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第一章
第三話
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「こんにちは!」
三國が言うと、麻由里がすかさず挨拶を返し、たわいもない会話がはじまった。清潔感のある白いシャツに、しわのないズボン、前髪は短く綺麗に整えられている。そこから漂ってくる匂いは、さりげなく自分は無害だと主張するかのようだ。若く、百八十センチを優に超える長身の三國は、女子生徒の間では絶大な人気を誇っていた。
「……じゃあ、もう行かないと」
「えー、もう終わり?」
麻由里が不満気に口を尖らすと、三國は気まずそうに微笑んた。智香は、この時だとばかりに、力を込めて麻由里の手を引っ張って耳元で囁く。
「麻由里。購買行くんじゃなかったの?」
だが智香の切実な訴えは、麻由里には届かなかった。
「でもダイエット中だし」
麻由里が言い、その手が三國の方へ引っ張られる。智香はため息をつき、
「麻由里」
そしてもう一度、麻由里の手を強く、念入りに引っ張った。
「お願い」
そこでようやく麻由里が智香の様子に気付いて、振り返った。腑に落ちないまま智香を心配そうに見つめ、言葉を詰まらせた。智香の顔は真っ青になっていた。
「智香……?」
「行ってきなよ。鈴本さん、困ってるみたいだし」
三國がさらりと、先生然として言った。それでも智香は、まるで三國がいないかのように、無視している。三國はそれに気付きもしないで、智香に話しかけた。
「髪、切ったんだね。似合ってるよ」
その言葉を聞いた途端、智香の怒りは爆発した。凍って動かなくなっていた智香の身体は一瞬で溶け出し、一瞬のうちに、頭が沸騰したように熱くなった。怒りが力を与え、智香は麻由里から手を離し、嫌悪感を露わにして、吐き捨てるように言う。
「あんたに、そんなこと言われたくない」
その場の空気が凍りついた。誰もが口を閉ざした。三國は瞼をピクリと動かしたが、それだけだった。智香はまだ三國を睨みつけ、麻由里は何が起きたのかわからず、口を開けて、唖然として二人を見比べていた。三國は、聞き間違いでないかと思い、優しい声音で聞いた。
「なんだって?」
だが、智香は蔑むように笑って答える。
「あんたに教える義理なんてないって言ったの。あんたと同じ空気を吸っていると思うと虫唾が走る。……麻由里、もう行こ」
智香は麻由里の手を取り、その場を離れた。三國は何が起こったのかわからない顔をしていたが、すぐに教室へ入った。
麻由里はそれを見て、ホッと胸をなでおろすやいなや、横に立ちすくむ智香の腕を掴む。
「智香? あんなこと言って、どういうつもり?」
麻由里は、智香を叱ろうと思ったが、すぐに掴んだ智香の腕が震えているのに気付き、手を離した。
「智香? どうしたの? 何があったの?」
不審に思って麻由里は智香を見る。それだけでなく、智香の顔を覗き込もうとする。が、
「なんでもない」
と言って、智香はバツの悪そうに顔を背けた。麻由里は、髪の間から僅かに見える智香の表情から真意を読み取ろうとした。が、あと一歩でわかりそうな時、チャイムが鳴り、麻由里は飛び上がった。
麻由里は慌てて、智香を急かしたが、彼女は石のように動かない。
さっき溶けたはずの智香の身体は、再び凍り付いたようになって、震えていた。今はその身体を包み込むように腕を組んでいた。心配した麻由里が智香を見つめても、智香は顔を動かさなかった。
「……私、午後は休む」
死んだ表情のままに、智香は言った。智香は最近度々、こうして保健室に行くことが多い。だが、今日の様子は特別におかしかった。
「……大丈夫? 一緒に行こうか?」
「ううん。一人になりたいから」
