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第二十二章
第一話
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智香は麻由里の家を後にして、自分の家に帰るためのバスを待っていた。目の前を通り過ぎる車のライトをぼんやり眺めながら、麻由里との再会を思い出していた。
ようやく麻由里と会えた智香だったが、それでも少し会わなかっただけで、ずいぶんと溝ができてしまったと感じていた。
麻由里のベッドの脇の窓は、久しぶりに開け放たれ、しばらくの間二人は、外の音を聞きながら、部屋の中心に集まって、何も言わずに座っていた。食べ物の話はやっぱりできなかった。
でも、そうなると、どうしても病気の話になってしまうし、それも結局、食べることについての話だった。それは窓を開けても、追い出せるものでもなかった。麻由里は、頭の中が食べ物のことでいっぱいになってしまうことの恐怖を語った。
「頭にね、憑りついたみたいで、それしか考えられない。やめようって思っても、やめられないの」
毛布の端を握りながら麻由里は俯いた。麻由里はそれから悩みを吐き出した。このままでは卒業できるかわからない、何年も病気のまま、治らないかもしれない、でも卒業したいし、大学にも行きたい……。麻由里は何度も同じところをぐるぐる回るようにそれを言った。
「きっと治る。治したいって思ってるんだから、もう始まってるんだよ」
智香は言った。だが、その根拠はどこにもなく、言ったそばから自分でも無責任に感じた。でも、麻由里は嬉しそうにして頷いた。
その後ようやく、麻由里も少し病気のことから離れることができたようで、二人は打ち解けて、前のように他愛ない話ができるようになった。そういうことだけをずっと話していたいのに、その時間は、智香がもう帰らなくてはならない直前の、ほんのわずかな間だけだった。
帰り際、智香の心は揺らいだ。別れを告げた時、何も言わなかったが、麻由里の目は、智香に何かがあったことをわかっている目をしていたからだ。
その時智香は麻由里と向き合ってすべてを話してしまいたくなった。自分が何に悩んで、どう決着をつけようとしているのか、麻由里にも知ってもらいたいと思った。こうして麻由里が勇気を出して自分の悩みを言ってくれたのだから、そうするべきだという声が頭の中で響いていた。でもそう思うほど、今の麻由里に余計な心配をかけたくないと思うようになって、それはできなかった。
「バイバイ」
扉の前で振り返り智香が手を振って、麻由里も毛布から出した手を揺らす。麻由里の寂しそうな表情を見て、智香は言った。
「また来るよ。絶対ね」
「うん」
麻由里は顔を明るくして答えた。それが麻由里との別れの挨拶だった。
家に帰った智香は、すぐにお母さんと夕飯を食べた。でも、何を食べたのか、すぐに忘れてしまった。夕飯後の皿洗いを終えて部屋に戻ると、智香は疲れを感じてベッドに倒れ込んだ。
それから智香は身体を回転させて、机の上に置きっぱなしになっている「びんの悪魔」を見た。
麻由里に会えたことは、本当に嬉しかった。それがびんの力のおかげなのか、確かめようがなかったが、とにかく願いは叶った。――願いの対価が何だったのか、結局わからなかったが。
「……でもやっぱり、使わなければよかった」
智香はびんを見ながら呟いた。麻由里には悪いけれど、麻由里が悩みを打ち明けてくれた喜びと同じくらい、びんの悪い力によって麻由里がもっと酷い状態になっていなくて安心した部分もあったのだ。
そして、それは願いが叶うことと同じくらい大事なことだった。本当は、こんなにハラハラしないで、びんを使いたかった。使いようによっては、もっとうまく使えるのかもしれない。だが、どうしたらいいのかは、何も思い浮かばなかった。対価を考えながら願いを言うなんて、とてもじゃないけど、智香の精神の方が持ちそうになかった。
