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第十三章
第一話
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「久しぶり。今から帰るの?」
鬼平に寄って行って何でもない調子で、智香が声をかけた。それはつい直前まで、恐怖で動けなくなっていたとは思えないほど、爽やかな声だった。
鬼平は、缶を手に持ったまま、むせながら頷いた。智香は話しかけながら、三國によってバラバラにされてしまった自分の感情を一つずつ、手元に戻そうとした。
「あっ、そうだ。あのさ……」
そう智香が言いかけた時、後ろから声がした。
「あれ? お前らまたかよ。ていうかやっぱりそうなんじゃん」
鬼平と智香は振り返った。そこにいたのは、あの時と同じ練習着を着た篠田だった。
「やっぱりなあ、おかしいと思ったんだよ」
ぶつくさ言いながら、篠田は近づいてくる。智香は困ったような顔で篠田を見た。鬼平はというと、二人を見比べながら、ここで飲み物を飲もうなんて考えたことを後悔していた。
「鈴本、俺と付き合ってくれなかったのって、そういうことだろ? こいつと付き合ってたからなんだろ? でもさぁ、なんで隠すんだよ。こそこそしちゃってさ、酷くね?」
篠田は恨み言を言いながら、それでいて天使のような甘い笑みを崩さない。篠田は「よっ!」と言いながら、鬼平の横についた。
「だからさ、違うって言ってるでしょ」
智香は呆れて答えたが、それ以上、気力が湧いてこなかったので、そのまま黙り込んだ。そうしていると、三國と話した時に味わった感情が、じくじくと蘇ってくるようで嫌な気持ちになる。
「違うなんて言ったっけ?」
「言ったよ」
「そうだっけ?」
篠田はおどけた表情を見せた。だが、今日の智香にそれに付き合っている余裕はなかった。
「そんなこと、どうでもいい」
智香はぶっきらぼうに答えた。
「俺にとっては重要なんだよ」
篠田は智香に向かって目を光らせたが、それは伝わらなかった。篠田は肩の力を抜いた。
「なんだよ。今日は、一段と機嫌悪そうじゃん。あっそれ、ちょっとちょうだい」
篠田は智香を観察しながら、鬼平を見てそう頼んだ。鬼平は大人しく缶を手渡した。
「サンキュー」
篠田は缶を持ち、一口飲み、何事もなく鬼平に返した。鬼平は缶の重さを感じ取って、どれだけ減ったのか考える。
「で、何かあったの?」
察しの悪い篠田に、智香はうんざりした。
「別に。何かあっても、あんたには話さない」
これにはさすがの篠田も顔を曇らせた。が、拒まれれば拒まれるほど、手にしたくなるものだ。篠田はそう考えるタイプだった。
「じゃあこいつと話してたってわけ?」
鬼平を見て篠田が言う。智香はため息をついた。
「話してない。その前に篠田が来たから」
「へえ、じゃあこれから話すんだ? 俺も仲間に入れてよ。それとも……やっぱり言えないことを話すつもりか?」
「あのね、なんで篠田に話さなきゃいけないの」
「なんでこいつにはよくて俺にはダメなんだよ」
「はあ、もういい」
とうとう耐え切れなくなり、智香は背を向け、そこから離れようとした。これにはさすがに、篠田も自分の失敗を認めた。笑って謝罪する。
「悪かったって。そんな怒るなよ。冗談だよ」
「全部冗談って言って済ます人、大嫌い」
「本気でっ! 本気で謝ってるから、この通り!」
篠田はウインクしながら、両手を合わせ、顔の前に持ってきた。あざとい仕草だが、篠田はこのやり方に自信があった。実際、智香もあまり邪険にしすぎたような気がして足を止めた。それに、今は一人でいるより、誰かといる方がよかった。
「本当ありがとう。マジ感謝」
篠田は得意の笑顔を浮かべ、智香を見た。智香は自分の甘さを憎らしく思いながら、首を傾けた。
「そう言えば、篠田。こないだもそうだったけど、練習は? 今日もサボり?」
「え? それ聞く?」
篠田は、笑顔を絶やさなかった。
「やめたわけじゃないでしょ?」
「いや、まあな。どうだったかな、なくなったんじゃないか?」
篠田は曖昧に答えた。
「……なに?」
智香は意味がわからない、と言った顔をした。それから、篠田を信用したことを本気で後悔し始めていた。篠田はそれに気づいて慌てて取り消し、さっきとは打って変った調子で話した。
「実はさ、俺、練習出られないんだよね、今」
「……え?」
智香は首を傾げた。
「顧問に反抗してさ」
「……へえ」
あまり興味がなかった。が、篠田が悩んでいるように見えるのは意外だった。
「なんだよ。嘘だと思ってんのかよ」
「え? ううん、別にそういうんじゃないけど」
と、そこでしおらしくなった篠田を見て、
「……ねえ、それって何があったの?」
と聞いたのは間違いだった。