智香は申し訳なさそうに首を横に振る。
「そう……じゃあ先生には、私が言っとくね」
麻由里は智香の真意が気になったが好奇心を押さえてそう言った。
「うん。いつもありがとう。……ねえ、麻由里」
「何?」
「三國先生には、もう近づかないで」
「え?」
麻由里は、驚いて、一瞬、頭が真っ白になった。
「どうして?」
麻由里は正直に聞いた。智香は、胃がむかむかしているみたいな顔をして答えた。
「あいつは、ろくでもない奴だから」
「えーっ⁉ かっこいい先生じゃない。クラスの男どもと違って」
麻由里は多少わざとらしく口に手を当てながら言った。だが、それでも智香の真剣な面持ちは崩れなかった。
「麻由里にはそう見えるかもね。でもあいつにだけは近づかないで。もしそうなったら、私は、麻由里の友達をやめる」
「それって……嫉妬?」
わからないまま、麻由里はにやけながら言ってみる。だがこれは見当はずれだったようだ。智香は少し表情をやわらげただけだった。
「違う。……はあ、どう言えばわかるんだろ」
「ごめんって。……わかりました! 智香がそこまで言うなら、そうします。ねえ、あたし、もう行くね? 授業、始まっちゃう。今日も一緒に帰れるよね?」
智香は頷く。
「じゃあ、荷物持って行ってあげるね」
「それは、いいよ。自分で行ける」
智香は背を向けようとする。
「いいから、いいから。じゃあ、そういうことで」
麻由里は智香に手を振り、教室に向かって駆け出した。智香は麻由里の飛び跳ねる髪と音が消えるまで眺めていた。やがて姿が見えなくなって辺りが静かになると、彼女は大きなため息をつき、階段に向かってゆっくりと歩いた。
その後、智香の姿も見えなくなり、すべての人が退場した廊下は、窓から差し込む光の中を塵が舞っているだけになった。
そして、その一部始終を、長い髪の隙間からジロジロと観察するように、教室の隅で、誰からも忘れ去られたように座っていた鬼平柊が見ていた。
三國が言うと、麻由里がすかさず挨拶を返し、たわいもない会話がはじまった。清潔感のある白いシャツに、しわのないズボン、前髪は短く綺麗に整えられている。そこから漂ってくる匂いは、さりげなく自分は無害だと主張するかのようだ。若く、百八十センチを優に超える長身の三國は、女子生徒の間では絶大な人気を誇っていた。
「……じゃあ、もう行かないと」
「えー、もう終わり?」
麻由里が不満気に口を尖らすと、三國は気まずそうに微笑んた。智香は、この時だとばかりに、力を込めて麻由里の手を引っ張って耳元で囁く。
「麻由里。購買行くんじゃなかったの?」
だが智香の切実な訴えは、麻由里には届かなかった。
「でもダイエット中だし」
麻由里が言い、その手が三國の方へ引っ張られる。智香はため息をつき、
「麻由里」
そしてもう一度、麻由里の手を強く、念入りに引っ張った。
「お願い」
そこでようやく麻由里が智香の様子に気付いて、振り返った。腑に落ちないまま智香を心配そうに見つめ、言葉を詰まらせた。智香の顔は真っ青になっていた。
「智香……?」
「行ってきなよ。鈴本さん、困ってるみたいだし」
三國がさらりと、先生然として言った。それでも智香は、まるで三國がいないかのように、無視している。三國はそれに気付きもしないで、智香に話しかけた。
「髪、切ったんだね。似合ってるよ」
その言葉を聞いた途端、智香の怒りは爆発した。凍って動かなくなっていた智香の身体は一瞬で溶け出し、一瞬のうちに、頭が沸騰したように熱くなった。怒りが力を与え、智香は麻由里から手を離し、嫌悪感を露わにして、吐き捨てるように言う。
「あんたに、そんなこと言われたくない」
