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第二十一章
第一話
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アラームの不快な音で智香は目覚めた。智香は枕元のスマホをいじって、音を止めた。顔にかかった髪を振り払いながら、寝ぼけまなこで、時間を確認し、机の方を見て、そこに「びんの悪魔」があって、昨日のことが現実だったとわかって、気が重くなった。
今朝は雨が降っていたため、傘を差して登校した。そのまま何食わぬ顔で授業を受ける。智香が「びんの悪魔」を手にしたことは、誰も知らない。鬼平以外は。
智香は、その涼し気な顔の下で、昨日のお母さんとの些細な諍いを思い出していた。
あのような感じになってしまったのは、久しぶりのことだった。でも、お母さんは、今日の朝には元通りだったし、智香にもお母さんを遠ざけるような感情はもう残っていなかった。今さら喧嘩をしても得るものは何もないと二人ともわかっているのだ。
いつも最後には、互いの傷の大きさを見せあうだけだったし、そうして相手が理解してくれること期待するのも、智香はもうやめていた。そんなことをしなくても、智香は自分がお母さんを愛しているし、お母さんも自分を愛しているとわかっていた。
だがそうなるためには何度も傷つけあわないといけなかった。もしそんなことをしないで、――互いに言葉を尽くし、相手の気持ちに寄り添い合いながら――優しく語り合えたらどれだけ平和だっただろう、と智香はよく考える。あの、投げ飛ばして粉々になったお気に入りの青い皿も、ひしゃげた教科書や本も無事だっただろう。
ただ、その遠回りの時間が必要だったこともわかっている。だけど、そんなものが必要なかった時のことを考えるのをやめることはできなかった。もし、お父さんが家にいて、お母さんもそこにいて、三人でいつまでも話していられたら……離婚の後から最近までそれを考えない日はなかった。
想像上の幸せだった自分と今の自分を比べてばかりだった。昨日、びんを手にした時、びんが、こう囁いたような気がした。「二人の関係を元に戻そうか?」と。
でも、その先の対価を考えるだけで怖かった。
お母さんは智香とは違う人間だ。同じ物を望んではいなかった。お父さんがどう思っているのかもわからない。だからそれは願えなかった。それは家族三人の願いじゃないといけなかった。
あの後、「麻由里に会いたい」とびんに願ってしまって、どうしてそんなことを願ったのか、と智香は激しく後悔したものだった。智香がそう願っていても、麻由里が願っていなければどうなるんだろう? 何が起きてしまうんだろうと、不安で仕方なかった。びんの力の誘惑に負けて、願いを言った自分を恥じた。でもその思いも、願いが叶った時には、嬉しさで吹き飛んでしまった。
その時、智香は一人で弁当を広げて、机の上にスマホを置いて、麻由里に送ったメッセージで傷つけてしまっていなかったか、不安になって遡っていた。ちょうど途絶えてしまった長いやり取りは読み終えたところだった。久しぶりに麻由里から返信が来た。
「今平気?」
それを見た時智香は、何度か今見ているものを確かめるように瞬きをして、嬉しさを噛みしめていた。そして、びんに願った時の後悔が蘇ってくると、自分を落ち着かせた。
「うん」
「じゃあ」
智香が改めてその言葉を見る前に、次のメッセージが連投される。
「話して、いい?」
「うん」
次の返事までは時間がかかった。智香は頬に手をやって、画面を見続けそれを待った。
「簡単に言うとね、私、今ご飯が食べられない。だから学校にも行けない」
智香は、それを本当は知っていたような気がしていた。でもそうじゃないかと思っても、怖くて言い出せなかったのだった。しばらく、麻由里の言葉を何度も読み返した。返信のために――何百もの言葉を重ねたかったが、伸ばした手を止め、溢れ出しそうな自分の思いをどうにか胸の内に留めた。その時にはもう、どうするか決めていた。
「あのね、」
「なに?」
「会って話さない? 直接、麻由里に会いたい」
「え?」
「今から?」
「うん」
メッセージが返ってくるまで、智香は、教室で、女の子たちが弁当を片付ける様子を眺めていた。
本当は麻由里の顔を見るのは怖かった。でも、そうするべきだと思っていたし、こんな無理を言ったのは、びんに願ってしまったという罪悪感のせいでもあった。
「智香、話聞いてた?」
「うん。でも会いたい。ダメ?」
智香は一瞬迷ってから送る。
「口説いているんじゃないよ?」
「同じだよ」
「いい?」
しばらく間が空いた。
「いいよ」
智香は階段を下りて玄関を抜けた。もう雨は降っていない。雲間から光が漏れて、金色のカーテンが空から降りている。智香は、バス停まで歩き、時間を見てバスを待った。バス停には老人が一人、杖をついて立っていた。
