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第十八章
第二話
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智香は困惑していた。しばらく固まって、鬼平を見つめその意図を汲もうとした。そこでようやく、さっきからずっと鬼平はそのことしか言っていなかったことに気付いたが、それでもにわかには信じられず、笑ってしまった。その後、智香は自分が笑ったのが間違いだったと気付き、首を振ると、鬼平を見つめた。
「ごめん。笑ったりして。でも、じゃあ何? 私に願いを言って欲しくて、そのびんが本物だって証明しようとしたの?」
鬼平は頷いた。智香は、自分が言ったはずの言葉の意味に胸の内をくすぐられているような気になり、ほんのりと頬が赤くなったが、今そのにじむような温かさに浸っていられるほどの余裕はなかった。智香には、まだ疑いが残っていた。鬼平が智香を騙しているとは思えなかったが、それでも無条件にその言葉を信じるほど、彼女は無邪気でもなかったし、子供でもなかった。
「でも、それって悪魔なんでしょ? 対価を要求する……そうでしょ?」
鬼平はゆっくりと頷く。
「きっと、大きな対価を払わせられる……」
智香は心配そうに鬼平を見つめた。
「だ、大丈夫」
「大丈夫なもんですか。悪魔のやることなんて信頼できない」
「か、軽い願いなら、変なこと起きない。そ、その時は……都合のいい偶然が起こる」
「都合のいい偶然?」
「さっきみたいなこと」
智香は首を傾げた。だがすぐに、
「あ……」
さっき見た男性の会話を思い出した。彼は突然相手に呼び出されて消えた。確かにそれは、飲み物を飲みたい智香にとって“都合のいい偶然”だったが……。
「でも、それじゃ、対価はその人が払ったってことでしょ。結局誰かが面倒くさい仕事をさせられてるわけじゃない。それって、願いを言ったら、何らかの対価があるのは変わらないってことでしょ。例えばだけど、私が適当に願いを言って、学校が燃えるような対価とかになったら、嫌なんだけどな」
「お、大きすぎなければ平気。都合のいいって言うのは、そういうこと。変なことが起きるのは、このびんだけ。何もないところからは、何も起こらない。……穴掘りと同じ」
「え? 穴掘り? どういうこと?」
そこで鬼平はうろたえて、再び言葉を探した。しばらくの沈黙の後、鬼平は言った。
「……だ、誰かが、穴を掘ると、『穴』と『積み上げた山』ができる。そ、それと同じ。『びんの悪魔』は、誰かに穴を掘らせて……その山を僕らがもらう」
智香は額にしわを寄せて考えていた。鬼平は自分の言った説明が伝わった不安になっていた。智香は、与えられたバラバラの情報を鬼平の示したものと同じ物になるように、頭の中でそれを積み木のように組み合わせた。
「……それじゃ、そのびんは、例えば魔法を使えるようになるとかっていうのはできないってこと?」
鬼平は頷く。
「……それで、願いが大きくなるほど、その穴は大きくなって、その分、他へのしわ寄せが大きくなる……?」
鬼平は少し考えた後、ゆっくりと頷いた。智香は、口に手を当てて考えていた。それから、大きく息を吐いた。
「そう。それはわかったけど、でもよく考えたらそっちの方が厄介じゃない? 自分の願いがどれだけ他に影響を与えるのかわからないってことでしょ? そんなものを使える気しないんだけど」
「だ、大丈夫」
「だから、大丈夫じゃないって話をね」
智香が腰に手を当てて、子供に説教をするみたいに言うと、鬼平は、
「願いを言うのは、僕だから」
と言った。智香は言葉を失った。がっくりと肩を落とし、ため息を漏らした。
「だから、それが大丈夫じゃないって、わからないかな……」
だが鬼平を見ても、彼はきょとんとしていた。智香は額に手を当てて考え込んだ。
「少し時間をくれない? もうちょっと考えたいから」
鬼平は頷いた。その後、智香は鬼平から離れて、五分ほど景色を眺めながら考え事をした。が、後から振り返ってもみても、この時見ていたものを何一つ思い出せなかった。
智香はひたすら考え事に没頭し、この偶然出会った、厄介だけど強力な、不思議な力について、その力を使う資格が自分にあるのかについて、力が本物かどうかについて、力はどこまで影響力があるのかについて、なぜ鬼平がこの力を自分に渡そうと思ったのかについて、そして、その対価、誰かが払うことになるツケについてなどに思いを巡らせていた。