「よく聞いてくれた!」
篠田はパッと表情が明るくなって、嬉々として話し出したからだ。それによると、どうも篠田は他の仲間たち数人と、反逆行為のようなことをしたらしい。顧問のやり方に異を唱え、自分たちのやり方を通そうと試みたのだ。
だがそれは失敗に終わり、結果、篠田だけが、その罪を被った。一人だけ練習に参加させてもらえなくなったのだ。
「おかしいよな、こんなの」
智香は肯定も否定もしなかったが、気が重くなった。
それから、そういうことは、どこでも誰にでも起こりうるのだ。遠い異国の出来事なんかじゃないのだ、と思う。
「本当、くだらねぇ。三年もボール追っかけてさ、最後がこんなザマなんて」
篠田が珍しく苛立ちながら言った。
「ねえ篠田。それで、どうするつもりなの? このまま……終わり?」
「なわけねえだろ」
篠田が言った。
「いいわけないから、こんなとこにいるんだ」
「……手伝おうか?」
智香が遠慮気味に言うと、篠田は大きな声で笑った。
「鈴本に? ないないない。そんなこと必要ない」
「本当に?」
「本当だって。これはさ、俺らの問題なの。むしろ、部外者は入ってくんな」
「本当に? 本当にそう思う? その部外者が必要なんじゃないの?」
智香に見つめられて、篠田は、決心が揺らいだ。だが、一度決めたことを変えるつもりはなかった。
篠田は、皮肉っぽく笑った。
「いいって。ていうかさ、本当に手伝うつもりで言ってないだろ?」
篠田に言われてつい、智香は目を逸らした。篠田は笑った。
「やっぱり。ていうか、やっぱり自分でなんとかしないとって思ったわ。正直さ、もういいかなって思ってたところもあんだよな。もうやめてもいいかなって。でも、」
と、言ってから、篠田は鬼平のことを見た。鬼平は見つめられて戸惑った。
「別にやめても何にもないしな。三年もやってきたんだ。最後ぐらい、どうにかしてやるよ」
そう言うと、篠田はもうこんなところに用はない、というように動き出した。智香は、迷ったが、自分にそこまでの関心がないことにも気付いていた。篠田の意向に逆らってまで抗議しようとは思えなかった。
すれ違いざま、篠田は鬼平の肩を叩き、「がんばれよ」と小さく囁いた。鬼平はその瞬間、身体を縮こませていた。
「あいつ、何か言った?」
篠田の姿がすっかり見えなくなって、智香は鬼平に聞いた。鬼平は、「別に、何も」と答えたかったが、それは言葉にならず、手元にあった空き缶を見つめるだけだった。
鬼平に寄って行って何でもない調子で、智香が声をかけた。それはつい直前まで、恐怖で動けなくなっていたとは思えないほど、爽やかな声だった。
鬼平は、缶を手に持ったまま、むせながら頷いた。智香は話しかけながら、三國によってバラバラにされてしまった自分の感情を一つずつ、手元に戻そうとした。
「あっ、そうだ。あのさ……」
そう智香が言いかけた時、後ろから声がした。
「あれ? お前らまたかよ。ていうかやっぱりそうなんじゃん」
鬼平と智香は振り返った。そこにいたのは、あの時と同じ練習着を着た篠田だった。
「やっぱりなあ、おかしいと思ったんだよ」
ぶつくさ言いながら、篠田は近づいてくる。智香は困ったような顔で篠田を見た。鬼平はというと、二人を見比べながら、ここで飲み物を飲もうなんて考えたことを後悔していた。
「鈴本、俺と付き合ってくれなかったのって、そういうことだろ? こいつと付き合ってたからなんだろ? でもさぁ、なんで隠すんだよ。こそこそしちゃってさ、酷くね?」
篠田は恨み言を言いながら、それでいて天使のような甘い笑みを崩さない。篠田は「よっ!」と言いながら、鬼平の横についた。
「だからさ、違うって言ってるでしょ」
智香は呆れて答えたが、それ以上、気力が湧いてこなかったので、そのまま黙り込んだ。そうしていると、三國と話した時に味わった感情が、じくじくと蘇ってくるようで嫌な気持ちになる。
「違うなんて言ったっけ?」
「言ったよ」
「そうだっけ?」
篠田はおどけた表情を見せた。だが、今日の智香にそれに付き合っている余裕はなかった。
「そんなこと、どうでもいい」
智香はぶっきらぼうに答えた。
「俺にとっては重要なんだよ」
篠田は智香に向かって目を光らせたが、それは伝わらなかった。篠田は肩の力を抜いた。
「なんだよ。今日は、一段と機嫌悪そうじゃん。あっそれ、ちょっとちょうだい」
篠田は智香を観察しながら、鬼平を見てそう頼んだ。鬼平は大人しく缶を手渡した。
「サンキュー」
篠田は缶を持ち、一口飲み、何事もなく鬼平に返した。鬼平は缶の重さを感じ取って、どれだけ減ったのか考える。
「で、何かあったの?」
察しの悪い篠田に、智香はうんざりした。
「別に。何かあっても、あんたには話さない」
