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第二十八章
第二話
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「ちょっと待ってよ! 一体どこにいくつもり?」
智香が後ろで叫び、近づいてくるのを待ちながら鬼平は保健室の扉を開けた。中を覗き込む。福田先生はいないようだ。
「ねえ、無視しないでよ!」
智香が近づき、鬼平の横に並ぶ。それを見て鬼平は冷静になった。彼の中には、さっき六条に放った力は、もうひとかけらも残っていなかった。
「こ、こっち」
いつもと同じ喋り方に戻り、鬼平は言った。鬼平に連れられて保健室に入った智香は訝しそうに彼を見て、首を傾げた。
「き、昨日見つけた。……こ、ここに本があるんだ」
「本?」
「……うん」
智香は身をかがめ、本棚を覗き込んだ。しばらくその体勢のまま目を動かしていた。
「何があるっていうの? ……あ」
智香が「びんの悪魔」を見つけ、引っ張り出した。
「これ……」
智香は言葉を失いながら表紙の絵を眺め、それから今見ているものの実在を確かめるように手で撫でた。
「どういうこと?」
智香は本を持ったまま、鬼平の方を向いて尋ねた。
「……わからない。でも、……ここにあった」
「ここに?」
鬼平は頷く。智香はもう一度表紙に書かれた文字をまじまじと見つめ、本を開いた。
「あのびんって、元ネタがあったんだね」
智香は本を持ちながらゆっくりと移動して、ベッドに腰を下ろした。本に目を奪われたまま、さっと文章に目を通していく。
「すごい。本当にここに出てくるびんじゃない……」
智香はそう呟いた後、鬼平がいることも忘れ、本の中に吸い寄せられるかのように物語にのめり込んでいった。鬼平が何か言おうと思った時には、すでに熱心に文字を追っていて、気安く声を掛けられる雰囲気ではなかった。
鬼平は自分もまだよく読んでいないので反応に困ったが、智香の傍に寄り「一緒に読もう」だなんて、口が裂けても言えるわけがなく、固まってしまった。
「鬼平くんはもう読んだの?」
智香は本に目を奪われたまま聞いた。鬼平は首を振ったが、智香には見えていなかった。不審に思った智香が顔を上げたところで、鬼平が「い、いや」と答えた。
「じゃあほら、一緒に読もうよ」
智香は何気なく言って鬼平の分のスペースを開けるために身体を動かし、本をベッドの上に広げた。
そうして両膝を合わし、身体を斜めにして、日差しが斜めに入ってくるこの保健室で、髪をかき上げながら本を覗き込む智香の仕草は、妙になまめかしかった。
鬼平は返事ができないまま、そんなことを思ってしまった自分の気持ちを誤魔化すように急いで横に座ったが、今度は智香の顔が近すぎるのと彼女の匂いが香ってくるせいで、なかなか本に集中できなかった。
「やっぱり、この本の人達も、びんの処理に困ってるみたいだね」
ページをめくりながら、智香が呟いた。鬼平はもう何が何だかわからないまま頷いていた。
物語は短く、集中して読めばすぐに読めるような量だった。外の生徒たちの声が遠くに聞こえる中、鬼平は徐々に意識を本に集中させ、智香は無言で読み進めた。ついに最後のページに行き渡ると、智香は身体を正面に戻した。
「なんか、都合のいい終わり方だね」
あまり楽しくなさそうにして智香は言った。鬼平は、智香から少し遅れて物語の結末を読み取った。
彼の感想は智香と少し違っていて、とても面白いと感じた。その時ばかりは自分が今置かれている境遇も忘れて、物語に没頭できた。
登場人物たちは自分たちとは別の展開を辿っていて、興味深かったし、それにこれは……〝愛の物語〟だと思った。確かに物語の最後にびんはなくなった。主人公の元、それと物語から。