「決めた!」
智香の声で、鬼平は、地面の草を靴の裏で擦るのをやめて顔をあげた。
「色々考えたんだけど、やっぱり私にはそのびんを上手く使える気しない。あなたに使わせて、自分だけいいとこ取り、なんて身勝手なこともしたくないし……だからさ、この飲み物でその話はお終いにしない?」
智香は無理に笑顔を作ってペットボトルを掲げ、鬼平に言った。鬼平は智香の言葉を黙って聞いていたが、明らかに表情が暗くなり、落ち込んでいた。
「それでね。提案なんだけど、今日のこと、全部なかったことにしない? 私もそのびんのことは誰にも言わないからさ。ね、いい案だと思わない? まあ、本当のこと言うと、そのびんはちょっと気になるけど……うん。ね、いいよね?」
鬼平は、それでいいの? というように視線を横から正面に滑らせて、上目遣いに智香を見つめた。
「だから、これでお終い! そう。もし、鬼平くんの言う通りで、私の想像通りなら、私には大きすぎる力だと思う。ほら、ここで別れようよ。お互い背を向けてさ。こっちから帰るの? まあいいや、とにかく絶対に振り向かないで、反対方向に歩こうよ。それで、今日起きたことが全部なかったことにして、明日には元通りにする。いい? ほら、反対側向いて」
智香は鬼平の肩を掴んで、反対側に向かせた。鬼平は振り返ろうとしたが、智香に声をかけられた。
「お願い、わかって。わざとらしいって思うでしょ? 子供みたいだって。でも、こうでもしないと、迷っちゃう気がする。だからこれが私の願いだと思って。これからは絶対私の前で、そのびんの話をしないこと、今すぐ、ここからお互い離れること」
鬼平は肩ごしに智香が反対側を向いているのがわかった。
「じゃあね」
その声を合図に、二人は反対側に歩き出した。足音が遠ざかっていくのがわかる。鬼平は、びんに願い事を言うか迷った。だが、それはできなかった。彼には智香の意思を、捻じ曲げるようなことはできなかった。
鬼平は智香の願いの通り真っすぐ歩いていたが、突然、何かを感じて立ち止まり、振り返った。その足音は街並みに吸い込まれて消えたと思いきや、すぐに元のように大きくなっていたのだ。
「ごめん」
鬼平の目の前で止まった智香は短く、それだけ言った。
「ごめん。笑ったりして。でも、じゃあ何? 私に願いを言って欲しくて、そのびんが本物だって証明しようとしたの?」
鬼平は頷いた。智香は、自分が言ったはずの言葉の意味に胸の内をくすぐられているような気になり、ほんのりと頬が赤くなったが、今そのにじむような温かさに浸っていられるほどの余裕はなかった。智香には、まだ疑いが残っていた。鬼平が智香を騙しているとは思えなかったが、それでも無条件にその言葉を信じるほど、彼女は無邪気でもなかったし、子供でもなかった。
「でも、それって悪魔なんでしょ? 対価を要求する……そうでしょ?」
鬼平はゆっくりと頷く。
「きっと、大きな対価を払わせられる……」
智香は心配そうに鬼平を見つめた。
「だ、大丈夫」
「大丈夫なもんですか。悪魔のやることなんて信頼できない」
「か、軽い願いなら、変なこと起きない。そ、その時は……都合のいい偶然が起こる」
「都合のいい偶然?」
「さっきみたいなこと」
智香は首を傾げた。だがすぐに、
「あ……」
さっき見た男性の会話を思い出した。彼は突然相手に呼び出されて消えた。確かにそれは、飲み物を飲みたい智香にとって“都合のいい偶然”だったが……。
「でも、それじゃ、対価はその人が払ったってことでしょ。結局誰かが面倒くさい仕事をさせられてるわけじゃない。それって、願いを言ったら、何らかの対価があるのは変わらないってことでしょ。例えばだけど、私が適当に願いを言って、学校が燃えるような対価とかになったら、嫌なんだけどな」
「お、大きすぎなければ平気。都合のいいって言うのは、そういうこと。変なことが起きるのは、このびんだけ。何もないところからは、何も起こらない。……穴掘りと同じ」
「え? 穴掘り? どういうこと?」
そこで鬼平はうろたえて、再び言葉を探した。しばらくの沈黙の後、鬼平は言った。
