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第九章
第一話
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家に帰ってから鬼平がまずしたことは、ここにいるのが自分だけかと確認する作業だった。
風呂場をのぞき、トイレの前で耳をすまし、リビングと台所に明かりがないことを見る。それを何度か、確信が持てるまで繰り返した。
ようやく誰もいないことがわかると、鞄を投げ捨て、急いでシャワーを浴びた。それは数日振りのことで、べたついた身体から汗が流れていくのがわかった。信じられないくらい気持ちよかった。人知れず頬についていた傷のような跡も消え去った。
誰もいないはずの背後に気配を感じて、鬼平はシャワーを止めた。それから風呂を出てタオルを取り、身体を擦り、残っていた垢を削ぎ落とした。
裸のまま急いで風呂場を抜け、キッチンからコップを取って水を飲み、そわそわと歩き回った。
コップをシンクにおき、自分の部屋に向かう。扉を開け、中に入り、四畳半ほどの狭い部屋にある押入れを開けた。
そこには思い出の品と共に、捨てるに捨てられなかったガラクタが無造作に押し込まれている。その間を縫って、ギリギリ手が届く奥の方まで腕を伸ばし、指を動かした。幾度かその指が何もないところをかすめた後、中指がびんの口に触れ、向こうでびんが揺れたのが音でわかった。手探りで指を動かしびんを掴むと、間にあるガラクタにぶつかって落とさないように注意しながら引き抜いた。
そうして目の前に現れたびんは、鬼平が恐ろしくなって隠した時のまま、白く輝いていた。
「誰も、見てないよな……?」
鬼平は窓を見た。カーテンが開いて、外が見えている。不安になって彼は立ち上がり、カーテンを閉め、戻ってきて、深呼吸をする。
音はしない。光も消えた。びんを見つめる。暗闇でもびんは白く、妖しく輝いている。でもそれ以外は、本当にただのびんにしか見えない。本当に……。
鬼平はびんを手に取った。誰もいない内、邪魔されない時に、やるしかないと思っていた。今のうちに、確かめないといけない。鬼平は、何を願おうかいくつも候補を考えてから、唾を飲みこみ、願いを言った。
穴は埋まった。それを掘った張本人によって。だからすべて終わったはずだった。だが、彼を指導する教師の源は、それではまだ不十分だと感じたらしい。
源は、有難いことにこれから社会に出るにあたって、もっと教育が必要だと思ったらしく、スコップを戻して報告しに行った鬼平に、今度は一週間の間、校舎を掃除する追加の罰を与えたのだ。
「どうしてすぐ逃げなかったんだ?」
後日、蔑んだ目つきで鬼平を見下して、六条は言った。
鬼平はその身勝手な言い分に腹を立て、全部お前のせいじゃんか、と悪態をつこうと思ったが、もちろんそれは言葉にはならず、ただ下唇を噛むだけだった。
「君が捕まったせいで、サッカー部の部室を調べることができなくなった。その間も、あいつらどんどん調子に乗っているみたいだぞ。顧問に逆らったらしい。もう部室に入れないぞ、全部君のせいだ」
六条はそう責め立てたが、鬼平はもうまともに話を聞いていなかった。これから待ち受けている罰のことを思って気が重くなっていた。
それから、でも、今こうして好ましくない事情でも六条から解放されるなら、都合がいいのかもしれない、とも思っていた。何しろ、――別にそこまでしてほしいとは思っていなかったし期待もしていなかったけども――六条は自分が原因をつくった鬼平に課せられた罰を一緒に受け持とうとかも言わないし、そういう素振りすら見せなかったのだ。
「しっかり反省してきな。逃げるなよ? あいつはもう鬼木くんの顔を知っているんだから無駄だ。大人しく罰を受けるんだな」
六条は、自分は清廉潔白であることを信じているようだった。彼は自分に非があるとは思っていないらしい。むしろ逆で、すべての罪は彼以外にあると考えているようだった。お気楽な男だ、と鬼平は思った。
こうして校舎を掃除することになった鬼平だが、どこを掃除するのかよくわかっていなかった。なにしろ“校舎”という言葉は対象が広すぎるし、それに、部活にも入ったことがなく、行く場所も限定的な鬼平にとって、どこに何があるか、どうなっているかなんて、知らない。もしかして延々と校舎中を作業させるつもりか、と鬼平は訝しんだ。
「おっ。よしよし。偉いじゃないか。ちゃんと言った通り来るなんて。君がバックレてしまわないか心配だったんだから」
今日もジャージ姿で鬼平を見つけた源先生は、鬼平を捕まえた時と違って悠然と椅子に腰かけ、別人のような柔らかい表情を浮かべていた。
職員室では先生たちが互いに机に向かって何かの作業をしている。そういうたくさんの先生の中にいる源先生は、別段恐ろしいようには見えなかった。鬼平は、頭を下げながら、源先生の顔が先日そうだったように、今の穏やかな顔からあの般若みたいな顔に変化させないようにしないとな、と考えていた。