「願いは叶った、って言っていいのかな? それがわからないのが、このびんのわかりにくいところだよね。都合のいい偶然、か。とにかく、もうあんな思いするのはウンザリ」
智香はびんを見た。相変わらず欠伸が出るほどこれといった特徴がなかった。だったら、いっそこのまま棚の奥にでもしまって、「びんの悪魔」であることなど、忘れてしまえばいいのだろうか……再びこの力を使いたくなる前に。
「そんな都合のいいこと。起こらないって知ってるのにね」
智香はびんを手にしてびんに、「消え去れ!」と言ってみたい衝動にかられた。でもそんなことを言ってどうなるのか考えるだけで震えた。もしこのびんを死ぬまで持っていれば地獄行きだと言う。初めてそのことを聞いた時、馬鹿馬鹿しいと思ったが、今はまったく反対のことを思っている。
「でも、だからといって、誰かに渡すことは考えられない。こんなもの人に背負わせられないし、それに、その人がもし変なことに使ったりするような人だったらどうしよう。ううん。そもそもこれが本物だって信じる人も少ないはず。だったら、気軽に渡すこともできないってことだ」
智香は頭を抱えてしまった。鬼平からびんを受け取ろうと言った時、その力に魅了されて、手放すことを真面目に考えていなかったと思った。でも、こうなってしまった以上、何事もない顔をして鬼平に「もう用済みだから返すね」、とも言えない。
「私、大馬鹿だ」
それならば、やっぱりあの時、鬼平の言う通り、彼に自分の願いを言わせればよかったのだろうかと彼女は思った。だが智香は、自分がそういう行動を許さないと知っていた。だがもし……そう、このままびんを持っていたら、結局はそういうことをするようになるのだろうかと思った。
「そんなの嫌。やっぱりどうにかしないと」
だがどうすればいいのか、堂々巡りの問いが続いた。智香にはどうすることもできない。もしかしたら、と智香は閃いた。
「ルールに穴があるかもしれない。きっとそうだ。どうにかしてそれを確かめないと」
しかしこれこそ、智香にとって都合のいい考えでしかなかったし、それは彼女にもわかっていた。だが智香は、それ例外に、その逸る気持ちを抑えてくれるような冴えたやり方を思いつけなかったのだ。彼女はその考えを鬼平に相談しようと決めた。
ようやく麻由里と会えた智香だったが、それでも少し会わなかっただけで、ずいぶんと溝ができてしまったと感じていた。
麻由里のベッドの脇の窓は、久しぶりに開け放たれ、しばらくの間二人は、外の音を聞きながら、部屋の中心に集まって、何も言わずに座っていた。食べ物の話はやっぱりできなかった。
でも、そうなると、どうしても病気の話になってしまうし、それも結局、食べることについての話だった。それは窓を開けても、追い出せるものでもなかった。麻由里は、頭の中が食べ物のことでいっぱいになってしまうことの恐怖を語った。
「頭にね、憑りついたみたいで、それしか考えられない。やめようって思っても、やめられないの」
毛布の端を握りながら麻由里は俯いた。麻由里はそれから悩みを吐き出した。このままでは卒業できるかわからない、何年も病気のまま、治らないかもしれない、でも卒業したいし、大学にも行きたい……。麻由里は何度も同じところをぐるぐる回るようにそれを言った。
「きっと治る。治したいって思ってるんだから、もう始まってるんだよ」
智香は言った。だが、その根拠はどこにもなく、言ったそばから自分でも無責任に感じた。でも、麻由里は嬉しそうにして頷いた。
その後ようやく、麻由里も少し病気のことから離れることができたようで、二人は打ち解けて、前のように他愛ない話ができるようになった。そういうことだけをずっと話していたいのに、その時間は、智香がもう帰らなくてはならない直前の、ほんのわずかな間だけだった。
帰り際、智香の心は揺らいだ。別れを告げた時、何も言わなかったが、麻由里の目は、智香に何かがあったことをわかっている目をしていたからだ。
