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第二章
第二話
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――鈴本智香が初めて鬼平柊を知ったのは(彼の存在を認識したのは)、その数日後のことだった。
突然の土砂降りだった。その日傘がいるという情報はなく、多くの人がこの予報に裏切られた。智香はまさに、たくさんの犠牲者の一人になるところだった。
雨が一粒、彼女の頬を伝った時、智香は外を歩いていた。考え事をして歩いていた智香が、驚いて空を見上げると、真っ黒な雨雲が一面に立ちこめていた。それからバケツをひっくり返したような雨になるまでは、あっという間だった。運が悪いことにそこはちょうど、雨宿りができるような軒下がなかった。すぐに雨宿りができる場所を探して、智香は走った。
走り出すとすぐに、向こうに交差点が見えた。車の通りは途切れない。信号は青だ。赤になる前に走って渡らないといけない。でなければ、この雨の中ずぶ濡れになるまで何もせず待つことになる。そこを渡れば、どこかに雨宿りができる場所がありそうだった。
その時の智香には、それしか頭になかった。刻一刻とどうしようもなく濡れていく髪と、ブレザーに、重くなっていく靴下、教科書の入ったバック、眠気に打ち勝って書きとめたノートの数々を、開くたびに波打ってベコベコと鳴るような、ひねくれものに変えないように思考と、身体を、雨音が彼女を覆い隠してしまう中、必死に動かして……。
だから智香は最初、誰かに突き飛ばされたのだと思った。突然、身体に衝撃が走った時は、地面に転がって泥まみれになることを予感した。だがとっさに目をつぶり、開けた時には自分は何事もなく立っていて、同じ学校の制服を着た生徒が、――乱暴な足音と共に、降りしきる雨の向こうに駆けていくのが見えた。
智香は呆然として、その男子生徒の後ろ姿を見ていた。彼の髪は長く、女性のように見えた。制服はその人物が男であると暗に示していたが、確信はできなかった。それを知ったのはもっと後だった。彼は、智香に黒い折り畳み傘を押し付け、信号の向こうへと消えた。
智香はそこでようやく我に返り、すぐに自分の身体に何も異常がないこと、荷物が何もなくなっていないことを確認した。最後に地面に転がったその折り畳み傘を拾い、傘を開いた。
――智香は上半身を起こした。保健室のベッドが軋み、音を立てた。カーテンの向こうの福田先生がいち早くそれに気づく。
「もう、大丈夫そう?」
さりげなく、福田先生が聞いた。
「うん。先生、ありがと」
智香は髪を整え、クリーム色の床に散らばった靴を履く。眠っていたわけではない。鏡を見る必要はなかった。ベッドから離れると、優しく笑っている福田先生が現れた。
「またいつでも来ていいからね」
「そうする。じゃあ、また」
智香は笑顔を返し、手を振る。先生が応え、智香はベッドを過ぎ、薬品や包帯の入った金属製の棚を過ぎ、本棚の横を通り過ぎる。それから廊下を歩いた。あの時、鬼平柊がぶつかってきた時の衝撃を思い出しながら。
突然の土砂降りだった。その日傘がいるという情報はなく、多くの人がこの予報に裏切られた。智香はまさに、たくさんの犠牲者の一人になるところだった。
雨が一粒、彼女の頬を伝った時、智香は外を歩いていた。考え事をして歩いていた智香が、驚いて空を見上げると、真っ黒な雨雲が一面に立ちこめていた。それからバケツをひっくり返したような雨になるまでは、あっという間だった。運が悪いことにそこはちょうど、雨宿りができるような軒下がなかった。すぐに雨宿りができる場所を探して、智香は走った。
走り出すとすぐに、向こうに交差点が見えた。車の通りは途切れない。信号は青だ。赤になる前に走って渡らないといけない。でなければ、この雨の中ずぶ濡れになるまで何もせず待つことになる。そこを渡れば、どこかに雨宿りができる場所がありそうだった。
その時の智香には、それしか頭になかった。刻一刻とどうしようもなく濡れていく髪と、ブレザーに、重くなっていく靴下、教科書の入ったバック、眠気に打ち勝って書きとめたノートの数々を、開くたびに波打ってベコベコと鳴るような、ひねくれものに変えないように思考と、身体を、雨音が彼女を覆い隠してしまう中、必死に動かして……。
だから智香は最初、誰かに突き飛ばされたのだと思った。突然、身体に衝撃が走った時は、地面に転がって泥まみれになることを予感した。だがとっさに目をつぶり、開けた時には自分は何事もなく立っていて、同じ学校の制服を着た生徒が、――乱暴な足音と共に、降りしきる雨の向こうに駆けていくのが見えた。
智香は呆然として、その男子生徒の後ろ姿を見ていた。彼の髪は長く、女性のように見えた。制服はその人物が男であると暗に示していたが、確信はできなかった。それを知ったのはもっと後だった。彼は、智香に黒い折り畳み傘を押し付け、信号の向こうへと消えた。
智香はそこでようやく我に返り、すぐに自分の身体に何も異常がないこと、荷物が何もなくなっていないことを確認した。最後に地面に転がったその折り畳み傘を拾い、傘を開いた。
――智香は上半身を起こした。保健室のベッドが軋み、音を立てた。カーテンの向こうの福田先生がいち早くそれに気づく。
「もう、大丈夫そう?」
さりげなく、福田先生が聞いた。
「うん。先生、ありがと」
智香は髪を整え、クリーム色の床に散らばった靴を履く。眠っていたわけではない。鏡を見る必要はなかった。ベッドから離れると、優しく笑っている福田先生が現れた。
「またいつでも来ていいからね」
「そうする。じゃあ、また」
智香は笑顔を返し、手を振る。先生が応え、智香はベッドを過ぎ、薬品や包帯の入った金属製の棚を過ぎ、本棚の横を通り過ぎる。それから廊下を歩いた。あの時、鬼平柊がぶつかってきた時の衝撃を思い出しながら。
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