これにはさすがの篠田も顔を曇らせた。が、拒まれれば拒まれるほど、手にしたくなるものだ。篠田はそう考えるタイプだった。
「じゃあこいつと話してたってわけ?」
鬼平を見て篠田が言う。智香はため息をついた。
「話してない。その前に篠田が来たから」
「へえ、じゃあこれから話すんだ? 俺も仲間に入れてよ。それとも……やっぱり言えないことを話すつもりか?」
「あのね、なんで篠田に話さなきゃいけないの」
「なんでこいつにはよくて俺にはダメなんだよ」
「はあ、もういい」
とうとう耐え切れなくなり、智香は背を向け、そこから離れようとした。これにはさすがに、篠田も自分の失敗を認めた。笑って謝罪する。
「悪かったって。そんな怒るなよ。冗談だよ」
「全部冗談って言って済ます人、大嫌い」
「本気でっ! 本気で謝ってるから、この通り!」
篠田はウインクしながら、両手を合わせ、顔の前に持ってきた。あざとい仕草だが、篠田はこのやり方に自信があった。実際、智香もあまり邪険にしすぎたような気がして足を止めた。それに、今は一人でいるより、誰かといる方がよかった。
「本当ありがとう。マジ感謝」
篠田は得意の笑顔を浮かべ、智香を見た。智香は自分の甘さを憎らしく思いながら、首を傾けた。
「そう言えば、篠田。こないだもそうだったけど、練習は? 今日もサボり?」
「え? それ聞く?」
篠田は、笑顔を絶やさなかった。
「やめたわけじゃないでしょ?」
「いや、まあな。どうだったかな、なくなったんじゃないか?」
篠田は曖昧に答えた。
「……なに?」
智香は意味がわからない、と言った顔をした。それから、篠田を信用したことを本気で後悔し始めていた。篠田はそれに気づいて慌てて取り消し、さっきとは打って変った調子で話した。
「実はさ、俺、練習出られないんだよね、今」
「……え?」
智香は首を傾げた。
「顧問に反抗してさ」
「……へえ」
あまり興味がなかった。が、篠田が悩んでいるように見えるのは意外だった。
「なんだよ。嘘だと思ってんのかよ」
「え? ううん、別にそういうんじゃないけど」
と、そこでしおらしくなった篠田を見て、
「……ねえ、それって何があったの?」
と聞いたのは間違いだった。
「よく聞いてくれた!」
篠田はパッと表情が明るくなって、嬉々として話し出したからだ。それによると、どうも篠田は他の仲間たち数人と、反逆行為のようなことをしたらしい。顧問のやり方に異を唱え、自分たちのやり方を通そうと試みたのだ。
だがそれは失敗に終わり、結果、篠田だけが、その罪を被った。一人だけ練習に参加させてもらえなくなったのだ。
「おかしいよな、こんなの」
智香は肯定も否定もしなかったが、気が重くなった。
それから、そういうことは、どこでも誰にでも起こりうるのだ。遠い異国の出来事なんかじゃないのだ、と思う。
「本当、くだらねぇ。三年もボール追っかけてさ、最後がこんなザマなんて」
篠田が珍しく苛立ちながら言った。
「ねえ篠田。それで、どうするつもりなの? このまま……終わり?」
「なわけねえだろ」
篠田が言った。
「いいわけないから、こんなとこにいるんだ」
「……手伝おうか?」
智香が遠慮気味に言うと、篠田は大きな声で笑った。
「鈴本に? ないないない。そんなこと必要ない」
「本当に?」
「本当だって。これはさ、俺らの問題なの。むしろ、部外者は入ってくんな」
「本当に? 本当にそう思う? その部外者が必要なんじゃないの?」
智香に見つめられて、篠田は、決心が揺らいだ。だが、一度決めたことを変えるつもりはなかった。
篠田は、皮肉っぽく笑った。
「いいって。ていうかさ、本当に手伝うつもりで言ってないだろ?」
篠田に言われてつい、智香は目を逸らした。篠田は笑った。
「やっぱり。ていうか、やっぱり自分でなんとかしないとって思ったわ。正直さ、もういいかなって思ってたところもあんだよな。もうやめてもいいかなって。でも、」
と、言ってから、篠田は鬼平のことを見た。鬼平は見つめられて戸惑った。
「別にやめても何にもないしな。三年もやってきたんだ。最後ぐらい、どうにかしてやるよ」
そう言うと、篠田はもうこんなところに用はない、というように動き出した。智香は、迷ったが、自分にそこまでの関心がないことにも気付いていた。篠田の意向に逆らってまで抗議しようとは思えなかった。
すれ違いざま、篠田は鬼平の肩を叩き、「がんばれよ」と小さく囁いた。鬼平はその瞬間、身体を縮こませていた。
「あいつ、何か言った?」
篠田の姿がすっかり見えなくなって、智香は鬼平に聞いた。鬼平は、「別に、何も」と答えたかったが、それは言葉にならず、手元にあった空き缶を見つめるだけだった。
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