「ねえ、」
「どうしたの?」
「今ね、そっちに向かうバスを待ってる。でね、暇になっちゃった。何か話そうよ」
「何それ。さっきからひどくない? でも、いいよ」
メッセージの後に、かわいらしいクマが首を傾げているスタンプがついた。智香は、水をはじく音と錆びついたブレーキ音でバスが来たような気がして、道路を覗き込む。が、それはバスではなく、枯れ木を大量に積んだ、泥まみれの大型トラックだった。白い水しぶきをあげながらトラックが通り過ぎていった。スマホが震えて、智香は画面をのぞき込んだ。
今朝は雨が降っていたため、傘を差して登校した。そのまま何食わぬ顔で授業を受ける。智香が「びんの悪魔」を手にしたことは、誰も知らない。鬼平以外は。
智香は、その涼し気な顔の下で、昨日のお母さんとの些細な諍いを思い出していた。
あのような感じになってしまったのは、久しぶりのことだった。でも、お母さんは、今日の朝には元通りだったし、智香にもお母さんを遠ざけるような感情はもう残っていなかった。今さら喧嘩をしても得るものは何もないと二人ともわかっているのだ。
いつも最後には、互いの傷の大きさを見せあうだけだったし、そうして相手が理解してくれること期待するのも、智香はもうやめていた。そんなことをしなくても、智香は自分がお母さんを愛しているし、お母さんも自分を愛しているとわかっていた。
だがそうなるためには何度も傷つけあわないといけなかった。もしそんなことをしないで、――互いに言葉を尽くし、相手の気持ちに寄り添い合いながら――優しく語り合えたらどれだけ平和だっただろう、と智香はよく考える。あの、投げ飛ばして粉々になったお気に入りの青い皿も、ひしゃげた教科書や本も無事だっただろう。
ただ、その遠回りの時間が必要だったこともわかっている。だけど、そんなものが必要なかった時のことを考えるのをやめることはできなかった。もし、お父さんが家にいて、お母さんもそこにいて、三人でいつまでも話していられたら……離婚の後から最近までそれを考えない日はなかった。
想像上の幸せだった自分と今の自分を比べてばかりだった。昨日、びんを手にした時、びんが、こう囁いたような気がした。「二人の関係を元に戻そうか?」と。
でも、その先の対価を考えるだけで怖かった。
お母さんは智香とは違う人間だ。同じ物を望んではいなかった。お父さんがどう思っているのかもわからない。だからそれは願えなかった。それは家族三人の願いじゃないといけなかった。
あの後、「麻由里に会いたい」とびんに願ってしまって、どうしてそんなことを願ったのか、と智香は激しく後悔したものだった。智香がそう願っていても、麻由里が願っていなければどうなるんだろう? 何が起きてしまうんだろうと、不安で仕方なかった。びんの力の誘惑に負けて、願いを言った自分を恥じた。でもその思いも、願いが叶った時には、嬉しさで吹き飛んでしまった。
その時、智香は一人で弁当を広げて、机の上にスマホを置いて、麻由里に送ったメッセージで傷つけてしまっていなかったか、不安になって遡っていた。ちょうど途絶えてしまった長いやり取りは読み終えたところだった。久しぶりに麻由里から返信が来た。
「今平気?」
それを見た時智香は、何度か今見ているものを確かめるように瞬きをして、嬉しさを噛みしめていた。そして、びんに願った時の後悔が蘇ってくると、自分を落ち着かせた。
「うん」
「じゃあ」
智香が改めてその言葉を見る前に、次のメッセージが連投される。
「話して、いい?」
「うん」
次の返事までは時間がかかった。智香は頬に手をやって、画面を見続けそれを待った。
「簡単に言うとね、私、今ご飯が食べられない。だから学校にも行けない」
智香は、それを本当は知っていたような気がしていた。でもそうじゃないかと思っても、怖くて言い出せなかったのだった。しばらく、麻由里の言葉を何度も読み返した。返信のために――何百もの言葉を重ねたかったが、伸ばした手を止め、溢れ出しそうな自分の思いをどうにか胸の内に留めた。その時にはもう、どうするか決めていた。
「あのね、」
「なに?」
「会って話さない? 直接、麻由里に会いたい」
「え?」
「今から?」
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本当は麻由里の顔を見るのは怖かった。でも、そうするべきだと思っていたし、こんな無理を言ったのは、びんに願ってしまったという罪悪感のせいでもあった。
「智香、話聞いてた?」
「うん。でも会いたい。ダメ?」
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「同じだよ」
「いい?」
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