風呂場をのぞき、トイレの前で耳をすまし、リビングと台所に明かりがないことを見る。それを何度か、確信が持てるまで繰り返した。
ようやく誰もいないことがわかると、鞄を投げ捨て、急いでシャワーを浴びた。それは数日振りのことで、べたついた身体から汗が流れていくのがわかった。信じられないくらい気持ちよかった。人知れず頬についていた傷のような跡も消え去った。
誰もいないはずの背後に気配を感じて、鬼平はシャワーを止めた。それから風呂を出てタオルを取り、身体を擦り、残っていた垢を削ぎ落とした。
裸のまま急いで風呂場を抜け、キッチンからコップを取って水を飲み、そわそわと歩き回った。
コップをシンクにおき、自分の部屋に向かう。扉を開け、中に入り、四畳半ほどの狭い部屋にある押入れを開けた。
そこには思い出の品と共に、捨てるに捨てられなかったガラクタが無造作に押し込まれている。その間を縫って、ギリギリ手が届く奥の方まで腕を伸ばし、指を動かした。幾度かその指が何もないところをかすめた後、中指がびんの口に触れ、向こうでびんが揺れたのが音でわかった。手探りで指を動かしびんを掴むと、間にあるガラクタにぶつかって落とさないように注意しながら引き抜いた。
そうして目の前に現れたびんは、鬼平が恐ろしくなって隠した時のまま、白く輝いていた。
「誰も、見てないよな……?」
鬼平は窓を見た。カーテンが開いて、外が見えている。不安になって彼は立ち上がり、カーテンを閉め、戻ってきて、深呼吸をする。
音はしない。光も消えた。びんを見つめる。暗闇でもびんは白く、妖しく輝いている。でもそれ以外は、本当にただのびんにしか見えない。本当に……。
鬼平はびんを手に取った。誰もいない内、邪魔されない時に、やるしかないと思っていた。今のうちに、確かめないといけない。鬼平は、何を願おうかいくつも候補を考えてから、唾を飲みこみ、願いを言った。
穴は埋まった。それを掘った張本人によって。だからすべて終わったはずだった。だが、彼を指導する教師の源は、それではまだ不十分だと感じたらしい。
源は、有難いことにこれから社会に出るにあたって、もっと教育が必要だと思ったらしく、スコップを戻して報告しに行った鬼平に、今度は一週間の間、校舎を掃除する追加の罰を与えたのだ。
「どうしてすぐ逃げなかったんだ?」
後日、蔑んだ目つきで鬼平を見下して、六条は言った。
鬼平はその身勝手な言い分に腹を立て、全部お前のせいじゃんか、と悪態をつこうと思ったが、もちろんそれは言葉にはならず、ただ下唇を噛むだけだった。
「君が捕まったせいで、サッカー部の部室を調べることができなくなった。その間も、あいつらどんどん調子に乗っているみたいだぞ。顧問に逆らったらしい。もう部室に入れないぞ、全部君のせいだ」
六条はそう責め立てたが、鬼平はもうまともに話を聞いていなかった。これから待ち受けている罰のことを思って気が重くなっていた。
それから、でも、今こうして好ましくない事情でも六条から解放されるなら、都合がいいのかもしれない、とも思っていた。何しろ、――別にそこまでしてほしいとは思っていなかったし期待もしていなかったけども――六条は自分が原因をつくった鬼平に課せられた罰を一緒に受け持とうとかも言わないし、そういう素振りすら見せなかったのだ。
「しっかり反省してきな。逃げるなよ? あいつはもう鬼木くんの顔を知っているんだから無駄だ。大人しく罰を受けるんだな」
六条は、自分は清廉潔白であることを信じているようだった。彼は自分に非があるとは思っていないらしい。むしろ逆で、すべての罪は彼以外にあると考えているようだった。お気楽な男だ、と鬼平は思った。
こうして校舎を掃除することになった鬼平だが、どこを掃除するのかよくわかっていなかった。なにしろ“校舎”という言葉は対象が広すぎるし、それに、部活にも入ったことがなく、行く場所も限定的な鬼平にとって、どこに何があるか、どうなっているかなんて、知らない。もしかして延々と校舎中を作業させるつもりか、と鬼平は訝しんだ。
「おっ。よしよし。偉いじゃないか。ちゃんと言った通り来るなんて。君がバックレてしまわないか心配だったんだから」
今日もジャージ姿で鬼平を見つけた源先生は、鬼平を捕まえた時と違って悠然と椅子に腰かけ、別人のような柔らかい表情を浮かべていた。
職員室では先生たちが互いに机に向かって何かの作業をしている。そういうたくさんの先生の中にいる源先生は、別段恐ろしいようには見えなかった。鬼平は、頭を下げながら、源先生の顔が先日そうだったように、今の穏やかな顔からあの般若みたいな顔に変化させないようにしないとな、と考えていた。
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