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第十五話②

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「わっ!」

 驚いて距離を取ろうとして、板から落ちそうになる。実際後ろ脚は落ちていた。真下に映る屋根の数々を見ながら、僕の身体の判定が前の方にあってよかった、と思った。

「〝ごめんなさい。驚かせてしまいましたね〟」蝶野は頭を下げ、気まずそうにそう言った。

「いや、別に、うん。いいよ」

 僕は頭をかきながら板の中央に戻り答えた。気が進まない感じで蝶野の姿を見る。相変わらず、少女漫画からやって来たみたいな見た目をしている。顔の半分くらいある大きすぎる眼、長すぎるまつ毛、細すぎる身体、常に輝いていないと消えてしまうんじゃないかと思うくらい光っている服。それと、物語の中の上品な女の子みたいな喋り方。そのどれもが有島のイメージと違い過ぎる。

 僕はその時も、蝶野のことを有島じゃないかと疑っていたのだが、それは一向に像を結ばなかった。

「〝何を見ていたんですか〟」有島が……いや、蝶野が僕に向かって聞いた。

「ああ、なんか見つからないかなって思って、探してた」ぶっきらぼうに答える。

「〝何か見つかりました?〟」結構積極的だな、と僕は思った。
「カモシカ」

「〝え?〟」

「カモシカだよ。知らない? ほら、あの林の中、まだその辺を歩いていると思うから覗いてみれば」

 僕は望遠鏡の席を譲った。蝶野は戸惑っていたが、不慣れな感じでレンズを覗いて望遠鏡を左右に激しく動かしていた。

「そんなに動かすなよ。田んぼの方にはいないぞ」

 あまりにも的外れの方向を見ているので、じれったくなってつい口出しをしてしまった。蝶野は頷き、今度は望遠鏡が震えるほどにしか動かさなくなった。と思うと極端に振って明後日の方向を見ていた。

「ああ、もう貸せよ。見つけたら渡すから」

 僕はいら立って蝶野に言った。蝶野が望遠鏡から手を離して僕と代わる。僕は青空を映し出していた視点を動かし(何を見ようとしていたんだ?)、林の中を探した。さっきも探したが、カモシカは一匹しかいない。そのため探すのも大変だが、見つけるとなぜだか得した気になるのだ。

「ほら、見てみろよ。いたぞ」

 僕は岩場に座ってくつろぎ、風景に溶け込んでいるカモシカを探し出して蝶野に席を譲った。「動かすなよ」覗き込むとき、蝶野が動かしそうになって警告する。これでもういいか、と思った(何がいいんだ?)。

 それから冷静になって、僕は何をしているんだろうと思った。帰ろう。が、せっかく見つけてやったのに蝶野は望遠鏡を覗き込んだまま「〝どこですか〟」という文字を頭に浮かべている。

「岩のところ。脚を畳んでくつろいでいるだろ。よく探せよ」蝶野が何度も頷く。僕はつい口が悪くなったことを悔やんでいた。僕の態度が悪いと告げ口をされるかもしれない。が、そう思ってみて、何を考えているんだと自分でも呆れた。

「見つかったか?」望遠鏡から頭を離して、席を立った蝶野に僕は聞いた。

「〝はい。見つかりました。かわいかったです。ありがとうございます。探してもらって助かりました〟」

「別にいいよ」

 これでさっきのことは帳消しにならないかと思いながら答える。それにしても、なんだか蝶野はやっぱりちょっとどこかおかしい気がする。文字だからそう感じるのだろうか。

「〝あの、ちょっといいですか〟」それから彼女はもじもじしながら僕を見て言い出した。

「なんですか」間が空く。文字でのやり取りは、まるで本の世界の人間とやり取りしているみたいだ。

「〝お礼に、撫でていいですか〟」

 言葉が出なかった。開いた口が塞がらないとはこのことだった。

「何言ってんだよ。どうしてお礼に、撫でられなきゃいけないんだ」

 僕は吠えた。犬のように。いや、そういえば犬だったな。

「〝でも、そうされたいから、そのお姿なのではないですか〟」

「そんなわけないだろ」予想外のことを言われて、必死になって否定した。

「〝では、どうして犬の姿に?〟」

「これはバグで、仕方なくだ。他に理由はない」

「〝それは直らないものなんですか〟」蝶野は曇りなき眼で見つめてくる。

「直せるよ。直せるみたいだけど、こっちに慣れちゃったし、みんなからもこの姿で通っているから、今さら変えられないんだって」

「〝なるほど〟」蝶野は頷いた。でも、よかった、これで納得してくれたか、と思ったのは間違いだった。

「〝でも、どうしても変えたいならアバターを変えるはずです。そうでないなら、撫でられるのも満更ではないのでは?〟」蝶野は手を変えて、僕に迫った。

「どうしてそこまで聞いてくるんだ」

 僕はうんざりしながら反論した。すると、蝶野にその棘が少し刺さったらしく、彼女は気持ち一歩分、後ろに下がった。

「〝初めてあなたを見た時からずっと撫でたいと思ったので〟」しおらしくそう言った。

「……は?」

「〝いけませんか?〟」蝶野は怒ったような顔をした。どうして僕が怒られているのだろう。

「いけないってわけじゃないけど」少し譲歩する。「〝では、撫でさせてください!〟」途端に距離を詰める蝶野。いったい何を争っているんだろうか。

「……少しだけなら」渋々承諾した。

「〝ほんとでsぁ?〟」焦って打ち込んだのか、何を言っているのかわからなかった。

「早くしてくれ。待たされるのは好きじゃない」僕は、頭を撫でられるとわかってから、急にそわそわし出した蝶野に向かって言った。

「〝では、撫でさせてもらいます〟」

 手をすり合わせ、僕の正面に立ち蝶野が〝撫で宣言〟をした。僕は今度も本当に撫でられるわけではないのに、蝶野から手が伸びてくるのが見えると、目を細めて、あの本当は感じていないのに、感覚があると錯覚する、ファントムセンスと言われる感覚に備えた。

 蝶野が僕の頭を撫でる。どうせ今も、自分では見えないし感じないが、この身体は、きっと馬鹿みたいに舌を出して、尻尾も一生懸命に動かしているんだろう。

「〝かわいい〟」

 蝶野はそう言って、大人しく撫でられるがままでいる僕を見て、調子に乗っていつまでも撫でていた。

「ああ、もういいだろ! はい、終わり!」

 撫でられ過ぎて頭の上が熱くなってきたような気がした僕は、真横に飛びのいた。蝶野はびっくりした後、寂しそうに僕を見つめた。

「〝残念です。もっと撫でていたかったのに〟」

「少しだけ、と言ったはずだぞ」

 僕は噛みつかんとばかりに言った。

「〝そうでした。でも、私、普段は怖くて撫でられないんです。だから、ありがとうございました〟」

 蝶野はぺこりと頭を下げた。僕は口を歪ませて、景色の方を向いて、蝶野を見ないようにしていた。なんだろう、今の一瞬で自分の大切な何かが失われた気がした。
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