その時智香は麻由里と向き合ってすべてを話してしまいたくなった。自分が何に悩んで、どう決着をつけようとしているのか、麻由里にも知ってもらいたいと思った。こうして麻由里が勇気を出して自分の悩みを言ってくれたのだから、そうするべきだという声が頭の中で響いていた。でもそう思うほど、今の麻由里に余計な心配をかけたくないと思うようになって、それはできなかった。
「バイバイ」
扉の前で振り返り智香が手を振って、麻由里も毛布から出した手を揺らす。麻由里の寂しそうな表情を見て、智香は言った。
「また来るよ。絶対ね」
「うん」
麻由里は顔を明るくして答えた。それが麻由里との別れの挨拶だった。
家に帰った智香は、すぐにお母さんと夕飯を食べた。でも、何を食べたのか、すぐに忘れてしまった。夕飯後の皿洗いを終えて部屋に戻ると、智香は疲れを感じてベッドに倒れ込んだ。
それから智香は身体を回転させて、机の上に置きっぱなしになっている「びんの悪魔」を見た。
麻由里に会えたことは、本当に嬉しかった。それがびんの力のおかげなのか、確かめようがなかったが、とにかく願いは叶った。――願いの対価が何だったのか、結局わからなかったが。
「……でもやっぱり、使わなければよかった」
智香はびんを見ながら呟いた。麻由里には悪いけれど、麻由里が悩みを打ち明けてくれた喜びと同じくらい、びんの悪い力によって麻由里がもっと酷い状態になっていなくて安心した部分もあったのだ。
そして、それは願いが叶うことと同じくらい大事なことだった。本当は、こんなにハラハラしないで、びんを使いたかった。使いようによっては、もっとうまく使えるのかもしれない。だが、どうしたらいいのかは、何も思い浮かばなかった。対価を考えながら願いを言うなんて、とてもじゃないけど、智香の精神の方が持ちそうになかった。
「願いは叶った、って言っていいのかな? それがわからないのが、このびんのわかりにくいところだよね。都合のいい偶然、か。とにかく、もうあんな思いするのはウンザリ」
智香はびんを見た。相変わらず欠伸が出るほどこれといった特徴がなかった。だったら、いっそこのまま棚の奥にでもしまって、「びんの悪魔」であることなど、忘れてしまえばいいのだろうか……再びこの力を使いたくなる前に。
「そんな都合のいいこと。起こらないって知ってるのにね」
智香はびんを手にしてびんに、「消え去れ!」と言ってみたい衝動にかられた。でもそんなことを言ってどうなるのか考えるだけで震えた。もしこのびんを死ぬまで持っていれば地獄行きだと言う。初めてそのことを聞いた時、馬鹿馬鹿しいと思ったが、今はまったく反対のことを思っている。
「でも、だからといって、誰かに渡すことは考えられない。こんなもの人に背負わせられないし、それに、その人がもし変なことに使ったりするような人だったらどうしよう。ううん。そもそもこれが本物だって信じる人も少ないはず。だったら、気軽に渡すこともできないってことだ」
智香は頭を抱えてしまった。鬼平からびんを受け取ろうと言った時、その力に魅了されて、手放すことを真面目に考えていなかったと思った。でも、こうなってしまった以上、何事もない顔をして鬼平に「もう用済みだから返すね」、とも言えない。
「私、大馬鹿だ」
それならば、やっぱりあの時、鬼平の言う通り、彼に自分の願いを言わせればよかったのだろうかと彼女は思った。だが智香は、自分がそういう行動を許さないと知っていた。だがもし……そう、このままびんを持っていたら、結局はそういうことをするようになるのだろうかと思った。
「そんなの嫌。やっぱりどうにかしないと」
だがどうすればいいのか、堂々巡りの問いが続いた。智香にはどうすることもできない。もしかしたら、と智香は閃いた。
「ルールに穴があるかもしれない。きっとそうだ。どうにかしてそれを確かめないと」
しかしこれこそ、智香にとって都合のいい考えでしかなかったし、それは彼女にもわかっていた。だが智香は、それ例外に、その逸る気持ちを抑えてくれるような冴えたやり方を思いつけなかったのだ。彼女はその考えを鬼平に相談しようと決めた。
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