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第十九章
第二話
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二人はそれから、カレーライスと作り置きのサラダを食べた。どちらも帰りが遅い母親の代わりに智香が作ったものだ。
夕飯は毎日智香が作るわけではないが、頻度は多かった。母親の仕事がいつ長引くかわからないので、智香は部活にも入れなかった。そのことで母親を恨まなかったと言えば嘘になる。だが、始めてみると料理は楽しかった。ゆっくりとだが上達していくことも、レパートリーが増えていくのも、それを喜んで食べてくれる人がいることも。
もちろんそれまでに、しょっぱい餃子や、焦げたハンバーグを食べたことも一度や二度ではなかったのだが。
「ごちそうさま」
二人は協力して家事を分担していた。今日は智香が料理、皿洗いは母の仕事だった。それが逆の時もある。
智香はコップに麦茶を注ぎ、お母さんが皿を洗っているのを眺めていた。家に帰る前までは、今日起きたことのせいで、自分の境遇に珍しく嫌気がさしていたが、料理をしている間に自然とその気持ちは消えていった。
むしろその間は無心になって作業していられて、かえってよかった。
「紅茶、飲むでしょ?」
お母さんが食器を水切りかごに置きながら聞いた。
「うん。飲む」
智香はまたカーテンを見た。開けた窓から風が入って優雅に揺れている。やかんがコンロに置かれて、チチチチ、と音がした。お湯が沸くのを待っているその時間は、智香にとって、まるで十歳の子供の頃に戻ったようなひと時だった。
「どれ食べる?」
智香が麦茶を冷蔵庫に戻しに行くと、お母さんに聞かれた。智香は開かれた箱の中を見つめ、数ある中から、
「これ」
とフルーツタルトを指差した。お母さんは頷き、タルトを箱から取り出し、横の白い食器に乗せる。
その後、二人はもう一度食卓で膝を向け合った。机の上には、マグカップに注がれた紅茶が湯気を立てていて、その前に宝石のように輝くフルーツタルトがあった。智香のお母さんはガトーショコラで、これは表面に真っ白なシュガーパウダーがかかっていた。
智香はタルトにフォークを入れ、口に含むと、イチゴの酸味とタルトの甘みに舌鼓を打った。湯気をあげる紅茶の香りを楽しんで、一口飲んだ。満ち足りた気分になるはずなのに、今日のことを思い出して、手が止まる。お母さんはいつもと変わらず、淡々とショコラを口に運んでいた。
「どうしたの? おいしくなかった?」
智香に見られているのに気付いて、お母さんが聞いた。
「ううん。おいしいよ。とっても」
「そう。よかった」
智香はフォークを持ち、三つ又に分かれた中の一番太い先でブルーベリーを差した。そのままタルトにも横にして切れ目を入れる。
「……お母さん」
「ん? 何?」
お母さんは、ちょうどショコラを口に入れたところだった。下唇にチョコレートがついてしまい、それを下でなめるのを、智香は見ていた。
「……お父さんに会いたいって思ったことある?」
どうやって、いつ言えばいいか、智香はずっと迷っていたが、ハッキリ聞いた。その方が余計な誤解を生まないと思ったからだ。智香が突き刺すように言うとすぐにお母さんの表情に影が差した。お母さんはため息をつき、マグカップを手に取って、紅茶と一緒にたくさんの想いを飲みこんだ。それから、智香に目を合わせず、ショコラをフォークで何度もつついて、
「ない」
と短く答えた。
「一度も? 一度もないの?」
智香が身を乗り出すと、お母さんはショコラを口に持ってきて、無表情のまま頷いた。智香は腰を下ろし、フォークを置く。
「智香。もう終わったことなの。私とあの人の関係はね」
智香のお母さんは、これ以上話すことはない、と言うように、紅茶を飲み込んだ。
「私にとっては、終わってない」
智香はそう言った。が、その言葉が届くことはなかった。智香は紅茶を見つめた。その透き通る飴色と結びついた香りには、たくさんの思い出がつまっているのだ。
「ごめん。でも、私は、お父さんに会いたい。ううん、ずっと、会わないといけないって思ってた」
お母さんはケーキに切れ目を入れた。フォークが皿に当たって音を立てて、テーブルが少し揺れた。
「お母さんは、会わないでいいよ。私とお父さん、二人で会う。その方がいいよね?」
それでも、お母さんは何も答えなかった。つまらなさそうに俯いている。その煮え切らない態度に、智香はやりきれなくなったが、喧嘩になる前に、彼女はタルトとマグカップを手に取って立ちあがった。
「ケーキありがとう。後は部屋で食べるね」
智香はそう言い残して、リビングを去った。急いで部屋に戻って、手の甲で扉を開けて中に入る。すぐに机にタルトとマグカップを置いた。その時、びんが嫌でも目に入った。
「何考えてるんだろ」
びんのつるりとした曲線に写った、歪んだ自分の顔を見ながら、智香は呟いた。
