迷っていた。鬼平の様子がどこかおかしいことくらい、智香にはすぐわかった。だが、彼が本気でそう言っているのもわかって、智香は戸惑った。
それから鬼平の願いが何だったのか考えた。そんなにも大それた願いは何だろう、と。だが、智香には、どんな願いであれ、そんなものを鬼平が願ったようには、いや、そんなことを彼が考えるようにはとても思えなかった。
このまま鬼平の言う通りにしていいものか、智香は迷った。
「いいよ」
迷いを断ち切るように、智香はそう言うと、にっこり笑ってお金に手を伸ばした。そして、手元に持ってくる前で止め、そのまま鬼平を見つめる。
「でもやっぱり何も言わないのは、なし。だからもしその願いを取り消したら、私に願いが何だったのか、教えて」
智香に見つめられ、鬼平は目をそらした。そして小さな声で、
「……うん」
と同意した。それから彼は、まるで自分の夢物語を締めくくるようにびんを手に取って、こう言った。
「やっとだ……これで、」
「これでびんを手に入れられる」
どこかから声がして鬼平と智香は一斉に教室の扉の方を向いた。そこには一人の気弱そうな男が立っていて、卑屈な笑みを浮かべて二人を見つめていた。
六条恭介だった。
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