だが、そのなくなったはずのびんはここにあるし、主人公たちがびんを手放した方法も、あくまでもルールの中でのことだった。
智香の言うような抜け道を、彼らは考えることさえしていなかった。他人に渡すことを苦悩する場面も多くない。昔のハワイに住む人達にとっての〝力〟とはもっと素朴だったのかもしれない、と鬼平は思った。
「で?」
智香は鬼平が本から顔を上げたのを見て言った。
「どうして私にこれを? まさか一緒に読みたかったって言うんじゃないでしょ?」
智香は自分で言った言葉に笑いながら聞いた。
「い、いや……」
鬼平は言葉に詰まった。もちろんそれは、間違いではないが……智香が自分と同じように衝撃を受けていないのを見て、どこから説明したらいいのかわからなくなった。それで結局全部説明することになった。とても骨が折れる時間だった。
鬼平はそれを全身を使って表現していった。びんを買った時の出来事から、六条が現れ、噂が流れているのを知ったことから、六条に悩まされていたことそれらすべてを、もちろん、言える範囲までだったが……。
「私もね、麻由里から噂を聞いた。たぶん鬼平くんがびんを手にした後にね。なるほどね、確かに不思議な話かもね。誰が噂を言い出したのか、わかりそうもないけど、どこからっていう疑問には答えがあったわけね」
すべてを聞いてから智香が言った。鬼平は頷いた。
「でも、その、ロクヨウ君って言ったっけ? あんまりその人には会いたくないけど、嗅覚だけは一人前みたいだね。鬼平くんに目を付けて、次の所有者の私にも目を付けたんだし」
六条が今、本当に目を付けているのはびんではなくて智香本人だ、とは鬼平は言わなかった。
額にしわをよせ腕を組んで考え込んでいる智香の姿を見て、鬼平はもっと智香の口から六条の悪口を聞きたいと思う、悪魔のような自分を感じた。
だが智香はすでに六条への興味を失っていた。かわりに、びんをどうするべきかだけを考えていた。
「あ、あのさ……」
鬼平が言った。
「何?」
智香が後ろで叫び、近づいてくるのを待ちながら鬼平は保健室の扉を開けた。中を覗き込む。福田先生はいないようだ。
「ねえ、無視しないでよ!」
智香が近づき、鬼平の横に並ぶ。それを見て鬼平は冷静になった。彼の中には、さっき六条に放った力は、もうひとかけらも残っていなかった。
「こ、こっち」
いつもと同じ喋り方に戻り、鬼平は言った。鬼平に連れられて保健室に入った智香は訝しそうに彼を見て、首を傾げた。
「き、昨日見つけた。……こ、ここに本があるんだ」
「本?」
「……うん」
智香は身をかがめ、本棚を覗き込んだ。しばらくその体勢のまま目を動かしていた。
「何があるっていうの? ……あ」
智香が「びんの悪魔」を見つけ、引っ張り出した。
「これ……」
智香は言葉を失いながら表紙の絵を眺め、それから今見ているものの実在を確かめるように手で撫でた。
「どういうこと?」
智香は本を持ったまま、鬼平の方を向いて尋ねた。
「……わからない。でも、……ここにあった」
「ここに?」
鬼平は頷く。智香はもう一度表紙に書かれた文字をまじまじと見つめ、本を開いた。
「あのびんって、元ネタがあったんだね」
智香は本を持ちながらゆっくりと移動して、ベッドに腰を下ろした。本に目を奪われたまま、さっと文章に目を通していく。
「すごい。本当にここに出てくるびんじゃない……」
智香はそう呟いた後、鬼平がいることも忘れ、本の中に吸い寄せられるかのように物語にのめり込んでいった。鬼平が何か言おうと思った時には、すでに熱心に文字を追っていて、気安く声を掛けられる雰囲気ではなかった。
鬼平は自分もまだよく読んでいないので反応に困ったが、智香の傍に寄り「一緒に読もう」だなんて、口が裂けても言えるわけがなく、固まってしまった。