「私の望みが、誰かの望みだなんて。……そんなわけないのにね」
智香はびんを脇にどけると、一人でタルトを食べた。タルトは、とてもおいしかった。
夕飯は毎日智香が作るわけではないが、頻度は多かった。母親の仕事がいつ長引くかわからないので、智香は部活にも入れなかった。そのことで母親を恨まなかったと言えば嘘になる。だが、始めてみると料理は楽しかった。ゆっくりとだが上達していくことも、レパートリーが増えていくのも、それを喜んで食べてくれる人がいることも。
もちろんそれまでに、しょっぱい餃子や、焦げたハンバーグを食べたことも一度や二度ではなかったのだが。
「ごちそうさま」
二人は協力して家事を分担していた。今日は智香が料理、皿洗いは母の仕事だった。それが逆の時もある。
智香はコップに麦茶を注ぎ、お母さんが皿を洗っているのを眺めていた。家に帰る前までは、今日起きたことのせいで、自分の境遇に珍しく嫌気がさしていたが、料理をしている間に自然とその気持ちは消えていった。
むしろその間は無心になって作業していられて、かえってよかった。
「紅茶、飲むでしょ?」
お母さんが食器を水切りかごに置きながら聞いた。
「うん。飲む」
智香はまたカーテンを見た。開けた窓から風が入って優雅に揺れている。やかんがコンロに置かれて、チチチチ、と音がした。お湯が沸くのを待っているその時間は、智香にとって、まるで十歳の子供の頃に戻ったようなひと時だった。
「どれ食べる?」
智香が麦茶を冷蔵庫に戻しに行くと、お母さんに聞かれた。智香は開かれた箱の中を見つめ、数ある中から、
「これ」
とフルーツタルトを指差した。お母さんは頷き、タルトを箱から取り出し、横の白い食器に乗せる。
その後、二人はもう一度食卓で膝を向け合った。机の上には、マグカップに注がれた紅茶が湯気を立てていて、その前に宝石のように輝くフルーツタルトがあった。智香のお母さんはガトーショコラで、これは表面に真っ白なシュガーパウダーがかかっていた。
智香はタルトにフォークを入れ、口に含むと、イチゴの酸味とタルトの甘みに舌鼓を打った。湯気をあげる紅茶の香りを楽しんで、一口飲んだ。満ち足りた気分になるはずなのに、今日のことを思い出して、手が止まる。お母さんはいつもと変わらず、淡々とショコラを口に運んでいた。
「どうしたの? おいしくなかった?」
智香に見られているのに気付いて、お母さんが聞いた。
「ううん。おいしいよ。とっても」
「そう。よかった」
智香はフォークを持ち、三つ又に分かれた中の一番太い先でブルーベリーを差した。そのままタルトにも横にして切れ目を入れる。
「……お母さん」
「ん? 何?」
お母さんは、ちょうどショコラを口に入れたところだった。下唇にチョコレートがついてしまい、それを下でなめるのを、智香は見ていた。
「……お父さんに会いたいって思ったことある?」
どうやって、いつ言えばいいか、智香はずっと迷っていたが、ハッキリ聞いた。その方が余計な誤解を生まないと思ったからだ。智香が突き刺すように言うとすぐにお母さんの表情に影が差した。お母さんはため息をつき、マグカップを手に取って、紅茶と一緒にたくさんの想いを飲みこんだ。それから、智香に目を合わせず、ショコラをフォークで何度もつついて、
「ない」
と短く答えた。
「一度も? 一度もないの?」
智香が身を乗り出すと、お母さんはショコラを口に持ってきて、無表情のまま頷いた。智香は腰を下ろし、フォークを置く。
「智香。もう終わったことなの。私とあの人の関係はね」
智香のお母さんは、これ以上話すことはない、と言うように、紅茶を飲み込んだ。
「私にとっては、終わってない」
智香はそう言った。が、その言葉が届くことはなかった。智香は紅茶を見つめた。その透き通る飴色と結びついた香りには、たくさんの思い出がつまっているのだ。
「ごめん。でも、私は、お父さんに会いたい。ううん、ずっと、会わないといけないって思ってた」
お母さんはケーキに切れ目を入れた。フォークが皿に当たって音を立てて、テーブルが少し揺れた。
「お母さんは、会わないでいいよ。私とお父さん、二人で会う。その方がいいよね?」
それでも、お母さんは何も答えなかった。つまらなさそうに俯いている。その煮え切らない態度に、智香はやりきれなくなったが、喧嘩になる前に、彼女はタルトとマグカップを手に取って立ちあがった。
「ケーキありがとう。後は部屋で食べるね」
智香はそう言い残して、リビングを去った。急いで部屋に戻って、手の甲で扉を開けて中に入る。すぐに机にタルトとマグカップを置いた。その時、びんが嫌でも目に入った。
「何考えてるんだろ」
びんのつるりとした曲線に写った、歪んだ自分の顔を見ながら、智香は呟いた。
「私の望みが、誰かの望みだなんて。……そんなわけないのにね」
智香はびんを脇にどけると、一人でタルトを食べた。タルトは、とてもおいしかった。
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