「……だ、誰かが、穴を掘ると、『穴』と『積み上げた山』ができる。そ、それと同じ。『びんの悪魔』は、誰かに穴を掘らせて……その山を僕らがもらう」
智香は額にしわを寄せて考えていた。鬼平は自分の言った説明が伝わった不安になっていた。智香は、与えられたバラバラの情報を鬼平の示したものと同じ物になるように、頭の中でそれを積み木のように組み合わせた。
「……それじゃ、そのびんは、例えば魔法を使えるようになるとかっていうのはできないってこと?」
鬼平は頷く。
「……それで、願いが大きくなるほど、その穴は大きくなって、その分、他へのしわ寄せが大きくなる……?」
鬼平は少し考えた後、ゆっくりと頷いた。智香は、口に手を当てて考えていた。それから、大きく息を吐いた。
「そう。それはわかったけど、でもよく考えたらそっちの方が厄介じゃない? 自分の願いがどれだけ他に影響を与えるのかわからないってことでしょ? そんなものを使える気しないんだけど」
「だ、大丈夫」
「だから、大丈夫じゃないって話をね」
智香が腰に手を当てて、子供に説教をするみたいに言うと、鬼平は、
「願いを言うのは、僕だから」
と言った。智香は言葉を失った。がっくりと肩を落とし、ため息を漏らした。
「だから、それが大丈夫じゃないって、わからないかな……」
だが鬼平を見ても、彼はきょとんとしていた。智香は額に手を当てて考え込んだ。
「少し時間をくれない? もうちょっと考えたいから」
鬼平は頷いた。その後、智香は鬼平から離れて、五分ほど景色を眺めながら考え事をした。が、後から振り返ってもみても、この時見ていたものを何一つ思い出せなかった。
智香はひたすら考え事に没頭し、この偶然出会った、厄介だけど強力な、不思議な力について、その力を使う資格が自分にあるのかについて、力が本物かどうかについて、力はどこまで影響力があるのかについて、なぜ鬼平がこの力を自分に渡そうと思ったのかについて、そして、その対価、誰かが払うことになるツケについてなどに思いを巡らせていた。
「決めた!」
智香の声で、鬼平は、地面の草を靴の裏で擦るのをやめて顔をあげた。
「色々考えたんだけど、やっぱり私にはそのびんを上手く使える気しない。あなたに使わせて、自分だけいいとこ取り、なんて身勝手なこともしたくないし……だからさ、この飲み物でその話はお終いにしない?」
智香は無理に笑顔を作ってペットボトルを掲げ、鬼平に言った。鬼平は智香の言葉を黙って聞いていたが、明らかに表情が暗くなり、落ち込んでいた。
「それでね。提案なんだけど、今日のこと、全部なかったことにしない? 私もそのびんのことは誰にも言わないからさ。ね、いい案だと思わない? まあ、本当のこと言うと、そのびんはちょっと気になるけど……うん。ね、いいよね?」
鬼平は、それでいいの? というように視線を横から正面に滑らせて、上目遣いに智香を見つめた。
「だから、これでお終い! そう。もし、鬼平くんの言う通りで、私の想像通りなら、私には大きすぎる力だと思う。ほら、ここで別れようよ。お互い背を向けてさ。こっちから帰るの? まあいいや、とにかく絶対に振り向かないで、反対方向に歩こうよ。それで、今日起きたことが全部なかったことにして、明日には元通りにする。いい? ほら、反対側向いて」
智香は鬼平の肩を掴んで、反対側に向かせた。鬼平は振り返ろうとしたが、智香に声をかけられた。
「お願い、わかって。わざとらしいって思うでしょ? 子供みたいだって。でも、こうでもしないと、迷っちゃう気がする。だからこれが私の願いだと思って。これからは絶対私の前で、そのびんの話をしないこと、今すぐ、ここからお互い離れること」
鬼平は肩ごしに智香が反対側を向いているのがわかった。
「じゃあね」
その声を合図に、二人は反対側に歩き出した。足音が遠ざかっていくのがわかる。鬼平は、びんに願い事を言うか迷った。だが、それはできなかった。彼には智香の意思を、捻じ曲げるようなことはできなかった。
鬼平は智香の願いの通り真っすぐ歩いていたが、突然、何かを感じて立ち止まり、振り返った。その足音は街並みに吸い込まれて消えたと思いきや、すぐに元のように大きくなっていたのだ。
「ごめん」
鬼平の目の前で止まった智香は短く、それだけ言った。
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