「鬼平くんはもう読んだの?」
智香は本に目を奪われたまま聞いた。鬼平は首を振ったが、智香には見えていなかった。不審に思った智香が顔を上げたところで、鬼平が「い、いや」と答えた。
「じゃあほら、一緒に読もうよ」
智香は何気なく言って鬼平の分のスペースを開けるために身体を動かし、本をベッドの上に広げた。
そうして両膝を合わし、身体を斜めにして、日差しが斜めに入ってくるこの保健室で、髪をかき上げながら本を覗き込む智香の仕草は、妙になまめかしかった。
鬼平は返事ができないまま、そんなことを思ってしまった自分の気持ちを誤魔化すように急いで横に座ったが、今度は智香の顔が近すぎるのと彼女の匂いが香ってくるせいで、なかなか本に集中できなかった。
「やっぱり、この本の人達も、びんの処理に困ってるみたいだね」
ページをめくりながら、智香が呟いた。鬼平はもう何が何だかわからないまま頷いていた。
物語は短く、集中して読めばすぐに読めるような量だった。外の生徒たちの声が遠くに聞こえる中、鬼平は徐々に意識を本に集中させ、智香は無言で読み進めた。ついに最後のページに行き渡ると、智香は身体を正面に戻した。
「なんか、都合のいい終わり方だね」
あまり楽しくなさそうにして智香は言った。鬼平は、智香から少し遅れて物語の結末を読み取った。
彼の感想は智香と少し違っていて、とても面白いと感じた。その時ばかりは自分が今置かれている境遇も忘れて、物語に没頭できた。
登場人物たちは自分たちとは別の展開を辿っていて、興味深かったし、それにこれは……〝愛の物語〟だと思った。確かに物語の最後にびんはなくなった。主人公の元、それと物語から。
だが、そのなくなったはずのびんはここにあるし、主人公たちがびんを手放した方法も、あくまでもルールの中でのことだった。
智香の言うような抜け道を、彼らは考えることさえしていなかった。他人に渡すことを苦悩する場面も多くない。昔のハワイに住む人達にとっての〝力〟とはもっと素朴だったのかもしれない、と鬼平は思った。
「で?」
智香は鬼平が本から顔を上げたのを見て言った。
「どうして私にこれを? まさか一緒に読みたかったって言うんじゃないでしょ?」
智香は自分で言った言葉に笑いながら聞いた。
「い、いや……」
鬼平は言葉に詰まった。もちろんそれは、間違いではないが……智香が自分と同じように衝撃を受けていないのを見て、どこから説明したらいいのかわからなくなった。それで結局全部説明することになった。とても骨が折れる時間だった。
鬼平はそれを全身を使って表現していった。びんを買った時の出来事から、六条が現れ、噂が流れているのを知ったことから、六条に悩まされていたことそれらすべてを、もちろん、言える範囲までだったが……。
「私もね、麻由里から噂を聞いた。たぶん鬼平くんがびんを手にした後にね。なるほどね、確かに不思議な話かもね。誰が噂を言い出したのか、わかりそうもないけど、どこからっていう疑問には答えがあったわけね」
すべてを聞いてから智香が言った。鬼平は頷いた。
「でも、その、ロクヨウ君って言ったっけ? あんまりその人には会いたくないけど、嗅覚だけは一人前みたいだね。鬼平くんに目を付けて、次の所有者の私にも目を付けたんだし」
六条が今、本当に目を付けているのはびんではなくて智香本人だ、とは鬼平は言わなかった。
額にしわをよせ腕を組んで考え込んでいる智香の姿を見て、鬼平はもっと智香の口から六条の悪口を聞きたいと思う、悪魔のような自分を感じた。
だが智香はすでに六条への興味を失っていた。かわりに、びんをどうするべきかだけを考えていた。
「あ、あのさ……」
鬼平が言った。
「何?」
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