その場の空気が凍りついた。誰もが口を閉ざした。三國は瞼をピクリと動かしたが、それだけだった。智香はまだ三國を睨みつけ、麻由里は何が起きたのかわからず、口を開けて、唖然として二人を見比べていた。三國は、聞き間違いでないかと思い、優しい声音で聞いた。
「なんだって?」
だが、智香は蔑むように笑って答える。
「あんたに教える義理なんてないって言ったの。あんたと同じ空気を吸っていると思うと虫唾が走る。……麻由里、もう行こ」
智香は麻由里の手を取り、その場を離れた。三國は何が起こったのかわからない顔をしていたが、すぐに教室へ入った。
麻由里はそれを見て、ホッと胸をなでおろすやいなや、横に立ちすくむ智香の腕を掴む。
「智香? あんなこと言って、どういうつもり?」
麻由里は、智香を叱ろうと思ったが、すぐに掴んだ智香の腕が震えているのに気付き、手を離した。
「智香? どうしたの? 何があったの?」
不審に思って麻由里は智香を見る。それだけでなく、智香の顔を覗き込もうとする。が、
「なんでもない」
と言って、智香はバツの悪そうに顔を背けた。麻由里は、髪の間から僅かに見える智香の表情から真意を読み取ろうとした。が、あと一歩でわかりそうな時、チャイムが鳴り、麻由里は飛び上がった。
麻由里は慌てて、智香を急かしたが、彼女は石のように動かない。
さっき溶けたはずの智香の身体は、再び凍り付いたようになって、震えていた。今はその身体を包み込むように腕を組んでいた。心配した麻由里が智香を見つめても、智香は顔を動かさなかった。
「……私、午後は休む」
死んだ表情のままに、智香は言った。智香は最近度々、こうして保健室に行くことが多い。だが、今日の様子は特別におかしかった。
「……大丈夫? 一緒に行こうか?」
「ううん。一人になりたいから」
智香は申し訳なさそうに首を横に振る。
「そう……じゃあ先生には、私が言っとくね」
麻由里は智香の真意が気になったが好奇心を押さえてそう言った。
「うん。いつもありがとう。……ねえ、麻由里」
「何?」
「三國先生には、もう近づかないで」
「え?」
麻由里は、驚いて、一瞬、頭が真っ白になった。
「どうして?」
麻由里は正直に聞いた。智香は、胃がむかむかしているみたいな顔をして答えた。
「あいつは、ろくでもない奴だから」
「えーっ⁉ かっこいい先生じゃない。クラスの男どもと違って」
麻由里は多少わざとらしく口に手を当てながら言った。だが、それでも智香の真剣な面持ちは崩れなかった。
「麻由里にはそう見えるかもね。でもあいつにだけは近づかないで。もしそうなったら、私は、麻由里の友達をやめる」
「それって……嫉妬?」
わからないまま、麻由里はにやけながら言ってみる。だがこれは見当はずれだったようだ。智香は少し表情をやわらげただけだった。
「違う。……はあ、どう言えばわかるんだろ」
「ごめんって。……わかりました! 智香がそこまで言うなら、そうします。ねえ、あたし、もう行くね? 授業、始まっちゃう。今日も一緒に帰れるよね?」
智香は頷く。
「じゃあ、荷物持って行ってあげるね」
「それは、いいよ。自分で行ける」
智香は背を向けようとする。
「いいから、いいから。じゃあ、そういうことで」
麻由里は智香に手を振り、教室に向かって駆け出した。智香は麻由里の飛び跳ねる髪と音が消えるまで眺めていた。やがて姿が見えなくなって辺りが静かになると、彼女は大きなため息をつき、階段に向かってゆっくりと歩いた。
その後、智香の姿も見えなくなり、すべての人が退場した廊下は、窓から差し込む光の中を塵が舞っているだけになった。
そして、その一部始終を、長い髪の隙間からジロジロと観察するように、教室の隅で、誰からも忘れ去られたように座っていた鬼平柊が見ていた。
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